第1回
「おはようございます。」
いつもの朝だった。あいさつした僕を無視するように,教頭と学年主任の永田が通り過ぎて
いった。体裁だけを気にする管理職と,その腰ぎんちゃく。学園ドラマの定番キャラのような組み合わせだ。会話に夢中な二人の声を,僕は背中で聞いた。
「大丈夫なんですか?あんな女の子で。」
「しっ。めったなこと言わないでくださいよ。なにしろ,決めたのは,理事長だっていうんですから。」
「それはなんというか…。ま,それなら,私なんかがどうこう言うことじゃ…。」
「おはよう。」
「お,おはよう。」
僕を追い抜くようにして,教室に急ぐ同級生たちの足音に,二人の声は飲み込まれていった。
「あっ。おはよっ。ねえ,洋司っ。」
教室に一歩踏み込んだとたん,いつものように莉沙が駆け寄ってきた。朝からハイテンションのこいつは,はっきり言ってウザい。幼稚園からの腐れ縁というヤツで,もう10年くらいこんな感じだ。
「今日,新しい担任が来るんだよね。どんな人かな?」
そうだった。僕は,すっかり忘れていたが,その日は新しい担任教師が来ることになっていた。前の担任は,「体調を崩した」という理由で休職していた。僕のクラスは,クセの強い連中が多く,まとまりのない何かと手のかかるクラスだった。たぶん,精神的にまいってしまった,ということだろう。
「ねっ。どう思う?すっごいイケメンだったりしてね。そしたら…。」
突然,教室が静まり返った。黒板のほうを振り返った僕と莉沙は同時につぶやいた。
「…教育実習の人?」
教壇に立っていたのは,小柄な若い女性だった。大学を出ているわけだから,少なくとも22歳であるはずなのに,童顔だから,どう見ても十代にしか見えない。
「おい。洋司。」
後ろの席の彰が,耳元でささやいて,紙切れを僕に押しつけてきた。
「なんだよ,これ?」
「賭けしねえか?あの女がいつまでもつか。俺は1週間に500円。」
「くだらねえ。」
僕は,その紙を彰に押し返した。でも,そんなことをやりたくなるのも,わからなくはなかった。教壇の彼女は,必死に自己紹介しようとしていたが,明らかに「成立」してなかった。
「あっ。ごめんなさぁい。わたし,名前ゆうの忘れてましたぁ。あまりに緊張しちゃって。ダメダメですね。もぉっ。」
彼女は,チョークを手に取ると,特徴のある丸文字で,黒板に名前を書いた。
「龍ヶ峰アリスっていいますっ。仲よくしてくださいねっ。」
そう言うと,彼女は,ぺこりと頭を下げた。
「芸名っすか,それ。」
前のほうに座っている誰かがつっこみを入れた。すると,彼女は,にっこりと微笑んで身を乗り出して言った。
「やっぱりそう思いますぅ?よく言われるんですよぉ。でも,アリスってゆうと,『不思議の国のアリス』から取ったと思う人が多いんですけどぉ,実はぁ,お父さんが,谷村新司さんのファンでぇ…えーと,よく知らないんですがぁ,谷村さん,昔バンドやってたらしくてぇ…。でも,そぉですよねぇ。やっぱり,へんな名前ですよね。うーん。そうだなあ…。」
彼女は,文字通りに頭をひねって考え込んだ。
教室の中に気まずい沈黙が広がった。僕は,何気なく莉沙のほうを見た。僕の視線に気づいた莉沙は,大げさに肩を落として見せた。
「えっとぉ…。あっ!そうだっ!」
彼女が両手の拳を握って,目を輝かせた。
「よかったら,みなさん,わたしを『りあ』って呼んでくれませんか。おわかりだとわ思うんですがぁ,龍ヶ峰の『り』とぉ…。」
教室のあちこちから失笑が起こった。それを破ったのは,朝のホームルーム終了のチャイムだった。
「起立。」
日直が,彼女に断りもなく,号令をかけた。みんなが立ち上がるのを見て,彼女もつられるように,ぎこちなく礼をした。
それから1か月。
彰の予想は外れた。彼女は,学校を辞めようとはしなかった。その間,毎日のように奇行を連発していたけど。
たとえば,こんなことがあった。永田からクラスの生徒に下校時刻を守らせるように言われた彼女は,夕方「仰げば尊し」を歌いながら,校舎の中をフラフラと歩き回ったらしい。うわさを聞いた彰たちは,大笑いしながら言った。
「帰りにかかる曲って,『蛍の光』じゃね?」
「いや,ふつう『遠き山になんとか』だろ?」
