第8回
絶望的な状況だった。それでも,逃げ場を求めて,必死に考えを巡らせるしかなかった。
「ちくしょうっ…放せっ!放せよっ!!」
アランさんが,腕をねじり上げられて,取り押さえられるのが見えた。攪乱しようと,やけくそ気味にパンチを繰り出していたけど,ほとんど時間かせぎにならなかった。
「仕方ないね。行くよ。ついて来な。」
カレンさんは,覚悟を決めたようだった。人数の少ない末広町側を正面突破するつもりだとわかった。
藤村が,僕に目配せする。すぐに意図が伝わった。
僕たちは,カレンさんを追い抜いて,併走を始めた。カレンさんだけは,先生のところへ行ってもらわなければ。情けないけど,思いついたのはそれだけだった。
「バカ。お前ら,何を…。」
すぐに後ろから肩をつかまれた。信じられないくらい強い力だった。
「つまんないこと考えるんじゃないよ。あんたたちに前科がついたら,あいつに借りができちまうだろ?」
カレンさんは,僕たちの前に出て,腰に手を当てた。ケースからダーツを抜き出しながら言う。
「あんたたちは逃げることだけ考えるんだ。いいね。」
もう警官隊は目の前に迫っていた。先生が倒してきた人たちと向き合うのと,また違う怖さがこみ上げてくる。僕は,全身に精一杯力を込めて,前を見据えた。
そして…。
カレンさんがダーツを握った手を振り上げたその瞬間だった。警官の1人が前のめりに倒れ込んだ。振り返ったもう1人も,もんどり打って地面に転がった。慌てふためく警官たちのあいだに,黒ずくめの人影が見えた。
「シャールさん!!」
「遅くなりまして,申し訳ありません。」
「マーヴェリクス」の正装を纏ったシャールさんは,いつもの穏やかな笑みを見せた。そうしているあいだにも,つかみかかる警官から身をかわし,急所にパンチを打ち込んでいく。
強い。素手なのに,他の執事さんとは,まるで格が違っていた。
『時間かせぎくらいなら。』
初めて会ったときの言葉が蘇ってきた。確かに,先生でも一撃では倒せないかもしれない。
「ここは私に任せてください。」
「言われなくてもそうするよ!ほら。ぼけっとしてんじゃないよ!」
カレンさんは,追いすがる警官を蹴り倒しながら,先に行くよう促した。車両進入防止の柵を飛び越えて,僕たちは道路に出る。
「こっちだ!」
藤村が,左のほうに駆け出した。中央通りを避けたほうが無難だと判断したみたいだ。警官たちの怒声や悲鳴を背中で聞きながら,僕も後に続いた。もつれそうになる足がもどかしく,思ったよりスピードが上がらなかった。
気づくと,隣を走っていたカレンさんが,手を当てて僕の背中を押し始めた。
「振り向くんじゃないよ。走ることだけに集中するんだ。」
そう言われても,やはり気になってしまう。僕は,昌平橋通りに出るその一瞬だけ,後ろを振り返った。目に飛び込んだのは,両手を挙げているシャールさんの姿だった。
僕たちを追い抜いて,カレンさんが叫んだ。
「路地に入るよ。ついておいで。」
拳銃が反射した朝の光。その残像を振り払うように,僕は一気に通りを駆け抜けた。
僕たちは,細い路地をひたすら走り回った。それから,誰も追ってこないのを確認して,上野まで歩いて電車に乗った。途中,エリナさんに連絡して,どこか集まれる場所はないか訊いたりした。
疲れ切った身体を落ち着けたのは,公園のベンチだった。僕たちは,王子駅を出てすぐの飛鳥山公園に来ていた。エリナさんのアパートから近くて,いままで「ヲタク狩り」が起きていない場所だった。
「悪かったね。みんなを巻き込んじまって。」
カレンさんは,僕たちを見回して,ちょっと気まずそうに言った。
「そんな。とんでもないです。うれしいです。わたしにも声をかけてくれて。」
エリナさんは,本当にうれしそうだった。臨戦態勢のつもりなのだろう。いつものロリータファッションではなく,ピンクのトレーニングウエアで身体を包んでいた。
「勘違いすんな。あんたには,残ってもらうよ。」
「そんな…わたし,確かに強くないし,たいしたことはできないけど,でも…。あの…。」
少しでも役に立ちたい。口べたなエリナさんが必死に言葉を探す様子から,それがひしひしと伝わってきた。
「そうじゃないんだよ。あんたには,やるべきことがあるだろ?」
それまで聞いたことのない諭すような口調だった。カレンさんは,エリナさんの目をまっすぐに見て続けた。
「大学出たら,あそこで社員になるんだってね。そのうちにはメイド長兼店長だろ?」
