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めいせん  作者: KEY-D
6/10

第6回


悪くないもんだな。

ダウンジャケットのファスナーを上げながら,俺はそう思った。

日曜日の午前10時半を少し過ぎた頃。俺は,列に並んでメイドカフェの開店を待っていた。俺の隣では,安原が,路地を掃くメイドさんの様子を見守っていた。

メイドカフェ「みるきぃスマイル」。 安原とつるむようになってから,何度か連れられてきた店だ。アキバのメイド・カフェのなかで屈指の人気店と言っていいと思う。立地が悪く経営難で閉店した系列店からメイドを迎え,リニューアルしたばかりだ。

掃除をして,看板を出して…。学園祭の模擬店の準備を見てるみたいだった。そこには,何かが始まる期待感があった。

寒いけど,こういうのも悪くない。

「なあ,安原…。」

呼びかけたけど,返事はなかった。目を向けると,安原は,相変わらずメイドさんに視線を固定していた。違っていたのは,その表情が,ひどく心配そうに変わっていたことだ。

エリナさんは−安原のお気に入りのメイドさんだが−怯えたような表情で,現れた人物に対応していた。

 以前常連客がストーカーになったことがあったから,安原が過敏になるのも無理はない。でも,相手は女性だった。

 その女性は,白いカットソーの上にライダースジャケットを羽織り,迷彩色のワークパンツを履いていた。時折強くなる風が,彼女のストレートの金髪を揺らしている。

「心配ないだろ。きっと道を訊かれてるとか…。」

俺は,安心させるように言った。安原は,それでも,表情を崩さないで,なぜか身構えるような姿勢を取った。

不審に思って視線を戻してみる。ドキッとした。女性が,俺たちに向かって一直線に歩いてきていた。どこにいても目立つような整った顔立ちをしていたけど,その目には,冬の野外に似つかわしい冷たさが感じられた。

「あんたら,りあの,いや,アリスの教え子だろ?」

 聞こえてきたのは,ハスキーだけどよく通る声だった。

 俺は,意外なことを言われて,戸惑いながら安原を見た。そこには,敵意むき出しの表情があった。どう答えたらいいものか,と思いながら,二人を見比べる。   

ふと気づいた。どこかで見た顔だ。たぶん直接は会っていない。だとしたら,雑誌とか情報誌とか…。

「おや。これは,これは。カレンさん。」

背後から聞こえた声が,記憶の検索を中断させた。振り返ると,ギャルソン服に身を包んだ女性が立っていた。

「いいですね。若い男性に囲まれて。」

端正な顔に穏やかな微笑が浮かんでいた。その人なら知っている。俺は,無意識のうちにつぶやいていた。

「シャールさん…。」

アキバの情報誌で何度も見た微笑みだった。ギャルソン・カフェ「フリージア」の店長。そして,「秋葉原マーヴェリクス」のリーダー。

「マーヴェリクス」は,カラーギャング扱いされることもあったが,自称「アキバの自警団」だった。「一匹狼」の名の通り,普段から群れることはなく,何かあった時だけ召集がかかるらしかった。構成員は,男性と男装の女性の混合で,ユニフォームは執事服という異色ぶりだが,活動を停止してからずいぶん経つと聞いていた。

「私をご存じでしたか。藤村君,それから,安原君ですね。」

言葉が出なかった。シャールさんは,俺たちを知っていた。

「なぜ…。」

安原も,同様に戸惑っていた。それを遮ったのは,カレンさんだった。

「シャール。邪魔すんなって。話してるのは,あたしなんだよ。」

「これは,これは失礼しました。すっかりお二人がおびえていたので,つい…。」

シャールさんは,恭しくお辞儀して見せる。カレンさんは,苦々しく笑って,俺たちに向き直った。

「まあいい。アリスに伝えな。『もう待てない』って。そう言えばわかる。」

それだけ言って,カレンさんは足早に立ち去って行った。その姿が見えなくなると,シャールさんは,軽く息を吐いて,また笑みを見せた。

「彼女はカレンさん。メイド・ダーツ・バーで働いてます。悪い人ではないんですが,ご覧のように,ちょっと人当たりが悪くて…。」

シャールさんは,おおげさに肩をすくめた。絵に描いたような「優男キャラ」が様になっている。でも,関心している場合ではなかった。俺は,思い出して訊いてみた。

「なぜ俺たちを知っているんです?」

「ああ。そうでした。それは…。」

シャールさんは,人差し指をこめかみにあてた。口元が,悪戯っぽく笑っている。

「この街の住人の情報はインプット済みです。特に,あなた方は,最近たいへんな活躍ぶりですからね。」



「おい。藤村。これ…。」

携帯のメールをチェックしていた安原が,こわばった表情で言った。画面をのぞき込んだ俺は,言葉を失う。放課後の教室が静けさに包まれた。

『あの店について調べるのは止めてください。何か知り得ても、何の解決にもなりません。』

「あの店」というのは,「メイド・カフェ すうぃーと・はあと」のことだ。担任の龍ヶ峰先生やエリナさんが以前勤めていた人気店だったが,イベントも行われないまま突然閉店した。事情は誰にも分からず,「アキバ七不思議」のひとつに数えられている。

