19. シレーネ
私を非道と罵るもの、サーラライト族。
私の姉を苦しめ続けるもの、サーラライト族。
私がもっとも嫌厭するもの、サーラライト族。
本当は父も母も知っている。私の姉……アリスが『腐食の息吹』の発生源であることを。
残酷な真実を知りながらもなお、父母は民に説明を放棄し、自らの子を苦悶の地獄から解放するつもりはない。
非道と誹られるべきはどちらか。真実を知らない愚昧はどちらか。
私は真実を知りながらもなお、黙して姫でいられるほど潔い人間ではなかった。
真実を知ったあの日から、私は国を飛び出し──サーラライト族を囲う牢を砕くことに決めた。
~・~・~
朧げな記憶ながら、姉と共に過ごした記憶は残っている。
彼女はいつも私の名を呼びながら、女神のような笑みで頭を撫でてくれた。六花の将が一、『麗姫』アリス。今では魔将に穢された気高き者らは、かつて世界の守護者であり、姉もその中の一人だった。
『シレーネ。あなたはいい子ですね。きっとあなたこそ、サーラライト族の希望となるでしょう。だから……なにか辛いことがあれば、私を頼ってくださいね』
『うん! お姉さまといっしょに、立派なお姫さまになるよ!』
姉は六花の将としての責務を果たしつつも、時折サーラライト国へ帰って忙しそうに動き回っていた。
結界の破壊。外界と国を隔てる神壁の破壊こそ彼女の悲願であったという。
国の中には結界の除去を快く思わない者もいたが、姉の必死な説得により徐々に反対派の数は減っていった。順調に計画は進んでいた……あの日までは。
『破壊神の騒乱』。あの悲劇が全てを狂わせる。
その日、姉は死んだ。同時に国を覆う結界が払われる希望は潰えた。結界を払うことができるのは、『春霞』と呼ばれる神器のみ。愚かなサーラライトは永遠に籠の中に閉ざされることになり……いつしか姉の存在も忘れ去られていく。
しかし、私は決して忘れない。彼女の意志は私が絶やさない。
~・~・~
ある日、森の奥から邪気が流れ出した。
長い時の間で、邪気の巡りが変化することは往々にしてある。今回の異変もまた循環邪気の変化かと思われ、魔物の発生に警戒するように号令が出されたのだが……
「発生源は依然として不明。魔物は出現せず、魔物がいないためにかえって邪気の吸収先がなく、木々を腐らせる原因となっています。このまま邪気の増幅が続けば、四十年後にはわが国へ邪気が到来。百年後には大霊の森全域を蝕むでしょう。浄化装置を使って抑えてはいますが、焼け石に水……対策を考えなければなりません」
研究者の言葉に国王である父は頭を抱えた。
この頃、私はまだサーラライト族の未来を真剣に考えていた。姉に代わって一族を守ろうという意志は潰えていなかったから……だから、真実を知ることになってしまう。
「お父様、私が調査に向かいます」
「む……シレーネ。しかし、森の奥は危険だ。せめて兵士の護衛を伴って……」
娘を一人亡くしたという過去もあってか、父は私の身については少し過剰に憂いていた。
「問題ありません。私は邪気の影響を受けませんから、一人で行った方がむしろ安全でしょう」
理由は分からないが、私は生まれつき邪気による干渉を受けにくい。異能なのか、右手の甲に持った痣の影響なのか。理由は分からないが、私が行くべき事態であるのは間違いない。
「……分かった。すぐに戻って来るように」
森を進むほどに邪気は強くなっていく。常人では邪気の流れを感知することはできないが、私は流れを読み取れる。そしていくら邪気が濃くなろうとも、先へ進む足は止まらなかった。
悪霊が眠るとされる遺跡の深奥──闇の先に。
「…………お姉、さま?」
彼女の姿を見た刹那、遠き過去の残影がフラッシュバックする。
間違いなく影の輪郭は私の姉の姿と同じものであった。しかし彼女の四肢は毒々しい鎖に繋がれ、その場から動く事はできないようだ。
「あなたは……命、ですか? 穢れを……」
──違う。これは姉ではない。『麗姫』アリスではない。
殺意が迸り、彼女は身動きが取れないながらも私を殺めようと邪気を滾らせた。魔物……そう形容するに相応しい。言葉を話しているものの理性はなく、死者の器に別の何かを流し込んだかのよう。
いや、本当は彼女の正体を分かっていたのだ。私が奇跡の子と象徴される痣を持っている以上、姉の器に流し込まれたものが【棄てられし──】であることは自明であった。
しかし当時の私は錯乱し、彼女を『救おう』としてしまった。
~・~・~
「っ……お父様、戻りました……」
「シレーネ……!? 血塗れではないか! 急ぎ手当を!」
サーラライト王城へ満身創痍へ辿り着いた私は、事の仔細を父へ報告した。
瘴気の発生源は悪霊の眠る遺跡であったこと、中には姉の姿をした者が拘束されていたこと、彼女と交戦して重症を負ったこと。
「あれがお姉様なのかどうかは分かりません。しかし、仮にお姉様であろうがなかろうが、腐食の息吹を止めるために直ちに解決しなければならない問題だと思います。今すぐ研究対策班を結成しましょう」
彼女を救いたい。そして、滅びゆくサーラライト族を救いたい。
そんな願いが、父への提言を促した。しかし私の言葉に父は俯いたままだった。
「もしや、萌神様との契約が……いや、しかし……仮にアリスが源流であったとして、討つべきか否か……。そもそもシレーネにその者が対処できなかった以上、サーラライト族ではどうしようもない……」
しばらく思考に耽った上で、父は口を開いた。
「……シレーネよ。此度の件は内密に。しばし様子を見る」
「な……なぜですか!? 今すぐに解決しなくては! お姉様が苦しんでいるかもしれないのですよ!? 私も率先して解決に取り組み……」
「ならぬ! お前を危険に晒すわけにはいかぬ。お前には価値があるのだから」
──また、その言葉だ。
父の言い方はまるで姉に価値などないと、救う価値などないと言っているようで。
「お父様とお母様は……いえ、サーラライト族はいつもそればかりです。この痣がそんなに大事ですか!? 役目も分からない、ただの奇妙な紋様が! 自分の子を今すぐに救いたい……そうは思わないのですか!?」
曰く、私は特殊な痣を持った『価値ある者』らしい。
この痣がどんな役割を持つのかも分からないのに、周囲の者は占術の予言を信じて同じ言葉ばかり口にする。気に入らない。
本当は私の痣は罪の象徴なのに。
いつしか外界への憧憬も、姉の説いた言葉も、契約も忘れて……ただ時間を浪費するサーラライト族が気に入らない。これでも王族として、一族のことを考えてきたつもりだ。
しかし、
「もう……いいです。きっとお姉様の姿をしたアレは萌神との契約が関連しているのでしょう。ならば、私がこの手で結界を全て破壊します」
「シレーネ! そのようなことをすれば、どれほど民の反感を買うと思って……」
「いいえ。私は今日から外界へ出ます。もはやサーラライト族の一員だと思わず、結界の破壊を目論む賊だと思っていただきますよう。私がお姉様を救う。あなたは自らの子を苦しめ続け、地獄に落ちるがいい」
啖呵を切って、私は国を飛び出した。
そして……ついに神の結界を破る術を編み出したのだ。




