外伝Ⅱ
真昼の大通りを、真っ直ぐに歩いていく。少し汗ばんだ身体に街の喧噪が心地よい。
コスプレをした若者たち、電気店の袋を提げた家族連れ ― 外国人の集団も目につく。
ふと見覚えのある顔を見つけて、立ち止まる。
物陰から、こっちを見ているメイド服の女性。青ざめた顔は、ひどくさみしそうだ。
途端に黒い雲が空を覆って、街が闇に沈んでいく。
そして…
暗がりでうごめく複数の人影。
進み出てくる、背の高い女性。
その手がすっと動く。
胸の辺りに違和感を感じて、手を当ててみる。そこに突き立てられているのは…
長靴を履いて外に出る。サングラスをした目にも、容赦なく光が飛び込んできて、俺は、「またよく積もったな。」
と独り言を吐き出した。
辺りは、一面の雪景色。これも、もう見慣れた風景になっていた。
東京にいた頃は、ニュースで「どこどこで何センチ積もった」とか聞いても、自分には関係ない話だった。雪かきや雪下ろしの映像を見たって、1円にもならない労働を強いられる場所に住もうという気持ちが、まったく理解できなかった。
でも、今は違う。単調で、利益を生まない作業こそが、俺には必要だと思っている。自分の身体を酷使することが、自分への罰だと思えるからだ。そこには、決められたことを黙々とこなせば、気が紛れるという甘えがあることも否定できないが。
とにかく、俺には、こんな暮らしが似合いなのだ。北国のパチンコ屋に住み込みで働いて、カレンダーで1日1日を塗りつぶしていくだけの生活が。
国道に面した駐車場の雪を脇に移動させる。とりあえず、これが1日の最初の仕事だ。立てかけてあったスコップを手にとって、建物の正面に回る。膝のあたりまである雪もほとんど苦にならないほど、日課として定着した作業になっていた。たいして広くもない駐車場だから、時間に追われることもなく、開店に間に合うだろう。そう思って、スコップを足下の雪に突き立てた。
「え?」
俺は、手を止める。あたりを見回すと、誰かの足跡が建物の裏まで続いている。
そのとき、街のほうから国道を走って来たタクシーが、目の前で止まった。ドアが開き、白いコートを着た小柄な人物が降りてくる。
俺は、言葉を奪われて、スコップから手を放した。
〜「めいせん」外伝Ⅱ 「ジルコニア、散りばめて」 〜
「お久しぶりですねっ。あれからどのくらいたつんでしょうか?」
「2年と少しです。」
心臓がぎこちないリズムで脈打っている。それでも俺は即答できた。俺にとって間違いようのない質問だからだ。でも、それは、彼女にとっても同じはずだ。
「そうですね。もう2年経つんですよね。」
彼女は、遠い目になっている。
長い黒髪と白い肌。コートとブーツも白くて、違和感なく風景に溶け込んでいる。童顔だということもあって、言葉とは裏腹に、彼女の周りだけ時間が止まっているような錯覚さえ覚えた。
彼女と出会ったのは,4年ほど前のことだ。
学生時代の仲間と秋葉原に行った。どうせなら、ということで、俺たちは当時一番人気と言われていたメイド・カフェ「すうぃーと・はあと」に入ることにした。店の前には長蛇の列が出来ていたが、並ぶのに反対する者はなかった。みんな、ひやかし、とか言いながら実は、興味津々だった。
待つこと2時間半。店の中に入った俺は、思わず
「本物…」
とつぶやいた。ガイドブックで見た看板メイド「りあ」が、そのままの姿で立っていた。
彼女と話をしてみたいと思った。見回すと、仲間たちも、同じことを考えているのが視線でわかった。
俺たちは、彼女を盗み見しながら、ろくに話もせず、目の前にある飲み物を口に運ぶという気まずい時間を過ごした。
でも、かえってそれがよかったのかもしれない。俺たちが退屈しているように見えたのだろう。
水を注ぎにきた彼女が、
「どこかのお店の常連さんだったりするんですか?」
と訊いてきた。
「いや。特には…」
そう答えた俺に、彼女はこぼれるような笑みを見せて言った。
「じゃあ、この店の常連さんになってくれませんかぁ。」
「レイジさん。」
回想から引き戻された俺の顔を、彼女が気遣うようにのぞき込んでいる。
「少しお痩せになりましたね。レイジさんも…。」
そこで言葉を切ってから、彼女は、気まずそうに上目遣いで言う。
「あの…レイジさんでよろしかったでしょうか。わたし…」
東京にいた頃のハンドルネーム。 その名前で呼ばれることは、もうないと思っていた。