「ご存じだったんですね。」
エリナさんは,驚きと照れが入り交じった表情を見せた。
『やれるまでやってみようって思うの。』
数日前聞いた言葉が頭の中で再生された。そこまで具体的な話だとは知らなかった。
「あたし,思うんだけどさ…。」
カレンさんは,視線をそらして言葉を切った。ジョギング中の学生が僕たちの脇を通り過ぎて行く。それを待つようにして,カレンさんはまた口を開いた。
「あいつを手伝いに行くのも,アキバで店を仕切るのも,違いはないんだよ。」
「どういうことですか?」
「人に向き不向きがあるのは,どうしようもないことなんだ。だから,それぞれ,自分にできることをやるしかないだろ。あたしはあたし,あんたはあんたで,あの街のためにできることをするんだよ。」
「カレンさん…。」
エリナさんは,まぶしいものを見るような目をカレンさんに向けた。
「わかりました。りあさんをお願いします。」
「なんだよ。なんて顔してんだよ。あ,足手まといはいらないってことだからな。」
これも初めて聞く声の調子だった。僕の視線に気づくと,カレンさんはわざと乱暴に吐き捨てた。
「あーあ。調子狂うんだよなあ。お子様たちとつるんだりしたから,ガラにもないこと言っちまったじゃないか。」
絵に描いたような照れ隠しだった。エリナさんに背を向けると,カレンさんは僕たちに皮肉っぽく言った。
「さて。次は,こっちの問題児たちだ。あんたは…。」
「僕は行きます。」
ためらいなどなかった。もう決めていたことだ。カレンさんは,予想していたという顔つきで舌打ちする。
「ほら。これだ。気軽に言うけどね,今度の相手はどうしようもないサイコ野郎なんだよ。今までの相手とは違う。ヘタしたら,あんたらも死ぬよ。」
「わかってます。気軽になんて言ってません。」
自分でも驚くほどはっきりした響きだった。カレンさんがちょっと気圧されるくらいに。僕は,勢い込んで自分の気持ちを吐き出した。
「もし行かなかったら,一生後悔すると思うんです。先生やエリナさんと会って,僕は変わりました。もちろん,カレンさんやシャールさんにも会えてよかったって思ってます。でも,ここで行かなければ,また同じことの繰り返しなんです。もう戻りたくないんですよ。みなさんと出会う前の自分には。だって…。」
生きる意味。そう言おうとしてやめた。さすがに,たかだか16年生きてきただけで,使うのははばかられた。
「ふん。そっちのイケメンは?」
たいして気にしていない様子で,カレンさんは藤村を見た。一歩前に進み出ると,藤村は,いつものムダにさわやかな笑みを見せた。
「最近決めたことがあるんです。アキバとかヲタク文化のことを何でも知っているようになりたいって。『生き証人』っていうんですか?なぜかって…。」
ちょっと間を取って,藤村は愉快そうに笑った。
「師匠も,あまり先は長くなさそうじゃないですか。そろそろ世代交代が…。」
「探したぞ。お前ら…。」
いきなり背後から声がかかった。藤村と僕は振り向いて,手を挙げて応える。
「もっと早く言ってくれよ。こんな朝早く…。」
公園内を走り回って探したのだろう。彰は,肩で息をしながら,不満げに僕らを見た。カレンさんが,あきれ顔でつぶやく。
「また増えちまったよ。それにしても大きな荷物だね。」
彰の肩には,限界まで膨らんだボストンバッグがさがっていた。身体の幅を軽く超える大きさだった。
「ああ。いろいろと武器になりそうなものを…。」
「そうじゃないんだ。お前に頼みたいのは…。」
緊張のためか,噛み気味の彰を遮って,藤村に目で合図を送った。
「何かあったら,これを永田先生に渡してくれないか。」
僕と藤村は,ポケットに入れていたものを同時に取り出した。
「ちょ…。」
「それ…。」
「え…。」
他の3人が,それぞれ声をもらした。僕たちが差し出したのは,退学届けだった。
「お前ら。何考えてんだよ?つーか,二人でかっこつけてんじゃねえよ。なんかコソコソやってると思ったら…。そうだよ。俺だけじゃねえよ。莉沙だって,お前らのことが心配で…。」
「だからだよ。」
「あ?なんだよ?おい。」
僕は,彰の正面に立って,その両肩に手を置いた。戸惑いで口を開けたままの彰に言う。
「みんな同時にいなくなったら,莉沙はどうなるんだよ?なあ。彰。莉沙をたのむよ。他の誰にたのめるっていうんだ?そうだろ?」