ふつう?ふつうだったら,歌わないんだけど。僕は,心の中でつっこみを入れていた。
そして,彼女の評判を決定づけた「14号事件」別名「白い昼メシ事件」が起こった。
僕たちの学校では,月に一度全校清掃を行う。いわゆる「大掃除」だ。その時,校内を見回っていた永田は,僕たちの担当場所を見て,怒りを爆発させた。クラスのほとんどが体育着に着替えていなかったからだった。
原因は,彼女の連絡ミスだった。前日のホームルームで,体育着が必要だと伝えるのを忘れてしまったわけだ。自分のせいで僕たちが怒られたと知った彼女は,大粒の涙をこぼしながら,何度も頭を下げた。
「先生。もういいよ。」
見ていられなくなってそう言った莉沙に,彼女は首を振って言った。
「ほんとにすいませんでした。あの…謝って済む問題じゃないんですが,他に何もできないか
ら…。」
「わかりました。じゃ,こういうのはどうすか?」
彰が,いきなり立ち上がって,教室の中を見回しながら言った。
「このままじゃ,先生の気が済まないみたいだから,みんなにジュースおごって,それでチャラにするってのはどうですかね。」
数人がうなずいた。みんなうんざりしていたんだろう。いかにも,早く終わらせたい,という顔つきだった。すると,彼女は,感謝の目で僕たちを見つめながら,口を開いた。
「ありがとうございます。あの…でも,やっぱり,ジュースじゃ申し訳ないです。それで,だから…明日のお昼ごはん,わたしに用意させてくださいませんか。」
「ラッキー!なんか金持ちのお嬢って感じだから,豪華な弁当が届くんじゃね?」
俺の耳元で,彰が意地悪くささやいた。
しかし,当日,それが届いた時の彰の表情を僕は忘れないだろう。
芸術の授業から戻ると,教室の前のほうに,「生14号」という箱が40個積み上げられていた。まさかと思って見てみると,やはりデコレーション・ケーキだった。直径30センチは軽く超えていたと思う。彰の顔は引きつっていた。
「いや。手違いで,デザートが先に届いたんじゃ…。」
他の生徒たちも茫然と立ちつくしていた。箱を手に取ろうとする者は誰もいなかった。
その時,彼女が息を切らして駆け込んできた。
「よかったぁ。まにあって。さあ,みなさん。遠慮しないでくださいね。じゃあ,前の席の人から…。」
彼女から「主食」を差し出されたみんなは,複雑な表情で受け取って席に着いた。確かに,豪華だった。でも,あれは昼飯じゃなかった。それに,どう考えても,一人一個は多すぎた。
ヤケ食いして,午後の授業中,胃もたれでグッタリしている僕たちを見て,また彼女の目から涙がこぼれ始めた。
「ごめんなさいっ。お口に合わなかったんですね。やっぱり,チョコレート味のほうがよかったんだ。今から追加をお願いしてきますぅ。」
みんな慌てて,気力を振り絞るように「おいしかった。」とか「お腹いっぱいです。」とか叫んだのは言うまでもない。
そして,彼女には「でんせん」というあだ名がついた。「電波系の先生」ってわけだ。
話がかみ合ってないのがわからないのか,それとも気にならないのか,彼女は,しつこいくらいに僕たちに話しかけてきた。
放課後のことだった。学校を出ようとしていた僕は,誰もいない教室で財布の中身を確認した。
『よかった。足りる。』
ほっとした僕は,財布からピンクのカードを取り出して,裏面をながめた。
『あと少しでポイントが…。』
そう思った時だった。
「安原君。なに見てるんですかっ?」
驚いた僕の手から,カードがすべり落ちた。慌てて拾おうとすると,後ろから伸びてきた手が,一瞬早くカードをつかんだ。
「ごめんなさいっ。驚かせちゃって。」
彼女だった。彼女は,カードについたほこりを払いながら言った。
「かわいいカードですね,これ。あ…。」
「返してください。」
僕は,ひったくるように彼女の手からカードを取り返した。彼女は,感心したように言った。
「そうですかぁ。高校生のあいだでは,メイド・カフェが流行ってるんですね。」
そう。僕が手にしていたのは,秋葉原にあるメイド・カフェのスタンプ・カードだった。僕は,吐き捨てるように答えた。
「違いますよ。一度冷やかしで行っただけです。」
「冷やかし,ですか?」
「そ,そうです。罰ゲームみたいなもんですよ,ゲームに負けたときの。」
