ひよこ夫婦1
リクがアナを抱きしめて告白した結果、彼女は歓喜と照れで脳内が満たされて返事を忘れて、そのままなすがまま。
(で、こからどうするものなんだ?)
女性と何かという経験が全くないリクに、それが分かるわけもなく。
(柔らかいし良い匂いだからこのままが良いけど許されるのか?)
嫌っ! と突き飛ばされないので相手は自分に好意がある。抱きしめる会話でもそれは理解している。
それなら自分達は相愛で、既に夫婦なのでこのまま抱きしめていても問題無い。
そう考えたリクは自分の腕に少し力を入れた。
一方、段々冷静になってきたアナは、好きだと言われたし、怖くて口説かなかったということは、好きなのは今よりも前からだと考え、それはいつからなのだろうという疑問を抱いた。
「あの……」
「は、はひっ! 離れます!」
リクにはアナの声が低く聞こえたので、嫌だったのかもしれないと不安になり、彼は腕を離して彼女からそっと離れた。
「いつ……からですか? その。先程言ってくれたことは……。あっ。二人になって少し意識してくれたんですか?」
「その……お互いそうですかね。まぁ、家族になろうと言っても性格などが苦手な方は選びませんよね?」
ここでリクが言うべきだったことは、満月亭に通って君に認識されて、カイリが大きくなったら口説こうと意気込んでいたという真実。
しかし照れと、照れで口説けなかったという情けなさから自己防衛。
「……入籍時から、悪くはないと思ってもらえていたんですね」
条件が合う女性で、嫌悪感がなければ誰でも良かった。一つ屋根下なので、自分の何かしら、特に性格を少しは好んだ。
アナはそう解釈して、さらに「怖くて口説かなかった」は、カイリが自分にかなり懐いていて、息子が不在の時に母親が家から出て行ったら困るので、慎重にしないと怖いみたいなことだろうと考えた。
自分の見た目には全然好感を抱かなくて、話しかけても興味無さそうだった想い人が掌を返したのは、息子カイリと自分の関係なのかな? という理解。
好きだと言ってくれた言葉には、異性愛よりも家族愛が含まれていそう。
アナの思考回路はこのようにこんがらがってまだ解消されていない。
「食事の途中でしたね。すみません。八つ当たりなんてして」
何も無かったように夕食を済ませ、リクが片付けをして、二人で大衆浴場へ行き、子ども達の話をしながら帰宅。
アナは昨日までと同じように「お休みなさい」とリクに笑いかけた。
ん? とリクは首を捻り、お休みなさいと口にして、階段を昇っていくアナの後ろ姿を傍観。
(アナさんは多分俺が好きで、俺も好きだと伝えたから夫婦だよな? 本当の意味での夫婦になったはず……)
普通の夫婦とはどういうことだ?
自分はこれからアナとこのようにこれまでと変化のない毎日を過ごしていくのだろうか。
その生活は悪くはないが不足である。入籍した時から、子ども達の目がないところでなら手を出したいとずーっと考えていた男盛りのリクは、老夫婦みたいな今の生活が続くのは大不満である。
(相愛なら多少は良い……のか?)
世の中の恋人はどうやって仲を深めるんだ? と改めて考えて、デートをして、手を繋いで、途中でキスで、多分その後はもっと触れ合うと思案。
二人ではなかったけどデートはしたし、互いの性格などは把握していて二人とも相手に好意を抱いているなら……手は繋いで良いはず。
(……家に着くまで並んで歩いていたんだから手を出せよ俺!!!)
リクは頭を抱えてしゃがんで心の中で叫んだ。
こういうところがリクとアナの関係が進まないところである。
自尊心も勇気も、対リクだと皆無に等しいアナにはもうリクをデートに誘おうとか、ましてや頑張って口説こうみたいな考えはない。
家族愛みたいだけど、私のことが好きだなんて夢みたいと浮かれているのみ。
酔い過ぎてところどころ記憶が曖昧だけど、夫婦の部屋に一緒に入ったからついに迫られる、ついに口説いてもらえると期待して、全くそんな空気がなかったので、アナはその辺りのことももう期待していない。
人は求めて、求めて、求めて、求めて、求めて、手に入らないと諦める生物である。
(っていうかさっき抱きしめていた時に様子をうかがえば良かった! あの体勢ならキスはあれでも頬にくらいはして良かったかもしれないのに!)
自分のバカさに嫌気がさしたリクはとりあえずこの日は寝た。
それで、決意する。かつて子どもだった時に両親がしていたことくらいは試す価値があるし、むしろ自分がしたいと。
そういう訳で翌日のリクはソワソワしてしまった結果早起きで、とりあえず仕事をしてみて、身だしなみを整えて、何食わぬ顔で朝食を作ってくれるアナに近寄った。
「おはよう、アナさん」
まず、リクは「おはようございます」をやめてみた。この方が他人行儀ではないからだ。
振り返ったアナは「おはようございます」と言いかけて目を見開いた。
思ったよりもリクが近くにいたことから驚いたのである。
「今日も美味しそうです。いつもありがとう」
今だ!
