ずるい、ずるいと姉からすべてを奪った妹の言い分
私に罪があったとすれば、それは無知だということだろう。
いや、馬鹿だったというべきか。
この国の貴族であるクラッセン伯爵の娘が、無知だの馬鹿だのというのも情けない気がする。
けれど、それだけ私は甘やかされて育った。幼い頃から「うわぁ~ん」とひと泣きすれば、自分の我がままが、すべてまかり通ってしまったのだ。
本来ならば「我慢しなさい!」とか「我がままは許しませんよ!」などと、娘を叱咤し諫めるのが親の役目だ。でないと、碌な大人にならないから。
しかし、残念ながら両親はその当たり前のことを放棄した。あまりに大泣きするので手がつけられなくなり、早々に諦めたのだ。
そこは愛する娘のために捨て身で頑張ってほしかった……なんて言っても今さらである。
とにかく私は、躾のされていない犬のように傍若無人で、その自覚もなかったのだ。
その一方で、エーリカお姉様は優秀だ。
三歳しか離れていないのに、厳格な家庭教師たちからは「エーリカお嬢様は素晴らしい」と太鼓判を押されていた。
クラッセン家には私たち姉妹しか子がおらず、お姉様には跡継ぎとして厳しい教育が課せられている。
私はといえば、優しい家庭教師から「ティアナお嬢様は……本気を出していないだけです」とよくわからない評価が下された。
思えば、私の心に満たされない感情がくすぶり始めたのは、その頃からだ。
「お姉さまったら、ずるーい!」
お姉さまばかり褒められてずるい――ほんの五歳か六歳の子供としては、ありふれた言葉、ありふれたシーンだ。
本当に「ずるい」だなんて思ってやしない。ただ、羨ましいだけだ。それだけなのに『ボキャ貧』の私は、それをうまく表現できなかった。
人は言葉で考える生き物である。
単に羨ましかっただけの私の気持ちは「ずるい」「ずるい」と口にしているうちに、あたかもそれが本心だと感じるようになっていった。
エーリカお姉様は美しい。
ふわりとした金髪にブルーの瞳は宝石のよう。すらっとした手足と長い指。
両親だけではなく、使用人たちも、屋敷を訪れた客人たちも「エーリカ様はお美しい」とその美貌を褒めたたえる。
「お姉様は、ずるーい! 皆、お姉様のことばっかり、ずるーい!」
私の赤毛だって悪くはないと思う。瞳だって海のように青い。それなのに、いつもチヤホヤされるのはお姉様だけ。そんなのって、ずるい。
「うわわぁーん!」
泣いてわめいた結果、両親がお姉様を誉めなくなり、使用人たちにも徹底されたのが七歳の頃だ。
「ティアナ様は可愛らしいですわ」なんて持ち上げられて機嫌を直した。
それからは、容姿に限らず誰もお姉様を誉めなくなった。
お姉様から初めてドレスを奪ったのは、九歳のとき。
十二歳になったお姉様はますます綺麗になり、時折、少女ながらも大人びた表情を見せるようになった。
そのせいだろうか。
お姉様の纏う飾り気のない青いドレスが眩しかった。
フリルとリボンだらけの私のドレスより、ずっと粋で洒落ているように感じたのだ。
「ずるーいっ! お姉様ばかり綺麗なドレスなんて、ずるーい!」
私はそう言って泣いた。
するとお姉様が「そんなに気に入ったのなら、あげるわ」と譲ってくれたのだ。
そのときの私は、これがお姉様の婚約者であるマリウスから贈られたドレスであることを知らなかった。
お姉様より一つ年上のマリウスは、私たち姉妹の従兄で子爵家の嫡男だ。
前伯爵であるお祖父様が、クラッセン家が所有していた爵位のうち、お父様に伯爵位を、叔父様に子爵位を譲ったのだ。
我が家には男子がいないので、二人を結婚させて再び家を一つに纏めようというのである。一族の富を分散させないための知恵だ。
この年、お姉様はマリウスと正式に婚約を交わしたのだった。
それ以降、お姉様のドレスは、時どき、私のものになった。
お姉様が十五歳になり、翌年に控えた社交界デビューが近づくとマリウスからのプレゼントが頻繁になった。
そのほとんどは、宝石だ。
誕生日はもちろんのこと、舞踏会で身に着けるためのネックレスやイヤリングを何点も、さらにはもうすぐ入学する王立学園の入学祝として。両親からも社交デビューのお祝いにと新たな宝飾品が贈られた。
そのうえ、先祖代々からのクラッセン家の宝飾品を受け継ぐのはお姉様である。
私が持っているのは、誕生日に両親から贈られたアクアマリンのネックレスだけなのに。
「ずるーい! お姉様だけ宝石がたくさんっ、ずるーい!」
私はごねた。
両親とお姉様が困ったように顔を見合わせる。
「でもこれは……」
「うわわぁーん!」
お母様の言葉を遮るように、私の泣き声がけたたましく響いた。
「そんなに気に入ったのなら、ティアナにあげるわ。いいでしょう? お母様」
わめき声がこれ以上大きくなってはたまらないと、お姉様が両親から受け取ったばかりのイヤリングを素早く差し出した。
以来、両親がお姉様に贈り物をすることはなくなり、マリウスは私の分のプレゼントも用意するようになった。
このとき、十二歳の私には、男性が女性に自分の瞳の色と同じ宝石を贈ることに何の意味があるのかなど、よくわかっていなかったのだ。
マリウスの瞳と同じサファイアはお姉様に、私には私の瞳の色と同じアクアマリンが贈られた。
同じ青でもその色味はぜんぜん違う。
私はもっと早くそのことに気づくべきだったのだ。
とうとうお姉様から婚約者を奪ってしまったのは、その三年後だった。
お姉様と婚約してからというもの、マリウスが我が家に頻繁に訪ねてくるようになっていた。
「ごきげんよう、マリウス!」
「こんにちは、ティアナ。エーリカは?」
「それがまだ学園から帰っていないの。こっちでお茶を飲みながら待っていましょうよ」
私は、マリウスの袖を引っ張って、庭のテラスへ連れていく。
メイドにお茶を淹れてもらい、お菓子に手を伸ばす。
一年早く学園を卒業したマリウスは、こんなふうにお姉様を待つことが多くなった。優秀なお姉様は、生徒会の役員に選ばれたので帰りが遅くなる日があるからだ。
待っている間は私と二人きり。それ以外の日も、三人でティータイムを過ごしていた。
今なら婚約者に会いに来ていたのだとわかる。私は完全にお邪魔虫だったわけだ。
だけど、私にはまだ婚約者がおらず、男女のことには疎かったし、マリウスは従兄だから幼い頃から知っている。わざわざ避けるほうが不自然な気がした。
マリウスは優しい性格だから、お姉様と二人きりにしてくれとは言えなかっただけかもしれない。
私を遠ざけるようなことはしなかった。
「あら、マリウス、来てたの?」
「やあ、エーリカ。急に時間が空いたものだからね」
「お帰りなさい、お姉様」
