第7回
「なあ。藤村。もう書いたか,進路希望の紙?」
「いや。机の中かどっかに眠ってる。」
夕陽が差し込む英語科教室。僕たちは,いつものように何をするでもなく,持ち込んだパソコンや携帯の画面を眺めていた。
藤村と作った「アニメ特撮同好会」には,特に決まった活動はない。時々買い物に行ったり,イベントに参加したり,とにかくゆるい感じでやっている。そのうち同人誌でも作ろうか,なんて話してるけど,全然具体的な話じゃない。まして受験する学校なんてまだ現実味がない。
「そうか。でも,そろそろ出さなきゃまずいよな。」
「ああ。前回,うちのクラス,あまりに『未定』が多くて,先生,職員室で気まずかったみたいだし。」
特進クラスを除くクラスは,1年次の成績で生徒が均等に割り振られたはずだった。それが,どういうわけか,うちのクラスに,進路に対して意識の低い生徒が集まってしまったようだ。模試を受ける人数も学年で最低だと,学年主任の永田先生も言ってた。
「藤村,お前どうすんの?やっぱり東大とか…。」
前から気になっていたから,いい機会だとばかりに訊いてみた。藤村は,その気になれば特進でもトップになれる頭を持ってる。でも,「ガラじゃない」と言って,入るのを希望しなかった。
「まあ,そう書いておけば,親も何も言わないからな。でも,少なくとも…。」
そう言った藤村は,顔を上げて,僕の反応をうかがうように,ゆっくりと続けた。
「東京を離れたくないな。」
同じだった。東京,特にあの街では,まだまだ面白いことが起こりそうな気がするから。
「そうだな。このまま…。」
そう言いかけた時だった。慌ただしく靴音が近づいて,ドアが乱暴に開けられた。
「お,おい…たいへんだぞ…アリスちゃんが…。」
彰だった。息も絶え絶え,という様子で中に入って,近くの壁にもたれた。
「何だよ?今度は,何があったって言うんだ?」
いつものこと,という感じで,僕たちは,適当に流そうとした。でも,彰は,いつになく真剣な表情で答えた。
「誰かチクったらしい。ふ…風俗で…働いてる,って。今,教頭と永田が話してて…これから職員会議が…。」
いきなりだったから,僕と藤村は顔を見合わせて,ちょっと考えた。それから,どちらからともなく彰に視線を戻した。
「風俗って,もしかして…。」
「ああ。メイド・カフェのことか?」
藤村も同じことを思いついたようだった。いまだにメイド・カフェがどんなものかわからなくて,風俗やキャバクラと区別できない人もいるみたいだ。僕は,ほっとして言った。
「だったら,問題ないだろ。今から行って,永田先生に事情を…。」
「新宿…だって。」
「え…?」
彰の言葉に遮られて,僕はまた藤村のほうを見た。藤村は,視線を泳がせるようにして考え込んでいた。『新宿にメイド・カフェってあったけ?』唇がそう動いた気がした。
「あ。みなさん。ここにいらしたんですねっ。」
「あっ!先生っ!」
彰の後ろから顔をのぞかせたのは,話題の人物−龍ヶ峰先生だった。彰が,勢い込んで質問を浴びせた。
「何やってるんすか?今,たいへんなことに…っていうか,アリスちゃん,最近怪しい場所に出入りしてたりとか…?」
「怪しい場所って?あ。廃墟ですかぁ?」
先生は,いつもの脱力を誘うような調子で答えた。僕は,ストレートに訊くことにした。「その…新宿で,良くない店とかに…。」
「新宿ですかぁ。あ。そうですっ。昨日,新宿で道に迷って,交番に入ったんですよぉ。そしたら,そこのお巡りさん,すっごく柄が悪くて,わたしのことジロジロ見て,すごく感じが悪くて…。」
「先生…。もしかして,それ,交番じゃなくて…。」
僕の頭の中に,街角で見かけるけばけばしい看板が浮かんできた。
「『案内所』ってヤツじゃ…。」
「えーっ。それヤバイって,アリスちゃん。」
彰の爆笑を背に,僕は駆け出していた。階段を下ろうとして,一度振り返って,藤村に声をかけた。
「永田先生に説明してくる。後を頼む。」
