86. 異空の尖兵Ⅰ
心。
時に玩具のように雑に扱われ、脆くも壊れてしまうモノ。
心。
時に鋼鉄が如く固く、決して揺るがぬモノ。
心。
時に深奥に迷い、誰にも理解されぬモノ。
ある人は欲望を心と呼び、ある人は理性を心と呼び、またある人は優しさを心と呼んだ。
全ては理解されぬモノ。あの人の心も、僕の心も──決して外界の誰かが理解できるものではないだろう。
僕の名はラウア。
かつて災厄ラウンアクロードの器であった。そして、災厄の力を奪われ──僕は只人となった。
それでも、この身はたしかに世界を滅ぼしてしまったんだ。かつて、未来の盤上世界を滅ぼし……アルスと名乗っていた少年を絶望へ突き落して。そんな僕に、心があるなどと喧伝する資格はない。
ただ、贖罪を。彼が守った世界は、僕が持ち込んだラウンアクロード力によって再び眠ろうとしている。
僕を道具扱いしたAT。彼は本当に、僕を災厄の力を奪うための道具としか思っていなかったのだろうか。
僕はまだ、迷っている。
~・~・~
『──君の力を利用することに、僕は罪悪を多少は感じている。だからせめて……全てが終わった後に幸せになって欲しい』
ATの言葉を思い出す。あの言葉は彼の本心であったように思う。
しかし、分からない。やはりルミナが彼を唆したのではないだろうか。いや、最初から僕を騙すつもりで温かい言葉をかけていたのだろうか。だが、彼の微笑は本心から生まれたもののようにも見えて。でも、僕の器を回収したのはATではなくノアで……
「おい、ラウア。どうした?」
思考と不安の海に沈む僕の意識を、ローヴルの言葉が叩き起こした。
今は四英雄と共にイージアたちを待っている。歪みの向こうへ彼らが向かって、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
「……なんでもない。少し昔のことを思い出していた」
「昔のこと、ね。よければ俺にも聞かせてくれよ」
オズが沈鬱な雰囲気を払拭しようと、気軽に話しかけてくれる。
「他愛のないことだよ。僕の親のような人のことを思い出していた。……一緒に花を育てたり、美しい景色を見て回ったり。彼は本当に僕を大切に想っていたのか……なんてセンチメンタルなことを考えていた」
「自分の子を大切に思わない人なんていないよ! フィーちゃんのご両親だって、すっごく旅に出た娘を心配してたもんね?」
「え、ええ……そうですね」
正確に言えば、ラウンアクロードの親は異空の博士だ。でも、僕の……ラウアの心の親はATと言っても過言ではない。
「花を育てるの、俺の母親も好きだぜ。特に夏花のミエーネルが……」
「ちょっと待ってください。何か、違和感がありませんか?」
オズの言葉を遮って、スフィルが声を上げた。
彼女は周囲を頻りに見渡した後、空を見上げる。僕たちもつられて空を見るが、そこには何も……
「フィーちゃん、何か見えるの?」
「いえ……そうではなくて。明らかに空の色がおかしくないですか?」
「あっ……そうだね」
──そうだ。どうして気が付かなかったのだろう。
空の色が、碧色に染まっている。まるで眠りに落ちた盤上世界と同じように。ここまで大きな変化に誰もが気が付かなかったのはなぜ?
もしかしたらイージアとATの間に何かがあったのか、或いは……
「何を言っているんだスフィル。空は緑色だろう?」
「「え……?」」
ローヴルの言葉に、僕とスフィルが同時に困惑した。
彼は何を言っているんだ?
「そうだよ。二人ともどうしたの?」
「ああ。目が疲れてるんじゃないか?」
カシーネとオズもローヴルに同調。
空の色は青だ。人理の大前提であり、僕にとっての常識。まるで僕らだけが異端になってしまったような錯覚。
何かの幻術か、或いは認識改編か。その場合、認識を歪められているのは僕とローヴルたちのどちらが──
『ああ、気が付いてしまったか。哀れな器よ。よもや幻想を看破されるのは時間の問題だな。セティアにも、調停者にも勘づかれてしまった故……お前はつまらぬ物語を紡いでくれるなよ。救世者にもATにも気取られることなく……我が呪詛を受けるがよい』
この声は……ルミナ?
