41. 襲来
その日の夕方。
海の見える高台。紫紺に染まりかけた空の下で、地平に沈みかける陽を眺めていた。水平線はどこまでも広がり、右を見ればリンヴァルスの街中が一望できる。
緩やかな時の中で、豆のように小さく見える人々が行き交っていた。忙しなく走る者、のんびりと欠伸をして座る者、あらゆる人々が入り混じる。
「…………」
この平穏が、本当に一瞬で崩されるのだろうか。
災厄。アテル曰く、世界を滅ぼす力と意志を持つ存在。
あまりにスケールが大きすぎて、想像がつかない。それに、いつ災厄が降臨するのかも分からないのだ。
「──ここからの眺めは綺麗だろう?」
ふと、川のせせらぎに割り込んで声が響いた。
振り返ってみると、そこには黒のローブを纏った人が居た。
顔は……見えない。フードで隠れているということもあるだろうが、何だろう? 霞がかかったように……
「ああ、失礼。このローブは認識阻害魔法をかけているんだ。あまり人目に触れたくなくて」
認識阻害か。声から察するに女性だろう。
……それにしても、理外魔法である阻害を使いこなすとは、かなり熟達した魔術師だ。
「……ここは私のお気に入りの場所なんだ。街中が見渡せるからね」
「綺麗ですね。僕は外国から来たのですが……想像以上に良い国でした」
正直なところ、ディオネよりも国民の幸福度は高いのではないかと思う程だ。
「それは嬉しいな。機会があればまた訪れて欲しい」
その人は声に喜びを滲ませて海を眺めた。
日は地平線の彼方へと沈み始め、暗闇が大地に手を伸ばしつつあった。
「はい。この国の皆さん、優しくしてくれましたから……また来ます。暗くなってきたので、そろそろ帰りますね」
「うん……どれほど辛い事があっても、この国は君を受け入れるから。どうか……忘れないで」
「……はい、ではまた」
その人が最後に言った言葉の意味はよく分からなかったが、不思議と僕の心を穏やかにしてくれた。
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結局、皇帝と他愛もない話をしただけでこの国を去ることになった。
皇帝曰く、これから先も招く事があるかもしれない、とのことだ。
「まあ、勉強にはなったかな……」
来た道を世界鉄道で戻りながら思う。
リンヴァルス帝国を出て、ワルド王国を横切って……ディオネの駅で降りる。ここから先は王都まで電車か魔導車で向かおう。
数十分後。
国章が書かれた旗を掲げる関所に着き、魔導車を降りる。
「あれ……?」
違和感。
人気が無い。
王都へと入る関所だというのに、警備も、役人も見えないのだ。それどころか通過しようとする一般人も居ない。
「誰か……いるのか……」
──僕は確かに聞き取った。
今にも消え入りそうなその声を。
「こっち……?」
声が聞こえたのは、関所の側にある小さな建物だ。
開いている扉から中へ入り込むと、錆び付いた匂いが鼻をついた。
幼い頃に見た……グッドラックに殺された兵士達の死体がフラッシュバックする。
「だ、大丈夫ですか!?」
誰も居なかった訳ではない。
壁に凭れ掛かって見えなかったのだ。
彼は全身から血を流し、もはや助からないだろうと思われた。
「君は……アルス君、だな……。俺はもう、助からん……この先は危険だ……」
「何があったんですか?」
「『狂刃』が……王都へ向かった。……このままでは、多くの死者が出る。子供の君に……頼めた事ではないが……どうか……」
悲壮な顔で言葉を紡いでいた彼は、それから先を伝えることなく息絶えた。
『狂刃』……五大魔元帥の一人だ。
五大魔元帥が人里に現れる。それは即ち、虐殺を意味する。過去の歴史が物語っているのだ。
「急がないとっ……!」
考えるよりも先に、身体が動いていた。
狂刃は王都へ向かった。
狙いは国王陛下の命か、また別か。
いずれにせよ、そこには家族も居るのだ。決して看過は出来ない。
「どうか、無事で……!」
焦燥が意識を支配する。
家族を、友を、傷つけさせる訳にはいかない。
僕が挑んで敵うかどうかなんて、知らない。
この命に代えても、守れるのならそれで良い!
──だから、無事でいてくれ。
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静寂たる街に魔導車を走らせる。
普段ならば人で溢れ活気に包まれているこの街は、鳥や虫の音すらしない。
街中には騎士や人々の死体がいくつも転がっている。それを見るたびに、魔導車の輪が血を跳ねるたびに、怒りが募る。
「止まれ!」
ふと、頭上から声が降り注ぐ。
急いでるのに、誰だ?
苛立ちながらも上を見上げる。
「何者か!」
閉鎖された鉄門から、騎士がこちらを覗いていた。
「ホワイト家の者です! この先へお通し願いたい!」
「‥…少し、待て!」
その『少し』が惜しいのだと、なぜ分からない!
とにかく、早く……
「君は、アルス・ホワイト君だね。たしかに出国記録がある。しかし……今この先は大変危険で、封鎖令が出ている。君も他の人たちと同じく退避所へ行くんだ」
「いえ、先へ向かいます。僕のことは構いませんので」
そう告げて魔導車を進ませる。
しかし騎士はそれを遮り、
「待て! 許可証の無い者は通れないんだ。例えホワイト家であってもね。……大丈夫、君のお父上ならば国を守ってくれるよ」
「それでも! 僕は……」
僕は、五大魔元帥の恐ろしさを知っている。
かつて魔王と対面した時、圧倒的な狂気を知った。
五大魔元帥の強さは、常人には無い狂気なのだ。
父がディオネの英雄であることは知っているが、彼の本気がどの程度かは分からない。そして……人の強さに絶対は無い。
「……止めるのならば、無理に押し通ってでも僕は行きます。この場で留まるなど、誇りが許さない」
「もし……もし君に何かあったら、ヘクサム殿にも、陛下にも申し訳が立たないんだよ。君が思っている以上に、君には価値がある。英雄の神能は国の遺産なんだ」
──それは、分かっている。
でも、
「──ッ!」
衝動的に魔導車を走らせる。
ここで逃げて、何が災厄だ。何が霓天だ。
僕が生まれ持った力は、僕のものだ。自分の事は、自分で決める!
大切なものを守る為に、この力はあるのだから。
「────!」
背後で誰かが呼ぶ声が聞こえた。
それを振り切り、僕はただ走り続ける。




