62. 明鏡止水
黒い霧がマリーを包み込む。
直感。この霧に蝕まれた瞬間、己は絶命すると、彼女は悟った。
「ッ……」
だが、避けられない。無数の霧の魔手が逃げ道を塞いでいた。
覚悟を決め、一矢報いようと矢を番えた……刹那。
彼女の身体に触れた黒霧が、蒸発するかのように溶けていった。全身を淡い水色の光が包み込み、それが呪いの攻撃を弾き返していたのだ。
暖かな光だ。光の発生源に目を向けると、
「く、くらげ……?」
肩に薄緑色のクラゲがちょこんと座っていた。
本来クラゲには無い二つの点目をマリーに向け、ユラユラと揺れている。
『あ、やっと気づいた。こんにちは、マリー』
その声を聴いた瞬間、マリーはその正体を悟る。
「あ、精霊様……!?」
彼女の幼少期、学校の校外学習でアリトーサ丘陵に赴いた時のことだ。
何者かが助けを求める声を聞き取り、マリーはフロンティアに飛び出してしまった。辿り着いたのは泉で、そこには恐ろしい怪魚人が居たのだ。そこに偶然居合わせた……今思うと、絶対に心配でついてきた兄がそれを倒し、事無きを得た。
後から兄に聞いたところ、あの声の主は精霊であり、マリーに何かを贈与したらしい。
そして、その声とクラゲの声は全く同じであった。人が他者に関して最も忘れやすいのは声らしいが、不思議と精霊の声をマリーは忘れていなかった。
『はは、様なんて大げさだねえ。ボクは《明鏡止水》の精霊・シャスタ! キミが助けてくれて以来、キミに宿って傷を癒してたんだけど……なかなか気付いてくれなくてねえ……こうして主張する機会が出来て良かったよ!』
「い、いえ……助けたのは私ではなく兄ですし、なぜ精霊様が私なんかに宿っているのでしょう……?」
『キミが気付いてくれなかったら、キミのお兄様も来てくれなかったんだし。ボクはあの泉で傷ついた体を癒してたんだけど、魔物に襲われて大変だったんだよ? キミが気付いてくれなかったらどうなってた事か……命の恩人に恩を返すのは当然だよ! それに、キミのココロも面白そうだったし』
「なるほど……? 助けてくれて、ありがとうございます」
事態をよく呑み込めていないマリーだが、取り合えず頷いておく。
『あと、ボクのことは気軽にシャスタって呼んでよ!』
「は、はい……シャスタ、さん」
『よし! お互いの存在を認識できたことだし、契約しよう! もちろん、こっちから条件は提示しないよ。キミは命の恩人だからね』
シャスタはマリーの肩から離れ、揺れながら彼女の瞳を覗き込んだ。
契約。精霊や悪魔が条件を提示し、契約者がそれを為すことで、加護を受贈するというもの。
「……ブルーカリエンテさんは、私の勝利を確信していました。それはシャスタさんとの契約も見越していた、ということでしょうか?」
『あー、彼もなかなか意地が悪いよねえ。ボクに守護の仕事を丸投げするなんて……どこかキミを試してるようにも見えたなあ。まあ、精霊術を使わないと呪術を破るのは厳しいだろうね。契約するにせよ、しないにせよ、ボクはキミを助けるけど……どうする?』
「契約します。それが勝つために必要ならば」
『アハハ、即決かあ! キミ、やっぱり面白いよ! それじゃ、明鏡止水シャスタの名において、キミに加護を贈与しよう! 我が契約者、マリー・ホワイト!』
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「……言った筈です。私は負けないと」
精霊との契約を交わすと、マリーからとてつもない力が溢れ出す。力はとめどなく溢れ続け、水流となり、捻れに拗れ、黒霧を薙ぎ払う。
「馬鹿なっ……! どうやってあの呪印の罠を……」
思わぬ事態に呪術師は狼狽する。
突破された罠、マリーから発される謎の魔力。あまりに多すぎるイレギュラーは、勝利を確信した呪術師の心に揺さぶりをかけるには十分な要素だった。
『さ、やっちゃおうよマリー!』
「はい、油断はしません」
「き、貴様……誰と話しておる……?」
精霊の姿は契約者か、上位存在以外視ることが出来ない。得体の知れない存在と話すマリーは、呪術師の眼には不気味に映って見えた。
「失せよ、土大破!」
大地から土石流が盛り上がり、破裂してマリーに襲い掛かる。しかし、彼女が捉えたのは岩の断片だけではなく、その合間に浮かぶ黒い糸。
「あれは……呪い?」
『ボクの加護で呪術も視えるようになったんだね。精霊術で吹っ飛ばしてやろう!』
鋭利な石片と、呪いの糸が迫る。
しかし、マリーは真っ直ぐに前を見据えていた。
「明鏡止水──『水鏡』」
彼女の足元が、揺らぎ、停止する。峡谷の岩肌はまるで水のように滑らかになり、彼女が立つその場だけが、まるで静謐な泉のように静止した。
迫っていた岩石、呪糸……すべてがぱらぱらと解け、霧散する。
「なっ……!?」
呪術師に追撃の隙は、与えない。
「明鏡止水──『水面の糸』」
「くっ……」
たった一矢。
水のように透き通った矢が放たれた。
それを防ぐべく、呪術師は障壁を展開。神能による無数の矢をも防ぎ切った障壁だ。
しかし、呪術師は知らない。その矢が呪術にきわめて有効な【精霊術】だということを。
矢は障壁をするりと通過し、呪術師の胸を貫いた。
「こ、こんな……こと、が……」
