94. ルハジャルカ
「おっと……! さあ、こっちだ」
帝国城からシロナを誘導するため、アルスは彼女の視界に映り続ける。動体には無造作に襲い掛かるシロナの性質を利用して後退。
ルカの破滅の力を解放するためには、周囲に人の文明がない海洋へ移動しなければならない。やがて夜闇に紛れて水平線が見えてきた頃。
「ァッ……!」
シロナの爪牙がアルスに迫る。彼は難なく彼女の攻撃を回避し、さらに退く。彼が身を翻す様子を見てルカはわざとらしく囃し立てる。
「フハハッ! どうしたアルス、早くこちらへ来るがよい! それとも息切れか!?」
「いえいえ、僕が息切れなどする訳がないです。ただ……この【血姫】。本当に……悲しいと言いますか」
どう形容すれば良いのか分からなかったが、シロナから悲哀のような感情をアルスは感じ取ったのだ。
──自分はこんな姿になりたかったのではない。ただ愛が欲しかったのだ。そう、叫んでいるように感じた。根拠はない。直接シロナが語ったわけでもない。だが、アルスは直感的に彼女の心を聞き届けた。
だからこそ終わらせねばならない。
「さあ、こちらへ。君の辛苦を生み出したのもまた、僕の責任と言えるのかもしれない」
砂浜へ降り立ちアルスは水上へ。
なぜ無関係な彼が責任を感じているのか。理由は、彼は自分が無関係ではないと思い込んでいるからだ。
安息世界を回帰させなければ。破壊神の騒乱を防げていれば。そもそも【血姫】などという存在は生まれなかったのだ。傍から見れば、アルスのせいではないという意見があるのかもしれない。だが、それでも。彼は彼なりに背負う者の自負を持っていた。
「──!」
シロナが声にならない咆哮を上げ、水中へ沈む。
さらに後方へ……後方へ。彼女の視界に入る限界までアルスは遠ざかり、海上にて瞑想するルカの下へ到着した。海を裂いてシロナが大海の中央へと向かって来る。
「……よし。ここまで来れば問題ない……はずだ。万が一、俺が人里に被害を出しそうになったらお前が止めろ」
「はい、お任せを。それに陸側にはセティアも居るので、多少の戦いの余波からは文明を守ってくれるでしょう」
「ほう、あの槍女もいるのか。海神の回帰では世話になったが……今はそんな話をしている場合ではないな」
まもなくシロナが果てより来たる。ただ二つの海洋で蠢く人影を目指して。
彼女の接近と共にルカの秩序の力が増幅。この力が白線を越えた時、災厄ルハジャルカが生まれるであろう。
「なあ、アルスよ」
「……なんでしょうか」
「お前は……俺が師で良かったと。そう言ってくれるか?」
「言うまでもない。師匠は……ルカさんは僕の最高で、最強の英雄です。きっと師匠から教わった力がなければ、僕は旅の途中で死んでいた。貴方との日々は楽しくて……幸せでした」
幼少の奇妙な出会いから始まり、ディオネ解放では心強い味方となり。イージアとして出会った時には共に師として振舞い。安息世界でもまた彼は味方であった。
アルス、そしてイージアの心の支柱となっているのは……他でもないルカその人である。
災厄ルハジャルカではない。師匠ルカとして、アルスは彼を認めている。後にも先にも彼の師で在り続けるのは……
「僕の師は、ルカさんだけです。これまでも、これからも……ずっと」
「フッ……フハハハハッ! そうか、我も力を伝授した甲斐があるというものだな! では……」
「ォ──!」
眼前までシロナが迫る。
今。破滅と不滅が相克する時。
「──アルス。俺の弟子が、お前で良かった。お前は俺の最高の一番弟子だ!」
「ししょ……」
「……後のことは、頼んだぞ」
想いを伝え終わる時間もなく終わりが来る。
顕現する災禍、天より降り注ぐ破滅。
其は、かつて滅びの名を冠した龍の継承者。聡き心は狂乱に染まり、一切合切を壊し滅ぼし。世界に沈黙の秩序を齎す。紅の牙……顕現。切っ先は揺らぎ、世界に歪を創出し、空間を破り裂く。
彼の者の名は──災厄ルハジャルカ。
『────』
秩序の力が満ちる。夜闇すらも覆い尽くす緋色の殺気。もはやルカの形をした其に理性など欠片もなく。
ルハジャルカは眼前に居る生命体……シロナへ向けて紅の大剣を向けた。そして、
『ォォォッ!』
「ァ……!」
一閃。ルハジャルカの斬撃はシロナを巻き込み、海を割る。津波が巻き上がり大空を裂く。
爆発的な秩序の力に飲み込まれたシロナは、即座に肉体を神気へ変えて霧散した。あれほどまでに不死と恐れられた怪物が一瞬にして塵に。
世界はルカによって、【血姫】の暴威と命神の凶手より守られた。次はアルスの番だ。
「共鳴──解放」
第十五災厄、ルハジャルカ。
共鳴者は災厄の眼前に毅然として立つ。己が師を殺すのではない。師を蝕む因果を殺すのだ。
宿業相鳴り、必滅轟く。
両者の死闘により世界の末路は定められる。




