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北西の地、白銀月国はハーブの産地。
白い崖に寄り添うように作られているその国には、大陸一の湖がある。
白い城と、豊かな森を水面に映すエレイン湖は、北西の地にある国々から人が押し寄せる人気観光地。
そのエレイン湖を囲うように造られた城下街にある、主に庶民が暮らす地域にある商店街に、小さな靴屋がある。
靴屋「ラベンダー」を営んでいるのはハベル一家。一家と言ってもハベル家は現在二人だけ。大黒柱はリク・ハベルで今年三十三才。
独身庶民男性は二十代前半には結婚するこの国において、三十三才独身は異質な存在。何かあるのでは……と疑われて調べられたら、その原因はすぐに分かる。
リクは長男で、昔々から靴職人としての才能に溢れていて、本人も親の仕事を継ぐ事がとても誇らしくて、真面目に励んできた。
一方、次男ときたら兄を「親を独占する目の上のたんこぶ」と恨み、やがてグレていき、店のお金を少々持ち出して、おまけに借金も残して、家出して音信不通。
仕方がないとリクは両親と共に良く働いた。そこにある日、弟の文字で「俺の子です。育てて下さい」という手紙と共にカゴに入った赤ちゃんが登場。
自分が兄としてしっかりしていなかったばかりにロクデナシになってしまった弟は何をしているんだか、甥っ子かぁ、可愛いなぁとリクはその子の父親になることにした。
突然、リクが子育てを開始したものだから、寡黙気味でも見た目良しで良く働くリクを密かに慕っていたり、娘の嫁入り先にと考えていた者達はサァーっと引いていった。
靴屋「ラベンダー」のリク・ハベルさんは、結婚する前に子どもを作った。恋人が亡くなってしまって、子どもを引き取ったようだ。こういう噂話が作られたのである。
これがまず、彼が結婚出来なくなった理由の一つである。
甥っ子カイリが大きくなるに連れて、リクは父親ではなくて、どうやら家出した放蕩息子の子らしいという噂が近所へ広がる。
リクの両親が、真面目で優しい息子に幸せになって欲しいと考えたからである。長男に良縁が欲しいから、嘘で足を引っ張られないようにと。
しかし両親は立て続けに病で亡くなった。
とても真面目なリクは、友人知人に「カイリ君に母親がいると助かるし、家事をしてくれる人も必要」と言われて結婚を勧められても断った。
そのような、道具としてのお嫁さんを求めるなんて、相手にも相手の家族にも失礼だと。
カイリに母親は欲しいし、自分も女性となにやらあると嬉しいが、借金を返し終わったから、もう一踏ん張り。
それに、両親をほぼ同時に失った悲しみの中、女性にうつつを抜かす気分にもなれず。
更に、彼には密かに気になる女性がいたが、彼女が自分の店に浮気相手と来店したので傷ついたし、己の見る目の無さを嘆いて自信喪失。
意気消沈したリクは子育てと仕事に打ち込んでいる。尊敬する父が代々継いできた小さな店を、自分の代で終わらせる訳にはいかない。
そのような理由でリクは女性と交流が乏しい。一般的な同年代、同じような身分の男性達が思春期から適齢期にかけて、それなりに場数を踏む期間にそれどころではなく、明るく元気な性格でもなかったので、このようにして気がつけば三十三才子持ち独身男性である。
さて、靴屋「ラベンダー」の向かい側、五軒隣に満月亭という小さな飲み屋がある。
満月亭には住み込み母娘が暮らしていて、母親の名前はアナで娘の名前はマリナだ。
そのマリナはおっとりした母親とは性格が真逆で男勝り。彼女は庶民の子どもが通う学校の最終学年。
今年十二才になるマリナはこの日、同級生の男の子達と取っ組み合いの大喧嘩。
理由は明確で「君の母親は飲み屋で働くあばずれ」とバカにされたからである。
マリナの長い金髪は美しく艶めいていてサラサラと細く、彼女の顔立ちはとても整っている。いわゆる、気になる女の子に構って欲しくて突っかかる男の子の図だったのだが、メソメソ泣く女の子達とは異なり、マリナは殴る蹴る罵倒するの大立ち回り。
結果として、マリナの母親アナは教師に呼び出しを食らった。彼女は頭ごなしに娘を叱ったりせずに、理由を聞いて、自分達の名誉の為に戦ってくれたことは褒めた。その上で、暴力は良くないと娘をしっかり諭した。
「はい、お母さん。ごめんなさい」
「私はマリナが身を守れるように、助けられるように武術を習わせたのよ。必要も無いのに相手を傷つける為ではないわ」
まだあまり背が伸びていないマリナと目線を合わせる為に、アナはしゃがんで娘の両肩に手を置いて、しっかりと目と目を合わせて真剣な表情。
そこに、喧嘩の仲裁に入った結果、マリナに敵の仲間だと誤解されて殴られたカイリの父親リクが到着。
「すみません、息子がご迷惑を……」
駆けてきたリクは足を止めて、わんわん泣く娘を、慈しみに溢れた微笑みで抱きしめているアナに注目。
少しふくよかで、垂れ目でぽってりした唇をした、色気のある満月亭の給仕係はリクの癒しの一つ。
リクは3年前から、若者よりは年配客が多めで、そこまで騒がしくない満月亭でたまに一人で飲んで息抜きしている。
アナは女手一つで娘を育てていて、その娘のマリナはたまに母親の仕事を手伝っており、彼女は歌って踊ってくれる満月亭の人気者。