端から見たら,気色悪いことになってたかもしれない。笑いがこみ上げるのを抑えられなかった。でも,気にしないで,走り続ける。こんな日々がずっと続いてほしいと思ってた。
〜 めいせん 第7回 『 萌軍、暁の出撃 』 〜
「あっ。エリナさん。お疲れさまです。」
「あ。洋司君。こんにちは。」
日曜日の昼下がり。秋葉原の中央通りで,エリナさんは,驚きながらも笑顔を見せた。
「偶然ですね。ビラ配りですか?」
ウソだった。僕は,その前に一度店に寄っていた。そのとき他のメイドさんにエリナさんがビラを配りに行ってる,と聞いて,場所の見当をつけて来たのだった。
「はい。新しいビラができたんです。洋司君もよかったら1枚どうぞ。」
「あ。どうも。」
ピンクを基調とした紙には,エリナさんを含む数人のメイドさんの写真とメニューの紹介があった。以前と変わっているのは,店の営業時間だった。週末に深夜営業を始めることを伝えるのが目的らしかった。
ビラから視線を上げて,行き交う人にビラを手渡すエリナさんの横顔を見た。精一杯の笑顔だったけど,どことなく疲れを隠しきれない感じだった。
それも無理はなかった。ここ数週間「卒業ラッシュ」で,多くのメイドさんが店を去っていた。大学生のバイトということで,卒業旅行と社会人になる準備に入るためだろう。
僕は,心配になって,人波が途切れるのを待って訊いてみた。
「エリナさん。疲れてるんじゃないですか。」
「そんなことないですよ。」
返ってきたのは,いつもの笑顔だった。でも,やっぱり無理しているように見えた。
「ビラ配りなら,新人さんに任せてもいいと思いますが。」
「そうですね。でも…。」
そう言って,エリナさんは,ちょっと周囲を見回して続けた。
「今は,あの頃と違って,ビラを配る場所とかも注意しないと,禁止の場所が増えてるから…。」
そうだった。僕は,歩道の向こうに視線を移す。歩行者天国が「再開」された大通りには,春の日差しが降り注いで,一見のどかに見えた。でも,コスプレも,パフォーマンスもなくて,淡々と人々が行き過ぎる光景は,明らかに「あの頃」とは違っていた。
僕は,ため息を吐き出した。
「そうか。この街も,ずいぶん変わりましたよね。」
「ね。ホコ天だけじゃなくて,なくなる店もあれば,新しくできたお店もあったりして。あまり気にしてないけど,よく見れば,この街もかなり変わってるんでしょうね。」
以前見たテレビ番組の秋葉原特集の回を思い出した。その中で,パーソナリティーは,変わり続ける秋葉原を,「振り返らない街」と呼んでいた。
「洋司君。わたしね…。」
気づくと,エリナさんは,仕事を中断して,僕の隣で手すりにもたれていた。
「なんにも考えないで,東京に出てきたんだ。地元は田舎で,高校まで近くに自分と同じ感覚だって思える人がいなかったから。」
「はい。」
いきなり身の上話をされて,戸惑ったけど,とりあえず相づちを打った。エリナさんは,言葉を選ぶようにして続けた。僕があまり驚いた様子を見せないのに安心したみたいだった。
「東京に来ればなんとかなる,なんて安易だったけど,でも,本当に来てよかった。」
「はい。」
「だって,たくさんの人が,お店でわたしと一緒に写真を撮ったり,ブログを更新すればいっぱいコメントしてくれたり…。田舎にいたら,こんなの考えられないでしょ。」
「そ,それは,そうですね。」
ぎこちない反応だったけど,エリナさんは気にならないようだった。
「でも,先輩たちが続けて卒業したりして…さみしいこともあって…。」
「はい。」
「楽しければ楽しいほど,終わりがあることを強く意識しちゃうようになって…。ほんとマイナス思考だよね,わたし。」
「え?そ,そんなことは…。」
僕は,言葉につまってしまった。すると,エリナさんは,僕と視線を合わせずに,声を潜めるようにして言った。
「実はね,お母さんに言われたんだ。地元に戻るようにって。最近お兄ちゃんが結婚して家を出たりしたから,さみしくなったこともあるみたいだけど。」
