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めいせん  作者: KEY-D
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第4回



 スピーカーから大音量で流れていた音楽が途切れた。私は,ハレーションに目を細めながら,息を吐き出した。入れ替わりにわき起こった歓声が,鼓膜を揺さぶる。 周囲に押し流されるように駆け出した。脈打ち始めたリズムを全身に浴びて,ステージとの距離を詰めていく。

 ギターがリフを刻み始めた。その瞬間,沸点に達した塊がはじけとんだ。それぞれが,好き勝手に身体をぶつけ合い,前にある身体を乗り越えて行く。

 そう。すべてから解放されたように。

1曲目からすさまじいテンションだった。バンドも,観客も,エネルギーを叩きつけながら,高みを目指して行く。

 乗り遅れたくない。私も,力任せに,渦の中に身体をねじ込んだ。肩と肩が接触し,はじき飛ばされた先に,別の肩が待っている。それを繰り返すうちに,信じられないほど気持ちが高ぶってきた。

 この感覚。これを味わうために,ここにいるんだ。私は,足にいっそう力を込めて,跳ね始めた。そうだ。もっと…。

突然,息がつまった。誰かのひじが,みぞおちに入ったようだ。うずくまりそうになるのをなんとか踏みとどまった。

いったん下がって,手近な鉄柵にもたれて呼吸を整える。咳き込むと,苦い液体が口の中に広がった。吐き出して,身体の向きを変え,ステージを見上げた。

3曲目になっていたが,何も変わっていなかった。あふれ続ける轟音が,容赦なく私の身体を撃ち抜いていく。

まだ終われない。

私は,ファイティング・ポーズをとり,目の前の狂騒の波をしっかりと見据えた。




めいせん

第4話 「モッシュ アンダー ザ ブリッジ」




おびただしい量の汗が,Tシャツの中をしたたり落ちていく。

 ステージ後方に移動する人波に身を任せ,たどりついた芝生に倒れ込んだ。とりあえず,仰向けになって,息を整える。

 日差しがさらに強くなっていた。目を閉じてもまぶしいくらいだった。私は,手探りでつかんだペットボトルの水を喉に流し込んだ。  立ち上がる気力はなかった。疲れ切っていた。でも,心地よかった。全部出し切った充実感があった。 完全に力を抜くと,そこにあるものが,身体に入り込んできた。光,風,喧噪,芝生のにおい…。私は,野外ロックフェスの空気との一体感に酔っていた。

どれくらい時間が経っただろうか。突然,別の感覚が身体に伝わった。 携帯の着信だった。私は,薄目を開けて,通話ボタンを押した。すると,よりによって一番聞きたくない声が,耳に響いてきた。

「た…助けてくださいっ…永田先生…うっ…梅田君が…首をつって…自殺しましたっ。」




 それから2時間後。

特急に飛び乗って,東京に戻った私は,病室のベッドに横たわる梅田彰を見下ろしてい

た。私の隣では,龍ヶ峰アリスが,床に崩れ落ちて,泣きじゃくっていた。

龍ヶ峰は,半年ほど前から勤務している臨時採用の教員だ。小柄で童顔なので,ほとん

ど生徒と見分けがつかないほどだが,生徒より手が掛かるダメ教師だった。こんな人間が

学年にいるのは,まったく学年主任として不運としか言いようがない。

赴任直後から失態を演じ続ける龍ヶ峰だったが,なぜか解雇されることはなかった。教

頭が,「理事長のコネで来た。」と言っていたこともあり,教師のなかには「理事長の愛

人説」を唱える者もいた。

「なぜこんなことになったんですか。」

 尋ねた私に,龍ヶ峰は,嗚咽の隙間に,まったく要領を得ない言葉をもらした。すると,付き添っていた安原洋司という生徒が,見かねて説明を代わろうと申し出た。

 安原が話したのは,こんな内容だった。

 その日,安原は,龍ヶ峰から呼び出された。部活動に必要なものを買いに行くと言われたようだ。安原は,数ヶ月前,校内でも変わり者で有名な藤村賢崇と「アニメ・特撮同好会」を作った。そこの顧問を引き受けていたのが龍ヶ峰だった。梅田は,いわゆるオタクではないが,幼なじみの安原に巻き込まれる形で,同好会の活動につき合わされていた。

4人は,秋葉原駅近くで待ち合わせていたが,集合時間を過ぎても,梅田は現れなかった。安原が電話すると,梅田はまだ電車の中だったという。

「最初,彰は,遅れた理由を言おうとしなかったんですが,なんとか聞き出したら…。」

安原は,言いにくそうに少しためらってから,視線をそらすようにして続けた。

「首,というか首の筋がつった,って…。」

あきれた話だった。

ダメ教師は,「首がつった」というところだけ聞くと,顔色を変えて駆け出したらしい。

おそらく,パニック状態で私に電話してきたということだろう。

そんなことのために,私は年に一度の楽しみを奪われたというのか。

私は,腹立ちをにじませながら,安原に聞いた。

「じゃあ,なぜこいつは病院にいるんだ?いくらなんでも,そこまで首を痛めたわけじゃないだろう。」

「それは…。」

安原が口ごもった。すると,今度は,藤村が「代打」をかって出た。

「とにかく,わかってほしいのは,誰も悪くないということです。いろいろ誤解が重なっただけなんです。」

そう前置きして,藤村は,気遣うように龍ヶ峰を見ながら言った。

「先生が駅に駆け込んだとき,たまたま改札から彰が出てきたんです。彰を見つけた先生は…。」

龍ヶ峰は,いきなり梅田に殴りかかったようだ。「命を粗末にしちゃダメでしょ。」と叫びながら。

私は,振り返って見下ろした。そこでは,メイドのような服を着た小柄な女が,床に涙のしみを作っていた。秋葉原駅の改札でKOシーン。観光で来ていた外国人にとっては,さぞかし面白い見せ物だったことだろう。

