83. 蒼き罪業~ブルーカリエンテ~
私は愚かな悪魔だ。
過去の情念に縛られ、今こうして眼前の敵に攻撃する事もできずにいる。レオハート様の形をした人形だ。分かっているのに何も為せない。彼女の魂を砕けばランフェルノの権能は停止する。もちろん、そうしようとすれば彼女もまた抵抗するだろうし、今までも抵抗する魂を力を以て砕いてきたのだろう。
彼女が我が主であった頃から私は成長し、生前の彼女より一段下程度の力を得ている。戦えば私が勝利し、魂を砕く事ができる可能性もある。
……だが、踏み出せない。彼女は依然としてこちらを虚ろな瞳で見つめている。
「ブルー、あなたの魂を私に委ねてください。苦しめずに済みますよ」
人形となった彼女の腕には痣が浮かんでいた。ノアの魂鏡という禁忌の道具で記憶を消却された証だ。おそらくランフェルノに消されてしまったのだろう。
彼女が私の名を呼ぶ度に、覚悟が遠のく。ノアの魂鏡で消去し切れない記憶は、生前に大切にしていた記憶だと言われる。私の、ブルーカリエンテの記憶など今の彼女には必要ないはずなのだ。
私の存在はレオハート様にとって大切な記憶であったというのか?
「……」
全てを終わらせる為に、我が生涯の復讐を果たす為に、命を投げ打ってここまで来たのだ。
だというのに、このまま身を委ねれば良いのではないかと、そう思ってしまった。たとえ彼女が洗脳された魂を写した人形だったとしても……もう、良いのではないか?
人の情など、悪魔には似合わぬと言われる。私はその言い分は大嫌いで、レオハート様もそう仰っていた。悪魔は人に寄り添い、人と苦難を共にする。にも拘わらず、我ら悪魔は多くの世界で血も涙も無い生物として忌み嫌われるのだ。ここで私が彼女を手にかけられぬのも、また情によるものか。
レオハート様に拾われた私は、そこから心を覚え、情を覚えた。
情に生まれ、情に死ぬ。……これが我が宿運なのか?
「ああっ!」
「ッ、レオハート様……!?」
我が逡巡をよそにして、閉ざされた精神世界に蒼き刃が降り注いだ。まるで、私だけを避けるかの様に。
蒼き刃はレオハート様の人形を貫き、身体に致命の傷を刻み込んだ。
同時、私を契約によって呼ぶ者が居た。我が使役者だ。
──ああ、合図だ。私を呼んでいる訳ではない、君は進めと、僕の意志は届いただろうと……そう告げているのだ。
「……申し訳ありません、我が主。ここに囚われた以上、もう未来は共に歩めないのですよ。ですが、貴方に未来を見せる事はできる。お手を煩わせてしまい、申し訳ない」
そうだ、私にはまだ主が居て、戦っている。
一歩、踏み出す。ようやくだ。
「……我が主がお望みだ、ランフェルノの従僕よ。貴方の魂……私が砕いてやろう」
彼女は傷を抱えながらも、感情の無い瞳で私に訴えかける。
我が使役者の刃をまともに食らった彼女は、もはや動く事もままならない。かつて『氷結の大悪魔』と呼ばれたレオハート様の威光は消え失せていた。
「待ってください、ブルー。私には主様の力になる役目が……」
「懺悔ならばあの世で喚くが良い。月世界の元悪魔、ブルーカリエンテ……この敵の討伐を以て、我が主との契約を終了する」
拳を振り下ろし、彼女の胸を貫く。砕くのは、魂。
悪魔として幾度となく繰り返してきた行為だ。だから、 辛くはない。
「あ、ガアッ……!」
「……お赦しを」
もう、貴方の口から「主様」なんて言葉は聞きたくないのです。
彼女は崩れ落ち、精神世界から散りゆく。相も変わらず、虚ろな表情だ。
「あ、主……様……」
「私も、後を追いましょう。人が語る、天国も地獄もありませんが……また会える事をお祈りしていますよ……レオハート様。そして我が最後の主……アルス・ホワイト」
願わくば、貴方の未来に幸せが溢れますよう。
我が生涯を、ここに捧ぐ。
ーーーーーーーーーーー
「ああ、嫌だッ! レオ、レオ! はやく焔を……!」
「もう終わりなんだよ、ランフェルノ!」
未だに残る焔で、ランフェルノは戦い続けていた。僕が神剣を振るう度、ゼニアが神気を発する度、奴の焔は消えていく。
そして、完全に燃え切った時……刃は奴に届き、再生も叶わない。
「痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、死ぬのは嫌だ! でも……」
そして、その時は来た。
──届いた。僕の神剣が、ランフェルノの胸を貫く。
創世主の混沌を帯びた我が一撃は、災厄の魂すらも討ち滅ぼす。
……熱い、な。奴の魂に触れただけで、溶けてしまいそうだ。
剣で胸を抉り、力を籠める。
「熱いのはもっと嫌だ! ああ、熱い熱い熱いッ! 助けて、熱いよレオ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
「くっ……!」
「アルスさん!」
とんでもない熱さに僕まで焼き切れそうになったが、ゼニアが熱を和らげてくれる。
罪過の焔が、ランフェルノの内側から燃え上がり、奴の身を、魂を炙り続ける。重ねた罪に、相応の罰が下ったまでだ。
「あああああッ……えい……えん……」
燃え上がり、燃え上がり、燃え上がり、灰も残らず散ってゆく。
これが永劫を得た者の末路か。或いは、魂を冒涜した者の果てか。
共鳴が切れる。
完全に災厄は絶命した。
「……終わった、かな」
「はい。でも……」
ゼニアは何か僕に言いたいようだった。
きっと、彼の事だろう。
「ブルーカリエンテは、良いんだよ。彼が望んだことだからね」
「アルスさんがそう言うのならば……」
彼女は未だに憂いを隠せない様子だ。
「短い間だったけど、分かったんだ。彼はとても感情豊かで、思いやりがあって……表には出さないけどね。ランフェルノに復讐したいって心も、すごく強かったと思うんだ。僕も哀しいけど、それで良い……良いんだよ」
もう契約は切れていた。魂まで消え去ったという事だ。
「……分かりました。この方舟も崩壊が始まっています。脱出しましょう」
「ああ、帰ろうか」
三者が守った、世界へと。