「ちょっと着替えてくるわ。待っててね」
こうしてお姉様が私服に着替えてから、三人でおしゃべりするのが常だった。
私はこの時間が好きだった。
同年代の友達がおらず、茶会に参加したこともない。だから、楽しかったのだ。
そんなある日、いつものように二人でお姉様の帰りを待っている間に交わした会話が、私の地雷を踏みぬいた。
「ティアナも来春は社交デビューだろう。どう、準備は進んでいるかい?」
「ええ……」
この国の社交デビューは十六歳だ。お姉様のときもドレスを仕立てたり、それに合う宝石を見繕ったりと大変だった。貴族子女が通う王立学園の入学時期と重なるので、そちらの準備もある。
何かとあわただしかったことを思い出した。婚約者からドレスや宝石を贈られていたことも。
「エーリカをエスコートしたのは、もう三年前か。懐かしいな。二人でワルツを踊ったんだよ」
目を細めて思い出を語るマリウスを見た瞬間、抑えがたい激情がせりあがっていくのを感じた。
お姉様はずるい、と。
婚約者のいない私のエスコートはお父様がする予定で、婚約者のいない私のドレスは親が仕立てたものだし、宝飾品をプレゼントされることもない。
粛々と進められる準備は必要最小限のもので、社交デビューの年に婚約披露のパーティをしたお姉様のときの華やかさとは雲泥の差だった。
私だって、初めての夜会で婚約者とワルツを踊りたい。
私だって、優しい婚約者がほしい。
私だって……。
お姉様は、ずるい。
「ただいま。あら、どうしたの?」
涙を堪えながらスカートの裾を握りしめていると、お姉様が帰宅した。
「お帰り、エーリカ。今、社交デビューのときの話をしていたんだ」
「まあ、そうなの。あの日は、白いドレスを汚さないようにするのと、ダンスで足を踏まないようにするので精いっぱいだったわ。緊張しすぎてほかのことは記憶にないくらいよ」
「僕はけっこう楽しかったけど」
フフフと婚約者同士が微笑み合う。
「お姉様は……ずるいわ」
喉元までせりあがった感情があふれ出た。
「ティアナ?」
マリウスが怪訝な顔になる。
お姉様はハッとして私を見た。それから両親を呼んでくるように侍女に指示を出した。
「落ち着いて、ティアナ。とりあえず部屋の中に入りましょう」
お姉様が、私を抱え込むようにしてテラスの扉から屋敷の中へ入る。
「ずるい! お姉様だけ、婚約者がいるなんてずるいわ!」
「落ち着け、ティアナ!」
何とか宥めようとするマリウスの声は、もう私の耳には届かない。
「ティアナ。お父様もお母様も、あなたには好きな人に嫁いでほしいと考えていらっしゃるのよ。だから、縁談は社交デビューのあとにしようと――――」
こんなとき、不思議とお姉様の声だけは耳に入る。そして心を抉るのだ。
「うわわぁーん!」
お姉様はずるい。お姉様はずるい。
そうやって私を嫁に出して、自分はのうのうとこの屋敷で暮らすつもりだ。
いつまでもお父様とお母様に守られて。
信頼できる使用人たちに囲まれて。
気心知れた優しい婚約者と結ばれて。
結局、すべてはお姉様のものだ。
家族も爵位も財産も全部。
私だけが、私だけがこの円満な世界からはじき出されるのだ。
勝手に結婚相手を見つけて出て行け、そう言っているのだ。
私だけ……のけ者…………なのだ。
「私もマリウスのような優しい婚約者がほしい! この家を出ていくなんて嫌っ!」
パリンッと花瓶が割れた。
「ティアナ……どうしたの? あなたは誰でも好きな人に嫁げるのよ?」
わけがわからないというような顔をして、オロオロとお姉様が諭す。
「だったら、お姉様が嫁げばいいじゃない! うわわぁーん!」
窓ガラスが振動し、ヒビが入り始めた。戸棚の脚がカタカタと音を立てている。
その瞬間、バンッと扉を開けて、侍女から報せを受けた両親が駆けつけた。
「どうしたっ?! ティアナに何を言ったんだ!」
「一体、何が起こったの?!」
お父様は驚き、お母様が叫んだ。
マリウスは唖然となって、微動だにしない。
お姉様が事情を説明している間に、今度は柱に亀裂が入った。
「うわわぁーん!」
私は我を忘れて泣いていた。
ふいに後ろから抱きしめられる。お姉様だ。
「わかったわ。そんなにこの家がいいのなら、あなたがマリウスと結婚すればいいわ」
「ひっく、ひっく」
お姉様が差し出した『お姉様のすべて』をもってして、柱が折れるすんでのところで私の涙は止まった。
すでに窓ガラスは粉々に砕け散り、戸棚は倒れ、あと少し遅かったら部屋が崩壊して怪我人が出ていたことだろう。
その後、屋敷の修繕をしている間に、マリウスの婚約者はお姉様から私へ変更された。社交デビューの夜会のエスコートもマリウスがした。
けれど、彼の瞳と同じサファイアが私に贈られることはなく、以前のような頻度でわが家へ足を運ぶことはもうなかった。
マリウスを『優しい婚約者』たらしめていたのはお姉様で、私がその優しさを手にすることはなかったのだ。
お姉様が王立学園を卒業して、入れ違いで私が入学した頃、お姉様は嫁いだ。
ジークベルト・ボーデ様。生徒会で一緒だった、侯爵家の次男だそうだ。
結婚を機に爵位の一つを譲られて伯爵となったので、お姉様は伯爵夫人ということになる。
ここまでが私の人生十六年間の、できればなかったことにしたい人生の汚点だ。
ほかにも、お姉様付きのメイドを譲ってもらったり、大好物のラズベリータルトを分けてもらったりといろいろやらかしている。
なぜ部屋が崩壊する危険に陥ったのか。
それは私が持つスキルのせいだ。
ガン泣き――。
ひとたび号泣すれば、ありとあらゆるものを破壊しうる、希少かつ厄介なスキルだ。
この世界の人間は、スキルを持って生まれることがある。
お姉様にも、お父様と同じ『雷撃』のスキルがある。女だてらに秋の狩猟大会に参加し、涼しい顔をして一撃で大物を仕留めている。
私の場合は、どうやら母方のお祖母様の遺伝らしい。だけど、四歳のとき本格的に発現したその力は、お祖母様よりもずっと強力だった。
うわーんと泣けば、たちどころにものが壊れる。我が家には、その修繕の痕跡が至るところにある。
困り果てた両親は、ひたすら私の機嫌を取ることで被害を最小限に抑えることにしたのだった。
刺激を与えないようになるべく人との交流を避けて表に出さず、泣かせないようにと我がままを許し続けた結果、常識のないモンスターが誕生したというわけだ。
うん……やっぱり、前言撤回。もし両親が捨て身で私を躾けていたら、本当に命がなかったかもしれない。
※※※
そんな我がままモンスターが人間に生まれ変わった経緯は、イリーネ・カぺル侯爵令嬢なしでは語れない。
彼女は王立学園の同級生だ。