「しかし,見かけによらない馬鹿力ですね。パンチ一発で,病院送りとは。これじゃ,首が無事でも,他がどうにかなっても,おかしくないですよ。」

私が,ありったけの嫌みを込めて言うと,龍ヶ峰は,いっそう大きな声で泣きじゃくった。




「ただいま。」

 呼びかけてみたが,返事はなかった。予想どおり,家には誰もいなかった。私は,肩にかけていたゴルフバッグを下ろして,玄関の明かりをつけた。

妻は,いつもの外出だった。インターネットのサイトで知り合った人との集まりだ。オフ会というらしい。

昨年妻は,ある韓流スターに夢中になった。そのときは,どうせすぐに飽きるだろうと思っていた。それが,韓流ブームが下火になっても,全然冷める様子がない。

 私は,ため息をついて,靴を脱いだ。背後で,ゴルフバッグが音を立てて倒れたが,構わず居間に入っていく。「アリバイ作り」のため持って出て,駅のロッカーに入れておいただけ。それ以上の意味はなかった。

考えてみれば,おたがいさま,ということだ。責めることはできない。それに,妻がそうなったのも,無理もないことだった。

私たちは,見合い結婚だった。教頭―当時はまだ平教員だったが―の紹介でつき合い始め,お互いに「無難」ということが理由で結婚に至った。

 妻の家は,わりと厳格なほうで,ろくに恋愛もしないうちに就職したらしい。そういうわけで,世間が恋愛に対してオープンになった現在,「失われた青春」を取り戻そうとしても,なんの不思議もない。あくまでも疑似恋愛だし,そこらの若い男に入れあげるよりは,ずっと罪がないから,私もとやかく言うことはなかった。

 でも,実際は虚しいものだ。

 趣味の違う人間同士が時間を共有することは難しい。私は,自分の趣味を封印して,無難な人間を演じてきた。お互いに当たり障りのないことだけ話すほうが,かえってストレスがたまらない。家族という体裁を整えることを優先させるために,必要なことだと思っていた。

 妻は,そこから「降りた」。そして…。

 私は,リビングの壁に目をやる。そこには,差し込む日光にさらされ色あせた写真があった。写真のなかで,私たち夫婦と,まだ幼い娘が笑っている。

あれは,2年前のことだ。都内の大学に通っていた娘が,突然家を出たいと言い出した。男と暮らすためだという。とうてい許せる話ではなかった。私は,妻の反対を押し切り,男に会いに行った。それを知った娘は,家を飛び出し,そのまま帰らなくなった。

自分でも,やりすぎだったとわかっている。でも,私を感情的にさせたのには原因があった。その男というのは,アマチュアのバンドマンだった。プロを目指すと言いながら,何年もフリーター生活を続けていたようだ。

皮肉だった。その男には関係ないことで,筋が通っていないことも承知のうえだが,私は思わずにはいられなかった。何のために音楽を捨てたのか,と。

私は,学生時代バンド活動をしていた。始めた頃は,怖いものなしで,「プロになってみせる」と意気込んだものだ。だが,次第に限界が見えて,結局音楽の道を諦めた。あてのない夢を追い続けるより,「普通の幸せ」を選んだのだ。「好きなことは仕事にしないほうがいい」などと自分に言い聞かせて。そして,結婚してからは,時折家族に内緒でライブに行くことだけを密かな楽しみにしていた。私は,ずっと心の中でくすぶる音楽への思いを,必死に押さえてきた。

本当に皮肉だ。私のやってきたことは,すべて裏目に出た。無難なキャラクターを演じてきたのに,つまらない私が身近にいたから,妻も娘も違うタイプの人間に惹かれた。そう思えて仕方なかった。

自室に入り,ポケットから携帯を取り出して,机の上に置こうとした。そのとき,着信が1件あり,留守電にメッセージがあることに気づいた。再生してみると,またしても龍ヶ峰からだった。泣き続けていて,仕事上の通話と呼べるものではなかったが,ところどころなんとか聞き取れた。

「本当にすみません…大事なゴルフの途中だったのに…出世に影響が…どうしたらいいか…近いうちに…教頭先生に…。」

出世?教頭?