「罰ゲーム…。」
彼女がさみしそうにつぶやいた。僕は,時計に目をやった。急いでいたこともあって,僕は,ちょっと意地悪な気分になっていた。
「ケーキの早食いでボロ負けしたんですよ。不必要にデカかったですからね。」
「ごめんなさい。わたし…。」
しまった,と思った。彼女の目に涙が浮かび始めた。でも,もう引っ込みがつかなくなっていた。
「それに,どうしてケーキだったんですか。ありえないですよ。」
「…女子のみなさんに聞いたら,ケーキがいいって…。」
思い浮かぶ顔がいくつかあった。まったく。あいつらもあんなことになるとは思っていなかっただろう。そう思いながら,話を早く切り上げようとして,僕は,突き放すように言った。
「先生。だまされたんですよ。何やってんですか?生徒なんて信じちゃダメですよ。」
「そんなことないです。」
彼女は,精一杯首を横に振った。涙が飛び散るのも気にならないみたいだった。
「たぶん何か理由があったんです。わたしが気に障ることを言ったんだと思います。今度から気をつけますね。でも,アドバイスありがとうですっ。」
彼女は,いつものように,ぺこりと頭を下げた。その時,僕は,不覚にも一瞬「かわいい」と思ってしまった。
彼女に話しかけられると,内心悪い気はしなかった。他にもそういうヤツはいたと思う。教師にしておくにはもったいないルックス,と言っても言い過ぎじゃないだろう。でも,やっぱり残念な人だった。
まただまされてるよ。そう思いながら,彼女に軽く手を振って,僕はアキバに向かった。
「ねっ。今日の帰り,買い物につきあってくれないかな?」
それから数日後の昼休みだった。莉沙に呼び出された僕は,英語科教室にいた。教師たちが
「LL教室」とか呼ぶ,リスニングや英会話の授業に使われてる教室だ。
「今日は,ちょっと…。」
その日も僕には「予定」があった。
「ねえ。ちょっとでいいからさ。水着とか欲しいし。今年も一緒に行くよね,海。やっぱり,新しい水着だとテンション違うからさ。」
莉沙は,僕が断ろうとしていたことに気づいて,たたみかけてきた。
そう。莉沙の気持ちには気づいていた。でも,気づかないふりをしてきた。確かに,僕のほうも,異性として意識したことはある。でも,もうつきあいが長すぎて,つきあうとかそんな感じじゃなかった。近くにいるのが当たり前の友達になっていた。というか,それ以前に,僕には…。
僕は,背中を向けて,ドアを開けようとした。
「ごめん。ちょっと,彰たちと話さなきゃならないこと思い出した。じゃ…。」
「洋司。」
莉沙の声に,伸ばした僕の手が止まった。そこには,今まで聞いたことのない冷たい響きがあった。そして,次の瞬間,莉沙の言葉が僕の胸を突き刺した。
「またアキバに行くんだ。」
莉沙は知っていた。
驚いて,言葉が出なかったけど,考えてみれば不思議じゃなかった。週3,4回のペースでアキバに通うようになっていた。当然,友達づきあいも悪くなる。そんな僕に,彰たちは,彼女ができたんだろうとつっこんできた。面倒だったから,特に否定しなかったけど,それで莉沙は…。
「ねえ。洋司。どうしちゃったの?あんな風に…メイドの後つけたりして。」
「あ,後をつけてるんじゃないって。それに,お前だって,俺の後をつけて…。」
突然,僕の前でドアが開いた。
「あっ。ごめんなさいっ。わたし…あの…。」
彼女だった。教室の見回りに来たのだろう。永田が,生徒が校内で「みだらなこと」をして困る,とか集会で言っていたのを思い出した。
それにしても,つくづく間の悪い人だ。彼女は,言葉が見つからずに固まっていた。でも,僕は,内心「助かった」と思った。
「あんた,キモいよ。もうやめなって。ストーカーみたいなこと。」
莉沙は,ドアを閉めようとする彼女を押しのけるようにして,駆け出していった。
「キモい,か…。確かに,そうだよな。」
僕はつぶやいた。言われなくてもわかっていた。周りから見れば,メイドさんの後をついて歩くなんて,キモいにきまってる。
「でも,ストーカーなんかじゃない。」
「あの…。」
彼女が,気まずそうに一歩踏み出した。そして,決心したようにうなずいて,勢い込んで言った。