リクはアナを年々気にかけるようになっているので、カイリとマリナが成人する頃、約六年後に「お互い子育てが終わりましたね」と話しかけるつもりだ。
「親父! 俺は仲裁しようとしただけなのに、あの凶暴女にぶん殴られた!」
「女性に凶暴なんて言うな」
他の親も次々と来て、教師とやり取りをして、何人かの母親がマリナに聞こえるように「不倫女性が一人で産んで育てている娘さんはやっぱりねぇ。またあの子よ」とチクリ。
「不倫したのは私の実母でアナお母さんではないわ! 不倫するし、子どもも捨てた母親の悪口はいくらしても良いけど、アナお母さんを悪く言うことは許さないから!」
「ほらぁ、もう、マリナ。貴女はその瞬間湯沸かし器みたいに怒ることをやめなさい。すみません。娘は地獄耳で」
ほらほら、行きますよ、すみませんとアナは娘のマリアを引きずるように帰っていった。
「……」
満月亭のアナさんは、捨て子を愛情たっぷりに育てているのかと、リクはしばらく彼女の背中を見つめた。
女のおの字も無い、ずーっと仕事と甥っ子育てに勤しむ叔父が珍しく女性に見惚れていると、カイリは義父をジロジロ眺めた。しかし、リクはその目線に気がつかない。
翌日、授業終わりの帰宅時間にカイリはマリナに声を掛けた。
「おい、マリナ・ルルーシュ。昨日のことについて謝罪されていないぞ」
「……」
友人三人と、その友人の母親一人と一緒に帰ろうとしていたマリナは足を止めて、腰に手を当てて仁王立ちしたカイリに対して、罰が悪そうな表情を向けた。
「昨日はその、ごめん……。貴方のことは間違えでした……。その。名前も知らないなんて失礼だから教えてくれる?」
「カイリ・ハベル。レオナルド通りにある靴屋の息子だ」
庶民のマリナ達が通うのは青空学校で、雨が降ったら屋根だけくらいの簡易テントが設営されるか自宅学習になる。
貴族達の子どもが通う学校のように、立派な建物があって、男女別々に通う学校とは異なる。
六才から男女混合で約二十人ずつのグループに分かれていて、そのグループは二年に一回変わる。マリナとカイリは一度も同じグループになった事はなく、お互いに「なんか見たことがあるな」くらいの間柄だった。昨日までは。
「カイリ君、昨日は頭に血が上っていて、他の男の子達の巻き添えにしました。ごめんなさい」
「痛い」
「えっ?」
「この手を見ろ! 我が家は俺が家事担当なのにこの手でめちゃくちゃ困っている! 責任を取れ! ってことで来い。買い物の荷物待ちをしろ」
えー……とマリナは友人達と付き添い人を眺めて、友人の一人に「他の男の子達はともかく、彼のことはマリナちゃんが悪い」と言われ、仕方がないとカイリに従うことに。
そうして二人は歩き出して、しばらくするとカイリはマリナにこう告げた。
「まぁ、手が痛いのは嘘なんだけどさ」
「……はぁああああ⁈」
「君が殴ったのは俺の顔だ。それでこの痣。それから腹を蹴られたからそこにも痣」
「……それはごめん。痛い?」
「痛くない。男は泣き言を言わねぇ」
「ねぇ。それならなんで手が痛いって嘘をついたの?」
「昨日、聞こえたんだけど君の母親は本当の母親じゃないって本当か? 俺も父親は実の親じゃないんだ」
大好きな母親について悪く言われると身構えたマリナは、カイリの後半の台詞で苛立ちを消した。
「カイリ君のことは見たことあるなぁってくらいだったけど、昨日来た君のお父さんの事は前から知ってる。家の近くの靴屋の職人さんだから。私のこのお気に入りの靴はあのラベンダーさんの靴なの。お母さんが誕生日に贈ってくれた」
「ああ。親父は世界一の靴職人だ。歩きやすいし、可愛いだろう?」
「うん!」
カイリは父親を褒められてご満悦。しかし、違う違うと首を横に振った。
「親父自慢をしようと思ったんじゃなくて、えーっとなんだ。そうっ! 俺の親父は俺の叔父。実の父親は家出して女と子どもを作って、子どもなんてうるさいしすぐ病気になるから邪魔って兄貴に押し付けた。いやぁ、虐待死じゃなくて、良い父親の子になれて助かった」
昨日、父親が珍しく女性に熱視線だったので、同年代の男の子達よりも精神的に大人びているカイリはその意味に気がつき、マリナの母親について軽く調べ、どうやら彼女に夫は居ないようだと突き止めた。
捨て子を一生懸命女手一つで育てている。それも喧嘩っ早い、口が達者な凶暴な女の子を育てているなんてきっと懐の広い優しい女性だ。
それなら、自分を大事に育ててくれている父親と釣り合う。二人を接近させるには、娘のマリナが使えそう。それがカイリの今の行動理由である。
「へぇ。カイリ君も捨て子なんだ。私も母親に捨てられた。昨日聞いた? 私の実の母親は貴族と不倫して子どもが出来て捨てられて、お姉さんに泣きついたの。で、純情乙女ですぅ〜って男を騙して恋人を作って私を姉に押し付けて逃げた」
「俺の実の父親みたいなクズだな」
「そうそう、私の実母はクズなの。似た境遇の人がいたんだね」
「もしかして、君の育ての母はそのせいでずっと未婚?」
「うん。カイリ君を育てているお父さんもそう?」
「ああ」
この瞬間、カイリとマリナは目と目で通じ合い、ガシッと握手を交わした。