 笑える。自分の娘一人まともに育てられなかった人間に,何の教育ができというのだろう。私は,床のクッションの上に携帯を放り投げた。




「も,申しわけありませんです。いつも迷惑ばかりおかけして…。」

 現れた龍ヶ峰は,小さな身体をさらに縮ませて,蚊の鳴くような声で言った。

 フェスから2週間が過ぎていた。夏休みも後半に入り,校内は夏期課外の期間中だった。

その日,私は,教頭に言われて,「生徒相談室」に龍ヶ峰を呼び出した。

気が進まなかった。

 教頭は,いつでも自分がやりたくない「仕事」を押しつけてくる。若い教師に嫌味を言

いたいのに,嫌われ役になりたくなくて,自分では何もしない。いつでも「管理責任」とい

う言葉を振りかざして,私に「指導」するように言うのだ。

そんな男の言いなりになっている自分がつくづく嫌になっていた。

「どうしたんですか。なぜ何も言ってくれないんですかぁ。」

 気づくと,龍ヶ峰が,思索に耽っていた私の顔をのぞき込んでいた。私は,慌てて,思いついたことを口にした。

「あなたに何を言っても仕方ないと思っているだけですよ。」

「お願いしますっ。見捨てないでくださいっ。わたし,もっと頑張りますっ。」

「頑張るのはいいんですが,あなたが頑張るといつも…。」

「わたし,自分がダメだってこと…よくわかってて…それで…なんとかしようって…また

失敗して…もうほんとダメで…」

龍ヶ峰は,涙をこらえながら,必死に会話を続けようとしていた。すると,私の口から,

思いがけない言葉が滑り出した。

「そうでもないかもな。」

私は,自分がなぜそんなことを言い出したのかわからなかった。もちろん,その言葉に

戸惑ったのは,私だけではなかった。龍ヶ峰の大きな瞳がより一層大きく見開かれ,涙が

一筋頬を伝って落ちた。

「えっ。ど…どういうことですか?」

「そ,それは,まだまだな点も多いのは,確かで…でも,そう,手を抜いているようには

見えないというか…。」

ある意味それは本音だった。でも,口にするつもりのないことだった。

「永田先生。それって…。」

龍ヶ峰が,いつものまっすぐな視線で見つめていた。私は,窓の外を見るふりをして顔

を背けた。

一生懸命やればやるほど泥沼にはまることがある。

私は,新採用の頃を思い出していた。

 あれは,学園祭の準備期間中のことだ。放課後,担任をしていたクラスの様子をみるた

めに,教室に行った。

生徒たちは,クラス劇の準備・練習に追われていた。教室の中を歩き回った私は,床に

座って一人ギターを弾いている男子がいるのを見つけた。その生徒は,私の存在に気づか

ず,一心不乱に弾いていた。アンプを通さない「生音」だったが,はっきりとわかった。そ

れは,学生時代よく聴いたイギリスのバンドの曲だった。たいして売れた曲ではなかった

ので,まさかそんな場所で耳にするとは思っていなかった。

『先生。この曲を知ってるんですか?』

 不覚だった。思わず口ずさんでいたようだ。 

そのとき以来,その生徒は,私と話をするために,頻繁に職員室に現れるようになった。

普段は無口だったが,好きな音楽のことになると,本当に楽しそうに喋った。そして,あ

る日,彼は,軽音楽部を作りたいと打ち明けた。

 私は,「顧問になってほしい」という申し出を快諾した。自分の趣味が誰かの役に立つ

ということが,単純にうれしかった。すぐに生徒会主任に相談し,職員会議で部の創設を

提案することとなった。

 しかし…。 

 バンドブームを経験したとはいえ,当時は,まだロックに対する偏見が残っていた。学

校のような「良識的な大人」が集まる場所はなおさらだった。提案は,あっさりと却下さ

れた。

 私は,事情を説明したときの生徒の表情を忘れることができない。その後,彼は,必要

なこと以外話さなくなり,そのまま卒業していった。

 期待させなければ,失望させることもなかった。それから,私は,「組織の歯車」のひとつになろうと決心した。

「あの…どうかしましたか?」

「い,いや,とにかく,今後は…。ん?」

 ドアの外でくしゃみをする音がした。耳を澄ますと,誰かが低い声で囁き合っているの

が聞こえた。

「やっぱり,お前たちか。」

 ドアを開けると,そこに,決まり悪そうな表情の安原と藤村が立っていた。

「すみません。ちょっと龍ヶ峰先生にお話があって…。」

「職員室で聞いたら,ここにいるって…。」

 二人は,ありきたりな言い訳をした。龍ヶ峰のことが心配で,様子を見にきたのは明ら

かだった。

 安原,藤村,梅田…。不良ではないが,大人を信用していない扱いにくい生徒たちだ。

放っておけば害になることもないので,教師たちも,自分からコミュニケーションを図ろ

うとはしない。私も,彼ら,特に藤村は苦手だ。しかし,龍ヶ峰は,いつのまにかしっか

りとした絆を作り上げていた。

ダメなのは私のほうだ。

 学生時代,好きなものを見つけた。だが,悲しいことに,才能に恵まれていなかった。

それで,教職に就き,家庭を持った。たまたま教職課目を取得していただけで,妻に対して恋という感情を抱いたこともない。それでも,私なりに,仕事にプライドを感じ,家族を愛してきた。なのに,職場では空回りを続け,家族の気持ちはバラバラだ。音楽ばかりでなく,教師としても,夫としても,父親としても,適性に欠けていたというのか。

 いい歳をして何一つ満足にできない私に何が言えるだろう。

「お話は以上です。」

 それだけ言うと,私は,足早にその場から離れた。 




帰宅すると,妻はまた外出中だった。もうどうでもいい気がした。

私は,自室に入り,押し入れのドアに手をかけた。一瞬ためらったが,叩きつけるように扉を脇に押しやる。腰をかがめた私は,手前にある段ボール箱を引きずり出した。そして,ほこりを払いながら,奥にあった革張りのケースを取り出す。