はじまりはブログだった。アクセス数が1日100にも満たない、さえないブログだったが、毎日のようにコメントをくれる人がいた。相手のプロフィールによると、若い女性ということだった。たまたまキーワード検索にかかった、と最初のコメントに書かれていたのを覚えている。
ある日、代休が取れた俺は、のんびり過ごそうと考えて、昼に「すうぃーと・はあと」に顔を出した。店内は、予想どおり週末の混雑が嘘のように空いていた。彼女がシフトに入っていなかったこともあったかもしれない。俺は、他のメイドともあまり話さず、持っていたマンガを1冊読んで、店を出ようとした。
レジに行くと、ルミという新人が、周囲を気にしながら、こんなことを言った。
『レイジさん。わたし、亜麻音です。いつもブログ楽しく読ませていただいてます。』
驚いた。メイドは、「足跡を残す」という行為は別として、客のブログにコメントすることや、客のコメントに返信することは、店側から禁じられていたからだ。
その後、ブログに個人宛メッセージが頻繁に届くようになった。そして、すぐにそれはメールのやりとりへと変わった。
レジで声をかけられるまで、特にルミを意識したことはなかった。彼女以外のメイドを特別な目で見ていなかったからだ。でも、もちろん悪い気がするはずがない。だから、店の外で会おうと誘われても、断る理由はなかった。
どうしてルミが俺を気に入ったのかは、いまだにわからない。当時の俺は、どこにでもいるうだつの上がらないサラリーマンだった。歳も、40手前になっていた。
ルミとつきあうようになってからも、俺は店に通い続けた。彼女に会いたかったから。それもある。でも、もっと大きな理由があった。いままで通り店内で客としてふるまいながら、俺は大きな優越感を感じていた。メイドとつきあっている、というのはヲタクにとってステータスだからだ。金を払ってルミと記念写真を撮っている客を見たときなどは、ひどくプライドをくすぐられたりした。
俺は、最低の人間だ。神とか仏とか信じているわけではないが、こんな俺に罰が下ったのは当然のことだと今は思っている。
それは突然やってきた。
その日仕事でトラブルがあった俺は、『どうしてもすぐ会いたい』というルミからのメールに返信しなかった。一段落して、メールを送ったが、返信がない。携帯にかけてみても、留守電だった。不安にかられて、ルミのアパートに行き、合い鍵で中に入ると…。
ルミは自殺を図っていた。
救急車を待つ間に、開いたままのパソコンに気づいた。それで、俺にもだいたいの事情がつかめた。ルミは援助交際していると疑惑をかけられ、掲示板でひどい叩かれ方をしていた。俺とのデートを他の客に見られたことが原因だった。
もともと精神的に不安定なところもあって、心療内科の世話になっていたようだ。俺に隠れて薬を飲んでいたことも知っている。
それから…。
警察に事情を話し、ルミが一命を取り留めたのを確認すると、俺は東京を離れた。俺には、ルミを支えていく自信がなかった。俺自身も仕事上のストレスで「鬱病予備軍」を自覚していたから、一緒にいたら二人ともダメになる。当時の俺は、そう思おうとしていた。でも、そんなのは言い訳だ。一言でいえば、逃げたということだ。
その後は、仕事を探しながら、各地を転々として、この町に流れ着いた。
「レイジさん?あの…どうかしましたか?」
ふたたび回想が断ち切られた。
言葉が出てこない。話したいことは、山ほどあるはずだ。なのに、何一つ言葉の形になってくれない。
彼女が、おぼつかない足取りで、一歩ずつ俺に近づいてくる。目の前にあるのは、かつてネットの掲示板に「マジ天使」と何度も書き込まれた姿だ。
俺は、音を立てずに大きく息を吐き出す。彼女の顔にかからないように、少し顔をそらして。それから、向き直って、視線を合わせて言う。
「りあさん。こんな形でも、また会えて本当にうれしいです。」
「え?こんな形、ですか?」
どうしようもなく皮肉だった。この2年間、ずっと彼女に会いたいと思っていた。もちろん、そんなことを願う資格が俺にないのはわかっている。でも、それにしても…こんな再会は望んでいなかった。
いや。この町に来て、俺は変わった。覚悟はできているはずだ。どんなことでも受け入れなければいけない、と。だから、予想と違っているが、これでいいんだ。
そう開き直ると、やるべきことはひとつだと気づく。俺のほうから切り出して、彼女の負担を軽くするだけだ。
「あなたは、カレンさんの代わりに来たんですね?」