両手に力を込めて,肩を揺すぶる。彰は,うつむいて,唇を噛みしめた。
「…バカ野郎…。」
「あーあ。ほんと。」
湿っぽくなりそうな空気を,カレンさんが振り払った。頭を抱える仕草を見せて,芝居がかったように言う。
「今まで,どうでもいいと思ってたけど,教育って大事だねえ。担任がどうしようもないと,生徒もろくなもんにならないんだからね。」
なんだか懐かしい気がした。埃っぽくてかび臭い空気が,僕にあの日のことを思い出させた。エリナさんと一緒に先生に助けられた古い倉庫のことだ。あれから先生は,どれだけの人を助け,どれだけの相手を倒してきたのか。
「さあ,いくよ。」
回想に浸っている場合じゃなかった。目の前では,金属製の小さな扉がこじ開けられていた。カレンさんは,一度うないずいて見せて,滑り込んでいく。それに続いて,僕と藤村も身をかがめながら入った。
「…カレンさん…安原君,藤村君。」
中では,メイド服を着た先生が,数十人の男たちと向かい合っていた。先生は,歩み寄った僕たちに,順番に視線を送る。そして,責めるようにカレンさんに言った。
「どうして二人を連れて来たんですか?こんな危険なところに。」
「知るか。お前の教育が悪いから,こんな問題児ができちまうんだろ?自業自得だよ。」 先生をにらみ返してから,カレンさんは,男たちのほうを向いた。正面にいる小柄な男の顔をのぞき込むようにして言う。
「やあ。会いたかったよ,山倉センセイ。」
思い出した。どこかで見た顔だと思っていたら,テレビで見たことがある若手議員だった。確か父親も議員で,亡くなった後その地盤を継いだと聞いた気がする。
「よく来れたな。まあ,3人増えたところで何も変わらないがな。」
「どうでもいいけど,理由を話しなよ。なぜメイドやヲタクを襲うのか。こっちも早く済ませたいんでね。」
「ああ。教えてやるよ。お前らの足りない頭でもわかるようにな。」
山倉は,偉そうに胸を反らせ,鼻から息を吐いた。先生とカレンさんにを見比べるようにして続ける。
「政治家だった私の父は,大臣になった時,少子化の対策を任された。よく働いていたよ。少しでも状況を改善しようとしてな。でも,志半ばにして病気で亡くなった。私にとって,父はいつでも憧れであり,目標だった。ところがどうだ。当時,ネットの住人とやらは,父の労をねぎらうどころか,父のことを無能だと書き込んだ。死者に鞭打つような…。」「はい。はい。もういいよ。」
涙声になっていた山倉を,カレンさんが遮った。その目には,激しい怒りが宿っていた。
「だから,ヲタクや,アキバの住人を襲った。結婚も子育てもせず,趣味に金を使う連中や,現実の恋愛を妨げるメイドが,憎かった,と。そういうことだね。やっぱり,あんたは,とんだサイコ野郎だよ。」
カレンさんは,腰のダーツケースに手を伸ばし,先生に言った。
「りあ。さっさと片づけるよ。それから,あたしとの約束を果たしてもらうからね。」
「わかりました。久しぶりですねっ,一緒に戦うのは。」
先生も,それに応え,ファイティングポーズを取る。
「お前ら,女のくせにずいぶん腕が立つようだな。でもこれならどうだ?」
余裕の笑みを見せた山倉の右手がさっと挙がった。隣にいた男が,内ポケットに入れていた手を出した。
「あっ。」
思わず声がもれた。危ない目にはずいぶん遭ってきた。でも,拳銃なんて無縁なものだと思っていた。しかも,1日2回だなんて。
「じゃあ,最初は,このお行儀の悪いお嬢さんだ。」
山倉がそう言うと,銃口がカレンさんに向けられた。
「ふん。物騒なもん持ち出して。後悔することになるよ,あんたら。」
カレンさんの顔色はまったく変わっていなかった。どれだけの修羅場をくぐり抜けて来たのだろう。その整った顔には,恐怖の欠片も浮かんでいなかった。
「先生!」
僕と藤村は,助けを求めるように先生を見た。それなのに,先生は,表情を変えず,動く気配もなかった。
「やれ!」
山倉の声が,廃工場に響きわたった。もうどうにもならない。僕は堅く目を閉じた。
「ぎゃああああああ!!!」
耳をついたのは悲鳴だった。でも,それは男のものだった。
恐る恐る目を開けると,男がのたうち回っていた。まったく事情が飲み込めない。誰もがあっけにとられていた。そのうち別の男が,我に返って銃を拾い上げて構えた。
しまった。僕は,また目を閉じようとした。すると,空気を切り裂くような音が聞こえた。と思ったら,男は不格好なダンスを踊りながら崩れ落ちた。