 安原の話では,閉店の原因を明らかにして,何らかの措置を取らないと,関係者は暗い影を引きずったままだという。俺は,安原に頼まれ,ネット関係の知人の助けを借りながら,この数ヶ月自分なりに情報を集めようとしてきた。

 でも,満足な結果が得られることはなかった。あの店に関する情報がネットに書き込まれても,すぐに削除されてしまうからだ。何者かの力が働いていることは,容易に想像できた。それが,恐ろしく大きな力だということも。

「何だよ。これ。どうすれば…。」

画面から視線を上げると,救いを求めるような安原がいた。悔しさと恐怖が入り交じったような表情だった。

「なあ。安原。そのメール,返信できたりするか?」

自分でも驚くくらい落ち着いた声だった。いずれこうなることは,薄々わかっていた。それに,不思議なことに,そのメールからは敵意というものが感じられなかった。

「まさか返信なんて…。」

安原は,あきれたように言った。それでも,半信半疑の様子で,指を動かし始める。

俺は考えてみる。情報収集も,もう限界だった。それなら,いっそ直接訊ければ,好都合というものだ。

「…できそうだ。」

携帯の画面が俺に向けられた。そこには,見たことのないアドレスが表示されていた。

「よし。俺の言う通りにしてくれ。」

俺は,安原に指示を出して,メールを打たせた。

内容は,当然,カフェの閉店理由を尋ねるものだったが,俺たちに敵意がないこと,面白半分で調べているのではないことを強調した。

「じゃあ,いいか?送るぞ。」

安原は,俺がうなずくのを待って,送信ボタンを押した。

「とりあえず,待とう。」

少しほっとした俺の口から,自然と大きな息が漏れた。何気なく視線を移すと,携帯を握りしめた安原の手が震えている。

「怖いのか?」

重い空気を振り払いたくて,俺は,からかうように訊いた。強がって否定するはずだと決めつけて。でも,返ってきたのは,意外な言葉だった。

「そうかもな。」

「おい。おい。俺たち,今までだって,ずいぶん危ない目に遭ってきただろ?今さら,これくらいのこと,どうってことなくないか?」

それは本当だった。担任が代わってから,俺たちは何度も「非日常」な出来事に巻き込まれてきた。二人とも,憧れの女性に失恋した男に襲われたという経験がある。それから,シャールさんが言ったように,先生が,アキバ住人の危機を救うのを目撃したこともあった。

「だからなのかもな。」

安原は,つぶやくように言った。そして,記憶をたどるような目をして続けた。

「エリナさんに会うまでは,生きていく理由がわからなくて,正直いつ死んでもいいなんて思ってた。それが,一緒に元常連のオッサンに襲われて,先生に助けられて…。で,お前とも仲良くなって,それからも,ますますアキバが好きになって,それで…。なぜだかわからないけど,でも…。」

言葉が見つからないようだった。焦れったそうな安原に,俺はわざと突き放したように言う。

「へえ。それって,生きるのが楽しくなった,ってことだろ?」

「な…。」

安原は,目を丸くして,何か言おうとする。それにかまわずに俺は続けた。

「いいことなんじゃないか。それが,あっ…。」

携帯電話がメールの着信を知らせた。安原は,ゆっくり時間をかけて,それを開いた。

「何て書いてある?」

鼓動が速くなるのを感じながら,俺は,安原の背後に回り込んだ。差し込む夕陽に目を細めながら,画面に目をやると,そこには1行だけ。

『直接会って話しましょう。』



「それから,あとひとつ大事なお話があります。」

翌日の朝。いつものようにホームルームが行われていた。いくつか連絡事項を伝えた後,龍ヶ峰先生が,あらたまった様子で切り出した。

「でわ,その前に資料を配りますね。」

回ってきたプリントは,「ネットの被害に注意しよう」という内容だった。教育委員会などが管轄の学校に一斉配布するような変わりばえのしないものだ。   

「みなさんもご存じだとは思うんですが,最近インターネットで嫌な経験をする人が増えています。もちろん,インターネットは便利なもので,正しく使えば問題ありません。」

 話も資料を順になぞるようなありきたりなものだった。ただ,いつものホームルームと違っていたのは,先生の口調だった。そこには,先生が許せない相手に向かって言葉を放つ時と似た迷いのない強さがあった。

 周囲を見回すと,安原と目が合った。安原も同じことを感じているようだった。その後ろの席,お調子者の梅田は…気づいていないようだ。それから,同じく安原の幼なじみ,笹本さんは,おそらく気づいていたと思う。 

「特に注意してほしいのが,学校裏サイトです。誰でも,嫌なことがあると,ちょっと八つ当たりしたいとか,誰かに意地悪してやりたい,って思うことはあると思うんです。でも,それが原因で,思いもかけないたいへんな事態におちいったりすることがあるんです。いったん転がり始めたら,もう自分の力ではどうにもならないような。」