人との交流を避けて暮らしてきた私でも、貴族の子である限り学園には通わねばならない。法律で定められているからだ。
私はやっと同年代のお友達ができるかもしれないとワクワクしていたけれど、両親はいつ発動するかもわからない『ガン泣き』に戦々恐々としていたに違いない。
「あなたがティアナ・クラッセン伯爵令嬢?」
入学早々、声をかけてきたのがイリーネだった。獲物を見定めた豹のような鋭い視線で、ぎこちなく席に座る私のことを静かに上から見下ろしていた。
「はい。そうですが……」
好戦的で迫力ある彼女の態度に気圧され、つい小声になる。
「わたくしはイリーネ・カペル。お兄様にあなたの面倒を見るように頼まれたのよ」
つんと澄まし顔でイリーネは言う。
金髪の巻き髪には、彼女の赤い瞳と同じスカーレットのリボンが結ばれていた。薄い唇がきゅっと閉じられ、気の強さが滲み出ていた。
「お兄様?」
私が知っている男性と言えば、マリウスだけだった。誰のことだろうとキョトンとすると、たちまちイリーネの顔が険しくなった。
「カペル侯爵家の次期当主、カール・カペルのことよ。あなた、伯爵令嬢のくせにそんなこともご存じないの?」
「私はあまり屋敷を出たことがないので……」
「はあ? この国の主たる家門と貴人の名前を覚えることは、貴族なら当然のことでしょう。まったく、あなたの家庭教師は何をしていたのかしら」
キッと睨みつけられ、涙目になる。
優しい家庭教師は、「えっ~、こんなの覚えられない!」と弱音を吐くたびに「では、別のお勉強をいたしましょう」と言って、無理に押しつけることはなかったのだ。
ゆえに、私は覚えたいことだけを覚え、苦手なことには手をつけなかった。
「あなた、あの優秀なエーリカ様を追い出して跡継ぎの座におさまったのでしょ? 実務はマリウス様が執られるのだとしても、これじゃあ、クラッセン家もお先真っ暗ね」
辛辣だった。
面倒を見るというのなら、もっと優しくしてしかるべきではないのか。それなのに、のっけから冷たくされて悲しくなり、目から涙が溢れだす。
王立学園入学にあたり、マリウスからも「クラッセン家には、治めなくてはならない領地がある。守るべき民がいるんだ。君はエーリカと違い、当主教育を受けていない。これから卒業までの間、領主に足る教養を身に付けてほしい」と釘を刺されていた。
つまり、誰の目から見ても、私は伯爵家を継ぐにふさわしくないということだ。
「ううっ……ひどい……」
「ひどいのはどちらかしら? 婚約発表までした貴族令嬢が妹に婚約者を奪われるなんて、醜聞以外の何ものでもないわ。血のつながった姉をそんな立場に追い込むあなたは、鬼か悪魔よ」
「そんなこと……し、知らなかったんだものっ。ううっ……うわーんっ!」
私は本当に知らなかったのだ。自分のしたことでお姉様が傷もの扱いされることも、お姉様に恋したジークベルト・ボーデ侯爵令息が猛アタックの末にプロポーズしていなければ、修道院へ行く未来もあり得たのだということも。
あの日、私はまぎれもなく、お姉様からすべてを奪ったのだ。
「ちっ! 無知って罪よね。子供みたいに泣くんじゃないわよっ」
イリーネが舌打ちしながら、大声で泣き始めた私の身体に結界を張った。
『ガン泣き』は結界の中に閉じ込められ周囲に被害を及ぼすことはなかったが、泣き疲れるまで泣いたため、気がついたら授業はとっくに終わり夕方になっていた。
誰も宥めに来ないのは初めてのことだった。
空は茜色に染まり、教室には私とイリーネだけが残っていた。
「落ち着いた? 改めて、これからよろしくね。わたくしのことはイリーネと呼んでちょうだい」
スッと手を差し出して、イリーネが微笑んだ。
「私のことはティアナ、と」
どぎまぎしながら、反射的にその手を取って握手した。
「わたくしは、滅多にいない『結界』スキルの持ち主なの。それも超強力な。ジークベルト様と兄が親友なのよ。それで、わたくしが頼まれたってわけ。親友の妻の妹を『まとも』にしてやってくれ、ってね。これからビシビシしごくから覚悟してよね」
「まとも……?」
このときまで『まともではない』自覚がなかった私は、散々な言われように項垂れたけれど、もう涙は一滴も残っていなかった。
それに、ここまでガツンと言ってくれる人は初めてだった。物心ついたときにはもう、両親に腫れもの扱いされていたから。
私は、イリーネのことを信頼できる人だと思った。
「大丈夫よ。わたくし、犬を躾けるのは得意だから。それと、急にひどいこと言って悪かったわ。『ガン泣き』を実際に見てみたかったの。でも安心して? 結界で姿を隠したから誰にも見られていないし、今日一日、体調が悪くて保健室で休んだことになってるわ」
イリーネが悪戯っぽく笑う。
私は、クラスメイトがいる教室の真ん中で泣いていたのだという事実に今さらながら気づいた。そして、場所もわきまえず、ただ感情のままに振る舞う自身の未熟さに顔から火が出そうになった。
こうして私とイリーネは出会った。
それから怒涛の調教……いや、しごきが始まった。
私には、貴族としてのマナーも知識も学力も、すべてが足りなかった。
それをイリーネに指摘され、泣くと結界を張られて放置される日々。
泣いても何も解決しないことを、まずは頭ではなく身体に叩き込まれた。それから、お辞儀や食事などの所作を。
不出来な伯爵令嬢なのにクラスでいじめられなかったのは、イリーネが私の面倒を見ていたからだろう。
カペル侯爵家は伝統のある名家だった。その家の令嬢と一緒にいることで、多少、マナーが悪くても目こぼしされていたのだ。
「失敗はしてもいいの。同じ失敗を二度と繰り返さないことが大切よ」
なにかとイリーネに指導を受けている私を見て、事情があるのだと察したクラスメイトたちも「ティーカップの持ち手は、小指まできちんと揃えたほうが美しく見えますわよ」とか「あそこにいるご子息の家は、国境のシェイラ地方を治め王家とも縁が深いのですよ」などと、それとなく教えてくれるようになった。
彼女たちは、お馬鹿なモンスターを不憫に思い、親切にしてくれたのだ。お陰で、あんなに覚えられなかった貴族の名前にも詳しくなった。
学園生活は順調だ。
ある日のこと。
私が過去にガン泣きしたときの状況の数々を聞いて、イリーネが顔をしかめた。
「もっと本を読みなさいよ。何よ、その『お姉様はずるい』って。エーリカ様が小細工したわけじゃないのでしょう? 語彙力がないから『ずるい、ずるい』と連呼してるだけじゃないの。それにエーリカ様を次期当主に据えたのも、婚約を決めたのもご両親でしょ。そもそも跡継ぎじゃないなら家を出るのは普通のことでしょ。のけ者だなんて、被害妄想激しすぎ!」