「あの,よかったら,話してくれませんか。わたしなんか,役に立たないかもだけど,いちおう担任だし。ほらっ。それに,もし秘密とかバラそうとしても,口べただから,たぶん伝わらないし…。」
思わず吹き出してしまった。
「話が通じないって…。だったら,なんで教師になったんですか?」
「それが,わたしにもよくわかんないんですよぉ。えへっ。」
彼女は,照れたように首をかしげてみせた。反応に困った。教頭や教師たちの苦労もわかるような気がした。
『まあ,いいか。』
話してみよう,と思った。ずっと誰かに聞いてほしかったけど,話せる相手がいなかった。もちろん,彼女に相談したところで,解決できるはずがないけど,「害」もない気がした。僕は,背を向けて話し始めた。
「エリナさん…そのメイドさんに初めて会ったのは,半年くらい前でした。学校帰りに山手線に乗ったら,同じ車両に彼女がいたんです。」
彼女を一目見たときから,もう夢中だった。気づくと,彼女を追いかけて,秋葉原駅で降りていた。そして,彼女が『みるきぃ・すまいる・カフェ』という店に入っていくのを確認した。
「って,これって,やっぱりストーカーじゃないですかね。」
僕は,力なく笑って,振り向いて言った。彼女は,全力で首を振って否定した。
「そ…そんなことないですっ。それって,きっと,いい意味のストーカーなんですよ。ストーカーだって,純粋な気持ちがあれば…。あ。これって,フォローになってないですね。ほんとにごめんなさいですっ。」
「いえ。いいんです。でも,今は,ストーカーとかじゃないですから。」
本当だった。
人気のあるカフェだけど,平日の夕方前はわりとすいていて,彼女といろいろ話すことができた。自分が,そんな時間帯に行ける学生だということに感謝した。
今まで,僕は,アニメやゲームに興味があっても,わざと近づかないようにしていた。自分にオタクの要素があると認めるのが嫌だった。でも,彼女と出会って,そんなことどうでもよくなった。
彼女に薦められたアニメを見て,次に会ったとき,それについて話をする。彼女の好きなものを僕も好きになり,世界が広がったと感じるのがうれしかった。
そんなある日,たまたま駅で帰宅途中の彼女に会った。一目見て,何かにおびえているのがわかった。店の外でメイドさんに話しかけてはいけない。そんなルールくらい僕も知っていた。でも,ほっておけなくて,思い切って声をかけた。
「元常連客にしつこくされてる,って彼女に相談されたんです。だから…。」
その客は,エリナさんが別のカフェにいた頃からのファンだったらしい。はじめは,よくいる気のよさそうな中年だったようだ。ところが,その少し前に「ラブレター」を書いてきて,交際を断られると,店からの帰りにつきまとうようになったということだった。
それを聞いてから,僕は,エリナさんがシフトに入る日は,必ず店に行くようになった。二人から少し離れて歩き,無事に家に着くのを見届けるためだった。
彼女より年下の僕が,頼りにならないのはわかっていた。だからこそ,できることは何でもしてあげたかった。
「ええっ。それって,ボディガードですよね?いいことじゃないですかぁ。」
彼女が目を輝かせた。でも,すぐに不安げな表情になって,僕に訊いた。
「あの…。大丈夫ですよ,ね。」
「大丈夫,って,何がですか?」
表情を変えた僕に,彼女は,気まずそうに答えた。
「その…あぶないこととか,ないのかな,とか。」
いちばん言われたくないことだった。あの通り魔事件以来,アキバについてよくないイメージを持つようになった人が多いのは知ってる。でも,面と向かって言われるのは耐えられなかった。だって,あの街は…。僕は,無意識に口を開いていた。
「知りもしないくせに,勝手なこと言わないでください。」
自分でも驚くほど大きな声だった。大きく見開かれた彼女の目に,大粒の涙が浮かんできた。
「ごめんなさいっ。ほんとにごめんなさいっ。でも…あの…最近,事件があったから心配で…。突然,よくわからないこと始める人いるらしいですし…。」
必死でフォローしようとしていたのはわかる。でも,その時の僕にとっては,火に油を注ぐことになった。
「あんたもかよ?オタクが危ないって決めつけるの。もう,ほっといてくれよ。」