 違和感があった。伝えたいという気持ちは十分前面に出ていた。でも,一番重要なところが抜け落ちているような,なんとも言えないもどかしさが漂っていた。

『もう待てない』

 前日に伝えたカレンさんからのメッセージと関係があるのかはわからない。でも,いずれにしても,先生のなかで何か変化があったことは確かだ。

俺は,安原に目配せした。とにかく先生と話をしなければならない。メールの相手との接触についても相談しておいたほうがいいだろう。意図を理解した安原が,うなずいて見せた。

「相手が受けた心の傷は,あっ…。」

チャイムが鳴り始めた。先生は,戸惑いを見せたが,日直の生徒に号令を出すように指示した。

顔を上げた先生に,一瞬くやしそうな表情が浮かんだ。俺は,安原と連れ立って教卓の前まで進み出た。

ところが,俺たちより先に声をかけた者がいた。

「どうしちゃったの,アリスちゃん。なんかしっかりしてきたっていうか…なんか先生みたいだったよ。」

梅田だった。振り返ると,いつもの空気を読めない笑顔が視界に入る。

 続けて何か言おうとした梅田だったが,これは遮られた。笹本さんが,梅田の袖を引っ張って,何かささやくのが見えた。

「で,でしょ。ねっ。今日は,ほら…気合い入れて準備してきたんですよ。でわ,またあとで。」

ぎこちなく言うと,先生は教室を後にした。安原と二人でそれに続き,廊下で追いついて声をかける。

「先生。待ってください。」

「どうかしましたか?いつもと様子が違うから,気になって…。カレンさんからの伝言と何か関係があるんじゃないかって…。」

「安原君。」

先生は,不安げに訊いた安原を気遣うように,笑みを浮かべた。時々見せる,人を包み込むような笑顔だった。

「何もありませんよぉ。大事なことは,ちゃんと伝えなきゃって思っただけです。」

「でも,やっぱり…。」

「藤村君。」

俺の言葉を遮った先生は,真顔になっていた。それから,しばらく目を伏せた後,言いにくそうに切り出した。

「お二人に…お願いがあります。笹本さんから聞いたんですが…何かこっそり調べてるって。もしかしたら,危険なことかもしれない,とも言われました。だから,やめてほしいんです,危ないことは。」

『ついて来ちゃダメだって言ってるでしょ。』

先生が「りあさん」に戻った時,何度もそう言われた。でも,やはり,今回はそれまでとはまったく違う響きがあった。

「無理です。」

安原が,答えに迷っていた俺を置き去りにする。変化があったのは,先生だけじゃなかった。安原は,覚悟を決めたように,強い口調で続けた。

「先生と会ってからいろいろなことがありました。危険な目に遭ったこともあります。でも,それでよかったんです。ひとつひとつが,意味のある経験だったって思えるんです。だから,今さら後戻りなんてできません。」

「…そうですか。」

先生は,ため息混じりに言って,背中を向けた。ゆっくりと歩き出すと,乱れた足音と,消え入りそうな声が重なる。

「そうですよね。こんなダメ教師のお願いなんて,聞けるわけないですよね。ほんとにごめんなさい…。」



週末。俺たちは,その後,先生と話ができないまま,「情報提供者」と会う日を迎えた。でも,もちろん,「準備」なしで接触するほど,無鉄砲なことはしない。

梅田と笹本さんに事情を話して,先生と一緒にいてもらうように頼んでおいた。笹本さんなら,相談があるとか何か理由をつけて,先生の近くにいてくれるだろう。非常事態になったら,携帯で助けを求めればいい。

場所も,知っているところ,というわけで,いつかの廃工場を指定した。俺が,コスプレイヤーのミオさんと一緒に大学生に拉致された場所だ。

俺は,携帯の画面で時刻を確認して,安原に声をかけた。

「もうすぐだな。」

「ああ。」

 安原は,薄暗がりのなか,目を凝らして,入口付近の様子をうかがっている。俺は,振り返って,奥にある小さな扉に目をやった。退路は確保してある。これなら…。

「あっ!」 

思わず声が出た。安原の携帯が,緊張感のないアニソンを奏で始めたからだ。

「おい。マナーモードにしておけって…。」

言いかけて,俺は,言葉を飲み込む。安原の目と口が,驚きで大開きになっていた。すぐに笹本さんからの緊急の電話だとわかる。興奮した女性の声が俺の耳にも届いていた。

「先生がいなくなった…。トイレに行く,って言って,ずっと戻ってこない,って…。」 安原は,それだけ言うので精一杯だった。

誰かに襲われた?