心臓が強く脈打つのがわかった。普通に考えれば,メイドという仕事は,長く続けられるものじゃない。実際,他のメイドさんの「卒業式」に出たりすると,「いつかは…」なんて思ったりもした。でも,できるだけ考えないようにしてきたことだった。
エリナさんがどう答えたのか知りたかった。一瞬でも早く聞きたいと思った。それをとどまらせたのは,恐怖だった。エリナさんと会えなくなることを想像したら,口が開かなくなっていた。
気まずい沈黙が生まれた。通り過ぎる人たちが,僕たちを不思議そうに眺めていく。
ふと僕は,エリナさんが訊いてほしがってるのかもしれない,と思った。理由なんてないけど,それを訊くことが,ここまで聞いた者の責任だと感じたりもした。
僕は,声がうわずったりしないように祈りながら,ゆっくり言葉を押し出した。
「あの…で,どう答えたんですか,お母さんに。」
「帰らない,って答えたよ。」
エリナさんは,はっきりした口調で答えた。その言葉に表情がゆるむのが,自分でもわかった。胸の奥から自然に息が漏れ出してくる。
「そうですか…。それは…。」
「ずっと自分を押し殺して生きていくなんて,もうできないし。だからね…。」
軽く微笑んだエリナさんは,今度は僕のほうをしっかりと見て続けた。
「やれるまでやってみようって思うの。そのうちきっと年齢的にメイド服が似合わなくなって,『痛い』とか言われちゃうかもしれないけど,でも,自分が納得いくまでやってみようって。」
明るく見え始めた風景が,また翳っていくように感じた。複雑だった。エリナさんに会えなくなることが先延ばしになったのは,もちろんうれしい。だけど,メイドを続けるということは,恋愛をしないということでもある。
エリナさんは,誰かに誓いを立てたかっただけなのかもしれない。でも,僕にとってそれは遠回しにフラれたことと同じだった。
また言葉が出てこない。気まずさを紛らわすように,僕らを取り囲んだ街並みを,もう一度見回した。僕の視線は,ゆっくりと移動して,ふと通りの向こうの光景に留まった。「間違い探し」で答えを見つけたときのようだった。先週来たときには工事中だったビルの前に長い列ができているのに気づいた。
そう。すべては変わっていく。考えてみれば,アキバに通い始めてから1年以上が過ぎていた。それが長いか短いかはわからない。でも,確実に時間は流れて,状況は変わっている。
僕は,エリナさんに向き直って,できる限りの笑顔を作って応えた。
「わかりました。見届けさせてもらいますよ。」
「安原君。よかったぁ。ここにいたんですね。探しちゃいましたっ。」
ジュースの自販機前のベンチでぼんやりしていたら,後ろから声をかけられた。振り向かなくても,すぐに誰かわかった。
「先生。何かありましたか?」
「今日は,おひとりなんですね。」
「ええ。藤村たちは,バイトがあって。」
他にすることもなく,アキバに行くまで時間をつぶそうとしていた。先生は,僕の隣に腰掛けると,うれしそうに笑顔を見せた。
「進路希望のことなんですが…。」
「すいません。なかなか決められなくて…。」
ここに来る前,先生の机の上に用紙を置いてきた。締め切りを過ぎてたから,学校名なしでとりあえず学部だけ書いておいた。
「いいえ。学部が決まっただけでも,大きな進歩ですよぉ。でも,どうして経営学部なんですかぁ?」
ちょっと戸惑った。成り行きで「二者懇談」が始まっていた。思えば,先生と真面目に進路の話をするのは初めてだった。
「まあ,経営とか,面白いかもと思って…。」
「あっ。もしかして…。」
先生は,何か思い当たったように目を輝かせた。
「カフェの経営ですねっ。うん。いいと思いますっ。」
「ええと…あの…カフェというか…。」
「はいっ。」
先生は,前のめりになって,僕の言葉を待っていた。自分のことのように,いや,それ以上にうれしそうな表情を見ていたら,正直な気持ちを話す気になった。
