121. お前を
マリーは城の西壁で夕陽を眺めていた。
「よお」
「デルフィさん。あなたはアルスさんの傍に居てください。アビスハイム陛下のように転移できるわけではないのですから」
「問題ない。俺の速さを舐めるな。……しかし、なんだ。景色を眺めるなんて案外センスのいい趣味をしてるな」
彼女は夕陽を眺めて何を思っているのか。
感傷に浸っているのか、己の心を落ち着かせているのか。
「どんな世界でも景色の美しさは変わりません。どれほど残酷な地獄でも。私の故郷で心を支えてくれたのは……取るに足らない風景だけでした」
「地獄……ね。俺の故郷アジェンも中々に治安の悪い場所だったが。お前は異世界というか、別の世界線の人間らしいな。どんな場所で生きてきたんだ?」
「軽率に問いますね。あまり人の過去には立ち入らない方がよろしいかと」
「自分の過去を問われて折れるほど、あんたは弱い存在じゃないだろう。無理に聞かせてくれとは言わないが。俺も気になるんだよ。あんたの憎悪は強すぎる。怨霊が英霊の皮を被って生きているのは、見ていて愉快なもんじゃないさ」
言い換えれば、デルフィはマリーの存在が不快だと言っているのだ。
仲間にこんな罵声は浴びせるべきではないのかもしれない。しかし、どうしても彼女が周囲を拒絶することを彼は嫌っていた。もしかしたら己の主人であるアルスにも危害を加えるかもしれない。
「私の過去は話しません。信用できないのならば、私を殺しても結構。あなたに私を殺すことができれば……の話ですが」
あくまで人は信用せず、己の意志だけを貫く。
彼女のスタンスは変わらないらしい。
避けるようにして去りゆくマリーを、彼は無言で見送った。
~・~・~
どうして人は他人を信じるのか。
私には理解できない。英霊とあれば尚更のこと、人の心の醜さを知っているだろう。あのデルフィとか言う英霊も、アルスという英雄も、魔導王も。みな馬鹿だ。
信じれば最後は破滅する。結局、誰も彼もが己の欲望のために他を滅するのだから。
『お前を殺すまで私は死んでやらない。アリキソン・ミトロン……お前を殺す。絶対に』
『斬れるものならば斬ってみろ。ならば約束してやろう。俺はお前以外には殺されない。世界の全てを嵐で消し飛ばした俺を、お前如きに殺せるか。殺せなければ世界はさらに崩壊する……俺の手によって』
約束した。必ずアイツを殺すと。
燃え盛る灼炎、渦巻く黒嵐、轟く雷鳴。世界の終端で、私はあの男と対峙していた。
アリキソン・ミトロンは元々、私の友人であった。同じ英雄の家系として生まれ、『碧天』として国を背負っていた。
だが奴は突如として変わった。正義を標榜していた聖剣は悪に堕ち、神々はいとも容易く奴に屠られ。いったいどのようにして怪物じみたあの力を得たのか、どうして世界の全てを壊す暴走機関へ変わってしまったのか。
全ては闇に包まれている。
奴の様子に何も奇妙な兆候はなかった。柔和で勇ましく、民のために戦う正義の徒。
たしかに奴は英雄であった。かつては私も奴のように強くなりたいと思っていたのだ。しかし奴は世界を滅ぼした。数多の国や神が抗い、死力を尽くし──なおも止まらぬ暴威。
最終的に屍霊となり、憎悪の塊となった私でさえも止めることはできず……
『俺が世界を滅ぼす理由? ハッ……知らんな。「力を得たから」。これでは不満か? 力ある者は全てを支配する権利を持つ。守るも壊すも、強者の自由だ。今まで守っていた側から、壊す側に回っただけのこと。マリー、俺にはお前の方が理解できない。どうしてそれほどの力があるのに節制する? 己の欲望を解放しない? ユリーチだってそうだった。力があるのだから、己の思うままに世界が回るように振る舞えば良い。馬鹿らしく権力に従い、大衆に媚び諂い、力を無為にして老いていく。俺はそんな阿保な生き様は御免だ』
アリキソンはこのように語った。
それが奴の本心なのか、本来の目的を隠すための欺瞞なのか。些事だ。奴は私の友や家族、愛した全てを奪い……憎悪に駆り立てたのだから。
復讐を。奴の肉体を裂き、魂を砕き、根源を消滅させる。
生前は奴に殺されたが、アビスハイムの手に行って歪な英霊として蘇った私。そして吸い寄せられるように、私と同じ世界線から召喚されたアリキソン。
偶然か、はたまたアビスハイムの意図する構図か。どちらでもいい。奴に復讐する機会が生まれた僥倖を無駄にはしない。