先生たちは,近くのショッピングモールにいたはずだ。そんな場所からどうやって連れ去られたのだろうか?それに,簡単にやられる先生じゃない。きっと相手はかなりの人数だろう。それなら,大きな騒ぎになっていなければおかしい。なのに,笹本さんも梅田も,それに気づかなかった…。

「とにかく警察に電話しよう。」

考えをめぐらせていた俺は,安原の声で我に返った。

「待て。」

俺は,発信ボタンを押そうとした安原の腕をつかんだ。

「警察?どうやって説明するつもりだ?まさか『メイド・カフェ閉店の原因を探ってたら,担任が失踪しました』なんて言うつもりじゃないだろうな?イタズラだと思われるのがオチだ。」

「それは…。」

安原は口をつぐむ。俺は,自分に言い聞かせるように,言葉を押し出した。

「とにかく他の方法を考えるんだ。」

俺は,指の震えにもどかしさを感じながら,携帯の電話帳を検索する。誰か,助けてくれそうな人は…。

その時,俺の頭に浮かんだのは,穏やかな微笑みと優雅な立ち振る舞い…。

ネットで検索した電話番号に音声発信してみる。物腰の柔らかい「男性」が出て,「出勤していない」と告げた。俺は,棒立ちになったままの安原に訊いた。

「なあ。シャールさんの連絡先わかるか?」

自称「アキバの自警団」のリーダー。胡散臭いのは承知だったけど,そんなことを言っていられる場合じゃない。

「藤村が知らないなら,わかるわけないだろ?アキバのことは,お前のほうが詳しいし,知り合いも多いんだから。」

安原は,見るも無惨に凹んでいたが,それは正論だった。俺は,少しでも「可能性」が感じられれば,とりあえず電話してみた。そのあいだ安原は,ショッピングモール内を探し回っている梅田と連絡を取っていた。

時間は刻々と過ぎて行くが,何の成果もなかった。そろそろ限界かもしれない。

俺は,「最終手段」を取ろうと決めた。もう一度携帯で「ギャルソン・カフェ フリージア」を検索する。こうなったら,もう仲間のギャルソンさんに事情を説明して,シャールさんの連絡先を教えてもらうしかない。大きく深呼吸してから,音声発信しようとした。

その時だった。

心臓が飛び出しそう,というのは,ああいう瞬間のことを言うのだろう。俺も,安原も,

驚きで身体を硬直させた。

どこからか押し殺すような笑いが聞こえてきた。

俺は,身構えて,思い切り虚勢を張って叫んだ。

「だ,誰だ?出てこい!」

その声は,情けないくらいうわずっていた。すると,笑い声が消え,床を鳴らす靴音がそれに代わった。

「これは失礼しました。あまりに微笑ましかったもので,つい…。」

物陰から現れたのは,裾の長い黒いジャケットを着た…「男」。

「シャールさん…。」

俺たちは,同時に言葉をもらした。

必死になって探していた人物は,すぐ近くにいた。おそらく,俺たちよりも先に来ていて,ずっと隠れていたということだ。わけがわからなかった。

シャールさんは,俺たちの疑問に気づいてか,笑みを見せて口を開いた。

「このあいだもお話ししましたが,最近みなさんに先回りされて,大事な場面に間に合わない,ということばかりでしてね。このままじゃ,『アキバの自警団』としてカッコがつかないと思い,ここに来させていただいたというわけです。本当は,もう少し様子を見ていようと思ったのですが,つい…。」

「あの…。微笑ましい,とか言いましたね。僕たちは,これでも真剣なんですよ。」

あまりに余裕を感じさせる態度が鼻についたのだろう。安原は,明らかに苛立っていた。

シャールさんは,深々と頭を下げて言う。

「本当に申し訳ありません。でも,お二人が,あまりに先生思いなものだから。だって,いいですか。もし,先生が誰かに襲われたのなら,当然あなた方にも危険が及ぶはずです。」 まったくそのとおりだった。先生が姿を消したということが,いろいろな意味で衝撃的だったために,俺たちはすっかり自分たちが置かれている立場を忘れていた。

「少し遅れているようですね。」

シャールさんは,懐中時計を取り出して,首をかしげる。俺は,勢い込んで訊いた。

「もしかして,相手を知ってるんですか?」

「ええ。」

 即答だった。安原が,慌てて割って入る。

「勝てるんですか?」

「勝つ?そうですね。戦えとおっしゃるなら,そうしますが…。」

シャールさんは,愉快そうに肩を揺らしながら言う。

「残念ながら,勝てるとは思えません。でも,時間かせぎくらいなら,おや…。」

言葉を遮ったのは,聞き覚えのある音だった。金属が軋む…耳障りの悪い音。

ゆっくりと扉が開いていく。すると,目に飛び込んできた光景まで,あの時と同じだった。外の光を背にして,小柄な女性が立っている。

 違いと言えば,シルエットが2つということだった。



それから2時間後。俺たちは病室にいた。

都心から離れた海沿いの土地。周囲に目立つ建物もない小さな漁村だが,設備がよく整えられた病院のようだった。

男子高校生2人と執事,それにメイドが2人。まったく病室に不似合いな集団だった。でも,漂う空気には病院に似つかわしい重苦しさがあった。

「安原君,藤村君。これがおふたりが知りたかった真実です。」

 先生が,音を立てずにカーテンを開いた。若い女性が,ベッドで上半身を起こしているのが見える。俺は,挨拶しようとして,言葉を呑みこんだ。

「先生。この人…。」

二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。はっきりした目鼻立ちに,ショートカットがよく似合っていて,十分魅力的な容姿だった。が,そこには何の感情も見られなかった。視線は,俺たちの誰とも交わることはなく,どこか遠いところに向けられている。

