188. 光なかれ
一つの生に定められた時間は有限である。
自分に目的がないのならば、時間を無為に消費するのは良いだろう。生きる意味を見出していないのならば、惰眠を貪るのも悪くはない。
しかし……もう一つの因子が付与されれば話は別だ。
例えばこの女、ユリーチ・ナージェントの時間には自分以外の要因が付与されていた。とある友人が生命に許された刻限を消費しきるまでに、目的を完遂せねばならない。
「やあ、こんにちは」
その友人が目の前に現れた。
彼の名はアルス。この世界に張り付けられた異質なテクスチャである。ユリーチの目的は彼を『在るべき場所』へと還すこと。それが彼にとっての救いになる。
ナージェント家の研究棟にてユリーチはひたすらに研究を重ねていた。
憑りつかれたように研究に執着する彼女の様子を見て、アルスは困惑したように呟く。
「今日も研究か? 相変わらず引き籠っているんだな」
何の研究を行っているのか、アルスには話していない。きっと話せば彼はユリーチの献身を拒絶するから。
「最近はね、籠っているだけじゃないよ。何人か優秀な魔導士を推薦して、彼らに魔術を教えたり……学会に出たり……色々と準備を進めてる」
「……準備?」
「そ、準備。輝天の家系を残すつもりはないの。だけどナージェント家の技術力を潰すには惜しいから……後継に魔術を教えてる」
ユリーチは心の底で英雄の血筋を嫌厭していた。
神能、異能。世界より与えられし奇跡。しかし奇跡とは名ばかりで、個人間の格差を広げる要因に過ぎなかった。ただ特異な血筋を持っているというだけで、恵まれた人生を送る者も存在する。
彼女はその格差が好きではなかった。他ならぬ、自分自身が神能による恵みを享受して心を傷付けたがゆえに。もう彼女は兄のことなど覚えていない。しかし欠落した記憶のどこかに、神能による心の瑕疵があるのだと漠然と分かってはいた。
「では、少なくとも『光喚』を後世に残すつもりはないのだな」
「うん。なんかさ、異能とか神能って不公平じゃない?」
「あー……それは誰もが感じているアレだな。暗黙の了解で、異能は素晴らしい恵みということになっているが」
しかしこのユリーチ・ナージェント、世間の常識など歯牙にもかけない性格である。自分が不条理だと感じたとのならば、真向から異を唱えていくスタイル。
「神能は残したくないし、ナージェント家の執務もめんどいし、あと数年で失踪しようかなって」
そして世間体など気にもしないスタイル。
勝手に消えようとしている。さすがのアルスも何も言わずに霓天の家系を潰そうとはしない。
「き、消えたらどこに行くんだ……?」
「それはもちろん、理外の魔女として過ごしていくつもりです。楽園の部屋、私のために一つ空けといてね」
結局、ただ研究がしたいだけなのだ。
彼女は最初から怠惰と勤勉を兼ね備えた人間であった。
「……ねえ、アルス」
「ん?」
「あなたは、あとどれくらい私に時間をくれる?」
ユリーチは唐突に問うた。
抽象的な問いは恐怖の証だ。アルスも彼女の感情に気が付けないほど愚鈍ではなかった。
つまるところ、こう聞きたいのだ。
『あと何年後にあなたはこの世界から消えますか』と。
「最大の猶予は七十年ほど。まだこの世界から消滅していない唯一の秩序の因果……『邪剣の魔人』を払うことが僕の最後の役目だ。彼の秩序の因果は強すぎて、創世主と壊世主の対消滅でも完全に消し去ることはできなかった。本来の邪剣の魔人よりも力は減衰しているだろうが……アレだけはこの世界に残してはおけない」
アルスもまた邪剣の魔人と共に対消滅するように魂が作られている。
残された期限は七十年程度。ユリーチはそれまでに研究を完成させねばならない。あまりに厳しい猶予だ。
きっと彼女だけでは達成できない。
「……できるだけ先延ばしにしてくれると助かるのだけど」
「うーん……善処する。僕は君の研究を把握していないけど、何か手伝えることがあれば遠慮なく言ってくれ。僕が生きている内に手伝えることは終わらせておきたい」
「うん……ありがと」
複雑な心境で彼女は頷いた。
ユリーチ・ナージェント〔神代5300/後10〕
父はエビネ・ナージェント, 母はレイン・ナージェント。兄にスターチ・ナージェントを持つ。幼少より怜悧・堅実な性格であり, ルフィア王国の魔導科学進展にも大きく寄与した輝天の家系。六花の魔将『天魔』を倒した功績を持ち, 多くの魔導に精通する天才であったとされる。兄スターチ・ナージェントの失踪(後元年)を機にナージェント家の当主を継ぐ。彼女は急速にナージェント家の体制を整え, 後継の魔導士に数多の魔導を授けた。後10年, 突如として失踪。捜索が行われるも発見されることはなく, 彼女を末代として輝天の家系は途絶した。