僕は,反射的に音がしたほうを見上げた。そして言葉を失った。いつのまに現れたのか,周囲を取り巻くキャットウォークに,迷彩服の男女がひしめいていた。それぞれの手には,カスタムしたと思われるエアガンが握られている。
「ミオさん!?」
声を上げたのは,藤村だった。ショートカットの女性が,それに応えて手を振った。雑誌で見たことがあるミリタリーヲタクのレイヤーさんだった。
「ミオさん。ありがとうございます。」
先生が,ぺこりと頭を下げた。ミオさんは,無邪気に笑って,大声で言った。
「人に向けて撃っていい,って言ったら,こんなに集まっちゃいましたぁ!」
「安原君。」
先生が僕を見て,片目をつむって見せる。
「大事なのは,伏兵ですよねっ。」
『勉強になりました。』あの手紙の意味がようやくわかった。
「下手な動きをしたら,容赦なく撃ちます。」
ミオさんが,男たちの頭上から言い放った。エアガンと言っても,威力は実証済みだった。しかも,360度から監視されてはたまらない。男たちは,渋々持っていた銃を捨てた。
「さあ。今度こそ行くよ。」
「はい。」
解き放たれたように,先生とカレンさんが駆け出した。
「行け!お前たち!」
山倉の合図で,男たちが襲いかかる。しかし,次の瞬間には,1人が床に倒れ込んでいた。相手にならなかった。先生は,突き出された手足を容易くかいくぐり,急所に打撃を打ち込む。ダーツを突き立てられ動きが止まった男たち。そのみぞおちに,カレンさんのつま先や膝が食い込んだ。ほとんどみんな一撃で地面に這うことになった。途中やけを起こした男の特殊警棒が,何かのパイプを破損したのだろう。男たちの身体は,水しぶきを浴びながら,ぬかるみに積み重なっていった。
「あとは,あんただけだね。」
カレンさんがそう言った時,立っていたのは山倉だけだった。見ると,その両方の太ももにダーツが刺さっていた。
「お,お前,いったい何をした?」
苦痛にゆがんだ山倉の顔を脂汗が流れ落ちた。ダーツに塗られていたのが,ただのしびれ薬でないのは明らかだった。
「たいしたことじゃない。ここを出る時,未完成のモビルスーツみたいな姿になってるだけさ。」
カレンさんは笑っていた。ぞっとするくらい冷たい笑顔だった。
「さあ。約束するんだ。罪を償って,もうバカなマネはしないと誓えば,命だけは助けてやる。」
「約束ぅ?バカめ。誰が,約束などするものか。あはははは。」
山倉は,身体を反らして,大声で笑い始めた。焦点を失った目だけが,異様な光を放っていた。
「おい。よく聞け。バカども。勝ったのは,俺なんだよ。あははははは。」
「しまった。」
カレンさんが,動きを止めて,悔しそうに息を吐いた。男の手には,スイッチのようなものが握られていた。
「えへへ。いいかぁ。動くなよぉ。この建物には,爆弾が仕掛けられれてるんだ。俺を撃ってもかまわないが,指先にちょっと力が入れば,みんなお陀仏だ。さあ,どうするぅ?あははははは。」
僕は,視線をずらして,先生を見た。先生は,建物の内部を見渡して,考えを巡らせているようだった。だけど,解決策を思いつくのには,あまりに時間がなかった。
「お前たち。何やってるんだ,こんなところで。」
「え!?」
一瞬空耳かと思った。聞こえてきたのは,意外な人物の声だった。
「こいつらの様子がおかしかったから,後をつけて来たら,このざまだ。」
キャットウォークにつけられた扉が開いていた。迷彩服の男を押し分けて入ってきたのは,永田先生だった。彰と莉沙も一緒だった。
「洋司,ごめん,バレちゃった。」
彰が,気まずそうに,両手を合わせた。僕は,怒りに任せて叫んでいた。
「バカ!なぜ来たんだ!?ここには,爆弾が…。」
「爆弾だって?それは,この出来の悪いおもちゃのことか?」
永田先生は,落ち着き払った態度で,手にしていた物を掲げた。
「お前?どうして…。」
腰をひねって振り向いた山倉の顔がこわばった。永田先生は,コードが張り巡らされた箱のような物体を,上から放り投げた。
「昔近所に,怪しい活動をしているお兄さんがいてね,訊いてもいないのに,爆弾とか火炎瓶の作り方を教えてくれたんだよ。こんな旧式の起爆装置の解除なんて…。」
永田先生は,懐から封筒を取り出し,先生を見た。
「龍ヶ峰先生。あなたの辞表を添削するより,ずっと簡単でしたよ。」
「あ。え。すみませんですぅ。」