さびかけた取っ手を軋ませて開くと,そこにはかつて愛用していたギターが待っていた。弦の色は変わっていたが,それ以外はあの日のままだった。手に取ってみると,忘れようとしても忘れられない感覚が蘇ってきた。

『音楽の悲しみは,やめられないことだ。』

そんなことを言ったミュージシャンがいたのを思い出した。自分でも,口元に苦笑が浮かぶのがわかった。

軽く弦をかき鳴らしてみた。弾けないこともなさそうだった。いくつかコードを押さえてから,大雑把にチューニングしてみる。それが終わると,私は,また押し入れに頭を突っ込んで,アンプやその他のものを取り出した。

 束ねてあったシールドをほどき,ギターにつないだ。そして,エフェクターの箱に手を伸ばしかけて,引っ込めた。電池などあるはずもない。直接アンプにプラグを差し込んだ。

 スイッチを入れてみた。すると,ジリジリとしたノイズが耳を刺激し始めた。

 私は,傷だらけのピックを握り,背筋を伸ばした。左手で弦を押さえ,ゆっくり息を吐き出す。それから,視界から消えるほど右手を上げると,一気に振り下ろした。

 周囲の空気が振動を始める。私のギターは,20年以上の長い眠りから解き放たれた。

だが…。

そこには,期待していた快感は待っていなかった。

数多くのステージで共に過ごした相棒。それは,私の腕のなかで,苦しそうにのたうち回るばかりだった。

 必死にコントロールしようとしたが,どうにもならなかった。チューニングが狂っていたという問題ではなかった。

もちろんプロになれる腕でないことは,当時から十分すぎるほどわかっていた。だからこそ,すっぱりとやめることができたのだ。

 でも,こんな,ここまで…。

力をなくした私の手から,深紅のリッケンバッカーが滑り落ちた。




「そんな…。」

私は,状況を把握しきれずに,言葉につまっていた。

その日の夜。電話で呼び出されたのは,自宅からそう遠くない河原だった。人目につきにくい橋の下の暗がりで,数人の男たちが待っていた。

 だまされてホストに貢いで大きな借金を抱える。そして,どうにもならなくなって,借金取りに追われ風俗の世界ヘ…。

テレビではよくある話だ。でも,それがまさか自分の娘の身に起きるとは…。 

「ねえ。何かの間違いなんだから。キョウヤに聞いてもらえばわかるって言ってるじゃない。」

有香が,男の一人にすがるように言った。私とはまったく目を合わせようとせず,入れ込んだホストのことばかり気にしている。

「おねえちゃん。いい加減目を覚ましたらどうだ。ホストが,自分の店を持ちたいから,開店資金が必要だ,なんて言うのは,決まり文句なんだよ。あんただって,薄々感じてたんだろ。」

中心にいた兄貴分と思われる男が,ちょっと哀れむような面もちになって言った。

「嘘よ。すぐに資金集めのメドがつく,そしたら真っ先にお金を返す,って…。」

「わかんねえ女だな。」

兄貴分が,ため息混じりでつぶやいた。そして,振り返り,暗闇に向かって手招きする。

「お前から説明してくれよ,色男。」

「キョウヤ!」

有香が叫んだ。橋を支えている支柱の影から現れたのは,いかにもホストという感じの細身の男だった。泣き笑いの表情になった有香が駆け寄る。

「よかった。ね,この人たちに,話してあげて。わたしたち…。」

「あのさ。」

キョウヤは,うんざりという顔で,手のひらを突き出した。そのまま兄貴分の横まで進み出て,吐き捨てるように言った。

「ありえないから。あんな話,ふつう信じないでしょ。オレたちの話とかって,信じたフリして,ほんとはわかってて金を払う,ってのがお約束でしょ。」

「嘘だよね?何か理由があって,まさか…。」

有香が,私のほうを振り返った。その時,初めてきちんと視線が重なった。

久しぶりの再会は,あまりに苦いものだった。私を見上げる有香の瞳は,懐かしさどころか,憎しみを宿していた。そうだ。有香は,私が以前の彼氏のときと同じように,キョウヤと別れさせようとしたと思っているようだった。

