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酒場「満月亭」で暮らすアナ・ルルーシュは三十一才になるが若干夢見る乙女。
仕事と子育てに追われる彼女のささやかな趣味は、図書館で借りてくる恋愛小説を読むこと。
妹が捨てた姪を育てると決意してから、自分の恋愛や結婚は後回し。恋とか愛は人を狂わせるようだし、結婚した相手が可愛い姪に手を出すかもしれない。
人生に必要なのは理性、と彼女は毅然とした態度で生きてきて、たまに自分を誘う男性をやんわりと追い払い、酒場で働くことで「男の人ってしょうもないのね」という精神を鍛えた。
と、いうことになっている。
七年前のことである。性格があまり良くなくてお金に目がない次女は、自分の娘は美人だから利用出来ると考えそう。自分が死んだら孫と二人で行方をくらましなさい。
アナは病気で亡くなりそうな母親にそう言われて、そんな気がすると考え、母親の死と同時に田舎街から王都へ上京。
いくつか仕事を転々とし、五年前に親切な老夫婦が営む満月亭に落ち着いた。
それからしばらくして、近所にある靴屋の靴の数々を気に入り、お金を貯めたら買うぞと生活の支えの一つにした。
靴屋「ラベンダー」の靴を誕生日に贈ったら、姪のマリナは大変喜び、次は自分の靴を買おうと考えて、一年後に購入。その過程で、アナは店員ソニアと友人になった。
ソニアは母親世代の初老女性で、一人親であるアナに非常に親切であった。
三年前、アナはそのソニアに「ラベンダーの店主リクさんはとても性格良しだから口説いてくれない? 気のある素振りを見せたらきっと口説くから。私の甥っ子なのよ」と頼まれた。
お店に行くようにさせるから、と言われてアナは困惑。ソニアはアナに仕事場を見せて「彼が甥っ子のリク」と告げた。
背は高くなく、目鼻立ちがはっきりとしているこの国の人々の中では薄顔。しかし体つきはがっしりめで男らしく、靴の肩をじっと眺める真剣な眼差しは実に凛々しい。
リクは美男子ではないけれど、街中で「あの方、格好良い」と言われることもないけれど、交流を重ねれば好意を抱かれるくらいの容姿と清潔感を有している。
アナという女性にとっては、そのリクはめちゃくちゃ好みだった。理想と異なるのは身長くらいだが、アナの中で身長はあまり重要ではない。
この小説の中の王子様はきっとこのような顔で雰囲気、と想像していた妄想の彼が目の前にいる、と若干鼻血を出しそうなくらいアナはリクを気に入った。
「どう……って聞かなくてもありがたいくらい熱視線に見えるわ」
「ええ、とても……」
「親父。言われた通りにしたけどこれでどう?」
姪っ子マリナと同年代の男の子が「親父」と話しかけたのでアナはソニアを見つめた。
「あれはリクの甥っ子。ロクデナシの父親が捨ててリクに押しつけた。リクが大事に育ててくれている」
自分と同じような境遇の男性……と心の中で呟くと、アナはソニアに「もしかして、リクさんに結婚経験は無いですか?」と質問。
「そうなんだよ。私は再婚して引っ越すから二人の世話をする者が居なくなる。心配だから結婚を勧めたけど、リクは今は仕事と子育てってお見合い話を断るんだ」
「ソニアさんはご結婚されるのですか?」
「ええ。旦那以外は要らないと思って十年、まさかおばあさんになりかけの年で再婚したいって思うなんて人生は何があるか分からないわ」
「おめでとうございます」
女性と縁がないのに、更に自分から縁を結ぼうとしない甥っ子を頼む。気に入ったのなら誘惑してくれ。アナとお見合いを勧めようとしたけど、お見合いのおの字を聞いただけで拒否反応だったからよろしく。
ソニアはそのようにアナに甥達を託して再婚してお引越し。靴屋「ラベンダー」には若い男性売り子が雇われた。
しばらくして、満月亭にリクが一人で飲みにくるようになった。アナはドキドキしながら接客し、時々話しかけてみたけど反応は悪い。