先生は,小柄な身体をさらに小さくして,目を伏せた。永田先生が,背を向けて言う。
「こんな誤字・脱字の多い書類は,辞表と認められません。以上。」
「ありがとうございましたっ。」
先生は,腰を折って深々と頭を下げた。何歩か遠ざかってから,永田先生は,振り返って意地悪く言った。
「勘違いしないでください。あなたのような不適格教師に借りを作ったままでは,今後まともな教師生活が送れないと思っただけです。では。」
「教え子がどうかしてると思ったら,上司まで…。あきれたもんだね。」
永田先生の背中を見送ると,カレンさんは,山倉に向き直った。
「これで終わりだ。じゃあ,もう一度だけ訊く。もうバカなマネはしないと約束できるか?」
もう手は残っていないようだった。でも,山倉は,ますます狂気を露わにして怒鳴った。
「だぁかぁらぁ,言ってるだろぉ?約束なんてするかよぉ。どんな姿になっても,俺は,お前たちに復讐するんだ。今度は一人一人殺してやるよ。どうだぁ。あははははは。」
「交渉決裂,だな。」
軽くため息をもらすと,カレンさんは,先生に声をかけた。
「あとはあたしに任せて,そいつらと一緒に外に出てな。」
何をしようとしているかすぐわかった。でも,先生は,僕たちから離れ,カレンさんに歩み寄って行った。
「いいえ。カレンさん。これはわたしの問題です。」
「何?いいから行け。」
「行きません。」
先生は本気だった。本気で怒ったとき限定の凛とした物言いで譲ろうとしなかった。カレンさんが,先生の肩を強く押した。
「言ったろ?こういうゴミの処理は,あたしらの仕事なんだ。お前は,学校の先生やってりゃいいんだよ。ほら。行けよ。」
先生は,微動だにせず,ポケットから何か取り出した。
「バカ。何を…。」
カレンさんが凍り付いたように動かなくなった。工場の中は静寂に包まれた。先生が持っていたのは,スタンガンだった。
先生のスカートからは,まだ滴がしたたり落ちていた。こんな状況で使ったら…。みんなそれがわかっていた。
「カレンさん。お願いします。みなさんを外に誘導してください。」
覚悟の決まっている目だった。先生は,カレンさんを気にしながら,僕たちに言った。
「安原君。藤村君。梅田君。笹本さん。本当にごめんなさい。何もできない担任で。最後もこんなことになるなんて。許してくださいね。」
一瞬だけ見せたのは,今まで見せたことのない優しくて哀しい笑顔だった。涙がこぼれてきた。かまわずに僕は叫んでいた。
「何言ってるんですか?卒業まで見届けるって言ったじゃないですか?」
「そうですよ。約束守ってくださいよ。軍艦島。行くんですよね?」
藤村も泣いていた。キャットウォークからもすすり泣きが聞こえてきた。
「ミオ!」
カレンさんが,先生と山倉のあいだに身体を入れて,怒鳴った。
「りあを撃て!」
「ミオさん!お願いします!」
キャットウォークの下に移動して,藤村も絶叫する。でも,身体を震わせたミオさんのエアガンは,照準が定まらない。
「おい!お前ら!いいから撃て!」
カレンさんは,迷彩服の男たちに向かって,声を張り上げた。彼らは,呆然としてミオさんを見ているだけだ。しびれを切らしたカレンさんは,先生に向き直った。
「おい。りあ。だったら,ここで約束を果たせ。」
カレンさんは,カットソーの袖をまくり上げて,ダーツを手に取った。
「そいつをやるなら,あたしに勝ってからにしろよ。」
「それは,ムダですよ。」
先生は,言いにくそうに言葉を絞り出した。視線は,カレンさんのダーツケースに注がれていた。
「今のあなたでは,わたしに勝てません。ダーツも残り少ないですから。」
「くっ…。」
十分わかっていたのだろう。カレンさんは,悔しさに奥歯を噛みしめていた。
「山倉さん。」
先生は,カレンさんの肩の向こう,山倉に視線を送った。
「あなたは絶対に許しません。ここにいるみなさんや傷つけられたみなさんの命と,あなたの命が同じ価値だなんて,わたしは絶対に認めません。」
「仕方ない。やるだけやるんだ。いいね。」
カレンさんは,僕と藤村を見て,うなずいて見せた。言われなくたって,わかってる。僕たちでは先生に触れることすらできないだろう。それでも,一瞬でいい,注意を引いて,カレンさんに賭ける。僕は,先生の死角に回り込もうと,横歩きを始めた。
「お待ちください。教師に手を出すのは感心できませんね。」
またしても突然声が降ってきた。僕たちは一斉にキャットウォークを見上げた。