「ルミさんです。以前わたしたちと一緒に『すうぃーと・はあと』で働いていました。」 先生は,そう言って視線を横に滑らす。隣にいたエリナさんは,目を伏せて,唇を噛んでいた。心配そうに見ていた安原が,言葉を選ぶようにして訊く。

「あの…ルミさん…は,ずっとこのまま,なんですか?」

「…そのことも含めて,『すうぃーと・はあと』に何があったかお話ししましょう。」

 病室のドアが閉まっているのを確認して,先生は静かに語り始めた。

 当時「すうぃーと・はあと」は,アキバ屈指の人気メイド・カフェだった。週末ともなると店の外に長い列ができ,入店まで2時間待つことも珍しくなかった。メディアにも頻繁に登場し,経営は順調そのものだった。

 そんなある日,エリナさんと並んで期待の新人と言われていたルミさんが自殺を図った。「インターネットの掲示板でひどい叩かれ方をしたことが原因でした。」

 書き込まれた内容というのは,「すうぃーと・はあと」のメイドが客相手に援交している,というものだった。

「もちろん,そんな事実はありません。」

 書き込みがあった頃,運悪く,ルミさんは,つきあっていた彼氏とデートしているところを客に見られた。それから,ルミさんが援交していると決めつけ,非難する書き込みが相次いだ。

「ルミさんは,自分を責めていたんです。店で禁止されているのに,お客様と恋愛をしたことで,たくさんの人に迷惑をかけてしまった,って…。」

 発見が早く,ルミさんは一命をとりとめたが,心は完全に壊れてしまったようだ。

「こんなことって…。」

 安原は,それだけつぶやいて,握りしめた拳を震わせた。寄り添うために近づいたエリナさんの頬を涙がこぼれ落ちる。

 俺は,ふと思い当たって訊いた。 

「先生は,書き込んだ犯人を知ってるんじゃないですか。ネットの掲示板に手を回して,次々と書き込みを削除するようなことができるなら,そのくらいわけはないと思いますが。」

「それは…」

 あまりにストレートな質問だとわかっていた。でも,ここまで知ってしまったら,後戻りはできない。安原もそう思っているはずだった。

 沈黙のなか,首がかすかに縦に動いた。先生が何か言おうとした瞬間,病室のドアが開いた。

 買い物袋をさげて立っていたのは,派手な顔立ちの若い女性だった。ギャル御用達の雑誌からそのまま飛び出してきたという印象だ。

「あっ。みなさん,いらしてたんですね。」

 少し戸惑いが見られたが,すぐに彼女の顔に笑みが広がる。先生が,近づいて,肩を抱いて紹介した。

「ミチさんです。彼女も,『すうぃーと・はあと』のメイドさんだったんです。ずっとルミさんについていてくれて…。あっ!」

「いい加減にしな。りあ。なにタラタラやってんだよ?」 

背後からの声に,みんながいっせいに振り返った。視線の先に,半開きのドアにもたれたカレンさんがいた。



 翌日。俺と安原は「みるきぃスマイル」にいた。

 先生やエリナさんのために何ができるか話し合うためだった。まあ,一人で部屋にいたくなかった,というのが大きい。話し合う,といっても,ろくな考えが浮かびそうにないことはわかっていた。

閉店間際だというのに,日曜日だったからか,店内は常連客で混雑していた。その一番奥の席,俺の目の前で,安原は黙り込んだままだった。テーブルの上のコーヒーが湯気を立てるのを止めてからずいぶん経つ。

俺は,構わず,考えを巡らす。

ネットの掲示板にメイドに対する誹謗中傷が書き込まれるのは,珍しいことじゃない。実際に,援交について書かれたものを目にしたこともある。でも,たいていは,ちょっと

掲示板が荒れるくらいで,いつのまにか何事もなかったかのように話題にならなくなる。

ところが,不幸な偶然のせいで,大きな悲劇につながってしまった。もともとルミさんは,精神的に弱い部分があったようだ。サイトを開いたら,自分を非難する書き込みがある。しかも,目の前で,すごい勢いで増えていく。これでは,パニックになるのも無理はなかった。ただでさえ,ルールを破っているという負い目があったんだから。

先生は,「犯人」を知っている。そして,おそらく「犯人」を罰することを,カレンさんに任されている。

『もう待てない』

 カレンさんは,あの日,俺たちにメッセージを託した。それでも先生が動かないのを知ると,病室に乗り込んできた。シャールさんが連れ出してくれなかったら,あの場で先生と戦いかねない勢いだった。