どうして彼の声が……
「ッ……!?」
~・~・~
ラウア以外の三人が、この異常を認知できていない。
スフィルの認識がおかしいというのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。
「……ラウア?」
ふと、ローヴルが怪訝な声を発した。
彼の視線の先には、呻き声を上げて蹲るラウアの姿。彼が腕に装着した暗黒の盾が邪気の奔流を発し、周囲の空間が染まりつつある。
そして同時に、四人の内にある【邪悪の眷属】に対抗するための力が高まっている。
「待って!」
スフィルはラウアの下に歩み寄るオズを咄嗟に引き留め、彼の様子を静観する。相変らずオズは人を訝しむことを知らない。
なにかよからぬ直感、そして危機感。
「っく……これ、は……似ている……! あの、時……ラウンアクロードが……! また……」
次々と、次々と。邪気が集まり、昂って。
暗黒が彼の全身を包み込む。四英雄は眼前の光景の異様さに息を呑み、固唾を呑んで停止していた。彼らは感じている……内にある龍神との共鳴が高まっている事に。
「…………」
ラウアは黙して立ち尽くし、俯いている。彼の呻きは収まったが、誰一人として近付くことはできない。
【邪悪の眷属】の存在を四英雄は一度否定した。『鳴帝』が敵などあり得ない。そして、彼らが世界に仇なす兆候もなかった。
だが、今までの信頼は脆くも崩れ去ろうとしている。
──殺気。
大気が鳴動するほどの殺気が、彼らを射抜いた。気配の主は……他でもない、ラウアその人だった。
邪気に呑まれたラウアは、四人へ狂気を孕んだ眼差しを向ける。彼の視線に射貫かれた瞬間、冷徹な殺意が駆け巡る。まるで今の彼は何かに憑かれたかのように別人の雰囲気を放っている。
「これは……一体……」
武器を構えたのはローヴルとスフィルだった。対して、オズとカシーネは未だに狼狽えている。英雄たちを分かつ、覚悟の差。
この時、碧天と霓天は明確にラウアを敵として認識したのだった。
「ローヴル、援護を頼みます」
「ああ」
ラウアが秩序盾ルナを前方に構える。同時、暗黒の波動が地を薙いだ。
繭の壁面を吹き飛ばし、遥か彼方へ飛び出した暗黒は空を覆い尽くす。
「下がれ!」
ローヴルは嵐を身に纏い、後方のオズとカシーネを救出。暗黒の範囲外へと咄嗟に逃がす。スフィルはローヴルと息を合わせ、風魔術で跳躍。そして水刃をラウアへ射出した。
向かい来る水刃を盾の正面で防いだラウアは、一歩たりとも後退しない。これは災厄ラウンアクロードではなく、災厄ラウアの力。この幻想の世界においてのみルミナが与えた、秩序の加護である。
彼と向かい合うスフィルに、カシーネが叫ぶ。
「待って……本当に戦うの!?」
「……致し方なし。戦いたくないのならば、下がっていてください。私は彼を殺します」
きっと、何かに取り憑かれてラウアは【邪悪の眷属】と化したのだろう。今の彼の姿は、彼自身の本心ではない。それは場の誰もが分かっていた。
だが、割り切る。そしてラウアを殺す。ここで割り切れる英雄と、割り切れない英雄が二人ずつ居るだけの話だった。スフィルは仲間の性質を熟知していた。だからこそ、結婚を控えたオズとカシーネの心に傷を残したくはない。彼らは殺めることで心を傷付けてしまう、脆弱な英雄なのだから。
「嵐絶──『裂空の太刀』」
ローヴルが踏み出す。同時、嵐が舞う。
右へ左へ、烈風。空へ地へ、雷閃。十字の嵐が駆け巡り、ラウアの周囲を取り囲んだ。災厄の力を持った彼は、英雄の斬撃に動じず。真正面から全ての攻撃を迎え撃った。
巨大な暗黒の膜が広がり、全ての嵐を滔々と呑み込んで行く。
しかし英雄たちの間には暗黙の了解があった。ローヴルの放った『裂空の太刀』は、攻撃ではなく攪乱を目的とする技だという大前提が。
盾を構え、攻撃を受けるラウアの背後に一つの影。蒼き輝きが舞う。
「『四葉秘剣!』」
「スフィルッ!」
四つ色の輝きが走った時、オズの声が木霊した。