カレン。神田のダーツバーで働く武闘派メイドとして、アキバの住人に知られていた。店の女の子にセクハラした客を叩き出すのも、彼女の仕事だったようだ。
当時、「アキバ周辺でシャレにならないことをすると、誰かに消される」という噂があった。「すうぃーと・はあと」の常連客が、カレンの仕業だと冗談を言うのを聞いたことがある。あの頃は、都市伝説のようなものだと笑いとばしていたが、今は違う。
ルミの事件の後、俺は妙なことに気づいた。「すうぃーと・はあと」についての書き込みがあると、すぐに削除されるということだった。「真実」を知る俺にはわかる。おそらくルミの知人が、彼女に関する誹謗中傷や憶測を排除しているのだと。圧力をかけて、無数の掲示板から特定の書き込みを削除させる。こんなことができるのは、一般人が関わってはいけない世界の人間かもしれない。
東京を離れた後、俺はしばらく実家に戻っていた。だが、ある日、俺は、夜逃げするように故郷を後にした。かつての同僚から、カレンが俺を捜している、という内容のメールが届いたからだ。それで、カレンに関する噂も、まんざらネタとも言い切れない、と思うようになったわけだ。
ルミと向き合うこと。ルミの仲間に責められること。何もかも怖かった。今でも時々悪い夢を見て、うなされることもある。ちょうど今朝みたいに。でも、どこかでこんな日が来るのを待っていた、という気さえする。
それに、罰を与えるなら、別の店にいるカレンよりもメイド長だった彼女のほうが適任だ。そんなことを考えられるほど、落ち着いた心境になっている。
これが最後の機会だ。俺はいちばん気になっていることを口にする。
「りあさん。あなたは何者なんですか?」
「え?カレンさん?あ?わたし?え?どうして?」
思考の許容量を超える質問が続いたようだ。彼女は、気の毒なほど忙しく視線を泳がせている。どう見ても演技ではなさそうだ。
「あっ!そうだ!」
答えを思いついたのだろう。彼女が目を輝かせて、両手の拳を握りしめる。
「レイジさん。わたしね、学校の、高校の先生になったんですよぉ。」
「先生?そうですか。」
「ええっ!?驚かないんですかぁ?」
教師。意外といえば、意外だ。でも、むしろ俺も、自分の冷静な反応のほうに驚いていた。実際、教壇に立つ彼女が目に浮かんでくる。
考えをめぐらせると、思い当たる理由があった。
「わたしが先生ですよぉ。ありえなくないですかぁ?こんなに腐ってるし、ダメダメなのにぃ…」
身を乗り出すようにして力説する彼女から一歩後退して、俺は思っていることを言葉にする。
「りあさん。最近学園ドラマを見ていて、改めて思ったんです。学校、特に高校って、キラキラしたものを手にするための場所なんじゃないかって。」
「キラキラ…?」
「はい。部活でも、恋愛でもいいですけど、高校でしかできない経験っていうか。だから、勉強にしても、自分の目標を達成するためにやるんだっていう充実感がないと、後になって、時間をムダにしたっていう感覚しか残らないと思うんです。」
俺の頭に、「すうぃーと・はあと」で出会った同世代の常連客たちの姿が蘇る。
「メイドカフェの客のなかには、キラキラしたものをつかみそこなった人たちがいると思うんです。毎日学園祭をやってるような場所に来ることで、退屈だった高校時代を補完しようとしてるんじゃないでしょうか。」
「ホカン?うめ合わせる、ってことですよね?でも、それなら…」
彼女は、大げさに首を振ってから、悲しそうにうつむいて続ける。
「わたしなんかに、そんな大切なことのお手伝いができてたとは思えません。それに、カフェが学校の代わりになる、なんてこと…。補完なんて…。」
「はい。過去は補完しきれるものじゃない。確かにそうかもしれません。でも、一瞬だけかもしれませんが、キラキラした瞬間を感じられることができる場所なんです。」
それは本当だ。俺は、あの街で何度か奇跡のような瞬間に立ち会ってる。
「ありえないですよ。わたしなんかが…」
彼女は、恐縮しているというように、もともと小柄な身体をさらに小さくして言う。
「誰かの人生に影響を与えるとか、絶対にないです。」
心のなかで、いくつものシーンが自動再生される。店の常連客とメイドたちのたくさんの笑顔…
「学校でできなかったこと、感じられなかったことをアキバで体験する。世間はそれを逃避とか錯覚とか呼ぶかもしれません。でも…」
