43. ナニラ・ホワイト
ディオネ王国では珍しくもない曇天。
煙の様に重く、陽を遮る暗幕は陰鬱に人々の心を包み込んでいた。
「お母さん……ここにいて大丈夫かな?」
水色の瞳を伏せながら、憂いを帯びて母に寄り添う少女が一人。
「ええ、ここは安全だから心配しないで。お城に向かってる悪い人は、お父さんが倒してくれるわ」
「うん……」
鳴り響く警報の音が大気を劈く。
人々は皆家に篭っているのか、外は異常なまでの静寂に満ちていた。
「……雨、降ってきたよ」
「そうね……この雨で悪い人が帰ってくれれば良いのにね」
ふと、マリーは兄の話を思い出した。
たしか、兄が神域で魔王と遭遇した時も雨が降っていたらしい。
きっと天神様が雨を降らせて守ってくれているのだろう……そんな想いに縋りながら彼女は窓の外を眺めた。
雨粒が窓から見える景色を歪ませた。
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十数分後。
「──マリー、逃げるわよ!」
唐突に、響き渡った母の叫び声。
全く聞いたことのない怒鳴りつける様な声色に、私の身体はびくりと揺れた。
「……え、どうしたの?」
「狂刃がこっちに来たの! 進路が変わって! さ、早く!」
──どうして。
いいや、今は考えている場合じゃない。
「う、うん!」
がたつく足を動かして、お母さんの手を取る。
外へ出ると、この報せを聞いたのか周りの人々も逃げる準備をしていた。
「ナニラさん、マリーちゃん! 皆で逃げましょう、車に乗って!」
隣のライマ夫妻がこちらへ向かって来る。
彼らもまた準備が出来ているようだった。
「はい、ありがとうございます!」
魔導車に乗り込み、発車する。
ライマ主人が操縦席に乗り込み、報道されている狂刃の進路とは逆方向へ。他の人々も、まとまって逃げ出しつつある。
これで、きっと大丈夫。
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──ああ、雨が降ってきた。
どうして天はいつも僕の道を阻むのだろう。
魔王の時も、今回も。
「はぁ……もっと、早く……!」
体力の問題ではなく、魔力の問題で息を切らしてしまう。師匠の訓練に耐えて、成長した筈だ。
……それなのに、
「急げよ……!」
まだ遅い。
自分の遅さにイラつく。
『狂刃がゼロントに向かったそうだ』
やっとの思いで王城に辿り着いた時、騎士から告げられた残酷な事実。
過酷な現実が、心の奥底に過った悲劇が、何よりも目の当たりにしたくない恐怖が、昏き矢となって魂を抉る。
本心を言えば、怖い。
こうして魔元帥の元へと近づいて行くことが。
かつて神域で見た魔王とは圧倒的な力の差を感じた。無論、僕だって成長したけど……それを分かっていても、身体は震えてしまう。
「それでも……」
守らなければならない。
今、あの地に警備は居ない。
なぜ王城に向かっていた狂刃は突然進路を変えた?
それとも元からゼロント領に向かうつもりだったのか?
分からない。
でも、
僕は、アルス・ホワイトだ。
この国の英雄の末裔だ。
聖騎士『蒼輝』ヘクサムの息子だ。
だから、進め。
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死。
それは救済。
万象を苦悶から解き放つ安寧。
「……スフィルの血は、此方か。複数……二つ……三つ、ある。どうでも良い……全て斬り伏せる。抗えねば、我が刃を折れねば……それまでの事……!」
死の権化は、黒き刃をその手に迫っていた。
彼は願った。
その身を砕く力を。
彼は望んだ。
死を与え続ける狂った己に、死を。
「スフィル……嗚呼スフィル……ッッ!!!」
化物の絶叫が響き渡る。
近づく生者を虐殺し、掌で命を転がして。
「そこにも……命……!」
「ひっ……!」
ガサと音を立てて揺れた茂み。
狂刃は剣を振り下ろし、物言わぬ肉塊が出来上がる。もはや彼は止めようもない暴威と化していた。
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雨音が響く静かな街道に、いくつもの魔導車が走り、無機質な起動音が鳴る。
「流石に狂刃も魔導車には追いつけないでしょう。早く王城で安心したいものですね」
ライマ夫人が隣に座るお母さんに語りかける。
「ええ……本当に。緊急時の避難準備をしておくことは大切ですね。これからは……」
──ガタン。
車が、揺れた。お母さんの言葉が遮られる。
「あら、どうしたのかしら……」
ライマ夫人は車が止まった異変を確認する為に、外へ出る。
私は背も小さく、座ったままでは少し外の様子は見にくかったけれど、かろうじて景色の断片は見て取れた。
けれど、それだけではよく分からなかった。
「う、うわぁあーーーーっ!」
……叫び声?
