第2回
『残念王子』
久しぶりに学校裏サイトを開いた俺は,画面をスクロールさせながら,その文字を探した。ゴミのような言葉であふれたカキコミの海に目を走らせていく。
あった。俺は,反射的に指の動きを止めた。
『ほんと残念王子って残念』
『だから,残念王子なんだってば』
『顔がよければノープロブレム』
『でも、目つきがマニアック』
ルックスがいいけど,ヲタク。
俺が,残念王子と呼ばれている理由だ。
見飽きた内容にうんざりして,また先に進む。しばらくして,最新のカキコミで,また俺の手が止まった。
『残念王子のでんせんを見る目は異常』
でんせん,というのは,俺の担任教師・龍ヶ峰アリスのことだ。2か月前に赴任した若い女性で,理解不能の行動を取ることから,電波系の先生,略して『でんせん』と呼ばれるようになった。
更新のキーを押すと,また新しいカキコミが現れた。
『3次元に興味持つなんて進歩じゃん』
違う。
俺は,2次元にしか興味を持てないわけじゃない。でも,だからといって,彼女に対して恋愛感情を抱いたりしていない。それに,みんな知らないけど,3次元なんかじゃない。言ってみれば,彼女は,2.5次元の存在だ。
め い せ ん
第2話 「残念王子の憂鬱」
チャイムが鳴るのと同時だった。教室の後ろのドアがいきなり開いた。一瞬の沈黙の後,クラスの連中が,立っている彰に笑いながら声をかけた。
「おいおい。何しに来たんだよ,今頃。」
「バカじゃねーの。」
6時間目終了。「遅刻」という範囲を大きく超えたタイミングだった。
「梅田。お前,どういうつもり…。」
授業をしていた学年主任の永田が,怒鳴りつけようとして,言葉を切った。彰の様子が,あまりにおかしかったからだ。
梅田彰。クラスのムードメーカーを気取るお調子者だ。教師の言うことにつっこみを入れたり,ふざけた相づちをうったりするのを存在価値にしてるようなタイプで,学園ドラマに必須のキャラと言っていいだろう。でも,どこか腹黒そうな感じがするからか,実はいまいち人気がなかった。本人が自覚しているかどうかは,わからないが。
その彰が,見るも無惨に憔悴しきっていた。
何日も病気で寝込んでいたように,げっそりと頬がこけて,目の下には濃いくまができていた。前日もふつうに登校していたのに。
「後で職員室に来い。」
永田は,気まずそうにそう言い残して,俺たちに背を向けた。
「お前ら,あんなもん…。あんなもん…作るんじゃねえぞ…。」
永田がいなくなると,彰は気力が尽きたように,身体を椅子に投げ出した。
「どうした?しっかりしろよ。」
「何だよ,あんなもん,って?」
クラスの連中が周りを取り囲んで,質問を浴びせかけた。すると,誰かが思い当たったように,つぶやいた。
「もしかして,それって…。」
俺にも,心当たりがあった。
アリスが,昼飯をおごると言って,クラス全員にバカでかいケーキを食べさせた「14号事件」以来,クラスで賭けに負けた時の罰ゲームは,「何か食わせる」というものが多くなった。はじめは,事件の影響から量をたくさん食べさせて,苦しむ様子を見て楽しんでいた。それが,少し飽きてくると,ポイントが量から味へと移っていった。どうやったらまずいものが作れるかということにみんな夢中になった。
そんな状況で,彰が考えたのが,あまりにひどいスープだった。
「3日殺しのにおい汁」
彰の話では,それを食べた者は,3日間もがき苦しむ。出席日数が危ない者は「一年殺し」になるような極悪なシロモノらしかった。
どうやら彰は,実際に自分で作ってみたようだ。そして,完成を待たずして,その臭いでギブアップに追い込まれたということだろう。
「藤村。あのさ…。」
あまりのバカらしさにあきれて教室を出ようとしたら,呼び止められた。
安原だった。
安原洋司。こいつとは,半年ほど前からアキバで顔を合わせるようになった。と言っても,ぎこちなくあいさつするだけで,ほとんど立ち話もせず,学校でそのことにふれることもなかった。
「ああ。どうした?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど…。」
安原の真剣な表情を見て,とりあえず聞いてみることにした。話しにくそうだったから,ついてくるように言って,誰もいない教室を見つけて入った。
「で,話って?」
わざと迷惑そうに言った俺に,安原は,すまなそうな顔になって答えた。
