173. 暗闇の途でも歩みを止めず
目を覚ます。
いや、覚ましたのだろうか?
ユリーチは瞳を開けた感覚を覚えたにも拘わらず、光は見えなかった。暗く、暗く……どこまでも暗い闇が広がっている。
周囲は無音。血潮の流れる音だけが鼓膜に届く。気がおかしくなりそうだ。
「ファローリィ」
指先に光を。
暗黒の中に灯された光明が周囲を照らす。眩い光を灯したはずだが、なおも周囲は暗すぎた。建物の輪郭……だろうか。仄かに線が見て取れた。
彼女は起き上がって歩き出す。足元もひたすらに黒く、どことなく味わう浮遊感。足音はない。
建物と思わしき場所へと近付いてみると……文字が見える。彼女の記憶が正しければ、この文字はソレイユに展開されているチェーン店の名前だ。
やはりここは闇に呑まれた地下ソレイユ王国らしい。国民は無事だろうか。
「……ロンド、デルフィ。いる?」
闇の中で呼びかける。しかし返答はなく、彼女の声は虚しく消えてしまった。
他の二人は光源を持っていない。どうにかして合流する必要がある。
「…………目が覚めたかい?」
ふと、声が響いた。
ユリーチは聞き覚えのない声色に警戒して振り向く。誰かがそこに立っている。おそらく若い男性。この暗黒に呑まれた人だろうか。
「あなたは誰?」
「僕は……僕は、この暗黒の世界に住むもの。ここは壊世主の闇の中。ソレイユ王国は壊世主に呑み込まれて闇へと沈んでしまったようだ」
目の前の男が何を言っているのか理解しかねるが、とりあえず敵意はなさそうだ。
まずは状況把握と人命救助を。
「ねえ。他に二人、この闇へ落ちた人がいるはずなの。彼らの居場所を知らない?」
「二人か。大丈夫、僕について来て。僕は壊世主の中に潜む病原体のようなものだからね。闇の中の構造は手に取るように分かる。他の人の気配は……うん、あっちだ。ほとんどの人は壊世主に溶かされてしまったけど、まだ落ちてきたばかりなら間に合う」
男には何が視えているのだろうか、方角も分からぬ闇を歩き出した。ユリーチは慌てて後を追う。足音もしないこの場所で彼を見失うわけにはいかない。
指先に灯された光が、前を歩く男の背をうっすらと透かす。静寂に耐えかねてユリーチは彼に尋ねた。
「あなたは何をしているの?」
「僕はここに存在することが役目さ。まあ、この闇から出ることができないんだけど。でも君たちはここに居てはいけない。早く闇を抜けてソレイユ王城を目指すんだ。あの場所はまだ壊世主の闇に染められていないから」
「……この異変を起こしたのは。ソレイユを闇に染めたのは……壊世主って存在なの?」
「ああ。壊世主ゼーレルミナスクスフィス。どうしようもなく意地悪な世界の主だ。僕がずっと彼と一緒に縛られていればよかったんだけど……外部から混沌の力によって解き放たれてしまった。僕にできることは、ここに存在し続けて僅かでも彼の力を削ぐことだけだ」
前を歩く男はどのような役割を果たしているのだろう。何もかも得体が知れない。
しばしの沈黙が続き、彼は再び口を開く。
「……そこだね。二人寝ているよ」
立ち止まった男の先には二つの気配があった。
姿は見えないものの、呼吸の音が聞こえる。ユリーチは気配の下へ駆け寄り、光を当てて顔をよく見てみる。共に飛び込んだデルフィとロンドだ。
死んではいない。意識を失っているだけ。
「よかった……」
「もうすぐ目を覚ますだろう。二人が目を覚ましたら、君たちは一目散に王城の方角を目指すんだ。このまま闇の中にいると、邪気に溶かされて黒化エムティングに創り変えられてしまう。君だけは災厄の力を感じるから、多少の猶予はありそうだけどね。町の構造はソレイユの王都アビスと同じだ」
「でも、この暗さじゃ……」
男は的確に助言を出して暗黒からの離脱を促した。
しかし一寸先は闇。ユリーチの光でさえまともな光源として機能していないのに、どうして王城へ向かうことができようか。
「そうだね……この光を持っていくといい」
闇の中に異質な力が渦巻いた。
男はユリーチへ先端が円環のような形になった松明を渡した。円環に宿された七色の眩い光は、周囲の暗黒さえも打ち払う。
七色の極光に照らされて、男の顔が初めて見えた。大森林に聳える木々の葉のように深い緑の髪。妖しさを醸し出す紫紺の瞳。優しく微笑む彼の表情はどこか儚かった。
ユリーチは受け取った円環で周囲を照らしてみる。どうやらここは王都アビスの大通りだった場所のようだ。
「ありがとう。すぐに二人を叩き起こして王城に向かうね。でも……あなたはやっぱりここに残るの?」
「残るよ。僕は暗黒の中でも死なないから大丈夫。ここに存在するだけで壊世主の動きを制限する役割を持っているんだ。では……僕は行く。君たちが王城へ辿り着けることを祈っているよ」
男は踵を返して闇の中へ潜っていく。
彼は孤独になることが怖くないのだろうか。或いは、既に孤独に慣れてしまったのか。
ユリーチは彼に一礼して見送り、気絶している二人を急いで叩き起こした。