 先生は,「犯人」をかばっている。というか,その人が自分から言い出すのを待っているということかもしれない。だとしたら,それは先生がよく知っている人物ということになる。 

いずれにしても,「その時」は迫っている。「すうぃーと・はあと」閉店からもう2年。

関係者にとっては,つらすぎる時間だったはずだ。

「失礼します。」

 声がしたほうに顔を向けると,メイドさんが立っていた。彼女−ルリさん−は,系列店からの移籍組で,この日「体調不良」だったエリナさんに代わって店を仕切っていた。

「すいません。もう閉店ですよね。」

 そう言って,安原が立ち上がろうとした。気づくと,店内の客もずいぶん少なくなっている。ルリさんは,テーブルの上に身をかがめるようにして,小声で言った。

「あちらのお客様からです。」

 小さなメモが置かれる。ルリさんの視線を追うと,カウンター席の客と目が合った。

「師匠…。」

うなずいて見せたのは,そう呼ばれている常連で,アキバの生き証人のような老人だった。素性は謎に包まれているが,情報収集能力は驚異的で,住人たちから尊敬を集めている。

 紙を広げると,筆ペンで見慣れない住所が書かれていた。

「いつもありがとうございます。」

 口のなかでつぶやいて,俺たちは伝票を手にして,席を立った。



『よくもまあ…』

師匠が俺たちを導いたのは,またしても廃工場だった。

 世間には「廃墟萌え」と呼ばれる人たちが存在する。そんな人たちに嫉妬されそうなくらい,俺たちは廃墟に縁があった。

そこには確かに人の気配が感じられた。足音を忍ばせて中に入っていく。吐く息で視界が白くけむり,靴底を通して地面の冷たさが伝わってきた。

「認めなよ。もう逃げられないんだからさ。」

 最初に聞こえたのは,カレンさんの声だった。物陰からのぞくと,中にいたのは4人。裸電球の光がぼんやりその姿を照らし出している。

「やめてください。こんなことをしても,ルミさんが元に戻るわけじゃありません。」 

カレンさんの背後からすがるように言ったのは,先生だ。その肩には,エリナさんがもたれかかっていた。精神的なショックで立っているのも厳しいという様子だった。

振り向いて安原を見た。安原は,口唇を噛んで,目をそらすように何もない空間を見つめていた。

「もういいよ。認めるから。やったのは,あたし。これでいいんだよね?」

 そう吐き捨てて,カレンさんのほうに踏み出したのは…ミチさんだった。

「やっと認めたね。まずは理由を聞かせてもらおうか。あんた,ルミに何の恨みがあったんだ?」 

カレンさんは,そう言いながら,ミチさんの後ろに回り込んだ。入口側に立つことで,逃がさないようにしようとしたのだろう。

ミチさんが,身体の向きを変えて答える。

「別にルミに恨みがあったわけじゃないんだ。ちょっと店の評判を落としてやりたいと思っただけだよ。」

「店の評判?何だよ,それ。」

「メイド長さんを困らせてやりたかったんだよ。」

 ミチさんは振り返って,先生に視線を送った。半開きになった先生の口から,言葉が洩れ出した。 

「え…わたし…ですか?そんな…。」

近づこうとする先生を,ミチさんが手のひらで制して,続ける。

「気づいてなかったようだけど,大嫌いだったんだ,あんたのこと。たいして仕事もできないくせに,人気だけは一番で。もううんざりだったんだよ。店に来た客が,あんたが出勤してないとわかった時,がっかりした顔見せるのも,あたしがオムライスに絵を描いてるあいだ,客があんたをチラ見したりしてんのも。」

 気持ちはわからなくもなかった。ギャルが入ったミチさんは,世間一般では十分モテる部類に入るだろう。ただし,場所がアキバなら別だ。先生には,とうていかなわないはずだった。でも,それが人を傷つけていいという理由にはならない。

「まあ,予想外なことになったけど,あれでよかったんだ。だって,ルミは,あんたに憧れてるなんて,言ってたんだから。仕事を教えてやったのは,あたしなのにさ。結局,店もなくなって,あんたは居場所をなくした。ねえ。ネットって,便利だよね。たった1行書き込むだけで,あとは勝手に悪意を増幅してくれるんだからさ。」

