Decay6. 帰るべき場所は
目を覚ました先は、花畑だった。
ゆらゆらと花が咲き誇る。水色の淡い光がどこまでも続いていた。甘い香りが漂う。星空の下、イージアは仮面越しに美しい景色を眺める。
「こ、こは……」
強烈な既視感。
懐かしい光景と風。
──霓天の丘。
かつて彼が愛を知った場所。彼の指にあった銀色の指輪は、灰となって崩れ去る。
「…………」
一歩踏み出すと、彼を迎え入れるかのように爽やかな風が吹いた。
幻想ではない。たしかに存在する光の像。
楽園から一瞬でこの場へ転移したということだろうか。
彼は静かに、呆然として丘を下る。
空に輝く天廊。忙しなく動き回る人々。長らく見ることのなかった形の魔導車。
夜だというのに、まるでこの街には静けさが訪れない。中空に浮かぶ電子立体広告を眺める。
「戻って、来たのか……」
五千三百十七年。
『破壊神の騒乱』から百年後。かつてイージアが『アルス』として幸福の中を過ごしていた時代。これがATが託した未来……だとでも言うのだろうか。
懐かしき故郷、ディオネ神聖王国。
未来へ戻ったと悟った瞬間、イージアの心を得体の知れぬ感情が覆い尽くす。
恐怖。アルスという存在は、この世界においてどうなったのか。イージアという存在が消滅しているのか。どちらにせよ、彼の歩んだ軌跡と絆が消えているかもしれないという恐怖だ。
魔導車のクラクションがやけに五月蠅く聞こえた。華美な電光装飾が煩わしい。
彼は衝動的に路地裏へ入り込み、膝をついた。
「っ……!」
ここが未来だとして。アルスの生きていた時代だとして。
家族は、友は、レーシャは。彼を彼として受け入れてくれるのか。全ては不明瞭。
『私は救いの名を決して捨てぬ。我が名はイージア。……覚えておけ、この誓いを』
自分の言葉を思い出す。
そうだ、ここで蹲っている場合ではない。救わねばならぬ者がいいる。ならば立たなければならないと……彼は足に力を籠めた。
今やアルスは遠い名。イージアこそが背負った名。たとえ自分が何者と認識されようと……彼の意志が折れることは、他ならぬ彼自身が許さない。
闇を抜け出し、再び眩い光の下へ。
そして彼は道を歩み出した。
~・~・~
ホワイト家。
アルス・ホワイトが生まれた地であり、英雄の歴史を刻む地。次第に屋敷の影が大きくなっていく。イージアは決して目を逸らすことなく、生まれた場所の影を見据えて歩き続けた。
そして屋敷の直前まで来た時、ふと足を止める。いや、止まる。
「…………いや、」
やはり私には帰る場所など必要ない。
そう虚勢を張ろうとした。本心で言えば、彼はホワイト家に帰るのが怖かったのだろう。大切な人に忘れられているかもしれないという恐怖が、彼の足を止めてしまった。
どれだけ覚悟しようとも、やはり怖いものは怖いのだ。
彼の心は強くない。心の脆さを覆い隠すのが仮面の役割であった。
彼はそっと仮面を外す。より一層、屋敷の輪郭が明確になった。
ゆらゆらと揺れるあたたかい灯り。白亜の壁。亡き母の花壇。亡き父の魔導車。全てが一度は失ったものだ。
失ったものを再び得ようとするなど、傲慢ではないだろうか。
「私には……」
──幸せを取り戻す資格などない。
救いの名を背負う限り、自分を犠牲にしなければならない。英雄の摂理は、嫌というほどこれまでの生涯で味わった。
ひとたび幸福を手にすれば、喪失が待つ。ひとたび希望を得れば、絶望が襲って来る。
これ以上、失うのは御免だ。
「……ああ。帰ろう」
彼が帰るべき場所は、他ならぬ楽園である。
六花の将として、創造神の僕として……まだ戦いは続く。闇に囚われた創造神を救い、アリスの無念を晴らす。
故に、彼はここを去る。いずれ『鳴帝』として、かつて友であった誰かと会うかもしれない。
その時は──
「あ……」
踵を返した視線の先には、一人の少女の姿があった。
空色の髪と瞳を持つ少女。イージアと同じ。
彼女は屋敷の前に立つイージアをじっと見つめていた。
困惑するかのような、訝しむかのような視線。立ちすくむ両者。
「……」
二人は視線を交差させて、一歩も動かない。
僅かな沈黙が、イージアには無限のように感じられた。彼女は自分のことを知っているのか……そんな質問をできるほど、彼は豪胆な人物ではない。
一層の恐怖が増大する。
「あの……」
刹那、少女の口が開きかける。
なにか言葉を発そうとしている彼女から、イージアは目を背けた。その言葉の先─Who are you─を聞いてしまえば、彼はきっと立ち直れない。
暗闇に視界を閉ざし、恐怖から耐えようとした。
「……お兄ちゃん、何してるの? 早く家に入ろう?」
「──ッ!」
その時、イージアの恐怖が泡のように弾けた。
暗闇から解き放たれ、膝から崩れ落ちる。無機質なアスファルトの上に倒れ込み、彼は慟哭した。
「お、お兄ちゃん……!? どうしたの!?」
涙がとめどなく溢れる。声にならぬ嗚咽の中で、彼の心は色を取り戻していく。
ただ、この瞬間だけは。彼はひとりの、ただ純粋な少年であった。家族を想い友を想う少年であった。
英雄でも、神でもない。
アルス・ホワイトは慟哭し──魂からの旋律を響かせた。
第3部完結です