「まだよく考えてないんですが…。カフェに限らず,なんていうか,ヲタクな人とか,サブカル好きとか,他に居場所がない人が集まれる店ができたらな,って…。」
「うん。すてきなお店になりそうですねっ。安原君なら,そういう皆さんの気持ちがわかりますから,きっとうまくいきますよ。」
「でも…。」
プラス思考な励ましはありがたかったけど,僕は,抱えていた不安を口に出してみた。
「自信がないんです。本当にやっていけるのかって。」
「大丈夫ですよぉ。これから大学でいっぱい勉強すれば…。」
「そういうことじゃないんです。心配なのは…。」
僕は,思い出したようにコーヒーの缶を手に取った。先生が,体勢を戻して,背筋を伸ばした。聞く側に徹することに決めたみたいだった。僕は,一口飲んでから続けた。
「ずっと店を続けられるか,ってことなんです。それは,言い換えると…僕と同年代のヲタクが,オジサンになってもヲタクを続けるかどうか,ってことだと思うんですけど。」
少し前に彰の親父さんと,ヲタク文化について話したことがあった。僕たちは,同じメイド・カフェの常連で,イベントのため店が込み合って,入店待ちで並んでいたときだった。僕は,なぜ彼の年代にヲタクが多いのか尋ねてみた。すると,彼は,戸惑いながらも,自分の若い頃のことを話してくれた。
「ヲタクを続ける人って,学生時代,特に高校までがおもしろくなくて,いくつになっても学校を連想させるものから抜けられないみたいですよね。実際,『学校』をキーワードにしたアイドルグループがいたり,それに,アキバに店を持ってる人が『学園祭ビジネス』なんて言葉をインタビューで使ってるのを見たこともあります。」
アキバに集まる人たち。理由は様々だと思うけど,でも,どこかに楽しめなかった学校生活を「やり直し」たいという気持ちがあるような気がする。それに,ずっと少数派で,差別されたような感覚があったから,余計に自分の好きなことにのめり込むようになった。
彰の親父さんは,そんな風に言っていた。
「でも,昔ほど受験とか学歴とか騒がれなくなってますし,最近,学校でアイドルを好きって言うのが恥ずかしくなくなったり。状況は,ずいぶん違うと思うんです。みんなそれなりに学校生活を楽しんでいるみたいで。」
先生は,黙ってうなずきながら聞いていた。薄暗くなってきたのを意識して,僕は時計に目をやる。そして,立ち上がって,先生に背を向けた。
「実際,僕や藤村だって…。」
学校が楽しくなった,とは言いたくなかった。あまりに照れくさいから。だから,これだけ付け加えた。
「とにかく,それは,先生のせいかもしれないんですよ。」
「えっ!?辞表?」
「しっ!声が大きい。」
思わず大声を出した僕を,永田先生がたしなめた。学年主任は,突然の出来事に言葉を失っている僕と藤村に,声をひそめるようにして言った。
「誰にも言うなよ。まだ管理職にも話していないんだから。」
先生が辞表を出した。
その日,代わりに朝のホームルームを担当した永田先生は,連絡が終わると,僕たちをつかまえて何か知っていないかと尋ねた。
辞表は,永田先生が出勤すると,机の上に置いてあった。文面は,お決まりの「一身上の都合」だし,電話しても留守電で,まったく事情がわからないという。
何も聞いてなかった。僕の頭に,先生の照れ笑いと,一瞬だけ見せたさみしそうな表情がフラッシュバックした。あの「二者懇談」の終わり,別れ際のときのことだ。
僕たちは,首を横に振るばかりだった。
「そうか。悪かったな。」
永田先生は,しばらく僕たちの態度から何か読みとろうとしていた。でも,嘘はついていないとわかったのだろう。
「何かわかったら,必ず知らせてくれ。」
そう言って教室を出ていった。
残された僕と藤村は,顔を見合わせた。先に口を開いたのは藤村のほうだった。
「安原。最近何か変わったことはないか?」
「変わったことというか…。」
僕は,前の晩のことを思い出して答えた。