「違うんだ。私は…。」

「何が違うのよ?父さんは,いつだってわたしを…。」

「ほんとめんどくさいなぁ。」

2年ぶりの親子の口論を遮ったのは,キョウヤだった。キョウヤは,大げさに肩をすくめて見せてから続けた。

「言いたくないけどさ,俺が本気で相手にしてたと思ってるの?オレはホストで,君は客。それだけなんだよね。」

「そういうことだ。おねえちゃん。こいつは,売れっ子ホストなんだよ。金があれば相手をする。金がなくなれば,それでおしまい,ってことさ。」

兄貴分が,うなずきながら付け加えた。それから,私に向き直って言った。

「で,どうするんです,お父さん。できれば,娘さんの借金を肩代わりしてもらいたいんですがね。こちらも,なるべく手荒なことはしたくないんでね。」

「わかった。」

一も二もなく,私は,そう答えていた。もちろん金のあてなどなかった。でも,それが親というものだ。

「よかった。よかった。これで一件落着だ。ご苦労だったな,キョウヤ。」

「こんなことでよければ,いつでもお手伝いしますよ。」

兄貴分とキョウヤが笑みを交わした。私は,ほっとして,有香の肩に手を伸ばした。

「さあ。一緒に帰ろ…。あっ。」

有香の身体が,私の手をすり抜けて,その場に崩れ落ちた。脱力した有香が,やっと聞き取れるほどの声でつぶやく。

「余計なこと…しないでよ。もう…わたしなんて…どうなったっていいんだから。」

「あーあ。せっかく話がまとまったのに,ほんとわかんない女だなあ。」

 キョウヤが,また肩をすくめて見せた。兄貴分は,苦笑しながら,私と有香を交互に見て言った。 

「まあ,俺たちとしては,どっちでもいいんだがな。肩代わりでも風俗でも。」

「もういいよ。働けばいいんでしょ…風俗で。」

 有香の瞳は,なんの感情も映していなかった。あまりに痛々しい姿だった。私は,どう

したらいいのかわからない自分が,ただただふがいなかった。

「ほんと痛いなあ。ねえ,有香ちゃん。最後にひとつだけ忠告してあげるね。君…。」

冷たい笑みを浮かべたキョウヤが,有香を見下ろして言った。 「重いよ。有香ちゃん。君,ホスト遊びにも,恋愛にも向いてないから。これからは,気をつけるんだよ。」

「ちゃんと聞いておけよ。恋愛のプロのイケメンさんが言うんだから,間違いねえ。って,今からじゃ,もう手遅れか?」

 兄貴分が茶化すと,男たちからどっと笑いが起こった。 限界だった。これ以上有香を惨めな目に遭わせるわけにはいかない。私は,肩掛けバッグからゴルフクラブを抜き出した。何かあったときのため,銃刀法違反にならずに武器になるものを,と考えて,慌てて持ってきたものだった。

 手も脚も震えていた。でも,引き下がるわけにはいかなかった。私は,時代劇で見たように,クラブを上段に構えた。

「まったく。ムダなことを。」

 兄貴分が,鼻で笑った。それが合図だったように,三人の男がにじり寄ってくる。

勝ち目なんてない。それはわかっていた。とにかく時間をかせいで…。

 私は,精一杯の力を,踏み込む左足にかけた。 

 そのとき,近くの茂みに何かがうごめいた。それから,ささやき合う声が聞こえてきた。

「ついてきちゃダメって言ったのに,どうして三人もいるんですかぁ。」

「それは,ほら,立会人が必要というか。」

「そう。ほっとくと,やり過ぎちゃうから。」

聞き覚えのある声だった。兄貴分が,声がした方向に向かって叫んだ。

「誰だ!?出てこい!」

「わたしですかぁ?わたしは,通りすがりのメイドですぅ。」

暗がりから姿を現したのは,龍ヶ峰アリスだった。驚いたことに,その身体は,メイドのような,ではなく,言葉どおりメイド服に包まれていた。呆気にとられる私に,龍ヶ峰は,いつもの口調で言った。

「永田先生。お話の続きにきましたぁ。」

「通りすがりって…なんでこんなとこにメイドがいるんだ?」

 しばらく言葉を失っていた子分の一人が聞いた。龍ヶ峰は,それを無視して,逆に尋ねた。

「あなたたちは,さっき『向いてない』とか言いましたが,適性ってそんなに大事ですかぁ?」

「は?何言ってんだ,この女?」

「あなたたちは,今のお仕事に向いてるんですかぁ?」

 龍ヶ峰が,首を傾げて,男の顔をのぞき込む。男は,龍ヶ峰に自分の拳を示しながら答えた。  

「当たり前だ。ケンカには自信がある。」

「そうですかぁ。それが適性だったら,わたしのほうが向いてますよぉ。」

パンチのつもりなのだろうか。龍ヶ峰は,招き猫のように右手を動かした。

「ふざけるなぁ!!」

 子分たちが,龍ヶ峰につかみかかろうとして,一斉に駆け出した。それを見て,私は,有香をかばうように立ち位置を変えた。

「あ!?」

 視線を戻したとき,男の一人がもんどり打って倒れるのが見えた。

何だって!?

考えている間もなく,龍ヶ峰が二人目を殴り倒した。

「クソッ。この女ァ!!」

大振りのパンチを放った三人目の男も,あっさりと蹴り倒された。

一瞬で三人。しかも,すべて一撃だった。

「ほう。なかなかやるじゃないか。」

兄貴分が,軽く拍手してから,キョウヤの背中を強く押した。

「な,なにするんですか?」

「女と言えば,やっぱり,ここは専門家のキョウヤさんの出番だろ。」

「そ,それは…。」

 キョウヤは,一瞬躊躇したが,覚悟を決めたように笑みを作った。営業用スマイルというのか,不自然なほど爽やかな笑顔だった。

「あーあ。」

龍ヶ峰の口からため息が漏れた。

「ほんと残念ですぅ。あなたのイケメン度は,日本で二億番目ですねっ。」

「なんだと?オレは,このスマイルで,ナンバーワンホストに成り上がったんだ。」

 キョウヤは,顔色を変えて,目の前の女を睨みつけた。龍ヶ峰が,足下の小石を踏みしめながら,一歩ずつ近づいていく。

「お客さんに夢を見てもらうために,小さな嘘をつくくらいは,いいと思います。でも,最初からお金を巻き上げるつもりで…。」

「うるさい!メイドが偉そうにホストに説教してんじゃねえよ。」

 開き直ったように,キョウヤが,声を震わせて,まくし立てた。 

「だいたいメイドのやってることだって,たいして変わらないだろ?『ご主人様』とか言って,いい気分にさせておいて,オタクから金を取る。さあ。言って見ろよ。ホストとメイドの違いってなんだ?どこが違うんだ?説明しろよ。」

