152. 糸切り
離島に辿り着いたクロイムは破壊神をまっすぐに見据える。
あの化生が父親の成れの果て。闇に囚われ、見るに堪えない。
「さあて、親父は少しじっとしてろよ。【救済の変質】」
クロイムは新たに取り戻した神能を行使。
ウジンとルカミアより返還された、『変質』の権能。周囲に渦を巻く魔力・神気・邪気が自在に変質し、白き光の檻が完成。暴威を撒き続ける破壊神の周囲を取り囲んだ。
これで数分は抑えていられる。
アルスはクロイムの姿を見た瞬間に察した。彼の記憶が戻ったのだと。
彼の表情に浮かぶのは『覚悟』。自らの宿命を悟った者のみに現れる決意。
「クロイム……」
「おう、クロイムだ。またの名をジークニンド。今まで色々と迷惑をかけたな、イージア。俺のこと陰で見守ってくれてて……ありがとな」
彼は白い歯を見せて笑う。狂騒に包まれた戦場の只中とは思えないほど、屈託のない笑みで。
ジークニンドとしての記憶が戻ったのならば、アルスが為すべき行為は一つ。
「では、私の『混沌の接続』を君に返還しよう」
アルスは瞳を閉じ、自らの魂に張り付く装甲を剥がす。自らの精神の奥深くへ。
長い年月をかけて定着した神能だが、引き剥がすのは一瞬だ。傍に本来の所有者のクロイムがいる以上、神能はすぐに彼の袂へ還るはず。
自らの力が失われることに、一切の躊躇はない。
『調律共振』を失し、破壊神の自壊機構を作動させるために。かつての主を救うために。
魂より馴染んだ神気が抜け落ち、器の外へ。神気はクロイムの下へ戻されていく。
「よし、混沌の接続は受け取ったぞ。後は……サーラ。お前の混沌の干渉を俺に還してくれるか?」
「えっ……い、いいけど……どうすればいいの?」
既に『混沌の干渉』は半分返還されている。
ゼロとサーラは神能を二つに分けて継承した。ゼロは死したために半分の神能はクロイムに戻っている。彼はサーラに歩み寄り、頭に手を翳した。
「少しじっとしてろ……よし、もう終わりだ」
「あ、もう終わったの?」
「ああ、これで『救済の干渉』も戻った。お前の神能、『自在変換』は使えなくなるから注意な。さて、後は……」
クロイムは黙して様子を眺めていたダイリードの方へ歩いて行く。
ダイリードの根底にあった諦念。それはクロイムが現れても変わることはなかった。彼はクロイムが破壊神の自壊機構であることを知らない。ただ主を疑うことなく創造神に従い続けてきた彼は、あまりに蒙昧だったのだ。
「よ、久しぶり! 元気してたかダイリード!」
「……ジークニンド。なぜ……今になって出てきた?」
「げ、痛い質問するね。この百年間、お前と比べれば俺は遊んでいたみたいなもんだな。でも、やるべきことはちゃんとやったよ。『誰かを守りたい』って意志が備わった」
「何を言っている? もう、どうでもよいのだ……今さら汝が来ても主は止められぬ」
クロイムはダイリードを見上げる。
大きい身体。大きいが、心はどこまでも繊細で硝子のようだ。
彼はダイリードの胸元に拳を軽く叩きつける。
「お前の『混沌の衝動』、還してくれ。いやまあ、俺が管理者だから強制的に奪うこともできるんだけど……友達のお前にそんな真似はしたくないしさ」
「……そうすれば。汝に神能を還せば、主は元に戻るのか?」
辛い問いを、本質的な問いをダイリードは重ねてくる。
彼が本当に主を想っているからこそ。
しかしクロイムは「No」と答えなければならない。
「いや。親父は死ぬよ、俺が殺す。もう元には戻れないから。二度と昔みたいに平穏な時間も、優しい親父も戻ってこない。でも……ここで親父を止めなきゃ、親父の遺志に反する未来が出来上がってしまう。愛する人間ができるだけ多く笑える未来を築きたいから、俺は親父を殺す」
優しさゆえの殺意。
もうクロイムは誰にも止められない。
二人は同じく創造神に創られた生命体。
ダイリードは明確な役目がない操り人形、ジークニンドは明確な役割がある自壊機構。
「もう自由になれよ、ダイリード。創造神はもう居ない。もしもお前が親父を想うんだったら……お前自身が第二の創造神だと胸を張れるくらい、立派な神様になれよ! 俺だってお前を支える、イージアもサーラも支えてくれる。だから……」
「だから、主が殺されるのを黙認していろと?」
強情だ。心が脆いゆえに殻に閉じこもるのが、ダイリードの悪い癖だ。
ダイリードは檻に包まれた破壊神を見上げる。まもなく光の格子が壊される。もしも自分が神能の返還を拒絶すれば、ジークニンドは強引に神能を奪いに来るだろうか。
そこまで考えたところで、ダイリードはやっと言葉を紡ぐ。
「……もうよい」
彼は吐き捨てるように言う。
そして瞳を閉じた。真っ暗な視界、暗澹に満ちた未来。
「もう……主が苦しむのはよい。解放してやりたい、主の歴史を汚したくない。だから……頼む、ジークニンド。主を……救ってくれ」
瞳を開く。数千年にわたり己が魂に染み付いた『混沌の衝動』を剥ぎ取り、ジークニンドに返還する。
歴史は変わり、神は移ろう。創造神が破壊神となったあの日から、既にダイリードの糸は断たれていたのだ。それなのに彼は自らが人形だと思い込み、無様に踊ってきた。
「……ありがとな」
最後の神能が還った刹那、眩い光が満ちる。
クロイムを中心として世界が白く染め上げられ、混沌と秩序の力が彼の器に収束。
世界はその一瞬、ただ一瞬だけ、不可思議な色を見た。
盤上世界アテルトキア──混沌と秩序の盤面のみが光る世界で、ただ一つ。輝く灰色の面が在った。
混沌と秩序の完全調和、因果に縛られぬ救済の者。
「その姿は……」
光が払われ、アルスの視界に映ったのは確かにジークニンドだった。
容姿はこれまでと大きく異なるが、気配だけはジークニンドそのものだ。
雪を思わせる薄水色の髪、灰色の光を宿した瞳。
中性的な顔立ちをした人間は不敵に笑う。
「──来い、『六花剣アクァーリ』。世界を……守ろうぜ!」




