92. 蒼穹の未来へ
島の外を見据えていたルカは、一つの異変に気が付く。
「む……見よ」
彼の指さしに従って、四英雄は水平線の彼方を見た。
世界の端が崩れている。ぱらぱらと、空が欠片となって抜け落ちて行くのだ。ローヴルは呆然として尋ねる。
「これは……終わった、ということでしょうか?」
「うむ、歪みの内より湧いていた邪気が消えた。恐らく全て終わったのだろうな。やがて安息世界は崩壊し、全てが盤上世界へ回帰するであろう」
彼の言葉を聞いた四英雄は安堵の表情を浮かべる。
歪みの中へ消えたイージア、ノア、セティア、ラウアは無事だろうか。
「やったねフィーちゃん! よかったねオズ!」
「え、ええ……結局、私たちはここで待っているだけでしたね。でも、良かった……」
「そうだな! ……でも、なんだろう。頭に靄がかかっていくみたいに……思考が空白に呑まれていくんだ。今まで、どうやってここに辿り着いたのか……覚えていない?」
オズは頭を抱え、不可思議な感覚に疑問の声を漏らす。身体が痛むわけではないが、熱にうなされている時のように頭がぼんやりする。四英雄も同様の感覚を味わっていたが、ルカだけは異変が起こっていなかった。
「おそらく、記憶の喪失であろうな。安息世界で起こった出来事はすべて焼却される。同時に記憶もまた。俺は無事なようだが……」
ルカの記憶が消えない理由は、彼が災厄であるからなのだろうか。理由は分からない。
「そんな! では俺たちは……鳴帝様との出会いも、ラウア殿との出会いも、ルカ殿との出会いも……全てを忘れてしまうのですか?」
「そう……だな。しかし案ずるな。この安息世界での出来事を、必ず忘れぬ者が存在する。俺のようにな! だから……うむ。貴様らはよくやった」
終わりゆく世界で、記憶も閉じてゆく。
白く、白く、漂白し。最後には英雄たちが紡いだ言葉も音を作らず。
最後までルカは水平線の向こうに広がる虚無を見据え続けた。
~・~・~
光に満ちた、虚無の空間。
この『愚者の空』に築かれた安息世界は回帰し、再び静寂が此処に戻った。
ノアがイージアに見せた世界の光景は、何事もなく日々を過ごす人々の姿。彼らは自分達が眠っていたという事実にすら気が付かず、日常を取り戻した。
この平世の裏で壮絶な戦いと犠牲があったことを、神々すらも知らない。四英雄も安息世界という概念を忘れ、戦いを覚えているのはセティア、ノア、ルカ。そしてイージアだけだろう。
「ルミナは封じられ、もう自由に身動きを取ることはできません。ただし壊世機構は未だ機能しているので、災厄が消えたというわけではありません。これからも盤上世界は災厄の脅威に晒され続けるでしょう」
「……構わない。災厄の脅威に立ち向かう世界こそが私たちの望んだ未来なのだから」
人は災厄に抗い、時に涙し、そして前へ進む。
安息を否定したイージアには災禍の未来を背負う義務がある。彼が世界の脅威に抗い続けることこそ、ラウアへの餞となる。
この戦いで得たものは数知れない。新たなる絆、決意、世界の真実。全てを知ったイージアは世界を護るために歩みを止めることはない。
「ねえイージア君、これ」
セティアが彼へ一つの指輪を手渡した。銀色に鈍く光る、不思議な力を感じる指輪だ。
指輪を受け取った瞬間、彼はどこか懐かしさを覚えた。
「プロポーズか?」
「そうそう、愛の告白……じゃない! ラウア君に託されたんだ。君に渡して欲しいって……ATが最後に君に渡すように言い遺したそうだ」
この指輪が何に使う物なのかは分からない。だがATが最期に託したものならば決して無意味ではない。
なぜならば、彼もイージアと同じく世界を想う者だったのだから。
彼は人差し指に指輪を嵌める。微かな温もりが彼の魂を覆った。
「セティアはどうする? 君は創世主の心らしいが、アテルと融合は……しないのだろうな」
「うのっ? なんでぼくがアテルの心プログラムだと知っているんだい? まあ、融合なんてするつもりはないけどね。ただし『愚者の空』からは出させてもらうよ……いいよね、ノア?」
「ええ、どうぞご自由に。今ならば盤上世界へ繋ぐゲートが開いていますから、セティアも外へ出られるはずです」
アテルにも心がある。それは人の言うような、露骨な感情の揺れ動きではないのかもしれない。
誰にも観測されない、些細な機微だ。されどイージアは事実を知ってどこか安心していた。彼の心を幼少期から育んでくれたアテルとの時間は、決して作り物の情意ではなかったのだ。
空間の向こうに灰色の歪みがある。
安息世界が盤上世界に回帰した際に空いたゲートだ。ゲートは次第に縮小し、やがて完全に閉まってしまう。
「……そろそろ行かないと、帰れなくなってしまいますよ」
「そうだな……帰ろうか。私たちの世界へ」
イージアもまた回帰する。彼は少し寂しそうに笑うノアを見た。
しかし彼女は努めて笑顔を保っている。きっと寂しいのは彼女も変わらないのだろう。セティアも居なくなって、余計に孤独になってしまう。
「ねえ、ノアも来ない?」
「いいえ、私は残ります。ルミナが動けなくなった以上、調停者の役目はほとんどないでしょうが……アテルが不正するとは思えませんし。まあ私は暇なときに異世界に行ったりして遊んでるので、ご心配なく」
最後まで気丈な彼女の意志を尊重し、イージアは灰色の歪みへと歩き出す。
世界のために犠牲となったラウアを思いながら。
彼はたしかにイージアの友であった。今この瞬間も、イージアの心は彼と共にある。
「さあイージア君、世界へ!」
「よき旅を」
ノアの言葉を受け取り、彼はセティアと共に歪みへ踏み出した。
刹那、彼の視界は眩い閃光に包まれ──
「……ただいま」
いつしか楽園の大地へと立っていた。
空は蒼い。因果の旅人たちが守った空。
彼はこれからも、蒼穹の下で未来を生きていく。
15章完結です