「悪いな。忙しいのに。あの…。先生…龍ヶ峰先生のことなんだけど…。」
そうだった。少し前から,安原は,アリスがミスをするたび,フォローするようになっていた。だから,裏サイトでは,俺たちは「ライバル」ということだった。どうやら俺のほうが「一歩後れをとっている」らしい。
そんなことを考えていた俺は,安原の次の言葉にハッとさせられた。
「藤村。『すうぃーと・はあと』っていうメイド喫茶,知ってるよな?」
メイドカフェ すうぃーと・はあと
アキバに通う者だったら,知らないはずがない。あのカフェは,今や「アキバ七不思議」のひとつに数えられている。
「お前はどこまで知ってるんだ?」
俺は,安原の意図がわからなくて,とりあえずそう訊いた。
「どこまで,って…。」
しばらくためらっていた安原は,決心したようにうなずいた。
「龍ヶ峰先生が,メイド長の『りあ』さんとして働いていたカフェで,今『みるきい・すまいる』にいるエリナさんも,そこのメイドさんだった。それが,一年半くらい前に…。」
「もういい。安原。」
俺は,言葉をさえぎった。そして,厳しい表情を作って,口を開いた。
「その話はしないほうがいい。お前も『みるきい・すまいる』の常連なら,師匠から言われてるだろ。」
「ああ。そうだけど…。」
師匠,というのは,アキバの生き字引みたいなじいさんで,あの街の初心者に的確なアドバイスをしてくれるので有名だった。素性は謎に包まれていたが,その言葉には妙な説得力があった。
「知ってると思うけど,ネットであの店についてのカキコミがあっても,すぐに何者かに削除される。誰かが意図的に情報を押さえ込もうとしてるんだ。それは,きっと,かなり力のあるヤツだ。ヘタに調べようとしたりすると,面倒なことに巻き込まれるぞ。」
「それは…。」
安原は,言葉をのんだ。でも,どう見てもあきらめた様子はなかった。こいつ,なぜそこまで?そう思って,俺は訊いてみた。すると,安原は,泣き出しそうな顔になって言った。
「口には出さないけど,先生も,エリナさんも苦しんでる。きっと,それは,その店が突然閉店したのと関係がある。だから,きっと,そのことが解決しないと,みんな…。」
ちょっと気の毒になった。俺も,そのことは気になっていた。でも,それは,「アキバ住人」としての興味だった。その点,安原は,本気で知ろうとしていた。
「悪いことは言わない。調べるのは止めろ。こんなもん手に入れるのも一苦労だ。」
財布からカードを取り出して,安原に見せた。ラミネート加工した名刺大のカードだった。あの街では,「ラミカ」と呼ばれている。
俺は,カードを安原に押しつけて,その場から立ち去った。
次の日の放課後。
俺は,誰もいない英語科教室にモバイルPCを持ち込んで,メイドカフェ関連のサイトを開いていた。
安原に言われたからというわけじゃないけど,自分なりにあの店についてもう一度調べてみたいと思うようになっていた。
2ちゃんねるの「過去ログ」を検索していると,突然,ドアが開いた。
振り返ると,そこにアリスが立っていた。俺は驚いた。彼女が現れたこともだが,それより彼女が手にしていたものに。
それは,大きな鍋だった。鍋自体に問題はない。ただ,蒸気を逃がすためにフタに空いた穴から,ひどく邪悪なにおいが立ち上っていた。
アリスは,俺の視線が鍋に向けられているのに気づいて言った。
「あっ。これですかぁ?きのう調理室の前を通ったら,すっごくいい匂いがしてたんですよぉ。女子のみなさんが調理実習してて,シチューがおいしそうだったから,レシピのメモをもらって,作ってみたんですぅ。」
シチュー?そのにおいは,似ても似つかないものだった。
「ほら,これっ。」
アリスが,エプロンのポケットをあごで指し示した。メモがあるみたいだった。
まさか…。悪い予感がした。
近寄って取り出してみると,見覚えのある字が紙切れに書かれていた。間違いない。彰が書いたものだった。
きっと,彰がそこらに捨てたメモを,クラスの女子が拾ったということだろう。それを,レシピが欲しいと彼女が言った時,たまたま持っていて…。
考案者さえ完成を断念した「禁断の一品」が俺の目の前にあった。
「先生,これは危険です。」
そう言った俺に,アリスは笑みを浮かべて応えた。
「わかってますぅ。あんまりおいしそうじゃないって。きっとね,煮込みが足りないんですよぉ。だから,時間さえかければ,これから,ファンタジーなミラクルが,この子にも起こって,立派なシチューさんに…。」