このスキルの厄介な点は、理性を失っているときに発動することだ。『電撃』や『結界』など、ほかのスキルは、自分の意志でコントロールするものなのだが、『ガン泣き』は無意識なのだ。
だからこそ、ちょっとやそっとじゃ動じない精神力が必要だ。
発動のきっかけがわかれば制御も可能なのではないかとイリーネが言うので、正直に打ち明けたものの、あまりの幼稚さにすっかり呆れられてしまった。
「確かに、お姉様が悪いわけじゃないけど」
「じゃあ、なんで『ずるい』なんて言うのよ?」
「わかんない」
「もー、これだから甘ちゃんはっ。今後『ずるい』は使用禁止!」
「うっ……はい」
「ま、いいわ。エーリカ様に対する気持ちを、もう一度よく見つめ直してみることね」
こんな内々の話をするほど、私はイリーネに心を許していた。
他人だからこそよかったのかもしれない。身内だったら、きっと素直になれなかっただろうから。
そういうわけで私は、初めてじっくりと自分の気持ちというものに向き合ってみたのだった。
どうして『ずるい』と感じたんだろうとか、お姉様のこととなると過剰反応になる理由は? とか、被害妄想と言われるほど疎外感を持ってしまうのはなぜ? なんてことを『ずるい』以外の言葉で表現しようと頭を捻って、ようやく皆に愛されるお姉様が羨ましいのだと気づいた。要は、妬んで癇癪を起していたのだ。
「単に親の関心を引きたかっただけだと思うの。頼りにされていたのはいつもお姉様だったから、親を取られた気分だったのよ。はた目には可愛がられているように見えても、両親は私のことを怖がっていたわ。好きな人と結婚していいって言われたのも、勝手に縁談を決めて泣かれたくなかったんだろうし」
ただ、愛されたかった。
誰もが抱える当たり前の願いが手に入らない寂しさと心の葛藤。
それがスキル発動のきっかけだ。
自身の孤独を認めるのは辛いけど、私はもう泣きわめくのではなく、静かに涙することを覚えていた。
「親だって完璧じゃないのよ。ただ、強力なスキルを前に、どうしたらいいのかわからなかっただけ」
ほろりと涙を流す私にハンカチを差し出しながら、イリーネが慰めた。
「そうね」
私はもう大丈夫。そう確信できたときには、卒業まで一年を切っていた。
※※※
やっとモンスターから人間になれた私は、ここで、ふと疑問が浮かんだ。
はたして、自分の人生このままでいいのか? と。
まだ人間になれただけで学業優秀なわけでもないし、領主としての器はない。
マリウスを愛していないし、愛されてもいない。
それに私はもう、お父様が指名さえすれば、クラッセン家直系の血筋であるマリウスが次期当主になれるのだと知っている。無理に結婚する必要はないのだ。
両家の縁談は、実子を差し置いてまで甥に跡を継がせたくない両親と、それを見越した叔父様の配慮によるものだったように思う。お姉様が優秀だったから、なおのことだろう。
それを私が壊してしまった。
「うわー、どうしよう。マリウスはお姉様のことが好きだったのにっ」
放課後の教室で、私は机に突っ伏した。
取り返しのつかない事態をどう収拾すべきかで、最近は頭を悩ませている。
「そんなこと言ったって、もうエーリカ様は結婚してるんだし、どうしようもないじゃないの。ジークベルト様は感謝してたわよ? 義妹が馬鹿で助かった、って」
身も蓋もない言い方である。
思わずイリーネを見ると「わたくしが言ったんじゃないわよ」と慌ててつけ加えた。
お姉様が嫁して二年、もうすぐ子供が生まれる。
マリウスは、相変わらずあまり我が家には来ない。誕生日にプレゼントがあるものの、月に一回、義務的なお茶会をこなすだけだ。
異を唱える間もなく、一方的に婚約者を挿げ替えられたのだから怒るのも無理はない。それに『ガン泣き』の威力を初めて目の当たりにして、厄介者の面倒を一生見るはめになったと落胆したのだと思う。
「そんな馬鹿な義妹の世話をよく引き受けたわね」
ジークベルト様――お義兄様の依頼だったはずだ。婚約者がいるからと諦めていたお姉様と結婚できたので、その謝礼のつもりなのだろう。
「最初は断るつもりだったわよ。面倒くさいもの。でも、引き受けてくれたら、国防局に出仕できるように口利きしてくれるって言うんだもの」
イリーネがペロッと舌を出して肩をすくめた。
「ほら、わたくしの結界スキルって超強力じゃない? だから、国のために役立てられないかと前々から考えていたのよ。だけど、婚約者の都合もあって反対されてて――――」
「え、婚約者がいるの?」
「いないわよ、表向きはね。わたくしは、第二王子のお相手に内々定していたの」
イリーネに婚約者がいることなど初耳だった私は、その相手が王族だと聞いて驚いた。彼女の身分からすれば不思議ではないが、今、第二王子には他国の王女との縁談が噂されている。
「ただのキープなのよ。もともと他国の王女と政略結婚する予定だったの。でも国と国との情勢なんてどうなるかわからないでしょ? 万が一、破談になったときに、慌ててそこらの令嬢を見繕うわけにはいかないじゃない。お妃教育もあるんだし。わたくしは第二王子の幼馴染で、身分的にも手ごろだったわけ」
「な、なるほど」
「だけど、そろそろ自由の身になれそう。王家はお詫びに縁談を用意するつもりらしいけど、私は出仕したいのよねぇ。貴族女性が結婚しないなんて外聞が悪いとお父様が反対していて、先日やっとお兄様が説き伏せてくれたの」
そう言って、イリーネは晴れやかに笑う。
将来のことを真剣に考えているのだ。
彼女だけじゃない。最終学年ともなると、皆、卒業後に向けて動き出している。
婚約者との結婚準備に忙しい令嬢もいるし、文官の試験勉強に勤しむ子息たちもいる。
私は――――どうしよう。
「あ、でも、誤解しないでよね。わたくしは、ティアナに会えてよかったと思っているんだから」
「わかってる。私もイリーネには感謝してるわ」
出会いはどうであれ、私たちは親友だ。
結婚して子をなす人生が貴族女性の王道であるなか、働きたいという親友に触発されて私は学園の図書室を訪れた。
「出仕かぁ……」
参考になりそうな書物を二、三冊選んで席に座り、ページをめくった。
お姉様はさすがにもう無理だけど、私よりももっと有能な女性と結婚したほうが、マリウスのためにも領民のためにもいいような気がしていた。
婚約解消となると、姉の婚約者を奪った醜聞のある私に、まともな縁談はないだろう。貴族ならうんと年の離れた人の後妻か。お父様が領民の誰かに押しつけるか。もしくは結婚を諦めて修道院に入るか。平民と恋愛結婚する道もなくはないけど、いつ恋愛できるかなんてわからない。
「出仕に興味があるの?」