「ゆうべ帰ったら,宅急便が届いてて,先生からだったんだけど。前に貸してた『三国志』を返そうとしただけみたいだな。」
「マンガか…。で,手紙とか入ってなかったか?」
「うん。でも,メモ程度に『ありがとうございました。勉強になりました。』って,それだけだ。」
頭をひねるしかなかった。学校で返せば済むこと,と言えばそれまでだけど,そのくらいなら完全に「想定内」と言えた。これまで先生が行ってきた数々の奇行に比べれば。
そのときだった。
ポケットの中の携帯が震えて,メール着信を告げた。取り出してみると,エリナさんからだった。学校のある時間にエリナさんがメールしてくることはなかった。胸騒ぎがして,慌てて開いてみた。
「…これじゃないか?」
僕は,液晶画面を藤村の顔に近づけながら言った。
「これ,先生がいなくなったことと無関係じゃないよな?」
「ああ。たぶんな。」
藤村は,眉間にしわを寄せてうなずいた。
そこには,ミチさんが車にはねられて病院に運ばれた,と書いてあった。
「あそこだ。」
僕と藤村は,夜の路地を,回転灯の赤い光を目指して急いでいた。
ミチさんの見舞いからの帰り,アキバに寄った僕たちは,救急車のサイレンに反応して,思わず駆け出した。なんともいえない嫌な予感がしていた。
というのも,ミチさんが入院したのが,単なる事故だと言い切れない部分があったからだった。ミチさんは,いきなり通りに飛び出して,走ってきた車にはねられた。それが,目撃者の話では,誰かに追われている様子だったという。シャールさんの紹介で,メイドとしてアキバに復帰した矢先のことだった。
「遅かったか。」
救急車が近づいてきた。僕たちは,走るのを止め,惰性で歩き始めた。救急車は,僕たちとすれ違うと,スピードを上げて遠ざかって行った。
「とにかくあそこまで行ってみよう。」
僕は,息を切らしながら,藤村に声をかけた。暗がりに救急車を見送っている人だかりが見えた。
「アランさん。」
人混みの中に知っている顔があった。僕たちは,とりあえず状況を知ろうとして近づいた。相手も僕たちに気づいて,軽く手を挙げた。
「ああ。安原君に,藤村君だったね。」
アランさんは,ギャルソン・カフェ「フリージア」に勤めている。シャールさんがいないときは,代わって店を仕切る、副店長のような存在だった。
僕たちが前に立つと,アランさんは,疲れた笑みを見せてから,悔しそうに言った。
「またやられたよ。」
「じゃあ,被害者は…。」
「ああ。メイドだよ。」
予感は的中した。アランさんは,苦り切った顔で,この数日間に起こったことを教えてくれた。
メイドさんやギャルソンさん,レイヤー,ヲタクなどが何者かに襲撃を受けて,次々に病院に運ばれた。いきなり背後から複数の人間に殴られたのが原因だった。アランさんたちは,自主的に見回りを始めたけど,場所がアキバから池袋や中野に移って,対応できなくなっていた。そして,またアキバで事件。アランさんたちも警察も,裏をかかれた形になったみたいだった。
「ヲタク文化に憎しみを持った者の犯行なんでしょうか?」
藤村がアランさんに訊いた。手には,アニメキャラの携帯ストラップが握られていた。壊れて近くの地面に落ちていたものだった。
「まだ断定はできない。でも,少なくとも,今のところ,被害者はヲタクやアキバで働いてる人ばかりだ。」
僕は,病室に横たわるミチさんの姿を思い出していた。後頭部を殴られたミチさんは,意識が戻らなくて,何本ものチューブで医療器具につながれていた。
数年前,嫉妬心から大きな悲劇を生んでしまったミチさん。罪を隠してるあいだも,ずっと自分を責め続けていたはずだ。そして,もう一度あの頃と同じ仕事をすることにも,想像できないほどのつらさがあっただろう。でも,本気で変わろうとしていたから,耐えることができた。それを思うと,本当にやりきれない気持ちだった。
「アランさん。シャールさんは,今どうしてるんですか?」
そうだった。僕は,藤村の言葉で思い出した。