俺は,先生のほうを見た。泣いていたのだろう。先生は,うつむいて小さな身体を振るわせていた。慰める立場に代わったエリナさんが,優しく背中をなで始める。

腹が立った。身勝手な理屈を堂々と口にするミチさんにも,彼女に同情しかけた自分にも。

「へえ。そうだったんだ。で,他に言いたいことは?」

 カレンさんが,ライダースジャケットを脱ぎ捨てた。一段と低く聞こえた声から怒りの大きさが伝わってくる。

「ああ。もういいよ。気が済むようにすればいい。」

ミチさんは,肩に掛けていたバッグを投げ捨てて,大きく手を広げた。カレンさんが距離をつめていく。

「ふん。無抵抗だからって,遠慮はしないよ。」

「気にしなくていいよ。あたしの力じゃ,どっちみちあんたには勝てないんだから。」

 ミチさんは目を閉じた。その顔を見て,意外に思う。悪意は消え去っていて,どこかほっとしたような,そんな表情だった。

「待ってください。」

 空気を震わすように響いたのは,先生の声だった。その顔にもう涙はなかった。そこにいたのは,俺たちが知っている「りあさん」だった。

「カレンさん。今回の件は,わたしに任せていただいたはずです。手出しはしないでください。」

「へえ。やっとその気になったんだね。喜びな,ミチ。伝説のメイド長さんが直々に粛正してくださるそうだよ。」

 カレンさんは,ミチさんの肩を軽く叩いて,元の立ち位置に戻った。

「別にもう誰が相手でも構いやしないよ。早くしてくれないか。」

 ミチさんは,手を広げたまま,先生に向き直った。それを見た先生が,首を大きく横に振る。

「ダメですよ,無抵抗なんて。こういう時は,タイマンって決まってるんです。」 

「タイマン?さっきから言ってるだろ?あたしはどうやったって,あんたたちには勝てないって。」

ミチさんが,じれったそうに顔をしかめる。先生は,また首を振って,後ろ向きに歩き始めた。

「あなたの相手は,カレンさんでも,わたしでもなくて…。」

 ためるようにそう言って,先生が指さしたのは…。



 張り手をくらって,エリナさんが倒れ込んだ。

 もう何回こんな場面が繰り返されただろうか。エリナさんは,ひたすら不格好なタックルを仕掛け続けていた。それを受け止めて,ミチさんが,いなすように張り倒す。エリナさんのメイド服は,ほこりまみれで,完全に色が変わっていた。

深夜の廃工場でもつれあうメイド二人。立会人は,これまたメイド二人…と男子高校生。 先生がエリナさんを指名したとき,驚いた安原が声を出したために見つかったわけだ。

多分,そんなことがなくても,先生は気づいていただろうけど。

それからもう一人「追加組」がいた。いきなり登場するなり,「試合」のレフェリーをしたいと申し出たシャールさんだ。アキバ住人のトラブルには立ち会わなければ気が済まないと言っていた。「自警団」ってのも,たいへんみたいだ。シャールさんが「夜回り執事」と呼ばれる日も近いかもしれない。

ふと隣を見た。不謹慎なことを考えた俺と違って,安原はひどく痛々しい姿になっていた。それはそうだろう。目の前で好きな女の人が殴り倒されるのを見る,なんてめったにある経験じゃない。

安原は,何度も目を閉じようとした。その度に先生が耳元でささやくのが聞こえた。

「見届けてあげてください。エリナさんは,必死に戦っているんです。」

俺は,ぼんやりと思った。確かに,それが,知ってしまった者が負う義務かもしれない。

「ギブアップ?」

 のぞきこんだシャールさんが訊いた。エリナさんは,首を振り,歯を食いしばって立ち上がろうとする。

あまりに単調な攻撃だった。

エリナさんは,低い姿勢で飛び込んで,ミチさんの下半身をつかまえる。そして,数発の打撃を受けて倒れるまで,太股のあたりをポカポカと叩くだけだった。ミチさんは,見た目以上に身体のバランスがよく,エリナさんのタックルでは崩せそうになかった。よほど関節技に自信があるのだろうか。それでも,エリナさんは,足を取るのを止めようとしない。

 じれったくなって俺は視線を移した。「りあさん」は,慌てる様子もなく,無言でただそこに立っていた。そして,カレンさんはというと,腕を組んで,無表情で壁にもたれている。

『何かアドバイスを…。』

 そう言おうとしたが,俺の口からは別の言葉が飛び出した。

「ああっ…。」

押されていた。エリナさんに組みつかれたミチさんが,2,3歩後ずさる。踏ん張りがきかなくなってきたようだ。太股への細かいパンチは,ピンポイントでダメージを蓄積させていた。

ミチさんの表情が変わる。エリナさんの背中に拳を叩き込んで,離れ際に顔面を蹴った。足の甲が頬のあたりに入って,エリナさんは,力無く崩れ落ちた。

 万事休す,という状況だった。大の字になったエリナさんは,天井を見上げ,苦しそうに息をしていた。ミチさんは,シャールさんにカウントを要請する。

「ワン。ツー。スリー。」

 どう見ても立てそうになかった。格闘技の試合なら,タオルが投げ込まれるところだ。 カレンさんが,壁から離れて,二人に近づいていく。今度は自分の番だ,と言いたげに腕を回していた。 