子育て中なのに、男性を誘惑してみようとか、娘が寝静まった夜に彼を妄想の人物として使って、自分の体を触ってしまうなんてどうかしている。
これでは妹のようになってしまう。理性が大事と自分に言い聞かせつつも、アナはついついリクの情報を集めた。
リク・ハベルは引きこもり気味の靴職人で、仕事ばかりの朴念仁だから妻は男を作って逃げた。その心の傷から博打にハマって借金持ち。
ソニアから聞いた話と違う! とさらにさり気ない聞き込みを続けた結果、リクと親しい者達からソニアから聞いた話と同じような事を教わった。
掃除当番をサボらないし丁寧に掃除してくれる。夕方になると、有志が自主的にしてくれている見回り団の一員として近所の治安維持向上をしてくれているなどなど評判良し。
アナは「心まで王子様だわ」と更にリクを気に入った。素敵なのに、関係が浅い者達には訳あり子持ち男性だと嫌煙されているし、事情を知っているお節介達からのお見合い話は「息子がもっと大きくなってから」と遠ざけているなんて幸運。
自分も娘が大きくなってからが良いから長期戦。アナはリクが満月亭に来る毎週火曜になると一生懸命話しかけた。
返事は一言二言で会話は続かないし、給仕仕事があるのでそこに留まることも出来ず。
髪型を変えても、服の雰囲気を変えても、他の常連客や飛び込み酔っ払い客のように話しかけてくれたりしない。ましてや褒められることなんてない。
叶わない片想いのようだと嘆きつつ、アナはますますリクを「硬派だわ」と気に入った。
三年が経過して、アナの気持ちは募りに募った。
今年で娘は学校を卒業して、裁縫工場で勤務練習を開始するので育児はひと段落。
年が明けたら、マリナに自分の気持ちを打ち明けて、反対されなければ玉砕覚悟でリクをデートに誘う。そう決心していた矢先のことである。彼女はマリナにこう告げられた。
「お母さん。お父さんが欲しい! ずーっと言えなかったけどやっぱり片親は嫌。だって学校を卒業したらもーっと言われるんだって。父親無しって、職場でもいびられるなんて最悪。学校では暴れられるけど、職場で暴れたらクビで、次の仕事先を見つけるのも大変よ」
「そんなことありませんよ。マリナを預ける予定の工場は大丈夫」
「欲しいったら欲しい! 私もお父さんと腕を組んで結婚式が良い!」
「そう言われたって、お母さんと結婚してくれる人なんていません」
初恋の人は妹に取られ、妹が踏み躙った幼馴染は失恋後に親友と急接近して結婚。
その次に恋慕った相手も妹に取られて、彼女が彼を踏み躙ったので、姉妹の自分がデートに誘うなんてことは当然出来ず。
恋愛よりも子育てと決意してから惚れたのはリク・ハベルだけで、そのリク・ハベルは自分に全く関心が無い。
「同級生にカイリって男の子がいて、お母さんが居ないの。彼はお母さん役が欲しいんですって。三年前までは祖父の妹が母親代わりだったけど、再婚して引っ越しちゃったんだって」
カイリ? とアナが首を傾げている間にマリナは捲し立てた。カイリは三年間、父親と二人で家事を分担したり、お金で解決してきたけどもう限界。
父親のような立派な靴職人になるには家事なんてしている場合では無い。かといって、父親は大黒柱なので家事を沢山してなんて言えない。
「お母さんがお嫁さんという名前の家政婦になれば全て解決。私にはお父さん役が出来て、カイリ君にはお母さん役が出来るわ。お母さんが私のせいで嫌な事を言われることもなくなるのよ!」
そのような打算的な関係を迫るなんて、と考えたものの、三年間耐えてきたアナはもう我慢の限界だった。
娘を使うなんてどうかしているけれど、普通に「デートして欲しいです」だと即却下の可能性大。
しかし「娘と息子さんが頼むので出掛けてみませんか? 四人で」だと成功率は高そう。
「お母さん、カイリ君のお父さんとお見合いしてー! デートだけでも良いから!」
「似たような境遇のようだから……もしかしたら、偽装でならとか、もしかしたら……気が合うかしら。そのカイリ君は私で良いの? マリナが私の話をして、何か言っていた?」