不意に声をかけてきたのは、同じクラスのエーリヒ・マイヤー男爵令息だった。
「わっ、びっくりした」
「驚かせてごめん。僕も文官試験を受けるんだ。君も興味があるのかと思って」
男爵家は兄が継ぐので、文官を目指しているのだという。
薄茶の髪からエメラルドグリーンの瞳を覗かせている。手にテキストを持っていて、表紙には、『財(一種)』と書いてあった。
これは財務省の最難関の登用試験のことだ。採用時から役職がつくため、文官のなかでも超エリートである。
彼は学年でも上位の成績で、特に数字に強いと評判なのだ。
「今からでも間に合うかしら? その……私、成績があまりよくないのだけど」
「う~ん、財務省だったら三種を受ければいけるんじゃない? 一般職になるから平民ばかりで貴族はほとんどいないけどね。外国語が得意なら、外務省の二種とか。あと、もし希少なスキル持ちなら魔導省の二種かな」
「魔導省は、スキル持ちなら入れるの?」
「スキルの研究をしているところだから、常にスキル持ちを探してる。研究職以外は、筆記試験さえ通れば採用されるって噂だよ」
魔導省――――ここなら家を出て自立できるかもしれないと一筋の光明が差した。
私は居ても立っても居られず「ありがとう。早速、調べてみるわ!」と頭を下げてから、図書室を飛び出した。
大急ぎで弾むように走る貴族令嬢らしからぬ姿を、どこからか見られていたらしい。翌日、イリーネに説教されてしまった。
それからは、度々、図書室でエーリヒと顔を合わせるようになった。
ここで受験勉強をするようになったからだ。
魔法省の出仕試験についていろいろと調べた私は、受験日まであと五か月しかなく、応募の締め切りが二週間後に迫っていると知って泡を食った。
無事に受験票を手に入れられたのは、エーリヒのお陰だ。
右も左もわからない私に、申込用紙の記入の仕方や参考書の選び方などを丁寧に教えてくれたのだ。
「ありがとう。あなたも自分の勉強があって忙しいのに」
私が礼を言うとエーリヒは「構わないよ。試験までまだ時間があるから」と余裕を見せた。
「実は、僕は『計算』のスキル持ちなのさ。問題を見ただけで、すぐに答えがわかる。だけど、答えだけわかっても理解したことにはならないだろう? 今はどうしてこの答えになるのか数式を学んでいるところだよ」
「え、いいなぁ。私のスキルなんて何の役にも立たない」
「魔導省の入省には役立つじゃないか」
「それもそうね」
こうして私は、時どきエーリヒに勉強を教えてもらいながら受験に備えた。
親には内緒だった。
マリウスにも言えない。
領主になるつもりがないだなんて、どうやって告げたらいいのかわからない。
仲を深めるどころか距離が空いたまま、マリウスは月に一度の茶会にやって来る。
「なかなか会いに来られなくて悪いね」
庭のテラスで、いつも謝罪を口にする。
割れた窓ガラスも新しいものに取り換えられ、壊した部屋もすっかり元通りになっている。二年も経ったのだ。今のマリウスは、月の半分以上、王都から馬車で二日ほどの距離にある領地にいる。いずれ治めることになる土地を視察して回っているのだ。本当ならば、お姉様も一緒のはずだった。
紅茶を飲む。
マリウスに微笑みはない。疲れた顔をしている。
「いいのよ。私も忙しいから」
「忙しい?」
「あ、えっと、ほら、卒業の単位がギリギリなの。もともと頭が悪いから、授業についてゆくのがやっとで……はははっ」
うっかり口を滑らせて笑って誤魔化す。
いちおう、単位は足りている。イリーネの教育の賜物だ。
「卒業はできるんだろうね?」
ギロリと睨まれた。
「で、できるわ」
「……ならいい。あとはこちらでどうにかするから」
マリウスが、ふぅとため息をついた。
とにかく問題は起こすなと言いたげで、期待されていないのがわかる。
お姉様と三人で過ごしていた頃は、よく領地のことを話していた。こんな領地にしたい、あんな政策を取り入れたい。もっと領民の生活をよくしたい。
理想に燃え、お姉様となら実現できると信じていた。
ああ、どうしよう。
私は、目がうつろになっている婚約者を前に無言になった。
※※※
お姉様に会いに行こうと思いついたのは、出仕試験を終えた直後のことだった。
手ごたえを感じて気持ちにゆとりが生まれたのと、イリーネにしごかれている間、私はほとんどお姉様と顔を合わせることはなかったので、きちんと謝りたかったのだ。
お姉様には、三か月前に男児が生まれていた。
あんなにひどい目に遭ったというのに、お姉様は快く私を迎えてくれた。
「今までごめんなさい。私は、ずっとお姉様が羨ましかったんです」
私が謝ると、お姉様はスヤスヤと眠る赤子を抱きながら目をぱちくりとさせた。
「ティアナ……あなた、変わったわね。しっかりしてきたような気がする」
お姉様は感心したように言った。抱いていた赤子を乳母に任せて下がらせ、私と二人きりになってから優雅に紅茶を啜る。
私は、お姉様がティーカップをソーサーに戻すのを待って、再び口を開いた。
「カペル侯爵令嬢のお陰です。お義兄様が頼んでくださったの」
「へえ、あのジークがねぇ。でも、謝るのは私たちのほうだわ。物心つく前から碌な躾もせずに放置したのだから。いずれ困ることになると知りながら、何の対策もしなかったのよ」
「だけど、私は、お姉様からたくさんのものを奪ったわ」
「いいのよ。奪われて困るものは何も渡していないもの。ドレスも宝石もね。お気に入りはちゃんと隠してあったわ」
「……私のせいで婚約も解消になったわ」
すると、お姉様はクスリと笑った。
「覚えてる? あのとき、私が『あなたは誰でも好きな人に嫁げるのよ』って言ったこと」
私はこくりと頷いた。
その言葉が、スキルを暴走させるきっかけだった。のけ者にされたと過剰反応してしまったのだ。
「ティアナに『お姉様が嫁げばいいじゃない』と言われて嬉しかったの。これで好きな人に嫁げるかもしれない、って。だから、あなたにマリウスを押しつけた」
「え?」
「あの頃、私は生徒会で一緒だったジークを密かに慕っていたの。ごめんね、羨ましかったのは私のほうよ。自由で何の責任もなくて、欲しいものを素直に口に出せるティアナがずっと羨ましかった」
「うそ……」
「嘘じゃないわ。だって、ティアナはマリウスと婚約したいなんて一言も言わなかったじゃない。『マリウスのような優しい婚約者』であって、マリウスじゃない。私は彼を譲る必要なんてなかった。そうでしょう?」
想像もしていなかった告白に呆然となる。
私が奪った――――そう思っていたのに。
だけど、お姉様の言葉は真実で、私が欲したのは『優しい婚約者』だ。それも、姉様がただ羨ましかっただけで……あれ?