彼女の脇をすり抜けて,僕は教室から駆け出した。
それまで教師に反抗したことなんかなかった。どんなに嫌いな教師にも。だから,僕があんなに怒ったのには理由があった。
その前の晩のことだ。ひどく深刻そうな顔をして母親が,部屋に入ってきた。何かまずいことをしたか思い出そうとしていると,母親が僕に紙切れを差し出した。無意識にどこかに捨てたマンガのレシートだった。
「あんた,秋葉原に行ってるの?」
その後は,どこで聞きかじって来たのか,アキバとオタクに対しての悪口の嵐となった。腹を立てた僕は,怒鳴って,母親を部屋から追い出した。
そんなことがあって,2日続けてだったから,こらえきれなかったわけだ。
アキバは危ない,か。
そりゃ,危ないヤツもいるかもしれない。実際,僕も,あの事件の5分くらい前に現場を通っていた。そして,店でエリナさんと話していて,後から来た常連客が興奮して話すのを聞いたんだった。
『もう少しあの街に着くのが遅かったら…。』
一瞬そう考えた。でも,身体が震えたりはしなかった。その後も,アキバに通うのを怖いと思うことはなかった。だって,エリナさんに会うまでの僕の生活といえば…。
死ぬ理由も生きる理由もないから,とりあえず生きてる。
僕の好きなバンドの曲に,こんな感じの歌詞がある。高校生がこんなことを言うと,オヤジくさいと思われるけど,僕には「生きがい」というものがなかった。幸か不幸か,わりと生まれつき能力に恵まれているのか,あまり努力しないでも,人並みのことは一通りできた。でも,夢中になることもないし,自分のしたことに意味を感じることもなかった。
それが,エリナさんと出会ってから,すべてが変わった。恥ずかしいけど,なんだか世界がキラキラしているように見え始めた。
もちろん,ろくにケンカしたこともないから,初めてストーカー男と目があった時は,さすがに一瞬たじろいだ。でも,にらみ合いながら彼女の後を歩いているうちに,うまく表現できないけど,不思議と胸が高鳴ってきた。
そう。「生きてる」と実感できた気がした。
だから,彼女と出会えた街を―そんなふうに感じさせてくれた街を,悪く言われるのが許せなかった。
午後の授業をさぼった僕は,意味もなく歩き回った。そして,少し気持ちが落ち着くのを待って,『みるきぃ・すまいる・カフェ』に入った。それでも,いつもほどエリナさんや他のメイドさんとの会話を楽しむことはできなかった。
「若者。何かあったみたいだな。」
ため息をついた僕を見て,隣の席に座っていた男が声をかけてきた。
「師匠…。」
若い常連客は,彼をそう呼んでいた。彼は,70を過ぎていそうな老人で,僕が店に通い始めた頃,アキバでの「ローカル・ルール」のようなものを教えてくれた。話し好きで,カフェの事情にやけに詳しい男だった。
彼の素性については,様々なウワサがあった。実は大企業の会長だ,とか,コンピューター関係の特許を持つ大富豪だ,とか。なかには,ヤクザの大親分だという説もあった。プライベートなことには深入りしないというのが,この街の「ルール」だから,誰も本人に訊こうとしないで,好きなことを口にしていた。
「な,なんでもないですよ。やらなきゃならないことがいろいろあって,ちょっと考えごとしてただけです。じゃ,お先に。」
その場から逃れるように,僕は,伝票を手にとって立ち上がった。すると,彼は,いつもより低い声で,静かに言った。
「人生,自分の手に負えないことも多々ある。それについて何もできなくても,自分をふがいないと思うことはない。」
彼は,時々すべて見透かしたようなことを言った。それが,他の客からリスペクトされる理由だったけど,その時の僕には,「説教」を聞いている余裕はなかった。
僕は,彼に背を向けて,レジに向かって歩き始めた。
それから…。
目を開いた僕は,見知らぬ場所にいた。
『どうなってるんだ?』
僕は,顔を上げて,周囲を見回してみた。かび臭い薄暗がりの中に,段ボール箱が積まれているのが見えた。
『…工場?いや,倉庫?えっ…。』
気づくと,身体の後ろに回した両手は,もたれていた柱に縛り付けられていた。
『何があったんだっけ?』
身体をよじると,辺りにほこりが舞い上がった。僕は,咳き込みながらも,なんとか冷静に状況を見極めようとした。その時だった。僕の背後から声が聞こえてきた。
