140. 天魔アリキソン
時は数日遡る。
心神・命神・天魔が討伐される少し前のこと、アリキソン・ミトロンは大森林を疾走していた。スターチの相手はユリーチであれば十分だと彼は認識していた。別世界線の彼は、ユリーチの正体が理外の魔女であることすら理解していたのだから。
向かう先は大森林の奥深く。
己の魂が告げる忌まわしき気配の下へ走っていた。木々の群生地を抜け、湖沼を過ぎ去り、盆地を駆け抜け……やがて薄暗い木陰へ辿り着いた。周囲にエムティングの姿はなく、それどころか虫の音ひとつ聞こえない。
「ここに居るのだろう、天魔」
「──ほう。私を知っているのですか。貴方は私と面識はないはずですが」
虚空より姿を現したのは、民族的な仮面を被った者。全てが謎に包まれた者は宙に浮き、静かにアリキソンを見下ろしている。
「当然だろうな、天魔ソウム。俺は……異世界の存在。別の世界線でお前に『天魔』の役割を埋め込まれ、世界を破滅させた男なのだから」
「なるほど、異空の英霊。興味深い。では……貴方を再び天魔に任命することはできるでしょうか」
「やってみろ。できるものならばな」
「…………」
アリキソンは真実を知っていた。
スターチ・ナージェントは『天魔』ではない。真の天魔……ソウムに意識を改編され、己を天魔だと信じ込んでいる操り人形である。
かつてのアリキソンも同じだった。心の闇に付け込まれ、自分が天魔であると錯覚し……世界を闇へ沈めたのだ。
彼が英霊として顕現する根源は、マリーと同じように憎悪によるもの。彼もまたソウムに復讐を誓う怨霊の一つであった。
「お前の望みは分かっている。世界を滅ぼすことではないな? 世界に苦痛を溢れさせること。そして、混沌の力を集めること」
「ご明察」
ソウムは懐より灰色の宝玉を取り出した。
六花の魔将の目的は収束している。混沌の力を集めること。数多の惨劇を巻き起こし、争いを起こすことが最も効率の良い混沌の集め方。ソウムはこれまでに六花の魔将が集めた混沌の力をすべて管理していた。
「しかし、混沌の力を集めた先にある目的は知らないでしょう」
「これからお前に吐かせるのさ。前の世界で俺を利用した罪……償ってもらうぞ。黒嵐絶──『無謬』」
静寂の森に嵐が吹き抜ける。邪気を孕んだ風がソウムを囲み、黒き雷が肉体を穿ち抜く。
単純な戦闘力で言えば、アリキソンは八重戦聖にも劣らない。彼が滅ぼした世界で数多の強者を屠ってきたのだから。
「素晴らしい実力です。あなたが元からこの世界の住人であったのならば良かったのに」
「フッ……『世界の事象を改編する』。それがお前が持つ『干渉』の神能だ。異世界の存在である俺の認識は改編できない」
アリキソンは予めノアから天魔の情報を聞き出していた。世界の全生命体のデータを参照可能なノアだからこそ知り得た権能の詳細。
しかしアリキソンは天魔の真相を口外しないようにと、ノアに伝えた。奴は俺が討つ……そう約束して。
「事象の書き換えの上限は三つ。一つ、『スターチ・ナージェントを天魔だと認識させること』。二つ、『棄てられし神々を復活させ続けること』。三つ、『破壊神の自壊機構……ジークニンドを完全覚醒させないために、守天の片割れを封印しておくこと』。全ての書き換えを消費したお前は……無力な存在に過ぎない」
「そこまでご存知とは」
凄まじい勢いでアリキソンは駆ける。雷に貫かれ、身動きが取れないソウムへ追撃の手は緩めない。
「自らが授けた力で死ね。干渉空谷──『黒闇剣』」
暗黒の剣がソウムの胸を貫く。異空の果て、復讐を誓った相手の魂魄を打ち砕き、ついに彼は悲願を果たすのだ。
深く、深く。真の天魔へ剣が沈み込む。そして一気に引き抜いた。
「かはっ……一体、なぜ……私の神能を知っていたのです……?」
「世界にはお前の知らぬ上位存在が居る。全てを知り、全てを守護する救済の者が。お前が破滅を振り撒く限り、抑止力が働くだろう」
「──なるほど。救済の因果……今、啓示を賜りました。ノア……調停者ですか。私もその存在を知りませんでした」
「……? お前、なぜノアの名を知っている? いや、今知ったのか?」
アリキソンは眉を潜める。直前までソウムはノアのことを知らなかったと言う。ならば、なぜこの状況下で彼女の存在を知り得たのか。
啓示を賜ったとソウムは言った。何もかもが不明だが、どちらにせよソウムはここで死ぬ。
彼は止めを刺さんと剣を振り下ろし──
「一歩、遅かったようですね。干渉の書き換えを指定……『天魔ソウムは如何なる攻撃も受け付けない』」
「なっ!?」
彼の暗黒剣は弾かれた。同時、ソウムの傷がすべて塞がり……異様な力が周囲に満ちる。
事象を書き換えられた。ソウムは自らを無敵の存在へ変貌させたのだ。無力ゆえに今まで潜伏を続けていたが、今の天魔は誰よりも強い。
「なぜ……事象の書き換えは三つまでのはず!」
「今しがた、スターチ・ナージェントは倒されました。故に、彼に割いていた干渉は取り消し。我が身を補強したのです。運が悪いのですね、貴方は。無駄な口上を披露せずに私を斬り捨てていれば、勝利できていたのに」
「クソ……干渉空谷──」
自らの不始末を後悔するアリキソンの手は止まらない。彼の存在理由はソウムを殺すこと。憎悪の対象が眼前にあって我慢などできるものか。
しかし悲しいかな、彼の復讐は果たされず。
「混沌を、混沌を。暗黒の帳を穿つ混沌を。我らが主を解き放つべく、大いなる父を呼び覚ますべく。混沌を……」
天魔の邪気に貫かれ、闇に堕ちた碧天は死する。
最期にアビスハイムへ思念を送り、彼は生涯を無念のまま終えた。