その一撃で、老婆は絶命。
「これが……精霊術……」
『あの人、変な方法を使って寿命を延ばしてたみたいだね。普通の人や魔物だったら今みたいに一撃で倒すことは難しいかも。……あ、でもキミは弓だから急所を狙えば一撃かもね』
シャスタはふわふわマリーの周りを飛び回り、所在なく動き回っている。
「助けてくれて、ありがとうございました。シャスタさんのおかげです」
『うーん? なんか、ここで終わりみたいな言い方だねえ』
「えっ……?」
マリーはずっと精霊の力を借りられるとは思っていない。
ここまで強力な力は反則だと思うし、何よりも自分に御し切れないと感じていた。
『たしかに、今ので恩は返したかもしれないけど。ボクはキミのココロに興味があるって言ったでしょ? 精霊ってのは独特なココロを持つ者に惹かれるからねえ……まだまだキミについていくつもりだよ』
「あの、私は独特な心を持っているのですか……?」
『キミ、何かを恐れてない?』
核心的な問いだ。
マリーは思わず黙してしまう。だが、自らの心は誰にも語りたくないのだ。
『ボクはキミに宿って大体の事は見てきたよ。復讐の念に駆られていることも、キミが頑張って修行していることも。助けになれるかもしれないよ、話してみない?』
もしかしたら、シャスタにならば。
そんな想いがマリーの脳裏に過る。駄目だ、話してはいけない。
そう分かっているのに。
「……私は、兄を恐れているのです」
話した。話してしまった。
一人で抱え込むことに、限界を感じていたから。
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『アハ、アハハハハッ! そうか、お兄様が怖いのか! かわいいなあ、マリーは」
マリーの悩みを聞いたシャスタは哄笑し、上下に振動した。
「わ、私は真剣に話してるんですよ!」
『い、いやあゴメン……てっきり狂刃に挑むのが怖いとか、騎士になるのは気後れするとかだと思ってたから。やっぱりキミ、面白いなあ』
なんだがからかわれているように感じて、マリーは俯いてしまう。
彼女自身にも紐解けぬ心の問題。深刻で、彼女を苛ませ続ける問題なのだ。
『まあ、たしかにキミのお兄様は得体が知れないよね。いつもボケーっとしてるし、何考えてるか分かんないし。ただ、強さを求めるのを辞めたって訳じゃないと思うよ、あの方は』
「……そう、でしょうか。あの人は騎士になるかも分からないし、霓天としての誇りというか、そんなものに欠けている気がするんです」
『あー……それは力を示さないのであって、求めてないのとは違うよ。多分、ばとるぱふぉーまー? ってので戦闘欲は発散してるんじゃないかな。あと、お兄様は自分が良ければそれで良い、って性格だね。あんまり世間体は気にしてないみたい』
マリーは兄について知らなかった。バトルパフォーマーをしているという事実も、今日知った。
兄と触れ合う機会がなかったから……いや、避けていたからかもしれない。
『もちろん、キミのことは大切に思ってるよ。ちょっと気持ち悪いぐらいにねえ。校外学習にも心配でついて来るくらいにね?』
「ふふっ、そうですね……」
シャスタと出会った時のことを思い出す。知らない人ばかりが周りに居て不安だったマリーを、彼は元気づけ、救ってくれた。
兄の優しさは知っている。だからこそ、彼を嫌う自分が嫌で、国内での評価の低さが嫌になるのだった。
『あとは……人間の本能、かな』
「本能?」
『お兄様自身が隠してるからあんまり詳しくは言えないけど……彼は人から本能的に畏怖されるんだ。逆に、仲が良ければ頼られて、好かれる性質でもある。キミから歩み寄ってみれば、本能的な畏怖は克服できると思う』
シャスタが話したのは、神族の性質。アルスの成長とともに発現していった神族の魂が、次第にマリーを遠ざける要因ともなったのだろう。
精霊の言葉に間違いはない。悩みを話し、シャスタから返って来た言葉は彼女には分からない内容も多かった。それでも、自分から兄に歩み寄ってみたら良いというアドバイスは貰った。思い返せば、ここ数年で兄とのまともな会話は殆どなかったのではないか。
「そう、ですね……一つだけ、尋ねたい事が……」
彼女の言葉を遮るように、
「……地鳴り?」
くぐもった音と、微かな振動が足裏から伝わった。
「おや……我が主の方角ですね。かなりの魔力波が動いたな」
「……いつの間に居たんですか?」
気づけば、ブルーカリエンテは封印から解かれてそこに佇んでいた。
彼はシャスタに一礼し、シャスタもクラゲ頭を前に傾ける。
「……ご安心を。会話の内容は聞こえていましたが、他言はしない」
「ほ、ほんとですか?」
『悪魔はいじわるだけど、嘘はつかないよ。それよりも、あっちに行こうよ! 面白そう!』
人外の二体に振り回されがちなマリーだが、今はその二体を差し置いて兄の元へ向かいたかった。
シャスタの語った言葉のすべてを理解した訳ではない。しかしその言葉により、彼女の心には一脈の変化が──いや、滞留が決壊したかのような激流の変化が渦巻いていたのだ。
「すぐに向かいましょう、彼らの力になれるように」
『ああ、前を向いて俯かない……そんなキミが良いんだよ、マリー!』