「お目覚めかな,イケメン君。」
思い出した。
店を出た僕は,無性に腹が立っていた。
大人はみんなオタクは危ないと決めつける。そして,僕たちを子供扱いして,都合の悪いことから遠ざけようとする。時代から取り残された世代の人,それに,できそこないの教師。そんなヤツらに心配されるほど自分はヘタレじゃない。
そう思った僕は,自分だけでストーカーと話をつけようと考えたんだった。それで,エリナさんの後をつけていた男に声をかけて…。で,その後は…。
「よく眠っていましたよ。勉強とボディガードの両立は,よほどたいへんと見えますね。」 僕の前に歩み出た男の胸ポケットから,スタンガンがのぞいていた。
「ちくしょう。ふざけやがって…。」
力一杯もがいてみたけど,手首のロープは,少しもゆるまなかった。男は,勝ち誇ったように笑って言った。
「ムダですよ。君の力では,そこから逃れられません。では,そのイケテる姿を,お姫様に見てもらうことにしましょうか。」
「何?」
僕の後ろに回り込んだ男は,台車を押しながら戻ってきた。その上には,エリナさんが,身体を丸めて載せられていた。やはり,後ろ手に手首を縛られていた。
「なんてことしやがるんだ!?このオヤジ!おいっ。エリナさんに何をしたっ!?」
思わずそう叫んでいた。熱くなった身体が,怒りで震えているのが自分にもわかった。
「エリナちゃん。そろそろお目覚めの時間ですよ。ほら。王子様がお待ちかねですよ。」
怒鳴り続ける僕にかまわず,男は,エリナさんを揺り起こしそうとした。
「え…。ここ…。えっ…。」
エリナさんは,上半身を起こそうとしたが,身体の自由がきかなかった。
「あ。洋司君?えっ。どうして…。」
僕の姿を見て,エリナさんは目を丸くした。そして,恐ろしいことに思い当たったように,ゆっくりと顔の向きを変えた。そこには,男の笑顔があった。
「よ…。吉村さん…。なんなの,これ…。やだっ。」
エリナさんは,必死にもがいたけど,どうにもならなかった。それで,助けを求めて叫び始めた。
「ムダですよ。残念ながら,ここには誰も来ません。友人から借りた誰も使っていない倉庫ですからね。」
男は,血走った目で,エリナさんの全身をながめ回した。
「エリナさんは関係ないだろ?恨みがあるのは,俺だけのはずだ。彼女を放せ。」
僕は,もう一度両手に力を込めた。でも,やはり,身体を柱から引き離すことはできなかった。男は,僕に向き直って,口元に冷たい笑みを浮べた。
「それは許可できませんねえ。彼女の前で謝罪してもらわなければ意味がない。」
「謝罪?」
「わからない?ああ。まったく嘆かわしいことだ。」
男は,大げさに首を振って,呼吸を整えてから続けた。
「最近の若者は,他人の迷惑ということに本当に無頓着だ。ただでさえ,アキバが観光地化して,『萌え』の意味もわからない連中が増えているのに,君のような男が店の常連になるのは,迷惑極まりないとは思わないか?」
「迷惑?」
「そうだ。君が店に来るようになるまで,私とエリナちゃんは楽しく過ごしていた。口説いたりしないってルールだって,ずっと守ってきたんだ。それが,君が現れてから,彼女の様子がおかしくなった。だから,私は彼女に告白することにした。でも,準備期間が短かったら,うまく気持ちが伝わらなかった。私に焦って告白させた君の罪は大きい。」
僕は,エリナさんのほうを見た。何か言いたそうだったけど,言葉が見つからないみたいで,不安そうに男を見ていた。
「あんた…。」
身体は震えていたけど,エリナさんの前でこれ以上情けない姿を見せるのはイヤだった。僕は,思い切り強がって言った。
「あんたおかしいよ。」
「おかしい,だと?」
しまった,と思った。明らかに男の表情は変わっていた。
「おかしいのはお前のほうだ。お前にはあの店に来る必然性がない。若者には,クラブとかサークルとか,いくらでも居場所があるはずだ。『萌え』がわからないヤツに居場所を奪われた人間の気持ちがわかるか?ああんっ?調子に乗りやがって,このガキがっ!」
男が,僕の頭上にスタンガンを振り上げた。息を止めて,僕は目を閉じた。
「もうやめてっ。お願いだからっ…」
