148. ダイリード
何度ぶつかり合ったか。
ダイリードはなおもイージアと争い続ける。溶けゆく理性、高まる衝動。獣と化した肉体を操って……何度も、何度も爪牙を振り下ろす。
空を切る、受け流される。
やはりイージアは強い。同じ八重戦聖といえど格が違うのだ。
方や楽園で主の命に従い続けた人形、方や世界を救うために奔走した英雄。
『ヌオオオオッ!』
何度咆哮しても、イージアの命は断てない。
分かっている、自分が間違った道を歩んでいることなど。イージアが正しい道を歩んでいることなど。しかし、正道も邪道も意味は成さない。
ダイリードは創世と同時、創造神の手足となるべく創られた神。役目はただ主の命に従うこと。
心は不要。
「ダイリード、私は何度でも君に説く。君は私の仲間であり、殺すことなどできないと」
『不要、フヨウ……ワレはっ! ワレは……』
もはや自分の意志すら分からない。言葉に形容することなどできない。
何人の人間を殺めた?
かつて『光神』と呼ばれていた時間を忘れ、『邪神』となり……自分は何人殺した?
ダイリードの自問がひたすら、衝動の中で繰り返されていた。もはや後戻りなどできない。かつて主が愛した人の子を殺して……どうして正義面などできようか。
結局、心が弱かったのだ。
破壊神の騒乱が起こったあの日、主に反旗を翻していれば……ダイリードは後悔せずに済んだのだろうか。いや、主に叛逆するという選択肢は存在しない。
彼の心が脆かったから、道はこの邪道しか存在しなかった。
『──!』
口元に神気を寄せ集め、イージアへ光を向ける。
神気の波動を放出。
「裁光!」
対するイージアも神気を放出してダイリードの攻撃を打ち払う。
神としての力も、今やイージアの方が上だ。神の力は信仰に依存する傾向にある。邪神に堕ちたダイリードなど誰が信仰するものか。
リンヴァルス神の裁きが、ダイリードの神気を貫く。
『ヌ……ゥゥ……!』
焼き焦がすような痛みが魂に走る。
ダイリードにとって、今は辛苦が心地よかった。
感じるのだ、破壊の迫る音が。
まもなく主が楽園より発ち、ソレイユの厄滅に加わるだろう。せめてその前に……嗚呼、己が死ねば。イージアがダイリードを殺してくれれば……後の事に苦しまずに済むのに。
しかしイージアは残酷なまでに絆を信じ、ダイリードを殺そうとはしないだろう。
だから、ここで彼を殺すのだ。
最期までダイリードは主と添い遂げる、障害は排除する。
イージアを殺さねばならない。
『ヌ……オオオオッ! オワリ……ヲ』
意志を沈める。
狂乱に染まる。
ただ全てを裂く、滅ぼす。
もはや己は神でなくともよい、魔神でよい。
「ダイリードッ! やめろ……それ以上は!」
懇願は届かない。
己が意思を乱し、狂い、主と共にまた闇へ堕ちようではないか。
視界が暗く染まり、光が消えてゆく。
残り一片。光が全て消え失せる、刹那──
「この、馬鹿やろぉーーーーーっ!!!!」
怒号と共に津波がダイリードに覆いかぶさった。
~・~・~
突如として巻き上がった津波に、思わずアルスは後退する。
自らを狂乱へ堕とそうとしていたダイリード。彼を止めようと手を伸ばしたところだったが、何が起こったのか。
魔力の根源は、空を飛ぶアルスよりも更に上。
左に白翼、右に水翼。桃色の髪をなびかせた少女は、紅蓮の瞳に怒りを湛えてアルスとダイリードを見下ろしていた。
「君は……サーラ!?」
「なに仲間同士で喧嘩してんだ、馬鹿ども! あほ、まぬけ!」
津波を浴びたダイリードは、一時的に理性を取り戻す。
サーラは天魔の手によって封じられていたはずだ。彼女がここに居るということは即ち、天魔が改編を解除したか……或いは天魔が死んだか。
『……邪魔を、するな』
ダイリードは思わぬ人物の登場に驚いたが、彼の意志は変わらない。
しかし彼の言葉を受けたサーラの怒りは更に高まる。
「はあ!? 邪魔って、アンタね……どうしてイージアが戦ってるのか分かんないの!? 自分を助けようとしてくれる仲間の手くらい、素直に掴めばいいのに! 信念が強いのと、頑固なのは別なんだから!」
彼女の言葉はもっともだ。
だが、正論は通らない。未だに戦いを続けているのはダイリードの我が儘なのだから。
「……サーラ。問題はそこまで簡単では……」
「知ってるよ、アタシからすれば百年間が一気に飛んで、何がなんだか分からない! 分からないけど……仲間が争ってる光景なんて見たくない! イージア、アンタも馬鹿だ! ソレイユがこんな危機に陥ってるのに、呑気に喧嘩なんてするな! 二人とも、さっさと……さっさと、仲直り……してよ……」
サーラの語気は次第に弱まっていく。
百年間眠っていた彼女からすれば、昨日まで友人だった二人が殺し合いをしているようなものだ。辛くて、悲しくて、堪えきれない。
アルスは槍を下ろす。
しかしダイリードは……もう退けないのだ。
『……許せ、サーラ。我はもう……後戻りできぬ。何人も、人の子を殺めた。罪深きこの身は、主と共に添い遂げて……死によって償う所存だ。今の内だ、イージアにサーラ。汝らが我を殺すのならば、これが最後の機会だ。さあ……我を殺せ』
ダイリードは白毛に包まれた巨大な腕を広げる。死の覚悟。
アルスは彼の覚悟を受け取った。受け取って、そして……
「嫌だ。死ぬことで罪が許されるとでも? 人を殺めたことは許されない。その罪過は、かつてのように人を救い償っていくべきではないか」
「……そうだよ。ノアって人から聞いたよ、アリスもリグスも、ウジンも死んじゃったって。もう……嫌だよ。どうして……みんな死に急ぐの?」
サーラの言葉によって、アルスは初めてウジンの死を知る。
相手は神々。犠牲なしに勝てるとは思っていなかったが……苦しい。
二人の言葉を受け止めたダイリードは沈黙する。
何を考えているのか、思っているのか。ここで彼が道を修正しない限り、二度と正道へ戻ることはできないだろう。
『我、は……』
思い出す。全ての過去を。
どうして自分は生きるのか──主の命に従うためだ。今の自分を、過去の創造神が見たら何と言うだろうか。
きっと叱られてしまう。それでも、きっと創造神ならば……生きろと。生きて罪を償えと……イージアと同じことを言うのではないだろうか。
神気が縮小する。巨大な獣から、人間の肉体へ。
彼は力なく海に足をつけた。
「……我が誤っていたことは認めよう。きっと我が主も、こんな愚行は望んでいなかった。生きて償えるのなら……あの日々に戻れるのなら……」
ダイリードは俯いて、消え入りそうな声で告解する。
アルスとサーラは彼の言葉を聴き、安堵しつつあった。
しかし、
「戻れるのならば、戻りたい。だが……全てが遅かった」
ダイリードは顔を上げ、黒き天を見上げる。
彼は諦めたのだ。
「ああ……我が主が、破壊が来る。もう終わりだ。全ては破壊に包まれよう」
水平線の彼方より、凄まじい邪気が爆ぜた。
──始まる。二度目の『破壊神の騒乱』が。