「奇跡?起こるわけないですって。だまされたんですよ,女子たちに。」
「わかんないですよぉ。よくゆうじゃないですかぁ。ほら,プリンにおしょうゆをかけると…。ほら。」
「…ウニですか?」
俺は,いかにもめんどくさそうにに答えた。すると,アリスは,目を輝かせて,たたみかけてきた。
「ピンポーン。じゃ,きゅうりにハチミツをかけたら,どうなりますか?はい,藤村君。」
「え?メロン?」
「ねっ!信じてれば,きっと奇跡だって…。」
彼女は,そう言って,パソコンの置いてある机をのぞき込んだ。
しまった,と思った。そこには,「ラミカ」があった。どうやら,安原の本命は「現役」のほうらしかった。返されたカードの中で,アニメキャラのコスプレをしたアリスが無邪気に微笑んでいた。
「ああっ。これっ。どうして?えっ。あっ…。」
コントのようなコケ方だった。前のめりに倒れ込んだ彼女は,床一面に「におい汁」をぶちまけた。
それは,予想をはるかに上回る強烈さだった。未体験の臭いが,容赦なく俺の鼻に襲いかかってきた。
「ごめんなさいですぅ。モップ持ってきまぁす。」
アリスは,そのまま戻らなかった。駆けつけた安原も,彼女を追いかけて行ってしまった。俺は,それ以上悪臭に耐えられず,その場を去った。
次の朝,あの「シチューさん」が原因で異臭騒ぎなったことを聞いた。永田の怒りが大爆発して,彼女は思い切り説教されたらしい。
しかし,そこでちょっとした「奇跡」が起こった。
しばらく「裏サイト」に,アリスをほめたたえるカキコミが続いた。
英語科教室は,数日間使用不可能となり,片付けようとした教師が,翌日学校を休んだ。「におい汁」は,その名前の通りに教室と授業を「殺した」わけだ。それで,彼女の株が上がったみたいだった。
「なんかいいね,ここ。」
手すりにもたれて,ミオさんがそう言った。俺たちは,神田明神に続く石坂に立って,暮れていくアキバの街を見下ろしていた。
「ね。落ち着きますよね。」
俺は,ミオさんの横顔を見つめながら,出会ってからのことを思い出していた。
半年ほど前だった。俺は,「合わせ」をしてくれる女性レイヤーを探していた。「合わせ」というのは,同じアニメの別のキャラのコスプレをした者と一緒に写真を撮ったりすることだ。そんな時に,ネットでミオさんと知り合った。ミオさんも,「合わせ」の相手を探していて,好きなアニメが同じだったことから,すぐにイベントで会うようになった。
そして,予想以上に話が合った俺たちは,イベントがあってもなくても一緒に出かけるようになっていた。
この日,俺たちは,イベント帰りにアキバで買い物した後,まだ帰りたくなくて,あてもなく歩き回った。気づくと,普段何気なく見ていた石段を昇っていた。
「今日は,ありがとう。つきあってくれて。」
回想から戻った俺の前に,ミオさんの笑顔があった。俺は,慌てて言葉を返した。
「いいえ。こっちこそお礼言いたいです。ほんと楽しかったです。」
「あーあ。やっぱり,イベントって,準備してる時がいちばん楽しいな。終わると,考えちゃうんだ。いつまでこうしていられるのかな,って。」
ミオさんは,それまでに見せたことのない,ひどくさみしそうな表情になっていた。
「何かあったんですか?よかったら,話して…。」
俺は,思わず言葉を切った。ミオさんが,こっちを見る目があまりに真剣だったから。
「すいません。余計なこと…。俺,いまいち空気読めないっていうか…。」
「前に憧れてた先輩のレイヤーがいるって話したよね。」
ミオさんは,遮るように言って,視線をアキバの風景に戻した。
「その人,レイヤーやめるんだって。」
「…。」
予想外の展開に,俺は言葉を探していた。ミオさんは,かまわず話し続けた。
「なんか,すごく急にね。びっくりしたな。だって,筋金入りの腐女子って感じだったから。」
「よほどの事情があったんでしょうね。」
そう言うのが精一杯だった。ミオさんは,少し間をとって静かに答えた。
「結婚するんだって。なんか力抜けちゃった。」
俺は,困ってしまった。結婚なんて高校生がコメントできるような問題じゃない。頼りないと思われるのを覚悟で,俺は聞き役に徹しようと決めた。
「結婚とか無縁の人だと思ってたんだけど,でも,それって,わたしの勝手な思い込みだったんだよね。やっぱり,二十代後半になると,人って変わるのかな。公務員と見合い結婚して,安定した収入,不安のない老後。聞きたくなかったよ,そんな話。そこまで言われなくても,わたしだってわかる…。」