 龍ヶ峰に慌てた様子はなかった。それどころか,聞いたこともなかったような,はっきりした口調で話し始めた。

「そうですね。ホストさん全員が,あなたのような人というわけではありません。逆に,メイドの中にも,残念な考え方の人はいると思います。はっきりしたラインなんて引くことはできないんです。」

「ほら見ろ。」

 キョウヤが勝ち誇ったようにうなずいた。だが,それでも,龍ヶ峰は冷静さを失わなかった。

「明確なラインなんて必要ないんです。なぜなら,大切なのは,ここだからです。」

 そう言うと,龍ヶ峰は,胸の前で,両手の指を合わせた。人差し指と親指でハートの形が出来ていた。  

「キョウヤさん。あなたは,有香さんには恋愛の適性がないと言いました。でも,大切な人がいるなら,大切なものがあるなら,精一杯の気持ちを伝える。大事なのは,世間で言われる適性なんて関係ないくらい好きだという気持ちだと思うんです。」

「何をきれいごとを…。」

キョウヤが腹立たしげに叫んだ。しかし,その声は,乾いた音に遮られた。

「オ,オレの顔に何を…。」

そう言う間もなく,龍ヶ峰の二発目の張り手が炸裂した。

その後も,拳や掌底を交えて,龍ヶ峰はキョウヤを殴り続けた。一撃で倒せるはずなのに,あえて顔面を連打しているように見えた。

やがて,キョウヤの足取りがおぼつかなくなってきた。すると,龍ヶ峰は,握っていた両手を下ろして,片足を上げた。

「純粋な人の気持ちを,お金儲けに使う人は,『めっ』ですよぉ!」

「ぐっ…。」

龍ヶ峰が股間に前蹴りを決めると,キョウヤは前屈みのまま吹っ飛んだ。

「いやあ。楽しませてもらったよ。」

 それまで黙って成り行きを見守っていた兄貴分が,愉快そうに言った。しかし,口調とは裏腹に,その手には特殊警棒が握られていた。

「でも,そろそろ遊びも終わりにしないとな。そうだろ。お嬢ちゃん。」

「永田先生。」

 龍ヶ峰が小走りに私のところに来て,ゴルフクラブを指さした。

「日曜日でもないのに,ゴルフですかぁ?ダメですよ,こんなもの振り回しちゃ。没収しますねっ。」

 私の手からクラブを奪い取ると,龍ヶ峰は,兄貴分に向き直った。

「おいおい。そんなクラブじゃ簡単にへし折っちまうぞ。」

兄貴分が,余裕の笑みを浮かべ,警棒を持った手首を回した。龍ヶ峰は,握りの位置を確認してから,静かに答えた。

「大丈夫です。受け太刀なんてしませんから。」

「ほう。それは,たいした自信だな。来なよ。お嬢ちゃん。」

 それから,二人は,武器を構えたまま動かなくなった。




 どれくらいの時間が流れたのだろう。辺りは,ひどく静かだった。耳に入ってくるのは,虫の声と雑草を揺らす風,そして遠くを走る電車の響きだけだった。

 私には,剣道に関する知識はない。だが,「先に動いたほうが負け」と聞きかじったことがあった。それで,うなだれた有香の肩に手を置き,音を立てないように心がけた。私にできるのは,その程度のことだけだった。

 深夜に近いというのに,空気には昼の暑さの名残があった。額から伝い落ちた汗が,目に流れ込んだ。私は,片目をつぶったまま,二人を見比べようとした。

そのときだった。

「うぐっ。」

 うめき声が,長い沈黙を破った。倒れていた誰かのものだった。私は,反射的に声がしたほうを振り返ろうとして,とどまった。続いて風を切るような音がしたからだ。

 視線を戻すと,兄貴分の身体が宙に浮いていた。

 見たこともない光景だった。龍ヶ峰の突きが決まったのだと理解したときには,兄貴分は地面に大の字になっていた。

また一撃。

 声に気を取られた兄貴分に向かって一直線に踏み込んだのだろう。龍ヶ峰は,「予告」どおり,警棒をまったく使わせずに,一瞬で勝負をつけたのだ。

「ふ,ふざけるなよ。」

衝撃的な決着の余韻から引き戻したのは,キョウヤだった。気づくと,キョウヤがフラフラと立ち上がるのが見えた。

「きゃあああっ!!」

 有香が悲鳴を上げた。

 頬骨が折れていたのだろう。キョウヤの顔は,別人のように腫れ上がっていた。切れた目尻や唇から血が滴り,鼻骨もねじ曲がっていた。

「ねえ。ダメだよ。キョウヤ。無理しちゃ…。」

うかつだった。無惨な変貌ぶりに目を奪われ,隙ができた。有香は,私から離れ,キョウヤに駆け寄っていた。

「危ないっ!!」

 背後で複数の声が上がった。

キョウヤは,意味不明なことをつぶやきながら,ナイフを取り出していた。

私は,反射的に駆け出した。キョウヤがナイフを持った右手を振り上げる。逃げてくれ。心で祈ったが,有香は,固まったように動かない。

 間に合わない。そんな…。こんなことが…。

 私は,言葉にならない叫びを上げながら,脚に力を込めた。

「ああっ。」

 何かが,耳をかすめて私を追い越して行った。キョウヤの手からナイフが滑り落ちる。私は,力任せに肩からぶつかった。そして,そのままキョウヤの身体ごと倒れ込んだ。

いったいどうなっているんだ…?