「それは、そう……かもしれないけど」
混乱した頭で答える。
お姉様が悠然と微笑み、形のよい唇が妖艶に弧を描いた。
――――まさか、ね。
私は、イリーネに初めて会った日の会話をおぼろげながら思い出した。
侯爵の娘として、キープとはいえ未来の王子妃として、幼い頃から厳しい教育を受けていた彼女から「あの優秀なエーリカ様」と呼ばれていたことを。
「ね? 私はひどい女なのよ。生徒会を理由にわざと遅く帰って、あなたとマリウスを二人っきりにしたりもしたわ。恋仲になればいいと思ったけれど、なかなかうまくいかなくて」
「マリウスは、お姉様のことが好きだったのよ」
「それはどうかしらね? 少なくとも婚約中に愛の告白は一度もなかったわ」
「でもお姉様に贈られた宝石は、彼の瞳の色と同じサファイアだったでしょ」
「私の瞳もサファイアなのよ。マリウスは宝石に疎いから、色味の違いなんてわかりっこないわ。ドレスのセンスもいまいちだったし」
「あっ……」
お姉様の瞳もマリウスと同じ色だった。二人ともお祖父様譲りなのだ。マリウスの瞳にばかり気を取られて、今の今まで忘れていた。
「マリウスとは、恋ではなく同志のようなものだったわ。彼は、夫婦で領地を豊かにするのが人生の目標みたいなところがあったから」
「確かによく領地の話をしていたけど、お姉様も楽しそうだったじゃない」
「私もジークに出会う前までは、それでいいと思っていたのよ。あの日は、あと一押しでうまくいきそうだったから、ティアナに『ずるい』と言わせるためにわざと煽ったの」
「じゃあ、お姉様は婚約を解消するために私を利用したってこと?」
「そうなの。ごめんねぇ」
お姉様は、悪いなんて絶対に思っていないであろうシレッとした顔で謝りながら、両手を合わせて私を拝んだ。
この調子では、別の手段をもってしても、遅かれ早かれ二人の縁談は壊れていたに違いない。
なんだ、私の犠牲になったわけではなかったのか。
ホッとしたような、肩の荷が下りたような、そんな気分になった。
いや、でも――――。
「婚約解消になって、悲惨なのはマリウスだけってことね」
「え? それは、ほら、ティアナが頑張って立派な跡取りになれば彼も認めるかな、って」
お姉様がへらへらと笑う。
「それは、ムリよっ‼ 私はやっと『人間』に戻ったばかりだもの。実は、私たち、うまくいってないの」
「ふうん。だったら、無理に結婚しなくてもいいのではないの? 嫁入り先なら、別に貴族でなくてもいいのだし」
私がお茶会でのマリウスの様子を伝えると、お姉様はあっさりと言った。
お姉様も両家が政略結婚する必要性を感じていないのだ。
「でも、これ以上、我がまま言うのも気が引けて、婚約解消するにしてもどうしたらいいのか……」
「それ、悩むこと? 今さら……じゃないかしら」
これまで我がまま三昧だった私の悩みを意外に思ったのか、お姉様はどこか釈然としない表情で呟いたのだった。
その直後、扉がノックされ、お義兄様が顔を覗かせた。
「ごめん、エーリカ。さっきからアルがむずがっちゃって、泣き止まないんだ」
「あら、さっき寝入ったばかりだったのに。すぐ行くわ」
二人の息子のアルフレートは、乳母があやしても落ち着かずに手を焼くことが度々あるらしい。お姉様が慣れた様子で足早に部屋を出て行ったので、そろそろお暇することにした。
帰り際に「出仕試験を受けたんだって?」とお義兄様が尋ねるので「ええ」と返した。お姉様には伝えていないから、イリーネ経由で知ったのだろう。
魔導省を希望していることを告げると「いい選択だ」と賛同された。
「僕は、君の味方だよ」
「お姉様と結婚できたからですか?」
「はは、それもある。だけど、エーリカの血縁が問題児のままじゃ、この先、何があるかわからないからね。不安要素は、排除する主義なんだ。親友の妹が運よく『結界』持ちで助かったよ。でなけりゃ、修道院へ入れるところだった」
笑顔で平然と言われて、ぞっとする。
この目は本気だ。
お義兄様は、妻を愛しすぎているだけなのだ。お姉様に害を及ぼすと判断した者を、今後も密かに排除していくに違いない。
本当に、イリーネと出会えてよかった。
うん、命拾いしたと思う。
魔導省から採用通知が届いた頃、私は決意した。
よーし、やったるか! と気合を入れる。
「本当にやるの?! もう少し、考えたほうがいいんじゃないの」
イリーネには何度も止められたけれど、私はほかに方法を知らない。
※※※
卒業を十日後に控えた早春の昼下がり、私とマリウスはいつものように庭のテラスでお茶を飲んでいた。
ミモザが花をつけていた。けれど、その可憐さには触れもせず、ただ静かな時間が流れた。
「ごめん、卒業式まで王都にいられそうにないんだ。領地で少々、問題が発生してね。明日にはここを発たねばならない」
マリウスが切り出した。
学園の卒業式の後には、生徒会が主催する卒業生だけのパーティーがある。婚約者がいれば参加できるため、マリウスがエスコートする予定だった。それが、今、なくなったわけだ。
「ううっ……ひどい……ひどいわ!」
私は泣き出した。泣く理由は何でもよかった。
「ティアナ……?」
マリウスの顔がスッと青ざめるのがわかった。月に一度しか会わなくても「こちらも忙しいから」と文句ひとつ言わなかったから、油断していたのだろう。振り向き、侍女の顔を見る。
侍女は暗黙の了解で、両親を呼びに踵を返した。
「ひどいわっ、いつも私をほったらかしなくせに、卒業パーティーまですっぽかすなんて、ひどいっ!」
「ティアナ、わざとじゃない。本当に……」
「ううっ……婚約破棄よっ! 私はマリウスとは結婚しないっ……うわわぁーん!」
マリウスが宥めようとするのを無視して、わめいた。
嘘泣きなので『ガン泣き』は発動していないのだが、三年前に部屋が崩壊していくのを見たマリウスは平常心を失っている。
「テ、ティアナ、とにかく落ち着いてくれ」
「結婚なんてしないっ……絶対にしないわ!」
泣き叫んでいるところへ両親がやって来た。二人とも顔面蒼白でアタフタしている。いつも私を宥めるお姉様がいないので、どうしたらいいのかわからないのだ。
「うわわぁーん!」
私は、ここぞとばかりに大きな声を張り上げた。ついでに彼らが顔を見合わせている隙をついて、こっそりと手を伸ばしてティーカップをガチャンと割った。
「わ、わかった! 婚約を解消しよう」
マリウスが言った。
しかし、これだけでは終われない。
「うわわぁーん! 家なんて継ぎたくないっ。マリウスが当主になればいいのよっ」
「で、でも、それだとティアナが」とお父様が言いよどむ。
「私は、家を出るわ……ずっとこの家にいるなんて嫌よっ! うわわーん!」
これは譲れないことなので、はっきりと言う。
マリウスには、クラッセン伯爵として真っ当な人生を歩んでほしい。
両家を併せた財産はかなりのものだし、マリウスに瑕疵はないので、美しく聡明なご令嬢と結婚できるはずだ。
「わかった、わかったから! 次期当主はマリウス君を指名する」
「そ、そうよ、ティアナ落ち着いて。む、無理に結婚しなくてもいいのよ?」