負け犬。アラフォー。
いつからかそんな言葉が聞かれるようになった。少し前にうちに来た叔母も,三十過ぎの従姉の結婚問題で頭を悩ませているとか言ってた。
「ねえ,リョウ君はなぜコスプレを始めたの?」
ミオさんが,つぶやくように訊いた。
もう戸惑いっぱなしだった。きっかけなんて,考えたこともなかったけど,たいしたことじゃない。好きな世界に入り込むことで,「日常」から逃げたかっただけだ。退屈な学校生活や,「良識的」で面白みのない両親から,遠い場所に。
「ごめんね。急にへんなこと訊いたりして。」
ミオさんは,俺にちょっと笑みを見せて,言葉を選ぶようにして続けた。
「わたしね,はじめは,自分以外の人になれて楽しいって思ってたの。でも,違うのかもね。うまく言えないけど,コスプレすることで,本当の自分を確認してる気がするんだ。」
そうかもしれない。俺も思った。衣装を身につけた時の何とも言えない解放感は,きっとその印なんだろう。
「だから,レイヤーを続けることは,本当の自分でい続けることなんだ,って思うようになったの。その先輩がね,言ったの,結婚式の招待状渡しながら。『わたしの最後のコスプレ見に来てね。』って。その時はっきりそう感じたんだ。」
好きなことをあきらめるって,どんな気持ちだろう。その人は,結婚式を機にコスプレを封印して…。
いや,それだけじゃない。これから,彼女は,一生したくもない「コスプレ」を続けていくのかもしれない。「一般人」という名前の。
ミオさんも,きっとそう感じてたから,つらかったんだろう。
でも,俺には,気の利いたなぐさめの言葉なんて見つからなかった。ふがいなさに耐えながら,ミオさんの言葉を待つしかなかった。持っていたペットボトルのお茶をちびちびと口に流し込んで。
「そうだ。ねっ。リョウ君。」
気持ちを切り替えたみたいに,ミオさんの声は明るかった。
「りあさんって知ってる?」
俺は,お茶を吹きそうになった。それを,なんとかこらえて,冷静を装って答えた。
「う,うん。以前,人気があったメイドさんですよね?」
まさか自分の担任だとは言えなかった。
「最近,またアキバに来るようになったんだって。でね,メイドさんやヲタクが襲われると,どこからともなく現れて,悪い人をやっつけてくれるんだって。」
ミオさんの目は,彼女に対する憧れと尊敬でいっぱいだった。
でも,そんなのありえない。
ミオさんの夢を壊すのは気の毒だったけど,俺は,正直に言った。
「おもしろい話ですけど,ただの都市伝説だと思いますよ。」
「そうかもしれないね。でも,そうだったらいいな。」
「うん。たぶん,彼女の引退を惜しんだファンが,『りあさんがアキバを去るはずがない』って願望を込めて言い出したんじゃないのかな。」
「そうかあ。そうかもね。わたしだって,先輩がレイヤーをやめるのが今でも信じられないし。」
ミオさんは黙り込んだ。もう日は完全に沈んでいた。吹き始めた夜風が冷たくて,やりきれない感じがした。
その次の朝のこと。駅から歩いて学校に向かっていると,安原が私服の男たちに囲まれているのが見えた。大学生みたいだった。
近づいていくと,男の一人がメモのようなものを安原に押しつけた。
「なんかわかったら,すぐ連絡してくれよ。」
そんな言葉が聞こえた。男たちがだらだら歩き始めると,安原はそれを不愉快そうに見送っていた。
「おはよう。なんかあったか?」
声をかけると,安原は,めんどくさそうにポケットにメモを押し込んだ。
「なんでもないよ。知らない女のこと訊かれただけだ。」
「あいつら知り合いか?」
「いや。でも,ウワサは聞いてるけど。」
安原の話では,そいつらは近くの大学の学生ということだった。ボクシング部員といえば聞こえは悪くないけど,ストリート・ファイトまがいのことをやって,金を巻き上げたりしてるらしかった。とにかく,ちょっとヤバそうな連中だった。
「そういえば,藤村。知ってるか,スズキトモコって女?」
思い出したように安原が訊いた。
「いや。聞いたことないな。」
知らない名前だった。うちの学校の生徒だとウソをついて,男たちに貢がせた女がいたんだろう。そんな風に思った。
それで会話が途切れた。二人並んで無言で歩くのも気まずいから,俺はふざけて聞いてみることにした。
「な,安原。あのウワサって,ほんとか?」