「!?」
僕は自分の目を疑った。そこには,さっき逮捕されたばかりのシャールさんが立っていた。もちろん,そんなことを気にしてる場合じゃなかったけど。
「お待たせしました。シャール,幽閉を解かれて,戻って参りました。」
シャールさんは,いつものように恭しくお辞儀して見せた。カレンさんがうれそうにつっこむ。
「なにが『幽閉』だよ。留置所って言えよ。」
シャールさんは,壁の梯子を伝って下に降りてきた。そして,そのまま先生と向き合って言った。
「2対1ならどうです?さすがのアリス様も無傷では済まないと思われますが。ねえ。カレンさん。」
その言葉を合図に,カレンさんが先生の背後に回り込んだ。ダーツの照準を先生の背中に合わせる。これなら先生からスタンガンを取り上げられるかもしれない。
「アリス様。私にも言わせてください。あなたの命とこの男の命の価値が同じなんて,私は絶対に認めません。」
シャールさんは,そう言って満面の笑みを見せた。彼女なりの「どや顔」みたいだった。先生は,がっくりと肩を落として,スタンガンをポケットにしまった。
「ほんと,わたしって,ダメダメですね。いつもみなさんに助けていただいて。今度こそって思ったのに,やっぱり1人じゃ何もできません。」
涙が一筋頬を伝って落ちた。思えば,久しぶりに見た先生の泣き顔だった。
「さあ。ここはシャールに任せて,さっさと行くよ。」
ほっとして力が抜けた僕たちを,カレンさんがせかした。脚全体に毒が回ったのだろう。山倉はうずくまって唸っていた。近づいたシャールさんに気づくと,声を震わせて懇願し始める。
「おい。待てよ。本気じゃないよな?俺を殺すつもりか?やめろって。俺は議員だぞ。どういうことかわかってるのか?」
「関係ありません。」
僕は,シャールさんの言葉を背中で聞いていた。表情はわからなかったが,あたりを凍りつかせるような響きがあった。
「どんな立派なラベルがついていても,生ゴミは生ゴミです。」
キャットウォークにいた人たちは,1人また1人と外に出て行った。最後にミオさんが,手を振って姿を消した。
手を振り返してから,藤村も来たとき使った扉に向かった。後に続いて扉をくぐろうとした時,背後に複数の人の気配がした。
「振り向くな。」
カレンさんの声はちょっとだけ遅かった。僕は一瞬だけど後ろを見てしまった。視界に入ったのは,錯覚でなければ,「みるきい」の常連たちだった。
工場を出てから1時間ほど過ぎていた。僕たちが移動したのは,手近な公園だった。ブランコと砂場とトイレ。どこにでもあるシンプルなものだ。藤村と僕は,家に帰らず,泣き続ける先生を慰めていた。シャールさんが付き添ってくれていた。
「もういいじゃないですか。先生は,十分やってくれましたよ。」
藤村が,ブランコに座ってうなだれる先生に言った。僕も,そのうなじを見下ろしながら,フォローしようとする。
「そうですよ。あれだけの人が集まったのも,先生の人徳ですよ。」
「ほらあ。やっぱり,わたしは1人じゃだめなんですよぉ。もうっ。」
やぶへびになった。藤村が,渋い顔で肩をすくめた。
そのとき,車のエンジン音が近づいて来た。顔を上げると,狭い路地に不似合いなリムジンが止まるのが見えた。
まずい。僕は,反射的に身構えていた。山倉にやばい筋との人脈があって,報復に来たと思った。藤村も,注意をうながそうと,先生の肩に手を伸ばした。
シャールさんがリムジンに歩み寄っていく。運転手と助手席の男が車を降りた。黒いスーツにサングラス。関わっていけない世界の住人だと人目でわかる雰囲気だった。
男たちは,後部ドアを開けると,誰かが出てくるのを見守る。気づくと,シャールさんも最敬礼の姿勢になっていた。
「ええっ!?」
驚くことばかりだった。杖をつきながら姿を現したのは,師匠だった。
「ご苦労だったな。シャール。」
「はっ。」
シャールさんは,いっそう深く頭を垂れた。師匠が,笑みを浮かべながら,僕たちに近づいて来る。
「師匠。あなたは…。」
サプライズは終わっていなかった。問いかけに答えたのは,顔を上げた先生だった。
「…お祖父様。」
「お祖父様?」
師匠は,僕たちの驚きに気を止めず,先生に語りかけた。うれしさがあふれる,泣き笑いのような顔だった。
「大きくなったな,アリス。ついこのあいだまで,ほんの子どもだと思っていたのに。こんなに立派な教師になって。」