シャールさんも,先生とタイミングを合わせるように,連絡が取れなくなっていた。シャールさんは,かつて「アキバの自警団」を自認する「秋葉原マーヴェリクス」を率いていた最強のギャルソンだった。優雅で穏やかな物腰からは,想像もつかない経歴だ。
僕も藤村も同じことを考えていた。「マーヴェリクス」が再結成されれば,犯人たちは動きにくくなる。それに,「住人」たちに非常事態だと意識させることもできるだろう。
でも,アランさんの答えは,歯切れの悪いものだった。
「それが…ほんとのところはわからないんだ。『海外に行く』って,メールがあったけど,飛行機嫌いのあの人が,そんなはず…。」
「そうだ。師匠は?師匠はどうなんです?」
僕は,「アキバの生き字引」と言われる老人の名前を挙げた。シャールさんとは,「フリージア」開店前からの知り合いだと聞いている。
「あの人は,文字通り『謎の老人』だよ。誰も連絡先を知らない。」
「アランさん。やっぱり…。」
僕たちのやり取りを近くで聞いていた人が言いかけた。「フリージア」の新人ギャルソンで,店で一度会ったから顔を覚えていた。彼女は,ためらいながら,小声で続けた。
「シャールさんも,りあさんも逃げたんだと思います。だって,こんな…。」
腹が立った。僕は,怒鳴りつけようとして,息を吸い込んだ。すると,それより早く背後から声が飛んだ。
「寝ぼけたこと言ってんじゃないよ。」
聞き覚えのある声だった。その場にいたみんなが,一斉に振り向いて声を上げた。
「カレンさん!!」
それは,僕たちが必要としていたもう一人の人物だった。
神田のダーツ・バーで働く彼女は,「武闘派メイド」として知られていた。メイド関連の店に来る「痛い客」を追い払うのが,彼女の役割ということになっていた。
「確かに,あいつらは…。」
カレンさんは,足早に近づいて,新人ギャルソンの襟首を締めあげた。周囲が水を打ったように静まり返った。至近距離でにらまれた新人は,口を開けたまま,小刻みに身体を震わせ始めた。
「気にくわないヤツらだけどさ。でも,仲間見捨てて逃げるようなヘタレじゃない。何か考えがあるんだろうよ。」
カレンさんは,一度引き寄せた身体を,押し返しながら放した。されるままに新人が地面に尻もちをついた。
「カレンさん。どうしてメールに返信してくれなかったんですか?」
僕は,一歩踏み出して,カレンさんと視線を合わせた。
「は?メール?あたしは,DK?のメル友を持った覚えはないよ。」
相変わらずの口の悪さだった。藤村がちょっと笑った。ギャルソンさんたちは,僕たちの会話を目を丸くして眺めていた。よほどカレンさんが怖かったと見える。
「それはそうと…。」
カレンさんは,ポケットから携帯を取り出した。そして,保存していたページを開いて
掲げた。
「アラン。あんたらが探してるのは,たぶんこれだろ。」
それは裏サイトのようなものだった。スクロールされた画面を追っていくと,「害悪」とか「天誅」という文字が見えた。ヲタクやその文化がいかに無意味で非生産的であるかを強調して,力を合わせて撲滅しよう,と呼びかけるものだった。
「こんなものに踊らされて…?」
藤村が,あきれて果てたという表情でつぶやいた。
「世の中意外とバカが多いんだよ。普通に考えたら引っかかるはずのないサギにだって,引っかかるヤツはいる。ある意味,やったもん勝ちだ。」
カレンさんが吐き捨てるように答えた。アランさんが,携帯の画面から視線を外して,上目遣いで訊く。
「カレンさん。どうしたらいいんでしょう?」
「どうしたら,って…。」
聞こえるように舌打ちしてから,カレンさんは,じれったそうに言った。
「決まってるだろ?いる者だけで,できることをやるんだよ。」
「ほら。来たぞ。」
翌日早朝のことだ。僕と藤村は,カレンさんに同行して芳林公園に来ていた。「フリージア」のギャルソンさん数人も一緒だった。