「ウワサって?」
「ほら,アキバで言われてるだろ?でん…先生が,メイド服着て,悪人を退治してるって。」
「はあ?」
安原は,あきれたようにちょっと黙ってから,笑いながら答えた。
「何言ってんだよ?今風当たりが強いんだよ,教師とか公務員とか。こんな時期にメイド服で暴れるなんて,そこまで先生もバカじゃないと思うけど。」
「まあな。とりあえず訊いてみただけだよ。」
「だいいち,どうやってあの細い身体で男を殴り倒したりできるんだよ?」
俺の頭の中に,映像が浮かんだ。
それは,身長2メートルを超える大男に,アリスが「におい汁」をぶちまけている,というものだった。やはりありえないと思った。
「なんでもありませんよ。ちょっと体調が悪かっただけです。」
俺は,突き放すようにそう言った。
放課後のことだった。俺は,職員室の奥にある面談室に呼び出された。この部屋は,教師たちが問題行動を起こした生徒を「事情聴取」するのに使っている。できれば近づきたくない場所だった。
「そうじゃないだろう。他にあるはずだ。」
永田は,俺の模試の成績が落ちたことについてしつこく訊いてきた。永田にとって,成績のいい生徒は,貴重な持ち駒だ。教師の「指導力」のアピールには,生徒が難関大学に合格するのがいちばんということだろう。
「残念だよ。藤村。自分の口で話してほしかったんだが…。」
黙り込んだ俺に,親身なフリをしていた永田が,大きくため息をついた。そして,きつい口調で続けた。
「俺たちが知らないとでも思ってるのか?教師を見くびるな。仮装だろ?趣味もいいが,ほどほどにしないとな。このままじゃ…。」
仮装じゃねえよ。コスプレだよ,おっさん。と言ってやりたかった。でも,永田の言うこともあながち間違ってない。
ミオさんと出会ってから,俺は,ますますヲタクとしての活動にのめり込むようになっていた。当然,勉強時間も減る。まあ,もともとたいして勉強が好きなわけでも,将来の目標があるわけでもないから,まったく気にならなかったが。
「藤村。お前もわかってるだろ。世の中,そんなに…。」
その時,勢いよくドアが開いた。
振り向くと,息を切らしたアリスが立っていた。
「す,すいませんですぅ。あの,藤村君が呼び出されたって聞いて,あの,わたし,あわてちゃってぇ…。」
「たいしたことじゃありませんよ。藤村が,カツラなんかかぶって妙な服を着てると聞いたので,ちょっと注意してただけですよ。」
永田は,手に持っていた手帳を閉じて立ち上がった。彼女が,一歩進み出て,不思議そうに俺の頭を眺め回した。
「カツラですかぁ?うーん。まだ大丈夫みたいですけどぉ。」
「まったく…。あとは担任からの指導ということでお願いしますよ。」
永田は,うんざりしたように言って,出て行った。ドアが閉まり,足音が遠ざかるのを確認すると,アリスは,俺の前に座って,いたずらっぽく笑った。
「ちょっとボケかましてみちゃいましたぁ。」
俺は,不思議な気持ちになった。そういう彼女を見ると,なんだかわかる気がした。なぜ彼女がメイド・カフェの客たちに圧倒的に支持されていたのか。
「先生は,好きなことをやめた時,どんな気持ちでしたか。」
どうかしていたんだろう。気づくと,俺は,彼女にそう訊いていた。
「どうしたんですかぁ,急に。それはぁ…むずかしい質問ですね。」
アリスは,しばらく考え込んでいたが,何か思いついたように顔を上げた。
「藤村君がぁ,なんのことを言ってるのかよくわからないんですがぁ…どんなに好きでも,あきらめなきゃいけない時もあると思うんですよぉ。」
その口調に似つかわしくない「大人の発言」だった。俺は,ちょっといらいらした。
「俺は…龍ヶ峰先生じゃなくて…りあさんに訊いてるんですよ。」
「そうですかぁ…。藤村君がどなたに何を聞いたのかわからないですけど,きっと同じだと思うんですよぉ。りあちゃんは…気の利いたことなんて言えない…不器用なメイドさんだったんですよ。いつもみなさんに助けていただいて…。」
期待した自分がバカだった。そう思った俺は,立ち上がった。考えてみたら,アキバにはよく行くし,情報としては知ってたけど,実際メイドと話したことなんてほとんどなかった。
「わかりました。もう訊きません。」
「ちょっと待ってくれませんかぁ。藤村君。事情がよくわからないんですがぁ,きっと永田先生も藤村君の将来を考えて…。」