お母様は、お父様にしがみついてブルブルと震えている。
「グズッ……グズッ、本当?」
私が最終確認すると、三人は一様にコクコクと頷いた。
「本当だとも。すぐに書類を整えよう」
そのあと、大急ぎでお父様は、私たちの婚約解消と次期当主の指名を正式な書面にして、叔父様のもとへすっ飛んでいった。ぐずぐずして私の『ガン泣き』が発動するのが怖かったのだろう。
叔父様としては、息子が当主だろうが入り婿だろうがどちらでもよかったので、翌日、マリウスが領地へ出発する前には話がついた。
私は、あっけなく自由の身になった。
皆を騙したことに罪悪感はある。だけど、今さらだ。
そう、今さら。お姉様に会って、そのことに気づいた。
私は、ずっとこうやって、自分の我がままを通してきた。なのに、最後にいい人で終わろうとしたから、うじうじと悩んでしまった。
憎まれてもいい。悪役は、悪役のまま退場することにしたのだ。
ごめんなさい、これが最後の我がままだから――――。
領地の一部を任せていた代官の不正が発覚したとマリウスの報告を受けて、数日後には両親も領地へ向かうことになった。
「さようなら」
走り去った馬車に頭を下げていたことを知る者は、誰もいないだろう。
私は、卒業式の翌日にひっそりと家を出た。荷物はトランク一つだけ。両親宛の手紙を残して。
魔導省の官舎に住むことにした私は、毎日が新鮮だった。
自分の身の回りのことを自分ですること。
自分の稼いだお金で生活すること。
料理人ではなく自分で作った食事を摂り、侍女ではなく自分で淹れたお茶を飲む。街で買い物をする。洗濯をする。
自分の足で立っている実感があった。
最初は失敗ばかりだったけれど、知らないことは素直に「教えてください」と頭を下げれば、大抵の人は親切にしてくれるものだ。
私はそれを学園生活で学んだ。
仕事は大変だけれど楽しい。
世の中には、いろいろなスキルがある。『ガン泣き』は、やっぱり稀なスキルで、過去には城を全壊させた者もいたらしい。
もし私が、そこまでの強い力を発揮していたなら、間違いなく災害級の危険人物として、保護という名の幽閉になっていた。
ここは、スキルを研究するだけでなく、国に害を及ぼさないように監視する役割を担う省でもある。
全員がスキルを持っていて、様々な情報が集まる場所なだけに相談もしやすい。『ガン泣き』が完全にコントロールできるスキルではない以上、お義兄様の言う通り「いい選択」なのだと思う。
イリーネとは卒業以来会っていない。
念願の国防局勤めで忙しいだろうし、私は家を出るときに除籍してほしいと手紙に書いたので、もう平民だ。
侯爵令嬢に気軽に声をかけられる身分ではないのだ。
でも、時どき、手紙をやり取りする。
社交界では、『我がまま令嬢が落ちぶれた』との噂が流れた。貴族令嬢が家を出て、一般職の安月給で生活するというのはそういうことだ。
姉から奪った婚約者を一方的に捨てるという私の身勝手さに呆れ、皆がマリウスに同情した。
姉を蔑ろにしてすべてを奪った妹は、天罰が下って不幸になりました――――それが世間から見た私の結末だ。
だから反対したのに、とイリーネの手紙に綴られていた。
貴族令嬢としては傷ものだけど、社交界とは無縁になったので気にしていない。これでよかったのだ。
受験でお世話になったエーリヒは、見事に難関試験を潜り抜け財務省に入った。
ずっと会っていなかったけれど、予算申請の手続きで財務課に足を運んだ際に、係長をしていたエーリヒに偶然再会した。
「わぁ、入省一年目から係長なんて、すごい!」
私はもちろん一番下っ端だ。魔導省はちょっと特殊で研究員の立場が強いので、一般職の私が役職に就く可能性はほとんどない。
「相変わらずだね、君は」
私の率直な物言いに呆れながらも、エーリヒは照れくさそうに笑った。
以来、時どき、食事に行く。
彼は高給取りなので、安月給の私におごってくれるのだ。
とても親切な人である。
※※※
なんだかんだと充実した日々を送っているうちに、私は二十歳になっていた。家を出て二年になる。
二十歳といえば、貴族令嬢の結婚適齢期、最後の年である。貴族は王立学園に入学する義務があるので、在学中に相手を探して卒業と同時に結婚するか、婚約して遅くとも二十歳くらいまでには入籍するのが流れだ。
そのギリギリセーフのタイミングで、イリーネから結婚式の招待状が届いた。
『絶対に来てよね!』と追記された便箋を手に、私は出席するべきか悩んだ。
「断れないだろう。まさか君、カペル侯爵家に逆らうの?」
エーリヒが、ビールを片手にケラケラと笑う。
彼は、男爵家の人なのに大衆酒場にも通う。気取りがないのだ。
今日は、私のおごりで相談に乗ってもらっているのだが……。
「うっ……それは……」
相談するまでもないことだった。
出席するしか選択肢がないのに、わざわざエーリヒに話を聞いてもらっている理由。それはイリーネの結婚相手が、あのマリウスなのだ。
気まずいし、結婚式では両親に会うことになる。除籍した娘に興味がないのか、それとも私の『ガン泣き』がよほど怖かったのか、この二年間、連絡はない。
「いいきっかけだと思うけどね。こんなことでもなけりゃ、自分からは会いに行かないだろう」
「それはそうなんだけど……よりにもよって、どうしてあの二人が?!」
接点なんてあったかしら? と、私は頭を抱えた。
しかし、よくよく考えれば、イリーネは侯爵令嬢として淑女教育も受けているし、学業も優秀で王子妃候補だっただけあって政策にも詳しい。マリウスの理想の相手ともいえる。四歳違いで年回りもちょうどいい。
それにカペル家だって、このままイリーネを出仕させて行き遅れにするより、格下の伯爵家でもいいから嫁がせたいと思うはず。
「考えてもしょうがないよ。こうなったら覚悟を決めるしかないね」
「げっ……」
エーリヒの言うことは尤もなのだった。
「元クラスメイトのよしみで僕も招待されてる。よかったら一緒に行く?」
私にできるのは、そのありがたいお誘いを受けることだけだった。
結婚式の日、挙式前に花嫁の控室に呼び出されたので入室すると、イリーネがパッと顔を輝かせた。
「やっと、顔を見せてくれたわね!」
私が「結婚おめでとう」と言った直後、イリーネに抱きつかれる。
繊細なレースがあしらわれたウェディングドレスを壊さないように、そっと親友の背中に腕を回した。
「ふふ、一生働こうと思ってたのに、こんなことになっちゃった。でも幸せよ。ティアナのお陰ね。さ、マリウスのところにも行ってあげて」
わけがわからず戸惑っている間に、とっとと控室を追い出される。
挙式前の花嫁は何かと忙しいのだ。
だけど、私たちが二人きりで話せるとしたら、今だけだったのだろう。
部屋を出るとき、扉の外で待っていたエーリヒに「ティアナを連れてきてくれてありがとう」という声が投げかけられた。
「どういうこと?」とエーリヒに尋ねると「さあ?」と首をすくめた。
「たぶん、僕はオマケで招待されたんだろうね。君一人じゃ絶対に参列しないと思って」
「なるほど」
まだ式まで時間があるので、その足で新郎の控室へ向かう。