「そんな…。だめです,わたしなんて。みなさんがいないと,何もできないし。クラスだって,バラバラで,進路相談なんて全然できてなくて…。」
先生は,不必要なほど首を横に振った。穏やかな日差しを受けて,大粒の涙が飛び散る。
師匠が,すぐそばまで来て,腰をかがめて言った。
「大事なのは,そんなことじゃないだろう。4人もの生徒が,命の危険も省みず駆けつけてくれた。世の中にこんな教師が何人いるというんじゃ。」
その言葉を聞くと,先生は大声を上げて泣き始めた。僕も藤村も,もらい泣きしそうなのをなんとかこらえた。
「よし。よし。こういうところは,まだ子どもじゃな。」
師匠は,先生の頭を優しくなでた。威厳たっぷりで現れたときと別人のような,ただのお祖父ちゃんになっていた。
「…ったあ!」
思わず奇声を発してしまった。突然師匠がよろけて,僕にもたれかかってきたのだ。
「ちょっと,源さん!」
感動の場面をぶち壊しにしたのは,コンビニから戻ったカレンさんだった。カレンさんは,持っていたレジ袋で師匠の頭をはたいたみたいだった。
「カレンさん。いきなりひどいことをするのう。」
「ひどいのは,そっちだろ?最近ダーツしに来てくれないよね?」
「それはだな…。あの…。」
口ごもる師匠を気の毒に思ったのだろう。シャールさんが,進み出て取りなそうとする。「カレンさん。やむを得ない事情があるのです。旦那様は…。」
「やめんか,シャール。ぐっ…。」
師匠がうめき声を上げる。挙げかけた右手は,半端な高さで止まっていた。筋張った左手が右肩をつかんでいる。
「ああ?もしかして…。」
カレンさんは,いたずらを思いついた子どもの顔になっていた。
「肩が完全にいかれたんだ。ほんとジジイだねえ。そうか。そうか。でもね,ダーツができない身体だってカクテルくらい飲めるだろ。ちゃんと来てよね。」
「鬼だ。」
藤村がつぶやいた。シャールさんは,視線を落として,笑いをこらえているみたいだった。苦労して右手を下ろした師匠が,先生に視線を送った。
「アリス。カレンさんが無体なことを…。」
「お祖父様…。」
すっと立ち上がると,先生は,袖で涙を拭った。
「女の子いじめたら,『めっ!』ですよ。」
先生がやっと笑った。
それから3日後。僕は,とある体育館に来ていた。貸し切り状態の柔道場。その中央に二人の女性が立っていた。
「第2回 メイ道グランプリ」− 壁の横断幕には,そう書かれていた。
「ネタじゃなかったんですね。」
僕は,あきれてつぶやいた。日曜の朝,いきなり呼び出されたら,よくわからないことになっていた。
「はい。3年ぶりの開催です。前回は,もっと小さな会場だったんですが…。」
シャールさんが解説を始めた。白いシャツと黒いパンツ,襟には蝶ネクタイ。ギャルソンとの違いがあまりない気がするが,レフェリーの衣装だった。
もともと「メイ道」は,メイドさんのための護身術として発展したらしい。ルールは,あってないようなものだった。対戦相手が認めれば,凶器の使用も認められている。メイドカフェで使用しているものを使うと,判定に有利だという意味不明な採点基準もあった。
そういえば,先生がフォークやトレイを使って戦うのを見たことがある。
審査員席とでも言うのか,僕たちは,畳のすぐ外に置かれたパイプ椅子に座っていた。藤村,彰,莉沙 − 呼び出されたのは,いつもの4人だった。周囲の客席を見上げると,メイド服を来た女性ばかりが目に入った。雑誌やアキバの情報誌で見かけた顔も多い。出入り口は,「マーヴェリクス」のメンバーが固めていた。顔に腫れが残るアランさんの姿もあった。
「今回の大会の開催は,カレンさんの強い希望で実現したものです。前回は,決勝でアリス様に敗れていますから。」
「ああ。そうか。約束っていうのは…。」
藤村が,納得した顔でつぶやいた。僕も,同じことを考えていた。
「ルミさんの件を先生に任せるから,もう一度戦え,ってことだったんですね。」
「そうです。結局,『グランプリ』というより,タイマンという形になりましたが。」
シャールさんは,立ち上がって,時計を確かめた。試合開始の時間が迫っていた。
「じゃあ。『決勝』っていうのは…。え?どういうこと?」
事情が飲み込めていない彰がつぶやいた。畳の上にいる先生とカレンさんを見比べて,首をひねっている。
「参加者を募集したんですが,他に応募がなかったんです。まあ当然といえば,当然ですが。では。」
