163. 心壊
デルフィは呆気に取られていた。
──何が起こった?
彼の胸中に渦巻くのは途方もない疑問。
「アリキソンッ……!」
マリーが叫んで咄嗟に剣閃を飛ばす。彼女の剣閃は凄まじい勢いで飛ぶも、心神の糸を断つことはできない。
『無駄ですよ? さあ……終わりなさい』
心神の糸がねじれ、容赦なく縛り付けていたモノを破壊。
デルフィは声を出すことができずに立ち尽くす。
(あいつらは──何を見ている?)
心神が捩じ切ったのはデルフィではない。付近に跋扈するエムティングだ。
しかしマリーと心神はまるでアリキソンを殺したかのような反応を見せている。
異常事態だ。周囲を取り巻く魔力の根源を辿れば……
~・~・~
ひたすらに虚構を張り続ける。
ホログラムを重ね、偽り、欺いて。
魔女の欺瞞は神すらも凌駕する。
(効いている。心神は幻影を見ている……!)
心神はエムティングの一体をアリキソンだと錯覚して殺した。
ユリーチの仮説は正しかった。心神の権能【情意の鍵】……心ある者の攻撃を無効化する。では『攻撃』の範疇とは、定義とは。
そもそも神定法則とは災厄に対抗するための特権である。神族は盤上世界の守護者であり、最大戦力。彼らが神定法則によって防ぐのは世界を滅ぼし得る破滅。或いは全てを乱す障害。
ならば、攻撃と見做されない妨害はどうだろうか。神を害さない程度の幻影ならば『通常の物理現象』として処理され、法則に防がれないのではないだろうか。
確証はなかった。しかし成功した。
このまま幻影を見せ続ければ、ユリーチの狙い通りの結末を導くことができる。唯一の問題はマリーに関して。彼女もまたアリキソンが死んだと錯覚している。復讐の対象が死んだ幻影を見せられていることで、彼女もやがて消滅してしまうだろう。
マリーが消滅する前に決着を。
「…………」
額に汗がにじむ中、彼女の瞳は限界を迎えつつある。
魔眼で一度に見る魔力の流れは数百。全ての流れを結果通りに……一つでも失敗すれば、その瞬間に虚構は剥がされる。
~・~・~
「心神……! お前は、私の憎悪まで奪うのか……!」
マリーが激高。消滅が始まった身体を無理に動かし、殺意を神へとぶつける。
アリキソンから心神へ憎悪を移したことで、完全消滅への猶予は長引いたようだ。
『ごめんなさいね? でもアリキソンさんが弱いのが悪いですよね』
激情を湛えるマリーを他所に、デルフィはどう動けばいいものか迷っていた。
ユリーチが幻術を付与してエムティングをアリキソンに錯覚させていることは分かる。ここで言葉を発すれば心神に幻術がバレてしまう可能性がある。
彼がこの戦場においてできることは。
何もしない……不動が最善策なのかもしれない。ひたすらに息を潜めて成功を祈る。
「どうせ消えるのなら……!」
(……! マズいな……)
もはやマリーの頭から時間稼ぎという選択肢は潰えている。
今の彼女は怒りに支配され、捨て身の気概だ。なんとか己の怨恨を晴らそうと身体を突き動かしている。
「奥四葉──『四葉異剣』!」
四つ色の光が波上に広がり心神を取り囲む。
大地と大気に染み込んだ魔力が迸り、締め付けるように心神に迫った。しかし神の手前で全ての極光は弾かれてしまう。攻撃が通用しないことなどマリーには分かっている。
「それでも……!」
攻撃を重ねれば重ねるほどに怨嗟・憤怒は高まり、寿命をさらに延長させる。
無意識の内に時間稼ぎにはなっている。しかし彼女の憤怒は心神の不興を買った。つまるところ、彼の神は学習しない生物が嫌いなのだ。感情を単一で染める心が嫌いなのだ。
『やっぱり不快。どうしようもないほど愚か。邪魔。馬鹿の一つ覚えみたいに抗い続けて、私の思い通りにならない。存在価値がありません。死んでください、今すぐに。『心壊』』
「っ……!?」
凄まじい重圧に耐え切れず跪いたマリー。彼女の心にどうしようもない虚脱感が舞い降りる。
殺してやる、殺してやる、殺してやる……無数の激情が渦巻く。激情に対する抗体が彼女の心に生み出され、心が身体を置去りに。制御権を失った。
『死になさい。神への無礼は万死に値するのですよ? 来世で学んだことを活かしましょうね』
容赦なく心神の神気が振り下ろされる。
鉄槌の前に彼女は為す術もなく。
(クソ……! 許せ、ユリーチ!)
咄嗟にデルフィはマリーを突き飛ばした。神気の鉄槌から逃れた彼女は一命を取り留める。
心神とマリーの目には、エムティングが突き飛ばしたように見えていただろう。想定外の事態に二者は困惑。
『……? 攻撃指令を出した覚えはありませんが』
心神は不思議そうに首を傾げてデルフィ……もといエムティングを凝視した。
冷や汗がデルフィの身から噴き出る。幻術が看破されるのではないだろうか。
『まあ良いでしょう。いったん分解して再構築しましょう』
彼女は蜘蛛手を動かし、マリーを突き飛ばしたエムティングに糸を伸ばした。
~・~・~
窮地は乗り切った。
マリーの暴走による魔力の乱れ、心神の疑念による幻術の看破……様々な懸念があったが最終的に成功は極限まで近づいた。
ユリーチの碧色の魔眼は血走り、とうに限界は超えている。
しかし勝利は目前。まもなく結果に到達する。
「虚構……」
欺き続けて幾星霜。
魔女の妄執が神を殺す。
周囲一帯の魔磁はもはや異界に近くなっており、世界から切り離されている。
空間そのものが幻に沈んでいた。
今こそ──果たす。
「お願い、死んで」
心神が蜘蛛の手からまっすぐに伸ばした糸。
彼女の視線はたしかにエムティングの皮を被ったデルフィへ向けられていた。
しかし糸は──あらぬ方向へ。
ぐるりと左右に反り返り、心神自身の身体を包み込んだ。彼女は己の身体を縛った糸にすら気が付いていない。ユリーチの幻術が深く意識を書き換えている証拠。
『え』
心神は不可解な行動を取ったエムティングを糸で分解したつもりだったのだろう。
しかし彼女の糸が断ったのは、彼女自身。
神定法則の防御といえども自分の攻撃は無効化していない。魂すらも細切れに、一切の残存を許さず。彼女は己の糸で崩される。
狂気の沙汰。デルフィとマリーは呆気に取られて心神の狂気を見届けた。
『どうして……』
神気となって散る心神。
彼女は最後に疑問の声を響かせた。命終まで幻影が晴れることなく、夢を見たまま果てるのだ。
心神クニコスラ──自殺。