エリナさんが,悲鳴のような叫び声を上げた。
その時だった。それをかき消すように,金属がきしむ音がして,倉庫の扉が開かれた。
「バカな。いったい誰が…。」
目を開いた僕は,まぶしさに目を細めた。シルエットで現れたのは,小柄な女性だった。その服や髪に,不必要な飾りがついていることが,逆光のなかでもはっきりとわかった。
『メイド…?』
「あーあ。ほんと残念ですぅ。」
ゆっくり近づいて来た影は,あまりに場違いな緊張感のない声でしゃべり始めた。
「あなたの『萌え』に対する認識は,日本で2億番目ですねっ。」
め い せ ん
〜 第1話 「メイド長,アキバに帰る」〜
それは,聞き覚えのある声だった。間違いない。僕はつぶやいていた。
「先生…。」
「安原君。無事でよかったですぅ。」
彼女は,ちょっと目を潤ませながら,笑顔を見せた。
「ん?お前,まさか…。」
意外なことに,男も彼女を知っているようだった。
「や,やはり。りあじゃないか。なぜ,ここに…。」
「り,りあさん!?どうして…。」
エリナさんからも,驚きの声が上がった。
彼女は,立ち止まると,深々と頭を下げた。そして,少し間を取ってから言った。
「お二人とも,ごぶさたしてます。お元気そうですねっ。わたし,今学校の先生なんですよぉ。それで,今日は,生徒さんとお話の続きをしに来たんですけどぉ…。」
「教師?お前が?ふん。事情はよくわからないが,でも,なるほどな。教師が教師なら,生徒も生徒だ。それにしても,笑わせる。伝説のメイド長さんが,今は教師とはな。」
男は,大げさに笑って見せた。
彼女は,ほおをふくらませて,男のほうに進み出た。
「わたしを悪くゆうのはいいですけど,安原君を侮辱するのは,やめてくださいっ。」
僕は思い出した。エリナさんは,前にいたカフェのメイド長に憧れてメイドになったと言っていた。でも,まさか,それが,僕の担任だったとは。
「先生,どうしてここがわかったんですか?」
彼女の登場で,場の空気が変わっていた。僕は,素朴な疑問を口にした。彼女は,困ったように少し視線を泳がせてから答えた。
「それは…長く腐女子してますと,いろいろと耳に入ってくるんですよぉ。」
「でも,それにしても…。」
「ドラマでも,よくあるじゃないですかぁ。拉致された人は,こんな感じの倉庫に連れてこられるんですよ。」
「そ,そういえば,さっき,お前,俺は『萌え』がわかってない,とか言ったな。」
乱されたペースを取り戻そうとするように,男が口を挟んだ。彼女は,僕に向かって伸ばしかけた手を止め,大きくうなずいた。
「はい。正直に言っちゃいました。だって,手が届かなくても,触れられなくても,ハアハアできる。ニマニマできちゃう。それが『萌え』だと思うんですよぉ。だから,好きだとかいって,強引に自分のものにしようなんて,『萌え』じゃないんですよ。」
「何ぃ?黙って聞いてりゃ,偉そうに。おい。こっちは,お前が生まれる前から,アキバに通ってるんだ。年季が違うんだよっ!」
「そうですか。それは,それは,お疲れさまですっ。」
彼女は,スカートのすそを指でつまんで,ぺこりとお辞儀した。その仕草が,男の怒りを一気に爆発させた。
「なめてんのかぁっ!?このクソアマがぁっ!」
男は,用意していた鉄パイプを手に駆け寄って,彼女に向かって振り下ろした。
工場の中に,金属がぶつかり合う音が響きわたった。彼女は,持っていた銀のトレイで,それを受け止めていた。その後も,力任せに男が打ちかかるたび,彼女は器用に鉄パイプを防いだ。
不思議なくらい彼女には余裕があるように見えた。男が,本気で鉄パイプを振り回しているのに,その場面は,コミカルにさえ思えた。エリナさんも,もう悲鳴を上げることなく,二人の動きを見守っていた。
そのうち,男の息があがってきた。男は,いまいましそうに彼女をにらんで言った。
「お前。大事なことを忘れてないか?俺を倒さなければ,この二人を連れて帰ることはできないんだぞ。いつまでも逃げる回ってないで,俺と勝負しろ。さもないと…。」
「いいですよ。」
男が,肩すかしをくうほど,彼女は,あっさりと答えた。そして,男の顔をのぞき込むようにして続けた。
「でも,ひとつお願いがあるんですよぉ。このままじゃ,むりですから。」