父親はたまにこうしていた!
リクは「相愛だから大丈夫」と気合いを入れて、アナの頬に唇を軽くつけて、腰を抱き寄せて再び「ありがとう」と口にした。
「……」
反応はどうだ? と緊張していたリクの視界には、驚き顔で固まって、少しずつ頬を染めたアナの顔がうつっている。
「はい。このオムレツはリクさんの好きなチーズ入りですよ……」
よく分からないけど口説かれたかもしれない。
頬にキスは家族の挨拶ではあるけど、自分とリクでは行われなかった事なので、もしかしたら「好きだ」は母親アナではなくて女のアナへの言葉かも。
前向きになれる材料さえあれば、元々楽観的なアナはこのように考えることが出来る。
「……それも好きだけど、アナさんが好きだ」
言わなかった結果、誤解が生じたようなので、リクは朝から頑張ってエレイン湖に飛び込むつもりで囁いた。
「……」
リクはビクビクしながらアナを様子見。
彼女は耳まで赤くなったが、困り顔でうつむいているので、これをどう解釈したら良いのか分からずに途方に暮れる。
「私も……チーズよりリクさんが好きですよ」
好きな種類がなんであれ、好きと言われたら好きと言い返しても良いだろう。
アナはそう考えて、こう口にして、こう言ったらいつかまた「好きだ」と言われるだろうと期待。
上目遣いで「リクさんが好きですよ」と微笑んだアナの破壊力は抜群で、胸を矢が貫通したくらいの衝撃をリクに与えた。
(いや、浮かれるな! チーズよりもだから……アナさんってチーズは好きだったか?)
アナはなんでも美味しいと食べるので、どの食べ物をどの程度好んでいるのか知らないと気がついた。
「……アナさんの一番好きな食べ物ってなんですか?」
「一番好き……そうですね。うーん。一番……」
「色々好きそうですからね。チーズはその中でどのくらいですか。大、中、小、どのあたりですか?」
「大、中、小? 大好き、中好き、小好きなんて聞いたことがないから面白い例えですね。チーズは大好きです」
私、チーズは大好きなの! という素直な気持ちで答えたアナは、この会話の流れだと「私は大好きなチーズよりもリクが大好きです!」ってことになると慌てた。
彼女のこの想像はその通りで、リクは俺のことも大好きってことか? と心の中でデレデレしている。
「朝ご飯。オムレツが焦げます。お皿を用意してもらっても良いですか?」
「えっ? ああ、はい」
ぎこちない朝食時間を過ごして、普段通りそれぞれの仕事に移り、あっという間に夜になり、忙しかったから今夜は先に大衆浴場へ行こうと決めた二人は家を出た。
仕事中も「今夜は絶対に手を繋いでみる」と考えていたリクはそれを実行。
人が来るということを口実にして手を取り、そのまま握りしめて離さないで、何もしていませんという風に歩き続ける。
「忙しくて疲れたからこのまま外食しませんか? 節約も大事だけど、入籍して全然自分達に使っていないので」
「すみません……」
断られたリクは落胆してアナの手をそっと離した。悲しげにうつむいているので手を繋がれるのは嫌だし、安易に浪費をするなという意味だろうと考察。
「胸がいっぱいで……食欲が無くて……。私はあまり食べなくて良いお店でお願いします」
「……」
外食拒否では無かった! とリクはアナをもっと観察。
外食は嫌では無くて、胸がいっぱいで、悲しそう。
胸がいっぱいとは普通は良い意味で使用する言葉で……っていうか、相変わらずアナのおっぱいはいっぱい……じゃない! 仕事で頭がおかしくなった! とリクは自分の太ももをつねった。
おっぱい、という単語が脳内によぎってしまったものだから、普段は見ないようにしたり、意識しないように努めているのに、その胸に目が釘付けである。
昨日、抱きしめた時も柔らかくて幸せだったなとにやけそうになる。
「……胸がいっぱいって良い意味ですか?」
分からない事は本人に尋ねるということを最近学び済みのリクは「おっぱいのことは忘れろ」と自分に言い聞かせて、アナにこう質問。
「……ええ。私達、恋人みたいですね……」
悲しそうな顔だけど口元は笑ったので、もしやこれは彼女の照れ顔ではないか。
リクはそう考えて、即座に彼女と手を繋ぎ直した。半分くらいは可愛いので手を出したいという衝動であるが。
「うん。普通は恋人から夫婦になるので、夫婦から恋人になってもおかしくないと思います」
結果、二人は夕食のことをすっかり忘れて家に到着。
玄関内に入ったその時に、自信を持ちはじめているアナは背伸びをしてリクの頬にキスをして「お休みなさい」と言って、恥ずかしいから逃亡。
彼女のこの行動にリクはいつものように可愛さにキュンッと萌えるだけではなくて、メラッと燃えて、ムラっと欲情し、逃げるアナを捕まえて昨夜のように抱きしめた。
むしろ今夜は抱きすくめた。