そうだ。メイドに求められるのは従順さだ。教師になったら,学校という場所に合った従順さを見せているということか。なんだかむしょうに腹が立ってきた。
「だから,ピークが去ったって言われてるあの街を捨てて,安定した収入の仕事についたんですね。こんな…こんなことじゃ,あなたのファンだった人たちがかわいそうです。」
俺は,アリスをにらみつけて,そう言った。頭の中には,ミオさんのさみしそうな横顔が浮かんでいた。
「待ってください。わたしは…。」
彼女も立ち上がって,回り込むようにしてドアの前に立った。その目からは,涙があふれ出していた。すると,なぜか見たこともないミオさんの泣き顔が見えた気がした。
「本当の自分を捨ててまでやるほど価値のあることなんてあるんですかね。」
自分でも驚くほど冷たい声だった。彼女が,俺の制服の袖をつかもうとした。
「藤村君。ちゃんとお話ししましょう。」
「器用に生きられる人は,いいですね。」
俺は,アリスの脇をすり抜けて,部屋を出た。
「だから,人違いだと言ってるじゃないですか。そんな女の人知らないですよ。」
まったく理不尽だった。
学校を出て,駅に向かう途中,俺はいきなり後ろから殴られた。どうやら車に乗せられたらしく,意識を取り戻すと,見慣れない廃工場に連れて来られていた。重い金属製のドアで閉ざされた空間には,用途のわからない機械がいくつも錆びついて転がっていた。
「しらを切ってもムダなんだよ。ちゃんと調べたんだからな。」
俺を拉致したのは,今朝見た大学生の集団だった。仲間から「トシ」と呼ばれているリーダー格の男が,俺の胸をこづいて言った。
「お前が一緒にコスプレのイベントに行ったりしてるってな。」
「それって,ミオさん…。」
思わずつぶやいた。そう言えば,本名を名乗り合ったことはなかった。
俺は,自分の名前が嫌いだ。賢崇と書いてマサタカ。言いにくいこともあるけど,漢字を説明するのは,もっといやだ。「賢い,に,崇拝のスウです。」どうにも居心地が悪くなって,思わず付け加えてしまう。「完全に名前負けしてますけど。」なんて。
名前を名乗るたびに卑屈な気分になる。だから,できれば名前の話題は避けたかった。
あの街じゃ,それで何か不都合がある訳じゃないし,ミオさんとも自然にそうなった。家が割と近いことや,大学生だということは聞いていたけど。
「まさか,お前,あの女の名前知らなかったのか?おいおい。何やってんだよ?」
トシがそう言うと,仲間たちがどっと笑った。
「だからオタクは常識がないって言われんだよ。普通最初に名前名乗るのが常識だろ。」
「そうそう。中学の英語の教科書も,『ハロー。マイ・ネーム・イズ・ナントカ。』で始まるんだよ。」
同調したのは,トシの腰ぎんちゃくのような男だ。俺は,早くその場を立ち去りたくて,言った。
「ミオ…トモコさんを好きだったら,こんなのは無意味だと思いますよ。彼女が,こんなことをする人を好きになるとは思えませんから。」
「好き,だと?」
トシは,鼻で笑って,また俺の胸をこづいた。
「好きじゃねえよ,コスプレなんかしてる女。わけわかんねえよ,オタクの考えてることはな。だから,俺は…。」
言葉につまったトシは,腹立たしそうに唾を吐いた。腰ぎんちゃくが一歩前に出て,引き取るようにして言った。
「あのな,お前みたいなオタク高校生に女もってかれて,トシはみんなの前で恥をかかされたんだよ。だから,憂さ晴らししたいんだとさ。」
完全に頭にきた。身勝手にもほどがある。
「おかしいでしょ,その考え…。」
でも,そう言い終わる前に,俺は倒れ込んでいた。トシの拳が,俺のみぞおちのあたりをとらえたようだ。
「あーあ。決まっちゃった。得意のボディー。」
「殺さない程度にしとけよ。警察沙汰とかごめんだからさ。」
周りの連中が,口々にはやし立てた。俺は,痛みに顔をゆがめながら,何とか立ち上がろうとした。
「おい。まだ終わりじゃねえぞ。」
トシが,俺の髪をつかんで,引き起こした。そして,俺の顔めがけて拳を振り下ろそうとした。
その時だった。男たちの背後で,大きな音を立てて扉が開いた。
「なんだ?」
視線が入り口に集まった。そこには,外の光を背にして,小柄な女性が立っていた。
彼女は,まぶしさに目を細めた俺たちのほうにゆっくりと近づいてきた。舞い上がったほこりが輝きながらそれを包んでいた。
まさか…。
その背格好には見覚えがあった。俺が,声を上げる前に,一歩踏み出したトシが怒鳴った。
「誰だ,お前はァ!?」
「わたしですかぁ?」