心臓が激しく打つ音が聞こえてくるようだった。僕たちは,徐々に色濃くなるシルエットを見つめていた。朝靄の中現れたのは,黒ずくめの男たちだった。サングラスをかけて,バンダナのようなもので口元を覆っていた。手には,それぞれ鉄パイプなど,武器になりそうな物が握られている。
「30人ってとこだな。でも,寄せ集めって感じだから,なんとかなるだろ。」
カレンさんは,完全に臨戦体勢に入っていた。脱ぎ捨てたレザージャケットが,木の枝で揺れていた。
あの後,救急車で運ばれたメイドさんが命に別状ないことを確認してから,僕たちは「作戦会議」を開いた。
先生は,ネットの世界に影響力があるから,犯人をつきとめている。1人で解決するつもりで準備を進めていて,もしかしたら,もう戦う場所も決まっているかもしれない。というのが,藤村の意見だった。筋は通っていたから,異論をはさむ人はいなかった。それで,一刻の猶予もならないと判断したカレンさんの提案で,あのサイトに挑発的な書き込みをした。すると,すぐに相手から接触をはかってきた。そのときメールで指定されたのがこの公園だった。
「危なくなったら,構わず逃げるんだよ。いいね。」
カレンさんは,僕に耳打ちしてから,アランさんに指示を出した。
「あのでかいのは,あたしが引き受ける。ザコは頼んだよ。」
「了解です。」
僕は,アランさんの着ていた上着を見つめた。丈の長い黒いジャケット。袖に銀の糸で「逆さ十字」の刺繍が施された執事服だった。その場にいたギャルソンさんたちも,同じものを着ていた。
アランさんは,僕の視線に気づいて,笑みを見せて言った。
「こんな風に『マーヴェリクス』を再結成するとは思わなかったんだけどね。」
「さあ。おしゃべりは,そこまでだ。行くよ。」
僕と藤村を残して,カレンさんたちは,公園の中央に向かって歩き始めた。トイレ付近に陣取っていたカレンさんたちは,神田側の入り口から来た男たちを迎え撃つ形になった。
相手も,2メートル近い大男を先頭に,じりじりとにじり寄って来る。顔を隠していたけど,この状況を楽しんでいるのが仕草から伝わってきた。
「お前らか,あのメイドの仲間ってのは。」
大男が叫んだ。藤村の推測は当たっていたようだ。カレンさんは,腰のダーツケースから何本か取り出しながら答えた。先端が金属製にカスタムされているダーツだ。
「ああ。だから,今日は,あんたらに,いつどこであいつとやり合うことになってるか聞きに来たんだよ。」
「そんなこと知る必要もないさ。どうせお前らは,ここで病院送りになるんだからな。」
「そうか。どうやら戦いは避けられないようだね。」
カレンさんは,アランさんに目配せしてから,さっと右手を挙げた。
「行けーっ!!」
アランさんのかけ声が響き,続いて靴音がよどんでいた空気を震わせた。
ギャルソンさんと男たちは,互いに相手を見つけては,大声を上げながら飛びかかっていく。金属がぶつかり合う音が,あちこちから聞こえてきた。男たちが振りかざす武器を,ギャルソンさんは警棒のようなもので防いでいた。アランさんは,一歩引いたところから全体を見渡して,ピンチに陥っている仲間をフォローした。
中央に視線を戻すと,カレンさんが大男と対峙していた。
「さあ。こっちも始めようか。こう民家に近くちゃ,いつジャマが入るかわからないからね。」
カレンさんは,不敵に笑って,持っていたダーツをちらつかせた。大男も負けじとドスの効いた声で答える。
「ああ。いつでもいいぜ。こっちもあまり時間がないからな。」
「時間がない,だって?この後のことだったら…。」
しゃべりながらカレンさんは,ゆっくりと右に回り始めた。向かい風になるのを避けるためだとわかった。
「今のうちにキャンセルしておくべきだね。ドタキャンは,あんたのボスに失礼になるんだろ。」
カレンさんの足が止まる。上向きに突き出された手のひらで,指が曲がるのが見えた。
「ほら。来いよ。オッサン。」
「ふざけるな。このォ…。」
大男が突進してきた。カレンさんから放たれた何本もの赤い筋が,男の前で四方に散っていく。投げられたダーツを,大男が特殊警棒でなぎ払ったのだとわかった。
