62. 愚神礼賛
声が聞こえていました。
ずっと、ずっと、小さい頃からずっと。
私の父は資産家で、母は音楽家。二人ともとっても有名で、多忙を極めていて、子供に構っている余裕などありませんでした。
贅沢なんて言えません。スノウ・ユークは恵まれた人間です。生活に困りません、素晴らしい教育を受けられます、ずっと暖かい場所で過ごせます。喚いてはいけません、弱音を吐いてはいけません。恵まれているのだから。
たとえ父が私の肌に煙草を押し付けても、母に殴られても、文句を言ってはいけません。
一生懸命投資と魔術を学びましょう。音楽を楽しみましょう。笑顔でいましょう。
人として正しく在るように努めましょう。
そうでなければ、ならなかったのに──
~・~・~
『哀れな子、哀れな子。望みを叶えてあげようか。俺の願いを聞いておくれ、さすれば願いは叶うんだよ。幸せを一緒に掴もうか。人が嫌いなんだろう? 一緒に人を好きになろうか』
声が聞こえました。
私を深淵へ誘う声。蠱惑の声は私を誘った、禁忌へと。
呪術。声が指し示すがままに、私は禁忌へ手を染めました。
曰く、彼はかつて死した神。世界へ蘇る為に、私の手を借りたいそうで。
「ねえ神様。どうして私を選んだのですか?」
『きみは人間が嫌いだ。俺も嫌いだ。でも、きみは人間を好きになろうと努力している。俺は人間を好きになろうと努力したことがなかった。相乗効果が気になるのさ。きみを器として選んだら、俺の人格はどうなるのかなあ。神族を身に降ろしても、神族の性格は器にある程度左右される。塩も胡椒も神には見分けがつくまいに、感情の見分けなどつくはずもない。きみの心が俺には不思議でならない』
私は人間が嫌いです。
私を傷付ける父が、母が、世界が嫌いです。でも、『正しく』在ろうとするためには、人を愛さなくてはならないのです。
努力、まさに努力。恵まれた私が為すべき義務の一つに、人へ愛を注ぐことがありました。
「……私は人を愛さなくてはなりませんから」
『ふーん。自分が愛されたこともないのに? ばかだね、きみは』
「…………」
そんなことはありません。私は恵まれています。つまり、愛されています。
愛されていなければどうして両親は私に教育を施すのでしょう。暴力も、強制も、教養も愛です。ぜんぶ愛です。幸せです。
『俺はさ、きみと同じ。生みの親に愛されなかった。与えられた玩具で遊ばなかったんだ。別に壊した訳じゃないのに、玩具で遊ばなかっただけでめった打ちさ。俺の崇高な術式なんて、人間たちに教えてやるものか。……ああ、きみは別としてね。大きすぎる力は破滅を呼ぶ。それを俺の親は理解していなかった』
神様は人に魔術を教え渋ったせいで、より上の存在から裁かれて死んだらしいのです。
曰く、人間の心が醜い。曰く、人間の造形が気持ち悪い。
私は特に造形を気持ち悪いと思ったことはないけれど、心はあまり好きじゃありません。
……いいえ、間違えました。心は大好きです、そうでなければなりませんから。
私は神様の託宣を受け、彼を復活させるべく動き出した。
神に逆らってはならない……リシュ親神国の教えのままに。
~・~・~
父を殺したら、とても優しくなりました。
母を殺したら、沈黙したままなので埋めました。
すべて、すべて神様の教え通りです。教えられたままに事を為せば、万事上手くいく。父の教えは正しかったのです。
父は煙草を吸わなくなり、薬も飲まなくなり、暴力も振るわなくなりました。嬉しいです。
日々が色づいて、愛すべき人間も好きになれそう。このまま神様の言葉に従っておけば、ますます幸せになれるでしょう。
『俺をきみの身の降ろせば、きみの人格は消えるだろうね。本当にそれでもいいの? 辞めたいなら今からでも辞めれば良いさ。他に化かして利用できる人間はたくさん居るだろう。だって人間は醜くもろく、欲望に忠実な狛犬だからね。ああ、狛犬ほど外見はかわいらしくないけれど。むしろ気持ち悪い』
「心が醜いのは私も同じなのでしょう。構いません、私は幸せがどういう物なのか知れました。受けたことのない物を受けました。その上で、今生に未練はないと……そう判断したのですから」
満ち足りた。知った。
知ってなお、私は何も得られなかった。
だから、もういいのです。もう何もいらない。
やはり否定し切れません、私は人間が嫌いだ。世界が嫌いだ。どう足掻いても愛することはできず、憎悪の対象としてしまうのでしょう。だからこそ神様の教えて下さった呪術にも適正があったのでしょう。
……ああ、でも。霓天の家系。あの人たちには最後に会ってみたいですね。人間は嫌いだけれど、人間の叡智が作り出す魔術と、魔術が描く軌跡は美しいのです。四属性が煌めき、折り重なる様相は形容できぬ芸術性を秘めています。ぜひ目の前で見てみたい。
それくらいでしょうか、未練は。
後はすべて神様の好きにしていただきたい。神様の本当の望みなど知りません。何をしようが、知らぬ存ぜぬ。
『ねえ、きみは俺の目的を知りたくないの? こんなに扱き使ってるのにさ』
「いえ、なんでもいいので。話したいのですか?」
『嫌味な聞き方だなあ、きみ。まあいいや、聞いてよ。──俺は世界を地獄に変えたい! 薄汚い人間と、忌むべき人間を困らせて、悪戯して、地獄を開くのさ』
地獄。
私からすれば、既にこの世が地獄であった。ああ、他の人が苦しむのならば。それは私にとってきっと──
「それは、天国ですね」
『ああ、きみはそういう人間だった。まったく全部、俺とおんなじさ。それじゃあ……きみの身体を乗っ取った後も、きみの願いを受け継げるね。安心して地獄開闢式の完成に励みたまえ』
かくして地獄は開かれた。
スノウ・ユークは哀れな人間だったでしょう?
ええ、ええ。でもそれでよろしいのです。
さようなら、世界。さようなら、人間。
ごめんなさい、お父様、お母様。