間違いなかった。やはり,アリスだった。
「わたしはぁ,藤村君の担任の先生ですぅ。」
彼女は,いつものように気の抜けた調子で答えた。すると,その後ろから,男が一人駆け寄ってきた。
「先生。今回は,ちょっと抑え気味にしてください。」
「もうっ。ついてきちゃだめだって言ってるじゃないですかぁ。」
安原だった。言い争いを始めそうな二人に,トシがしびれを切らした。
「先公だとォ?ふざけるな。」
「ふざけてませんよぉ。」
俺たちと数メートルの距離をおいて立ち止まった彼女は,後ろ手に何か持っているようだった。それは…。
「先公に用はないんだよ。痛い目見たくなけりゃ,とっとと帰りな。」
腰ぎんちゃくが,笑いながら言った。すると,安原が,哀れむような目をして,男たちに訊いた。
「ここで終わりにしませんか?このまま藤村を返してくれるなら,これ以上大げさにするつもりはないですから。」
「何ィ?」
安原の落ち着きぶりが,トシの怒りに火をつけたようだった。
「なんだ,その上から目線はァ?自分の立場わかってんのかァ!?」
その言葉が合図だったように,男の一人が安原に殴りかかった。
「ああああああっ。」
悲鳴を上げたのは男のほうだった。男は,アリスが手にしていたものに拳を砕かれていた。
「なんだァ?」
フライパンだった。鍋,という俺の予想は外れた。
「わたしの生徒に手を出す人はぁ,『めっ!』ですよぉ!!」
彼女は,テニスのスマッシュのようにして,フライパンで男を殴り倒した。そして,俺たちのほうに歩み寄ってきた。
「あーあ。ほんと残念ですぅ。あなたたちの太極拳の腕前は,日本で二億番目ですねっ。」
「ふざけるな。これはボクシングなんだよっ!」
また一人男が飛び込んでいった。アリスは,安原にフライパンを手渡すと,体勢を低くして前に出た。
「ぐっ。」
俺は自分の目を疑った。男は,すれ違いざまにボディーに一撃食らって,力無く崩れ落ちた。
「ほらぁ。やっぱりぃ。近所のおばあちゃんたちのほうが速いですよぉ。」
彼女は,倒れた男たちを見下ろして言った。そして,顔を上げて,トシたちを見た。
「名前ってそんなに大事ですかぁ?」
「な…何言ってんだ,この女?」
そう言った腰ぎんちゃくの脚は震えていた。それに気づいたアリスは,軽くため息をついて続けた。
「本当の名前を知ってるのに,あいさつしかしないような人もいればぁ,名前なんて知らなくても,もっと大切なことを話せる人もいる。そういう世界もあるんですよぉ。あなたたちは,ヲタクを理解できない,って言いましたよね?」
「ああ。それがどうした?」
うんざりしたように答えたトシは,上着を脱ぎ捨てて「臨戦態勢」に入っていた。
「理解できなかったら,ほっておけばいいんです。」
彼女がそう言ったとき,俺は気づいた。その声には,いつもと違う響きがあった。
「わからないものを自分の世界に当てはめようとする必要はないと思います。確かに,理解できないものを,ちょっと気味が悪いなとか思うことはあると思うんですよ。でも,それをほっておけない気の弱さや心の狭さから,いじめやケンカとかが起きるんです。自分の弱さを隠して,人を力で押さえつけるためにボクシングを使うなんて,あなたたちはボクサーとは呼べませんね。」
「うるせェ!お前にボクシングの何がわかるッ!?」
「わたし,ボクシングのマンガ大好きですよ。」
アリスは,笑顔を見せながら,ファイティング・ポーズを取った。
「ふ,ふざけるな。おい。お前。行けっ!」
腰ぎんちゃくが,前にいた男の背中を力任せに押した。
「うおおおおっ!」
仕方なしに突進してきた男も,彼女の相手ではなかった。次の瞬間には,工場の天井を見上げていた。アッパーカット一発で終わりだった。
「あとはあなたたちお二人ですね。」
詰め寄るようにアリスが前に出た。腰ぎんちゃくが,怯えた目でトシを振り返った。一緒に逃げよう,と言いたげだった。しかし,トシは,腰ぎんちゃくの視線など気にせず,肩を回して,彼女との対決に備えていた。
「そ,そうだ。へへへ。俺は,今までのヤツらとは違うぞ。」
腰ぎんちゃくは,覚悟を決めたように,アリスに向き直った。その右手は,ジーンズの腰のポケットをなでていた。
「そうですか。じゃあ,わたしも,ちょっと本気出しちゃいますね。」
彼女は,足下を確かめるように軽くステップを踏んでから,俺のほうを見た。
「藤村君。ボクシング・マンガはお好きですか?」