「待ってください!」

 突然耳元で叫ばれて,思わず飛び退いた。安原が,俺の脇をすり抜けて,前に進み出る。

「立ってください。まだ終わってないですよ。だって,言いたいこと何も言ってないじゃないですか。エリナさん。前に話してくれましたよね?新人メイドだった頃のこと。尊敬できる先輩たちに囲まれてた,って。ねえ。いろいろ言いたいことありますよね?言ってください。きっと,これが最後の機会なんですよ。」

俺は,安原の背中を見つめていた。ここまで感情を露わにするのを見たのは初めてだった。学校でも,アキバでも,基本的にテンションは高くない。だから,一緒に行動できるというのがあるが。

「2年というのは,短い時間じゃなかったはずです。それぞれが抱えてきた思いが…。」

安原の声は,そこで裏返り,言葉が途切れた。

 その時,視界の隅で何かが動いた。顔を向けると,地面を蹴って飛び込んでいくエリナさんが見えた。

「えっ!?」

ミチさんは,完全にふいをつかれた。左の太股を両腕で抱え込まれて,足の裏が床から浮いた。

「よし!」

俺は,安原と同時に叫んでいた。

「ああああああああああああああ…。」

絶叫とともに,エリナさんは,力任せに前進した。そして,壁際まで押し込んで,そのままミチさんの全身を壁に叩きつけた。

 鈍い音が響き,二人は,絡み合いながら地面に落ちていく。そして,大きくほこりを吹き上げて,重なるように仰向けに倒れた。

駆け寄ってみると,下になったエリナさんの腕がミチさんの首に,脚が胴に巻き付いていた。胴締めチョークスリーパーの完成だった。

「どうしてなんですかあ?ミチさん。言ってくれたじゃないですか?りあさんのような人気メイドだけで店は回ってるんじゃない,それぞれが役割を果たすことで,店がよくなるんだって。だから,頑張ろうって。だから,わたしは,わたしは…。」

エリナさんは,声の限りに叫び声を上げた。時間が経つにつれて,腕と脚がミチさんの身体に深く食い込んでいく。

「ミチさんは,見た目は派手かもしれないけど…いつも控えめで,店全体をちゃんと見てて…だから,わたし,関心して…尊敬して…わたしが目指すのは,ミチさんのようなメイドさんなんだって…それなのに,どうして…ねえ,どうして…。」

 ついに,何かをつかもうとするように宙をさまよっていたミチさんの両手が,パタリと落ちた。



駅で安原と別れた俺は,歩きながら携帯の通話履歴を開いた。そして,ミオさんにかけようとして,とどまった。

 時間が遅かったから,だけじゃない。声が聞きたかったけど,一人で考えるべき時だと思ったからだ。

俺たちは,ずっと知りたかった真実にたどりついた。と言っても,結局俺には何もできなかった。先生が,迷いながらも,安原の覚悟を知って,話す気になっただけだ。

そう。安原は,変わった。しかも,ほんのわずかな時間で。

 俺も,一人で考えるべきだ,と思った。 

それにしても…知るのと,知らないのでは,どっちがよかったんだろう。

 安原は,今回の件が解決しなければ,みんな幸せになれない,と言っていた。きっと,あれで,一区切りだと思う。それなら,みんな過去から解放されたのか?

 それはわからない。

 先生は,書き込んだ「犯人」を知っていたのに,本人が言い出すのを待っていた。ネットに書き込まれる憶測を排除しながら。今ならそう確信できる。でも動機までは知らなかった。それを知って,余計につらくなったはずだ。それなのに,自分の悲しみや怒りよりも,エリナさんに気持ちをぶつけさせることを優先した。そして,締め落とされたミチさんを警察に引き渡さず,病院に運んだ。それは,許したということだろう。

 俺には,わからない。

 仲間が傷つけられ,大切な場所を奪われて,2年間耐え続けた。それなのに,自分の気持ちは何一つ口にしないで,ミチさんを許したことが。

先生だけじゃない。

さんざん不満をもらしながら,結局カレンさんも,自分の気持ちを抑えた。そして,シャールさんは,言い訳をしながら,そんなカレンさんを見守り続けてきた。

どうしたら,そんな気持ちになれるのだろう。俺なら…。

どう考えてみても,答えは出ない。

ふと思った。俺は,なにをこんなに悩んでいるのか,と。極端な個人主義を自認してきた俺が,他人のことで…。

1年前なら想像もできないことだった。

 安原は,先生と会ってからすべてが変わった,と言った。そして,俺にも,同じ長さの時間が流れている。1年という時間が。

それなら…。まだわからなくていいのかもしれない。いつかわかる時がある,ということにしておこう。

でも,それは,いつだろう。先生と同じくらいの歳になれば,もしかしたら…。

 「大人か…。」

つぶやいてみた。

それがわかるなら,大人っていうのも悪くないのかもしれない。それまでは,少なくとも感じたことを忘れずにいて,できることをやるだけだ。

ふと,安原にした質問を思い出す。あれは自分自身に問うべきだったんじゃないかと思った。

 『それって,生きるのが楽しくなった,ってことだろ?』


〜 めいせん 第6回『Cruel World to Heaven』完 〜




           

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