どうして、そんなものが聞こえるの?
「……お母さん?」
視線を上げ、お母さんの顔を見る。
──その表情は、さっき私を連れ出した時よりもずっと……ずっと、
「……マリー。外から見えないように、しゃがんでいなさい。絶対に……絶対に、外に出ちゃいけないわよ。お母さんはちょっと外を見てくるわ」
……どうして?
どうして、お母さんは私を抱きしめるの?
「お母さん……どうしたの?」
いいや、本当は心のどこかで分かってる。
きっと、車の外には見たくもない絶望が広がっているんだ。
「嫌だよ……私、お母さんと……一緒に」
「ダメよ……それは出来ないの。……いい、マリー? あなたはいい子よ。可愛くて、賢くて、お母さんの自慢の子。だから、ここでじっと待つ我慢くらいはできるわね?」
「きゃぁああーっ! だれが、だれかたすけ……」
『だれか』の叫び声が聞こえる。
……あ、死が、そこにある。
「マリー、お母さんはあなたを愛してる。もちろん、お父さんやお兄ちゃんもね。……だから、あなたには幸せになってほしいの。きっと、どんなに辛い事があっても……お父さんやお兄ちゃんが助けてくれる」
私は家族みんなと居れば幸せだよ……!
……そう、言葉にしようとした。
けれど、そんな短くて、率直な感情すらも音にできなくて。
「きっと、もうすぐお父さんが来てくれるわ。……だから、約束よ。ここでじっとしててね。必ず……必ず、あなたは助けるから」
ふっ……と。私の周りからぬくもりが消える。
雨のじめついた空気が、私にまとわりついた。
母の扉を開ける一つ一つの動作の音が、凄く長くて、凄く遠くて。
──もう、きっと追いつけないんだ。
「行かないで……」
掠れた声が、魂の悲鳴の音を成して零れる。
「………………」
扉を閉めるとき、見えたお母さんの顔は──
穏やかに、微笑んでいた。
バタン。
閉まった。
その音が隔ててしまうのは、空間だけじゃない。
心さえも、隔ててしまうのだろう。
永遠に?
「ぁ……」
私は、良い子じゃない。
ごめんなさい。ごめんなさい。
だって、永遠に別れるなんて。私には耐えられない。
たとえこの扉の先にどんな地獄があっても。
私は、この扉を開ける。
その決断を後悔してしまうかもしれないけど。
「うっ……」
扉を開け放つ。
鉄の臭い、死の臭い。
どこまでも広がる鮮血の海。
「……ああ、スフィルの血よ……!」
悍しい声。
死人の様に血が抜けて真っ白な肌。不気味に光る狂気的な眼光。携えるは巨大な黒き大剣。
そして、その足元には──
「……ぁ……おかあ、さ……」
どんな地獄があったとしても。
つい先刻の覚悟を、決意を嘲笑うかの様に……その光景は私の心を絶望に染め上げた。
「見つけたぞ、スフィルの血……! さあ、剣を取れ、取れ、取れぬか!? 取らぬのならば斬り伏せる! 嗚呼、呪うぞ平和の世!」
その化物……狂刃は足を一歩踏み出し、動かないお母さんの身体から流れ出る血溜まりを踏み躙る。
私は、お母さんと一緒に居る為に約束を破ったのに。
私は、幸せになる為に悪い子になったのに。
「もう……いいよ……」
希望の欠片も見出せない。
絶望に呑まれ、もはや諦めた。
もういい、これは事故だ。
……そう、私とお母さんは事故で死んだのだ。
「おのれ……! おのれ、愚神ドモが! 闘わずして何が英雄かッ! ……俺は、俺はまだっ……! すまない……オズ……許してくれッ……!」
──刃が迫る。
救済は、一寸先だ。
「ぬっ……!?」
……けれど。
それは、叶わなかった。
──いいえ、護られた。
「俺の娘に、手を出すなよクソ野郎……!」
その刃を受け止めたのは白銀の剣。
絶望に生まる筈の無かった、一縷の希望。
何度も見てきた大きな背中は、今はいつもより大きく見えた。
「……おとう、さん」
「マリー、下がっていろ……! お母さんの、ナニラの仇はこの俺がっ!」
怒り狂う蒼輝が、狂刃に牙を剥いた。