「え?ええ。まあ,いちおう,一通りは読んでますけど。」
いきなり話をふられて,俺はあわてて答えた。腰ぎんちゃくが,虚勢を張って叫んだ。
「何ゴチャゴチャ言ってんだよっ!?ほら,来なよ,先生!」
「それはよかったですぅ。でわっ。」
今度は,アリスのほうから行った。驚くべき踏み込みの速さだった。
ドッ。ドッ。ドッ。
鈍い音が続けて聞こえ,腰ぎんちゃくが倒れ込んだ。その手から滑り落ちたナイフが,床に転がった。
「えっ!?」
よく見えなかった。でも,彼女が,一瞬で3発のパンチを繰り出したことは,音でわかった。
「やるじゃねえか。これなら,俺も遠慮しないで済むぜ。」
トシが,シャドウ・ボクシングしながら,アリスに近づいていった。彼女は俺を見ながら,右手のガードを完全に下ろした。
「ちょ,ちょっと。何するんですか,先生。」
「片手だとォ?ナメてんのか,先公ッ。」
「大丈夫ですよ。もっとスピードを上げますから。」
それって…。
アリスのしようとしていることがわかった。でも,そんな…。
「行くぞ。俺のパンチは速いぜッ!」
踏み出したのは同時だった。
「先生っ!!」
彼女の姿は,トシの背中に隠れて見えなくなった。
「ぐッ…。はッ…。」
それは,信じられない光景だった。
トシの身体が衝撃で踊るように何度か揺れた。そして,そのまま仰向けに倒れ込むと,あとには左の拳を突き出したアリスが立っていた。
見えなかった。音もよく聞こえなかった。でも,わかった。彼女が打ち込んだパンチは,きっと5発だ。
「藤村君。」
拳を右手でさすりながら,アリスが俺のほうを見た。
「制服はお好きですか?」
「え?」
質問の意図がわからなかった。メイド服のことを言ってるのか,と思った。ちなみに,俺は制服フェチじゃない。
「あっ。ヘンな質問じゃないですからねっ。学校の制服ですよ。」
俺の戸惑いに気づいて,彼女が補足した。
「ああ。好きなわけないじゃないですか。みんな同じなんて…。」
「ですよね。制服を嫌いな生徒さんって多いと思うんですが,生徒さんは一日の中で制服で過ごす時間がいちばん長いんですよぉ。でも,だからといって,制服を着てるときの藤村君と,コスプレしてるときの藤村君が別の人ってわけじゃないですよね。」
驚くことばかりだった。あの「都市伝説」が本当。それだけでも十分だったのに,アリスは,俺のいらだちの理由まで知っているみたいだった。
彼女は,軽くうなずいて続けた。
「ほんとは着たくないような服を着てても,それを『気の進まないコスプレ』だって思ってるなら,何も変わらないんだと思いますよ。」
「でも,好きなことをやめて,友達とも今までのようには会えなくなる…。」
言いたいことはわかる。でも,納得しきれない俺がいた。
「それにね。」
俺の心を読んだように,アリスが微笑んだ。すべてを包み込むような表情だった。
「ほんとに好きなことってやめられないと思うんですよぉ。一度やめたとしても,またいつか始めるんじゃないでしょうか。きっと自分にとってほんとに大切なものって,時間がたってからわかるものなんですよぉ。」
俺は,また不思議な気持ちになっていた。目の前にいるのは,学校の担任教師じゃなくて…。気づくと,俺の口から言葉がこぼれていた。
「だから,先生は,またメイド服を着て…。」
「ああっ!」
突然彼女が大声を上げた。そして,振り返って,安原に言った。
「鍋…。」
「鍋?ええっ?」
安原もあわて始めた。
「先生。鍋って,まさか…。まだ懲りてなかったんですか?」
「リベンジしようと思って,調理室をお借りしたんですぅ。あ。今度は,大丈夫ですよぉ。レシピは,女子のみなさんじゃなくて,梅田君からいただきましたから。」
「彰ぁ!?」
俺は,安原と同時に叫んでいた。
「ちょっ,ちょっとまずいですよ,それ。」
「まずくないですぅ。味に自信はあるんですよ。けどぉ,ここに来る時に火を消したかどうか,自信がないんですよぉ。えへ。」
無邪気に首をかしげたアリスを見て,安原が頭を抱え込んだ。
「最悪じゃないですか。今度こそ,死者が出ますよ。ほら,急いで。」
「は,はいっ。わたし,学校に戻りますねっ。」
彼女は,パタパタと走り始めた。安原が,ひとつため息をついて,振り向いて言った。
「まったくもう,って感じだよな。じゃあ。藤村。またな。」
「待てよ。」
俺は,駆け出そうとした安原を呼び止めた。そして,近寄って,肩をたたいて言った。
「協力してやるよ。」