 上半身を起こしたとき,私の目に飛び込んできたのは,龍ヶ峰だった。ゴルフのスイングを終えた姿勢のままで,こちらを見ていた。

龍ヶ峰は,とっさの判断で,キョウヤの手を狙い足下の小石を打ったのだ。恐るべきスーパーショットだった。

私は,有香に肩をかして,歩くように促した。いつの間にか,龍ヶ峰は,安原,藤村,梅田に囲まれていた。草むらで様子をうかがっていて,有香の危機を見て飛び出して来たようだ。全身に枯れ草や泥が付着していた。

「ねっ。わたしってば,ナイスショットじゃなかったですかぁ?」

「先生,ゴルフなんてやってたんですね。」

「でも,ルールは,よく知らないんですよぉ。えへっ。」

 私が見たすべてが嘘だったかのように,いつものやり取りに戻っていた。龍ヶ峰は,近づいていく私に微笑みかけた。

「永田先生。おつかれさまですぅ。ナイスタックル,いえ,ナイスモッシュでしたぁ。」

どんな沈んだ場でも和ませるような笑顔だった。こんな風に笑える人間を私は他に知らない。だが,私は,4人を見渡して,わざと突き放すように言った。

「もう先生なんて呼ばないでください。生徒にも,こんな姿を見られたんだ。もう教師だなんて言えるわけない。自分の娘一人きちんと育てらない男にどんな教育ができるというんだ。それに,私は,借金を返すために,学校の金に手を着けることさえ考えた。教師としても,父親としても失格だ。」

「ごめんなさい。わたしのせいで…。わたしがバカだから,こんなことに…。」

 有香が泣き崩れた。つられるように私も,その場に身体を投げ出した。

「生徒ですかぁ?」

 私の惨めな姿を見ても,変わらぬ口調で,龍ヶ峰は,意外なことを言い出した。

「永田先生。うちの学校って,それなりに進学校じゃないですかぁ。こんな生徒いませんよぉ。」

「えっ!?」

 生徒たちと私が同時に声を上げた。顔を見合わせる私たちを無視して,龍ヶ峰は続けた。

「このお兄さんたちは,通りすがりの心のすさんだ人たちですよぉ。見た目は似てますけど,全然違いますっ。ほら,この凶暴な目つき。すぐにケンカを始めますよっ。」

「あっ。」

 安原が,龍ヶ峰の意図に気づいたようだった。いきなり藤村の胸ぐらをつかんで,怒鳴った。

「おい。こら。どこに目ぇつけてんだ?」

「なんだとぉ?先にぶつかってきたのは,そっちだろうがぁ!」

 藤村も,理解したのか,それに応じて怒鳴り返した。

「上等だぁ。ちょっと顔かせや。」

「おう。望むところだ。」

 二人は,もつれるようにして遠ざかっていった。後には,状況を把握できない梅田が,取り残された。

「あっ。お,おい。待てよ。シャバ僧。タマ取ったるでえ。」

 絵に描いたような棒読みのセリフを残して,梅田も走り去った。

「それからぁ,借金とか言いましたよね。」

 龍ヶ峰が,いたずらっぽく笑う。これも初めて見る表情だった。

 思えば,私はいつも怒ってばかりで,ほとんど龍ヶ峰の笑顔を見たことがなかった。今まで部下のどこを見ていたのだろう。やはり私は,学年主任失格だ。

「龍ヶ峰先生。私は…。ん?」

 目の前から龍ヶ峰の姿が消えていた。見回すと,龍ヶ峰は,失神した兄貴分の上にかがみ込んでいた。ジャケットの内ポケットを探っているようだった。

「借金なんて…。」 

取り出したのは,借用書とライターだった。

「はじめからなかったんですよぉ。」

 龍ヶ峰は,ライターに火をつけ,その上に借用書をかざした。

「だから,全部今までどおりで…。あっ。」

龍ヶ峰の指先から,風にあおられた借用書が舞い上がった。オレンジ色の炎が,ゆらめきながら,青白い残像を残して落ちていった。




 思わずこみ上げる笑いを押し殺した。

 橋の下の事件から半月。私は,新学期開始の慌ただしさからようやく解放されていた。

 あれから…。近くに不法投棄された薬品でもあったのか,借用書の火は,予想以上の速さで燃え広がった。慌てて戻った安原たちも含めて,私たちは,火を消すために悪戦苦闘した。そのうち誰かが通報したのだろう。火が消える前にサイレンが聞こえて,私たちは,走って逃げるはめになった。不謹慎だとは思うが,私たちは,なぜか大笑いしながら川縁を走った。あんなに走ったのは本当に久しぶりだった。