足取りは重いけれど、イリーネに行けと言われれば行くしかない。きっとそれを伝えるために、私を控室に呼んだのだ。
エーリヒがいてくれてよかった。隣にいてくれるだけで、不思議と心強い。
恐る恐る扉をノックして中へ入ると、マリウスは、私の憂鬱を吹き飛ばすようなキラキラとした笑顔だった。
「やあ、待ってたよ」
「えっと……ご結婚おめでとうございます」
婚約中のうつろな瞳とは違う。何があったのかとびっくりしながら私は祝いの言葉を述べた。
「イリーネと出会えたのは、ティアナのお陰だよ。お礼を言いたくて」
「私のお陰?」
縁結びをした覚えはないのだけれど。
「ティアナが家を出た後、イリーネが訪ねて来たんだよ。そこで初めて、彼女がボーデ伯爵の依頼でティアナを調教……いや、教育していたことと、君がわざと破談にして家を出たことを知ったんだ」
「えっ」
「皆のために悪役を演じただけだから、誤解しないでやってくれって。醜聞になるとわかっていたのに止められなかったと頭を下げられてね。それから親しくなったんだ」
家を出た直後、両親は私を連れ戻そうとしたらしい。けれど、イリーネに説得されて、娘が真剣に考えて決めたことならばと静観することにしたという。
勤め先が魔導省だったことも幸いした。たとえ『ガン泣き』が発動しても、研究員がいるので対処できるだろうというわけだ。
「イリーネ……」
お礼を言うのは私のほうだ。彼女は何度も反対した。なのに、言うことを聞かなかった私のために、頭まで下げてくれたのだ。
頬に温かいものが伝った。慌てて涙を拭う。
「それから、君は除籍されていないよ。ティアナは、これからもずっとクラッセン家の娘だ。僕が当主になっても、それは変わらないよ」
私が泣いてしまったというのに、マリウスは落ち着いていた。ポケットからハンカチを取り出して差し出す。
「それは花嫁の涙を拭うためのものでしょ」と私が断るとマリウスが「いいさ」と微笑んだ。
「このあとの晩餐会に出席してくれるならね。もちろん、部屋の外で待ってる彼も一緒に。伯父上たちも楽しみにしているよ」
マリウスとイリーネの挙式は無事に執り行われ、花嫁の涙は花婿のキスによって拭われた。
参列者たちによる祝福のライスシャワーと拍手に包まれた和やかな式であった。
私とエーリヒは晩餐会に出席した。
「なんか僕、場違いじゃない?」なんて恐縮しながらコソコソと耳打ちしていたけれど、エーリヒは両親だけでなく、お姉様たちからも歓迎された。
私を除籍しなかったのなら、我が家の問題児の暮らしぶりをあのお義兄さまや家長のお父様が監視していないはずはない。きっと、日頃からエーリヒの世話になっていることを皆は知っているのだろう。
「あなたって子は、心配かけて……」
私は両親に泣かれた。
お母様の涙を初めて見た。いつもは私が泣く側だったから。
私は、ごめんなさいと謝ることしかできなかった。
両親は家に戻ってくることを望んでいたけれど、私は帰らなかった。
二人の結婚を機に、両親は今後、一年の大半を領地で暮らすことになる。新婚の邪魔はしたくないし、気楽な今の生活が気に入っているのだ。
その後も、私の魔導省勤めは続いている。
ただ、実家やボーデ伯爵邸には、ちょくちょく顔を出すようになった。
マリウスとイリーネは仲のいい夫婦だし、お姉様は、最近、第二子の妊娠がわかってお義兄様が大喜びしている。
そして、高給取りのエーリヒには、相変わらずご馳走になっている。
「近々、課長に昇進するらしい」
さすが『計算』スキルを持つエリート。昇進が早い。
入省して三年だが、私は一度も昇進していない。給料は少しだけ上がったけど。
「わぁ、いいな。おめでとう! ここは私がおごるわね」
私は、目の前の高級ステーキを、貴族の娘らしくお上品にナイフで切り分けながら気前よく言った。
「いや、いい。君の給料じゃ無理だろう」
涼しい顔をして、なかなか痛いところを突いてくる。いちおう、貯金はあるから無理ではないと思うのだけれど。
「じゃあ、お祝いの希望はある?」
仕方がないので訊いてみる。
するとエーリヒは「お祝いというわけではないけど」と口ごもった。
「……しないか」
「ん?」
「結婚しないか?」
『追加で何か注文しないか』みたいな、平坦な口調で求婚するものだから、私は危うく口に含んだワインを吹き出すところだった。
「でも私、姉の婚約者を奪ったうえに破談になった傷ものよ。社交界で噂になったの、知ってるでしょう? マイヤー男爵が反対なさるわ」
「僕はただの文官だから、社交界の噂なんて気にしないよ。今さら舞踏会に行くわけじゃないし。それに父の了承は取ってある。むしろ伯爵家の令嬢だから身分違いじゃないかと恐縮していたよ」
「ええっ、こちらは嫁のもらい手がないって諦めてたのに?」
「君は自分の価値をわかっていないね。今のクラッセン家は、ボーデ家とカペル家と縁続きなんだよ」
「ああ、なるほど。マイヤー家も彼らと縁を持ちたいということね」
プロポーズ直後とは思えない、色気のない会話である。
でも、そういうことなら納得できる。イリーネの実家のカペル家もお義兄様のボーデ家も名門なのだ。
つまりこれは、政略結婚の一環で……と考えを巡らせていると「違うよ」とエーリヒが否定した。
「僕は好きでもない人に求婚はしない。君のご両親も『好きな人と結婚させたい』とおっしゃっていたよ」
「っ……!」
エーリヒはお父様にもプロポーズの許可を得ていた。淡々と話しているけれど本気なのだ。
そう思うと、途端に心臓がドキドキと音を立て始め落ち着かなくなる。
「最初は、おかしなご令嬢だと思ったんだ。泣き虫で天真爛漫だし、イリーネ嬢に叱られてばかりでさ。なんとなく放っておけなくて、図書室で声をかけたんだ。まさか本当に出仕するとは思わなかったけどね。君は頑張ったよ。一緒にいるうちに、気づいたら好きになってた」
「わ、私は結婚しても、仕事は辞めないわよ?」
「いいよ。通いの家政婦に来てもらうから」
「しょ、食事くらいは作れるわ。だから心配無用よ」
最初から家事など期待されていないと思う。だけど、冷静ではいられなくて自分でもよくわからないことを口走った。
それを聞いたエーリヒが、蕩けるような笑みを浮かべた。
「それは楽しみだね」
私は、いつの間にか結婚を了承していたことに気づいたけれど、かと言って、今さらそれを覆す理由も見当たらないのだった。
結局、私もエーリヒのことが好きなのだ。
後日、両家の間で婚約が調い、エーリヒからエメラルドの指輪が贈られた。
サファイアでもアクアマリンでもない彼の瞳と同じ緑色の宝石は、赤毛の私によく似合っている。
「素敵だわ」
これは、我がままで手に入れたのではない。たった一つの宝物だ。
――――君は頑張った。
エーリヒはそう言ってくれた。
たとえ、この先の昇進が絶望的でも、誰かに認められるのは嬉しい。
私は、勲章をもらったような気分になって、うっとりと自分の薬指にはまるエメラルドを見つめたのだった。
読んでくださり、ありがとうございました。
評価&誤字脱字報告、ありがとうございます。今後の励みになります。
4/29 日間総合ランキング2位をいただきました。