シャールさんは,一礼して,畳の中央に向かって歩き出す。それまで黙っていた莉沙が口を開いた。
「ルールっていえば,それまでかもだけど,やっぱりダーツを使うのは,ちょっと…。」
プライドの高いカレンさんのことだ。もちろん素手で戦いたいだろう。でも,力の差はどうにもできないということか。
「ダーツを使わなければ,スペックにZZガンダムとジムほどの差があるみたいだ。」
藤村が,うまく喩えてくれた。彰は,まったくわかっていない顔をしていたが。
「ファイト!!」
シャールさんの声が響くと,場内は水を打ったように静まり返った。みんな固唾をのんで見守っている。
勝負のポイントは明らかだった。ダーツが一本でも先生の身体にかすれば,カレンさんの勝ちだ。逆にダーツが尽きて,距離が縮まれば,先生が一撃で決める。
先生は,トレイを使って,器用にダーツを受け続けた。慌ただしく逃げ回る姿は,一見ひどくコミカルだった。でも,実際,その動きにまったくムダはなかった。変則的なステップで移動するたび,先生の足は,確実に床のダーツを砕いた。カレンさんが拾い上げて投げることができないように。
突然会場がどよめいた。
ダーツがなくなった。先生が,フリスビーのようにトレイを投げた。カレンさんは,膝立ちになって,それをかわす。先生が飛び込んでいく。カレンさんの右膝に,先生の左足が乗った。
シャイニング・ウィザード!?
先生の右膝の前で,カレンさんの両手がクロスする。ブロックした?と思ったら,先生の右足は,カレンさんの頭上で弧を描いた。一瞬静止した右足首が水平移動を始める。その先には,カレンさんの右こめかみが…。
シャイニング・ブラジリアンキック!!
とでも呼ぶべき大技が炸裂した。
スローモーションの映像を見ているようだった。カレンさんが後方に崩れ落ちていく。先生も,回転しながら床に落下していく。
シャールさんは,カウントを取らずに,ゴングを要請した。
ゴングが打ち鳴らされると,会場は歓声と拍手に包まれた。僕たちは,立ち上がって,先生に駆け寄ろうとした。それを止めたのは,副審のエリナさんだった。エリナさんは何も言わず,笑顔で首を横に振った。
カレンさんは,すぐに目を開いた。立ち上がっていた先生が,両手を広げて隣で横になった。カレンさんは,一瞬驚きを見せたけど,上を向いて目を閉じた。なんだかすっきりしたような表情に見えた。そして,先生が何か言うと,照れたように笑った。いい笑顔だった。
その日の夕方。ルミさんの見舞いの帰り,僕たちは夕陽に照らされた土手を歩いていた。
みんな,口をきかず,それぞれ何かを考えていた。ふいに先生が言い出した。
「こんな時,青春ドラマだと『あの夕陽に向かって走ろう!』とかゆうんですよね。わたしも,そうしたほうがいいですかぁ?」
「遠慮しときます。」
僕は即答した。藤村もそれに同意して言った。
「そうですよ。俺たち,ヲタクじゃないですか。まあ,彰は別にして。」
いきなり話をふられて,彰は不満げに返した。
「なんだよ。俺だけ仲間はずれかよ。って,莉沙はどうなんだよ。」
「何言ってんの?あたしだって,メイドだよ。今は,ちょっとお休みしてるけど。」
莉沙は,得意げに両手でハートの形を作って見せた。彰が唇を尖らしてぼやく。
「はい。はい。いいですよ。頭の悪い俺は,いつも話についていけませんから。」
「だって,お前,嫌ってただろ,ヲタクなんて。アキバにだって…。あっ。」
僕は,慌てて言葉を切った。先生が後ろ向きで走り出していた。
「じゃあ,みなさん。スタートですぅ。」
先生は,前を向くと,一気にスピードを上げた。
「あっ。待ってくださいよ。」
僕たちも,置いていかれないように駆け出す。逆光になった背中を夢中で追いかけた。
生きる意味なんて,まだわからない。
でも,なんだか笑えたり,泣けたりする瞬間がある。それだけはわかる。
先のことも,まだわからない。
だけど,今の一瞬がなければ,先なんてない。それは間違いじゃないだろう。
とりあえず今は,キラキラした瞬間を見つけて,積み重ねていけばいい。
たいしたことはできない。
それでも,ちょっとだけそのコツがつかめた気がするんだ。
めいせん 第8話「たったそれだけのことで きっと僕は」,第1部 完
第1部終了です。
ありがとうございました。
第2部の構想はありますが,ゆっくり
書いていこうと思います。
おそらく次は別の作品を投稿すると思います。
またよろしくお願いします。