と言って、俺は笑みを作ろうとする。どうしてもこわばってしまうのは、寒さのせいだけではないだろう。
「りあさん。ジルコニアってご存じですか?」
「ジルコニア、ですか?」
「はい。人造のダイヤモンド。まがいものです。でも、偽物といえば偽物なんですが、有名な飾り職人がアクセサリーに使ったりすると、へたなダイヤより高価になることがあるんですよ。価値を決めるのは、それを手に入れる客だということです。これは、俺の勝手な解釈ですが…」
俺は、もう一度網膜に焼き付けるように彼女をじっと見る。白い肌が冷気で薄桃色に染まっている。
「俺たちにしてみれば、店であなたに会える…それで十分でした。でも、あなたは、無意識かもしれませんが、補完が必要になる人を減らそうと考えた。だから、人気メイドだったあなたが先生になったっていうのは、関わった人たちに手渡していたジルコニアをダイヤに変えようとすることなんじゃないかって思うんです。」
すっきりした気分だった。こんなことになった今でも、どこかであの店やあの街に対する自分なりの愛情を、表現したいという気持ちが残っていた。そして、それをいちばん伝えたい人に伝えられた。もうこれで十分だ。
「りあさん。遠慮しないで、本題に入ってください。」
「本題…ですよね。」
彼女は、気まずそうに目を伏せて、唇を噛む。
どこまでも白い風景。そのなかで動きを奪われて、彼女は立ちつくしている。薄桃色だった肌は、痛々しいほど紅潮していた。
俺は、また自分から口を開く。
「少し身の回りを整理する時間をください。逃げも隠れもしませんから。」
「え?に、逃げる?あの…」
また彼女の思考が混乱を始める。ストレートに言ったほうがよさそうだ。
「はい。あなたは、俺に罰を与えに来たんじゃ…」
「え。罰?そうじゃなくて…ええと…」
俺の言葉を遮った彼女は、おもむろに頭を下げた。
「あの…お、お願いします。ルミさんに会ってあげてくださいっ。」
「え…」
「もう身体は、何の問題もないんです。だから…あとは、心の問題なんです。」
「あの…」
驚きの後、気まずさが襲ってくる。俺は、顔をめがけて一気に血が上ってくるのを感じる。都市伝説に振り回されて、いらない妄想をしていたのかもしれない。
俺は、向けられたままのうなじを見つめながら、できる限り冷静を装って答える。
「ルミ…さんがお話のとおりの状態なら、会わないほうがいいと思います。俺に会うことで、余計に悪くなる可能性がありますから。」
もちろん、ルミに会うのが怖いという気持ちもある。でも、それも本音だった。
「そうかもしれません。でも…」
彼女がゆっくりと顔を上げる。驚いた。彼女の依頼にだけではない。彼女の表情も口調も、店で見てきたものとまったく違っている。そのすべてが、強い決意に満ちていた。
「もちろん、レイジさんのおっしゃることは、わたしも考えました。でも、他に方法が思いつかないんです。」
「きっと俺のこと恨んでます。だから、俺を見て、パニックになったりしたら…」
「そうだ。りあ。何言ってんだよ。」
背後から声を浴びせられ、身体が固まる。俺は、呪縛をふりほどくように、全身に力を込めて振り返る。
予想どおりだ。建物の陰から進み出てくるのは、背の高い女性…。
「カレンさん…」
彼女と出会ったことで、足跡のことを、すっかり忘れていた。思わず一歩後退して、身構えてしまう。
カレンは、一瞬俺をにらむと、フェイクファーのコートについた雪をはらい落とした。
それから、辺りを見回しながら、
「よくもまあこんなところまで逃げたもんだ。」
と毒づく。
「そう言うカレンさんも、わざわざここに来たじゃないですかぁ。」
「うるさい。いちいち揚げ足とってんじゃないよ。」
「怒られちゃいました。えへ。」
彼女は、首をかしげて、軽く舌を出した。あの頃と同じだ。他のメイド仲間が恐れるカレンに対して、少しも臆するところがない。
「言い訳なんてしないでください。カレンさんも本当は、わたしと同じで、お願いにきたんですよね。」
「バ…バカ言うな。どうしてあたしが…。こいつの言うとおり、ボコりに来たんだよ。」
まったく同じ展開だ。気づけば、完全に彼女のペースになっている。
「違いますよぉ。」
彼女は、うれしそうに目を細め、
「だって、カレンさんがその気なら…」
と言って、俺の足元を指差す。
「今ごろ、そのへんは、真っ赤になってますよぉ。」
一瞬倒れている自分の姿を想像する。仰向けになった体のあちこちにダーツが突き立てられて…。