 龍ヶ峰は,あの夜のことなどなかったかのように,ダメ教師に逆戻りしていた。変わったことと言えば,私の対応だろうか。以前とは違って,どこか「パフォーマンス」のような感覚で,龍ヶ峰をしかるようになった。

 新聞報道によると,あの男たちの所属する組は,麻薬取り締まり法違反で摘発を受け,事実上解散に追い込まれたという。また,その組と関わっていたキョウヤの店も,その直後に閉店した。そのことが,あの事件と関わりがあるのかどうか,私にはわからない。有香が借金取りに追われることがなくなったのだから,もうどうでもいいことだった。 

「昭治?昭治だよな?」

 呼びかけられて振り返ると,肩にギターをかけた諸岡譲が立っていた。

 場末のライブハウス。というより,生演奏のあるバーと言ったほうが近いかもしれない。店の外で,私は,出番を終えた譲を待っていた。

「ああ。久しぶりだな。」

「ほんとにな。でも,驚いたな。こんな場所で昭治に会うとは思わなかったよ。」

 譲は,学生時代のバンド仲間だった。私たちは,かつて一緒にプロになろうと誓い合った仲だった。しかし,大学4年のとき,才能に限界を感じた譲は,親の薦める会社にコネで就職することになった。そして,私も,夢を諦めて,就職することを選んだ。

バンドを解散した日のことは,よく覚えている。私と譲を含むメンバー4人で,浴びるほど飲んだ後,勢いでオールナイト営業のスタジオに入った。そして,声は出ない,指は動かないという最低の演奏を朝まで続けた。それだけが,悲しみと寂しさを振り払う方法だと思われたからだ。

 結局私も,就職して家庭を持ったが,譲は,音楽の道を捨てきれず,離婚して家を出た。そこで私たちの境遇は大きく変わった。それ以来この日まであまり会うこともなかった。

「なんかあったか?」

 おたがい回想に耽っていたようだ。先に「現実」に戻った譲が聞いた。私は,用意していた答えを口にする。

「いや。『定点観測』に来ただけだよ。」

「なんだそれ?」

「違う道を選んだ『もうひとりの自分』を見たいと思ったんだ。」

 本当だった。譲がボーカル,サイドギターで,私がリードギター。学生の頃は,親兄弟よりも長い時間ともに過ごした。その後も「同じ道」を選んだ者同士,連絡を密に取り合った。くだらないことも,深刻なことも,覚えていられないほど話した。だから,突如として再び夢を追い始めた「盟友」に戸惑った。正直に言えば,「自分も…。」と思ったこともある。だが,私は「生活」を捨てられなかった。

譲が,苦笑して,自嘲的に言う。

「なんか気色悪い言い方だな,それ。でも,とりあえず安心しただろ。自分はバカなことしなくて良かった,ってな。」

「いや。正直うらやましかったよ。なんていうか…。」

 私は,素直な気持ちを口にした。

「ステージの上で歌うお前は,ほんと楽しそうだったから。」

「そりゃ,好きなことやってるから,楽しいっちゃ楽しいさ。でもな,俺なんて,『孤独死一直線』だぞ。その点,お前には,家族がいる。」

「家族か…。」

またあの夜のことを思い出した。

 2年ぶりの再会は,私に小さなメモを残した。そこには,有香の住所と携帯の番号が書かれている。とりあえず,私たちは「繋がった」。

 でも,まだまだ小さな絆にすぎない。2年という月日は,短いようで長い。溝を埋めるには時間がかかりそうだ。

「どうした?」

 譲が,私の顔をのぞきこんでいた。思い出すことが多くて,どうもうまく話せない。でも,当たり前のことだ。昔のように話せるようになるには,私にも譲にも時間が必要だ。私は,ちょっと深刻そうな表情を作って言った。

「まあまあ,ってとこだな。いろいろあるよ。」

「あーあ。結局,隣の芝生は青い,ってことか。でもな…。」

そう言ってから,譲も,真顔になって続けた。

「昭治。お前には感謝してるんだ。息子…彰は,いい友達や担任の先生に恵まれてる。」

龍ヶ峰のいたずらっぽい笑顔が浮かんできた。

「担任か…。うーん。まあ,ちょっと変わってるが,悪くないかもな。」

 梅田が病院送りになったことは言わないことにした。

「これから飲みにでも行かないか。」

譲が,繁華街のほうを指さして,歩き出そうとする。私は,少し考えてから,首を振った。

「いや。今日は,これで帰るよ。こう見えて,学年主任は忙しいんだ。」

 特に持ち帰りの仕事があったわけではない。思いつきで立ち寄ってみただけだった。何から話したらいいのか,頭の中が整理しきれてなかったのだ。

 私は,軽く手を振って,背を向けた。歩き始めると,すぐさま譲の声が追いかけてきた。

「昭治。またギター始めたんだな。手を見りゃわかるよ。」

振り返ると,譲は,左手で弦を押さえるマネをしていた。

 自分の指先を見た。弦の跡が,うっすらと赤い溝になりかけていた。親指と人差し指で輪を作ってみると,かすかな痛みが走る。初めてギターに触れた頃感じた痛みだった。

 私は,顔を上げ,まっすぐに視線を合わせて言った。

「なあ,譲。適性なんて,たいした問題じゃないのかもな。」


〜「めいせん」 第4話「モッシュ アンダー ザ ブリッジ 」完 〜


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