『俺を殺せ』
『お前を殺す』
この世界のアリキソンは狂っていないらしい。
でも、いつか……狂うのではないだろうか。私の故郷と同じく、世界が奴の手によって滅ぼされるのではないだろうか。私は不安だ。
もしも碧天の心を詳らかに知る者がいれば、心の支えになってあげられる存在がいれば、大丈夫なのかも。その人が……私の知る世界線には存在しないアルス・ホワイトなのか。
「私には、」
人の心が分からない。
アリキソンがどうして狂ったのか、アルスさんなら気が付いているのかもしれない。だが私は他人の心など気にしている余裕はない。
だって私は非才で、いつも追いつこうと必死で。誰かの心なんて支えてあげられるほど強くなかったから。
夕陽を眺める。
アリキソンの剣によって地平まで全てが壊された故郷でも、夕陽は美しかった。文明が並び立つ、この景色を守ろうとは思わない。
しかしアリキソンを殺さねば、この世界も全てが壊されるだろう。必然的に私の目的と世界を守ることは結びつく。今はアビスハイムに従っているようだが、いずれ奴は牙を見せるはず。だから私が殺さなきゃ。
「あ、マリー。お疲れ様」
「……デルフィさんをお探しでしたら、向こうに居ます」
「いや。デルフィじゃなくて、君を探してたんだ。よかったら君と話がしたいと思って」
どうして彼はここまで馬鹿なのか。
今は話し合いなどしている場合ではない。外敵への対処、負傷者の治癒、政治的な対処。山積みの問題を前にして仲良く団欒など。平和ボケというやつか。
「僕の妹のマリーはね、甘い物が好きなんだけど。喫茶店でも行かない?」
「お気持ちだけ受け取っておきます。陛下の任務が……」
「あ、陛下はマリーに一日休暇を取らせるって。僕も休暇を貰った。というわけで」
彼は無理やり私の腕を引っ張る。腕を斬り裂いて離れてやろうか。
「今、僕の腕を斬ろうとしたね? 物騒で結構。これが乱世で生きてきた乙女か」
ああ、そういえば彼は神族だとアビスハイムから説明されていた。腕を斬っても無駄なんだ。
でも私は人間で、彼は私の兄。どうして種族が神なのか……得体が知れない。怨霊に生まれ変わった私が言えたことではないか。
「遊びという概念はよく分かりません」
「ノアに君の歴史を聞いたが、十歳までは普通の人生を過ごしていたそうだね。いきなりアリキソンが暴走して世界が地獄になったとか……僕はなんとなく彼が狂った理由は分かるんだけど。十歳までの記憶を思い出せば、遊びがどんなものか分かると思う。僕が知る限りでは、君は幼少期はおままごとが好きだったな」
「忘れました。思い出しません」
「じゃあ今から覚えていこう。アビスハイム陛下も一緒にゲームでもしようって誘ってくれていたから」
未だにあの多忙な国王が、どのように娯楽の時間を捻出しているのか理解できない。しかしアビスハイムは時折現代の娯楽に精通した用語を使う。威厳があるのだかないのだか、奇妙な人間だ。
とにかく彼は私を誘いたいらしい。
「あなたが私に接しようとするのは……この世界ではマリー・ホワイトが妹だからですか?」
彼は少し悩んでから、かなり言葉を選んで私に語った。
「……それもあるけど。単純に一人の人間として、マリーが心配なんだ。君の心は折れてしまいそうで、憎悪だけが見え隠れしていて……昔の自分を思い出す。全てを失った直後の自分を」
濁り。彼の水色の瞳に濁りが見えた。
「でも、そんな時……僕を仲間だと言ってくれる人たちがいた。受け入れてくれた人がいた。彼らが居なければ、僕は心は壊れていただろう。僕が今、君にとっての『彼ら』のようになりたい。辛い君の心の支えになりたい」
「私は怨霊です。英霊であり、未来はない。心は使い捨てで、生きる意味は戦力としての意義だけ。慮る必要はありません」
「違う。……まあ、とりあえずどこか行こうよ。もっと君のことが知りたいんだ」
最初の『違う』という言葉だけ語気が強かった。
きっとそれが彼の本心。軽薄に見えて、どこまでも重い心の持ち主だ。でも私が好きな性質の人ではない。むしろ嫌いだ。
「……一応、陛下の命令として従います」
まるで本当に兄のように面倒で、うざったい。
この世界の私はどうしているのだろう。彼を面倒とは思っていないのだろうか。
いい加減に従わないと解放されない気がしてきた。
面倒だから少し付き合ってやろう。