「お願い?まったくめんどくさい女だな。ふん。まあいい。言ってみろ。」
「ありがとうございますっ。でわぁ,今からおうちに帰って,お片づけして,着替えて来てくれませんか。」
「何?」
男は,意味が分からず,眉間に皺を寄せて,考え始めた。僕もエリナさんと顔を見合わせた。
「大丈夫ですよ。簡単です。同人誌とかメイド・カフェのカードとか処分して,ファッション雑誌にのっているようなお洋服で来てくれるだけでいいんです。」
彼女は,構えていたトレイを下げて,ゆっくりと男に歩み寄った。
「おい。回りくどい言い方はやめて,わかるように説明しろ。」
「そうですね。では,これならどうでしょうか。最近,マスコミの方のヲタクに対する目が冷たいじゃないですか。もし,このままあなたが逮捕されたら,またヲタクが事件を起こしたって騒がれて,ヲタクの人が迷惑しますよね。」
「何?それは…。」
男は,彼女の言いたいことを理解したようだった。
「わかっていただけましたか?」
また一歩彼女が踏み出した。その顔からは,微笑みが消えていた。
「あなたは,ヲタクと呼ばれる価値のない人間です。」
「ふざけるなあぁっ!」
男が,彼女に向かって,鉄パイプを投げつけた。それは,銀のトレイにはじかれて,床を転がった。僕が,パイプの行方から男に視線を戻すと,その手にはサバイバルナイフが握られていた。
「このアマが。もう我慢ならん。そんなに死にたいなら,殺してやるよっ!」
男は,ナイフの刃先を前にして駆け出した。
「死ねえっ!」
彼女は,その場から動こうとせずに,頭上にトレイを投げ上げると,ニーソックスに挟んでいた何かを取り出した。
『フォーク!?』
次の瞬間,ナイフは回転しながら宙に浮いていた。
フォークの又でナイフを受け止めた彼女が,手首をひねると,ナイフはあっけなく男の手から引き剥がされていた。
「ああっ!」
そして,さらに,あっけにとられた男の脳天に,落ちてきたトレイが直撃した。
彼女は,拳を固めると,力を込めて自分の身体のほうに引き寄せた。
「危ないもの振り回したりしたら,『めっ!』ですよぉっ!」
「ほんとよかったですぅ。二人とも無事で。」
「りあさん!帰ってきてくれたんですね。わたし…。」
ロープをほどかれたエリナさんは,泣きながら彼女に抱きついた。僕は,近寄って,ストーカー男を見下ろした。彼女の右フックであごを打ち抜かれた男は,完全に気を失っていた。見事な失神KOだった。
振り返ると,彼女は,微笑みながらエリナさんの頭をなでていた。僕は,自分の見た光景が信じられなくなって,男と彼女を見比べた。
「すみませんでした。」
エリナさんが,彼女から身体を離して,頭を下げた。
「わたしが,もっと鍛えていたら,洋司君を危ない目に遭わせなくて済んだのに…。」
「今回はしかたないですよぉ。きっと,不意をつかれたんですね。これからは,注意しましょうね。」
彼女は,もう一度エリナさんを抱きしめた。僕は,もう気になっていたことが抑えられなくなっていた。だから,彼女の前に進み出て,訊いてみた。
「あの…鍛える,って,二人は何か格闘技とか,やってるんですか?」
「安原君。誰にも言わないって約束できますか?」
彼女が,いたずらっぽく笑った。僕は,反射的にうなずいていた。
「今回のことでも,わかったと思うんですけど,メイドって,いろいろあったりするんです。だから,実は,こっそり身体を鍛えてるんですよぉ。」
「護身術ですね。何か名前はあるんですか?なになに道とか,なんとか流とか…。」
「それはですね…。」
僕の耳に顔を近づけて,少しためるようにして,彼女が言った。
「メイ道,ってゆうんです。」
一気に身体の力が抜けた。これって笑うところ,なんて思ってたら,彼女は,エリナさんに肩を貸して歩き始めていた。僕は,その背中に声をかけた。
「ちょっと,先生。待ってくださいよ。」
倉庫の入り口近くまで行ったとき,突然彼女が振り向いた。
「そうだ。安原君。連絡しに来たのに,忘れるところでした。明日は,体育着が必要なんです。いいですか。今度帰りのホームルームさぼったら…。」
そして,彼女は,こぼれるような笑顔で言った。
「めっ!ですよ。」
〜 第1話 「メイド長,アキバに帰る」 完 〜