「たいした腕じゃないな。お嬢ちゃん。」
足元に転がったダーツを踏み壊しながら,大男は鼻で笑った。
「これだけ投げて,当たったのがたった1本とはな。」
目をこらすと,男の右肩のあたりに,ダーツが突き刺さっていた。カレンさんは,追加のダースを取り出しながら,男に近づいていく。
「1本。それで十分なんだよ。とりあえずはね。」
「何っ!?ん?これは…。えっ?」
男の表情が変わった。眉間に深くしわが刻まれて,顔中から冷や汗が吹き出してきた。手から滑り落ちた警棒が,小石に当たって小さな音を立てる。
「お前…何をした?」
「たいしたことじゃないよ。あたしの先祖は忍者でね。怪しげな薬草の調合の仕方を書いた巻物が,家の物置に転がってたんだよ。」
笑えない冗談だった。痺れ薬か何かがダーツに塗られていたんだろう。男は,その場からまったく動けなくなった。
「さあ。教えなよ。あいつとどこでやり合うことになってるんだ?」
「知るか。あっ。うぐっ。」
男の身体に,2本目のダーツがめり込んだ。今度は,左の太ももだった。
「誰が教えるか…がはっ。」
3本目は,右膝の上部をとらえた。
見回すと,ギャルソンさんも,男たちも,ほとんどが力尽きて倒れ込んでいた。数で勝る相手に対し,気迫で相討ち。リーダー抜きで,急遽再結成された「マーヴェリクス」は,大健闘したようだった。
「ああっ。んぐっ。」
答えるのを拒むたびに,男の身体に刺さったダーツは増え続けて…14本になっていた。カレンさんの指には,もう1本ダーツがはさんである。
何をしようとしているのか,はっきりわかった。知らない人が見たら,悪趣味なリンチに見えただろう。でも,僕には,カレンさんの気持ちが理解できた。1本1本の針先に,襲われ人たちの痛みが乗り移っているように感じられたからだ。
「強情だねえ。でも,泣いても笑っても,これが最後だよ。」
男の顔はこわばっていた。これだけ全身を責められ続けていれば,最後にどこが狙われるか察しがつく。
「バ…バカなことはやめろ。そんなことをしたら,お前だって…。」
「脅しだと思う?良心の呵責なんてこれっぽちも感じないね。あんたを始末した後,お笑い芸人の下ネタでゲラゲラ笑える自信があるよ。ねえ,オッサン。賭けてみる?」
カレンさんがダーツを構えた。何の迷いもない強い意思が宿った目をしていた。改めてカレンさんが恐れられている理由がわかった。
「わ…わかった。け,携帯。ポケットの携帯の…メールを見れば,わかる。」
「最初から素直に言えばよかったんだよ。」
カレンさんは,男の身体からダーツを引き抜いて,地面に落ちていたものも拾い上げた。
そして,男の腰ポケットから携帯を取り出して,メールを開いた。
「ふーん。なるほどね。」
カレンさんがつぶやくのと,ほぼ同時だった。藤村が,背後から僕の肩を叩いた。
「まずい。誰か来る。」
その通りだった。慌ただしく靴音が近づいて,公園の入り口から数名の警官がなだれ込んできた。
「お前たち。そこで何をしている?」
「カレンさん!逃げてください!」
気づくと,倒れていたアランさんが,力を振りしぼって立ち上がっていた。そのまま警官隊の前に立ちふさがろうとして歩き出す。
「悪いね。あとは任せたよ。」
僕たちは,末広町方面に逃れようとして,振り返った。
「えっ!?」
思わず同時に叫んでしまった。目指すべき別の出口も,警官たちに固められていた。
「こんな…。」
うかつだった。戦いに気を取られているうちに,すっかり挟み撃ちにされていた。
「すいません。カレンさん。僕たちが,しっかり見張っていれば…。」
自分を責めるしかできなかった。目をやると,藤村も悔しそうに唇を噛んでいた。カレンさんは,そんな僕たちを無視して,ぽつりと言った。
「これじゃ間に合わない。」
〜 めいせん 第7回 『 萌軍、暁の出撃 』 完 〜
次回は,第1部最終回です。
よろしくお願いします。