「お母さんは美人で優しいし、料理だってうんと美味しいって教えたら、カイリ君がそれならお父さんはイチコロだって! 子どもを押しつけられた同士で気が合うよ。カイリ君のお父さんは凄く優しかったわ。だからお願い!」
凄く優しかったとは何かと尋ねたら、靴を失くしたことにして、カイリと靴屋「ラベンダー」へ行ったら、長時間一緒に探してくれたそうだ。
「もうっ! 人を試すようなことはやめなさい」
一方、ハベル家。
リクは早い夕食中に息子カイリに「親父、満月亭のアナさんをお母さんにしてくれない?」と言われて、飲みかけのお茶を吹き出した。
「いきなりどうした」
密かに少し慕っている女性の名前が登場して、おまけに「お母さんにしてくれない?」だからリクはかなり動揺。
「この間、喧嘩の仲裁に入って、同級生の女に殴られて蹴られただろう?」
「ああ」
「あの子はマリナって言うんだ。謝ってくれた後に、なんか気がついたら色々話してた。それで親父とマリナのお母さんは似た者同士だった」
「似た者同士?」
「マリナのお母さんは妹の子を押し付けられてずっと独身だって。絶対優しい。美人だったし、料理上手らしいんだ。親父がマリナのお母さんと結婚したら、もう片親って言われないで済む。それはマリナも同じ」
「そうか……。悪かったな……。片親と言われて嫌な目にあっていたのか……」
内心、ドキドキしているリクは冷静な表情を保とうと俯いた。
子どもを優先、まずはリクを立派な大人に育てると考えていたが、どうやら逆に誰かと縁を結ぶ方が良かったと、自分の思慮の浅さを嘆きつつ、あのアナを勧められるなんてと高揚。
「そんな顔しないでくれよ。ぶっちゃけ、別に気にしてない。どうせ親が二人いたって何か言われる。世の中には変な奴が多いから」
「そんな風に言ってくれてありがとう。頼れる大人が一人だけだから、蔑ろにされたら嫌だろうと、結婚とか恋人は後回しにしていた。逆だったとは気がつかなくて済まない」
「えっ。モテないからじゃなくて?」
わりと大人びているカイリは、父親リクに近寄ろうとする女が、店の稼ぎ目当てだとか、騙されたことがあるらしいから騙せる金づるだと近寄ってくる女ばかりだと気がついて、リクの友人と共に何度も邪魔をしてきた。
叔父の見た目は悪くないし、店を祖父よりも繁盛させたし、性格も良くて金遣いも荒くないのに、なぜ良い女性にモテないと憤ってもきた。
それがまさか、自分の為に女性を遠ざけてきたとは驚きであり、悲しみである。
「ははっ。格好つけただけで、単にモテないだけだ」
「俺とマリナをダシにしてデートしようぜ! 俺もマリナも親役がもう一人欲しいんだ。居なくても困らないけど、居たらもっと気楽」
「うーん……」
「女性靴の売れ行きが良いから女性の意見を取り入れるためにも女が二人増えるのは良いって!」
「あのなぁ。デートしようぜって、あんな美人が俺を相手にする訳がないだろう」
リクは口を滑らした、とカイリから顔を背けた。カイリは「親父は口が滑ったと思ってそうだなー」と見抜いて、あえて突っ込まず。やはり、この間アナに見惚れていたのは間違いないとほくそ笑む。
口下手で臆病気味のリクは、アナと世間話くらいしてみたくても無理な日々を送ってきた。
世の中の男性達のように、花を持って「君に似合うと思いました」と、サラッと渡して口説くことも出来ず。
「大丈夫、大丈夫。父親役が欲しいマリナが協力してくれるから。親父なら父親役として良さそうだって」
「父親役……。彼女はこの間、ヒソヒソ悪口を言われていたな」
「そうそう。女の方が陰湿っぽい」
「協力してくれるって、もしかしてもう出掛ける日や場所が決まっているのか?」
「決めてない。マリナに親父が首を縦に振ったら、とりあえず満月亭に行くって言った」
リクは髪を掻き、息子の頼みだから仕方ないという素振りで首を縦に振り、夕食が終わったら出掛けるぞと告げた。