俺は、無理に映像をかき消して、視線を戻した。
カレンは、舌打ちしてから、
「今からやるんだよ。」
と言って、コートを脱ごうと、身体をねじって見せる。
「へえ。そうなんですかぁ。でも変ですね。気の短いカレンさんがねえ。」
彼女は、左右に顔をかしげ、「ドヤ顔」というのだろう、得意そうに微笑んでいる。
「お前なあ…」
ついにカレンは、黙り込んでしまった。言葉が出てこなくて、もどかしそうに顔をゆがめている。
彼女は、真顔を取り戻して、
「カレンさん。もう少しなんです。わたしに最後まで任せてくれませんか。」
とはっきりした口調で言った。
「あー。もう。めんどくせえな。」
カレンは、また舌打ちすると、顔をそらして吐き捨てた。
「勝手にしろ。」
「ありがとうございます。」
彼女は深々と頭を下げた。そして、さみしげな笑みを浮かべ、カレンの横顔に向けてつぶやいた。
「大丈夫ですよ。もうひとつの約束もちゃんと覚えてますからね。」
カレンは答えなかった。自分がつけた足跡をたどって、国道のほうに歩いていく。
「約束って?」
「レイジさん。お願いします。ルミさんのところに行ってあげてください。」
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
彼女の身体がすっと沈み、両膝が雪の上に突き立てられた。すぐに上半身がそれを覆い、長い髪が滑るように地面をなでた。指先は、きれいにそろえられ、俺のほうに向けられている。
俺は、慌てて彼女に近づこうとした。
「ちょっと、りあさん、何を…」
言葉はそこで途切れた。俺は、片足を浮かせたまま、ぼんやりと眺めていた。
舞い上がった粉状の雪が、彼女を包んでいた。雲間から降り注ぐ日差しに、キラキラと輝きながら。
「お久しぶりです。」
「…エリナちゃん…」
伝票を持ってレジに向かった俺を待っていたのは、懐かしい顔だった。
俺は、約2年ぶりに上京して、アキバにやって来た。そして、「すうぃーと・はあと」と似た雰囲気だと言われるカフェに立ち寄っていた。
「久しぶりだね。でも、エリナちゃん、あの頃とあまり変わらないね。」
予想外の再会に態度がぎこちなくなる。
あの頃、エリナは、「すうぃーと・はあと」で働き始めた新人メイドだった。「りあさん。りあさん。」と言いながら、不安げな表情で、彼女のそばを離れようとしなかったのを思い出す。
「はい。でも、わたし、これでも、この店では、もう長いほうなんですよ。」
そう言うエリナには、もうあの頃の弱さは感じられない。
そうだ。時間は確実に流れている。俺にも。彼女たちにも。
「これからどこかに行かれるんですか。」
伝票と金を受け取りながら、エリナは、人懐っこい表情で訊く。俺は、戸惑いを隠しきれずに、自分に言い聞かせるように答える。
「うん。やらなきゃいけないことがあって…うまくいくか自信はないんだけど。」
言葉の通りだ。どうなるかわからない。でも、どんな結果でも受け止めなければならない。それだけはわかっている。
「うまくいくといいですね。ありがとうございました。」
意識を目の前に戻すと、エリナが微笑んでいた。いつまでも見ていたいと思わせる、ほっとするような表情だった。
「ありがとう。」
俺は、釣り銭とレシートを受け取ると、
「それじゃ。」
と言って、背を向けた。
「あ。待ってください。」
振り向くと、エリナの手には、俺の傘が握られていた。まだ濡れていて、滴が滑り落ちそうに揺れていた。
「あ。ごめん。ありがとう。」
「雨、やんでますね。」
エリナは、手渡しながら、ガラス越しに外の様子をうかがう。
「それから、邪魔になるかもしれないかな、と思ったんですが、作っておきました。」
差し出されたのは、ファンシーなデザインのピンクの紙片だった。手に取ると、裏面にスタンプがいくつか押されていた。
ポイントカードだった。
次に来ることがあるんだろうか。俺は考えてみた。でも、すぐに止めた。先のことなんかわかるはずもない。
それでも、とりあえず
「うん。ありがとう。またね。」
と笑みを返して、店を出た。
外は、さっきまでの雨が嘘のように日が射していた。顔を上げると、青空が見えた。ビルに切り取られた複雑な多角形の空だ。
俺は、足下の水を跳ね上げながら、足を早めていく。視界の開けた場所を探しながら。
なぜだろう。この街で虹が見たいと思った。
〜 「めいせん」外伝Ⅱ 「ジルコニア、散りばめて」 完 〜