142. たった一人の矜持で
『人間って本当に愚か。さすがは無能なアテルの被造物なだけはありますね? 勝利の幻に酔って、歓喜の感情ばかりが渦を巻く。ひとたび絶望に落とせば、今度は悲哀と激情ばかりで退屈。ああ、本当に浅ましい』
「アテルの被造物であるのは、俺ら神族も同じだ。お前の憎しみ、俺にはあまり理解できないよ。アテルを憎めども、人間を憎む意志は俺には分からない」
『あらあら。今の私たちは創世主の被造物ではありませんよ? むしろ逆です。私たちを創り出したのは、暗黒に沈められし大いなる主ですから』
ソレイユ大森林に面する海中より、厄滅の徒が来たる。
【棄てられし神々】──心神、命神。彼らに続いて次々と白き人型の生命体が、蛇竜が飛翔する。
彼らに滅びの概念は存在しない。少なくとも、世界の事象を書き換える天魔が潰えぬ限りは。
二神を蘇生させた天魔は起伏のない語調で宣言する。
「心神さん、命神さん。楽園の勢力も動き出したようです。結界内より、我ら。外部より、破壊の徒。そして暁には、厄滅。盤上を黒く染め上げるべく、人類最後の砦であるソレイユへ……侵攻を開始しましょう」
世界は動き出す。
今、この時より──盤上世界は終局を迎える。
~・~・~
戦慄……恐ろしくて、ふるえること。
その言葉が最も適した局面は、歴史上においてこの瞬間に他ならない。
ウジンは新型エムティングの出現を確認し、油断なく周囲の状況を観察していた。アビスハイムからは引き続き壁上で警戒を続けるように指示が出た。
「地震……?」
地面が揺れる。大気が震える。
くぐもった音と共に、鋭い音が彼方より響き始めた。一体何が起こったのかと、彼は音源の方角を見据える。
地平線の彼方、大森林の向こう側。
「あ?」
津波だ。だが、水の波ではない。
白い波。
羽の生えたエムティングが地平線を覆い尽くさんばかりに溢れ、次々と海中から飛び出している。エムティングだけではない。蛇竜メロアが何体も何体も、海面を突き破って天へ伸びていた。
数え切れない無数の化物は、大空を飛翔して壁の方角へ向かって来ている。
「し、指揮官……アレは……」
「なんだよ、アレ……どうやって戦えばいいんだよ……!? クソ、落ち着け……いや、落ち着いている暇はないか……!」
もはや壁は無意味。エムティングの軍勢が迫り来る中、ウジンは瞬時に判断を下す。
「ロンド!」
「はい、ここに」
「全兵士を王都まで撤退させろ。魔導王に事態を報告し、全戦力を用意させるんだ」
「承知しました。ウジンさんは?」
「…………」
たとえウジンであろうとも、地平線を覆い尽くす数の眷属は相手にできない。たかが一柱の神が背負うには重すぎる相手だ。あの軍勢は世界が全力を賭して戦わねばならない脅威。
だが。
「俺は壁に留まる。ロンド、お前の使役権を魔導王に譲渡しておく。後は頼んだ」
「……遺言は?」
「あー……まあ、アルスに。後は創造神のこと、頼んだぜ……ってな。ロンド、お前と過ごした日々も悪くなかったぜ」
「ええ、僕もです。生前は敵同士でしたが、意外と反りが合いました。ふう……さて、急いで伝令してきますね。安心してください、絶対にソレイユ側を私が勝たせますから」
ロンドは振り向いて走り去っていく。彼の瞳が潤んでいたことに気が付いたウジンだが、言うのは野暮というもの。
慄く兵士たちを果敢にまとめ上げ、ロンドは壁より撤退の準備を進めていく。
アビスハイムはこの惨劇を想定していたのだろうか。もしもアビスハイムが無策なのであれば、ソレイユは瞬く間に敗北する。しかし、彼の王がそこまで間抜けだとはウジンも思っていない。
「さあて……」
次第にエムティングの軍勢が近付いてくる。
粘着質な羽音、メロアの悍ましい咆哮。とても神の眷属とは思えぬ容貌だ。かつての同胞であるクニコスラとメアの凶行にウジンは苦笑いしつつ、己が身体を神気で包み込んだ。
「一匹でも多く、この場に縫い留めてやるよ。神転──『絶対重力』」
先陣を切って迫ったエムティングの一部を、重力により堕落させる。これは氷山の一角。ウジンの横をすり抜けて王都の方角へ向かう個体、或いは残った兵士を貫く個体。全てのエムティングの侵攻を防げるわけではない。
「……聞きやがれ、愚神の眷属供! 俺の名は『聖王』ウジン! 人理を守る六花の将の一員にして、人を愛する神の生き写しッ! たとえテメエらが俺を超えようが、絶対に世界は……ソレイユは負けねえ! ォ……オオオオッ!」
紫色の神気が靄となって天へ立ち昇る。
周囲一帯に張り巡らされていた重力はより強く、より広く。数多のエムティングとメロアを地へと這いつくばらせる。
『──!』
紫色の巨人が顕現。
名を、虚神デヴィルニエ。
幻神リンヴァルスと共に人類を守る──ソレイユ最後の神である。
一秒でも、一体でも多く敵を屠り……人の世に勝利を齎すため。
無数の白茨に貫かれ、蛇竜の波動を浴び。なおも偉大なる神は抗い続けた。
僅かな神気の欠片となり、魂の灯が消える瞬間まで。




