83. 不義の剣Ⅰ
私……スフィル・ホワイトの出自は、取るに足らない騎士の家系。
特別なものは何もない。異能も、秀でた魔力も存在しない、凡庸な血筋。父は武士であったが、時代の流れは武を疎む。傭兵は武を用いぬ雑用と化し、戦もない世では騎士も座するのみ。
故に私もまた、剣を握るつもりは毛頭なかった。子供の頃の将来の夢は何だったか。
ある日。私は薄暮の下、凍てつく雪道を転がっていた。
厳冬、命の危機。一市民に過ぎなかった私は、山道の斜面を滑り落ちてフロンティアへ落ちてしまった。今にして思えば、馬鹿なことをした。休日の浮かれが罰に変貌した。意気揚々と美しい景色を写生しに山を登ろうとした私は、碌に登山用の靴すら用意していなかったのだ。
人里とフロンティアを分かつ柵を越え、転がって行く。
服の裾が岩角にかかり、繊維が中空に舞う。やがて地面に当たる頃、私は気を失いかけていた。
意識を退き留めたのは獰猛な唸り声。魔物だ。
「っ……」
──死ぬ。
このままでは私は魔物の爪牙に抉られ、寒空の下に雪の埋葬を浴びることになるだろう。戦いの経験はなく、魔術もほとんど使えない。それが平穏な時代の一般的な人間である。私もまた、非力の一人。
『グルルルル……』
腹を空かせた牙狐が、睨めつけるように私の周囲を巡る。雲の合間から射し込んだ陽光が、不気味に死を運ぶ牙を光らせた。
一匹。逃げきれぬ相手と数ではないかもしれない。フロンティアと人里を分かつ柵は、そこまで遠くない。我が祖国ディオネの都市ゼロントに聳える、蛇の石仏四つを跨ぐ程度の距離。
──だが、足が竦んでいる。頭を強打した痛みが、より恐怖を攻め立てている。
動かない。鉛のように動かぬ身体に封じられた私を、明確な獲物として牙狐は捉えた。
狐が地を蹴る。飛雪を巻き起こす、飛び掛かり。
鋭利な牙が眼前に迫った。瞑目。
『クゥッ……』
豪……と。熱気が肌を撫でた。
牙狐の首を絞められたようにか細い声と、一斉に雪が蒸発する快音が響いている。瞬間、私は命の危機を脱したことを悟り、安堵と共に目を開けた。
佇んでいたのは黒き怪人。烏を思わせる黒く細い瞳に、黒い髪。ディオネ人の血筋ではないだろう。
「よ、無事か?」
「は、はい……あなたは……」
「なんでフロンティアに非戦闘員が居るんだよ? ま、俺も強い訳じゃないし、傭兵も始めたての素人なんだけどさ」
~・~・~
私はオズと名乗った命の恩人に、山を転がって落ちて来てしまったことを説明した。
「ははっ……そっか。足元には注意しないとな。あんた、運が良かったな。あと一歩でここが墓標になってたぜ」
「はい……ありがとうございます。私も死を覚悟しておりました」
「とりあえずフロンティアの出口まで案内するよ。こっちだ」
まるで死の恐怖を払拭するかのように、彼は明るく語り掛けた。私は彼の背を追い、雪道を駆ける。隣ではなく、少し斜め後ろに立ちつつ、前へ進んで行く。
ふと彼が大きく身震いした。
「いやー……しかし、ディオネは寒いな。雪国の厳冬、舐めてたぜ……」
「オズ殿はどこ出身なのですか?」
「殿なんてやめてくれ。オズでいいよ……俺もスフィルって呼ぶからさ。俺の出身は北ロクの片田舎。遠路はるばるディオネにやって来たのは……ちょっと理由があってな」
北ロク王国。ディオネが位置するリーブ大陸ではなく、ルフィアが位置するマリーベル大陸の国だ。かなり遠方から来た旅人らしい。
「理由、お伺いしても?」
「ああ……大した理由じゃねえんだ。ディオネの武術を修めに来たんだよ」
「ディオネの……? なぜロク流ではないのですか?」
彼は気恥ずかしそうに頭を掻いて、自らの武を語る。
「俺の適正属性は炎。ロク流の武術はとにかく技巧的で……爆発的な炎属性とは反りが合わない。んで、一番俺に合った武術を師範に尋ねたら……ディオネ武術が良いってさ」
オズはまだ戦士としては駆け出しらしい。
どうして戦なき世で、武士を志すのだろうか。武が求められる職業の中で、唯一身を立てられる騎士になるつりもなさそうだ。魔術よりも魔法を勉強した方が世の中のためになるのに。
そうこう話している内に、いつしかフロンティアの出口へ辿り着いていた。かなり歩いた気がする。ふくらはぎが痛んでいることを、ようやく自覚した。安堵と共に全身に強い倦怠感を覚える。
いつしか時刻は夕刻。オズも今から単身でフロンティアに潜るつもりはないだろう。
「さ、着いたぜ。次からは落ちないように気をつけろよ」
「……ありがとうございます。せっかく命を助けていただいたので、何かお礼をしたいのですが……」
「ははっ、いらねえよ。俺が通りかかったのは偶然だし」
「いえ……そうです。私の父は騎士なんです。オズさんはディオネ武術を学びたいのでしたよね? もしも師が見つかっていないようなら、私が取り次いでみましょうか?」
父もそこまで強くはないが、人に教えられる程度の力はあるだろう。体術は騎士の認可試験で必要な技能だったはず。
私の提案にオズは目を輝かせ、顔を上げた。
「お、マジか!? いや、俺もあんまり旅銭に余裕がなくてさ……頼めるなら頼んでもいいか?」
「はい、喜んで。父は義理深い性格なので、娘の恩人であるオズさんを無碍にはしないでしょう」
私はどこか心の底で安堵していた。
これで恩を返せる。私自身が返すのではなく、父が返すことに少し不満は覚えたが。
疲弊した体に鞭打ちながら、私たちは帰路へ着いた。
~・~・~
今日も我が家の庭では、重苦しい音が響いている。
窓から見てみると、父がオズに武術を教えているところだった。身を切るような寒さの中で彼らはひたすら己を高めている。どうして強さを求めるのか。私には分からない。分からない理由は、私が女だから?
性別で思想を分けるなんて、ずいぶん古臭い考え方だな……と自嘲する。
そして、月と太陽が六度昇ったころ。オズは我が家を発つことになった。
「……もう行くのですか? まだ早いのでは……」
「あー、まあ完全に技能を身に付けたわけじゃないけどさ。基礎は出来たから、後は磨くだけだ。あまり長居し過ぎても迷惑だしな」
私としては、このままオズが滞在し続けても困ることなんてない。でも彼は旅を続ける身。彼なりの急ぐ理由があるのかもしれない。
ついぞ私は聞くことのできなかった、一つの問いを投げかける。
「どうしてオズは旅を続けて、強さを求めるんですか?」
問いを受けた瞬間、彼は複雑な表情を浮かべた。
困ったような、照れたような。どこか面映い表情だ。
「そうだな……自分語りになるんだが、俺は生まれつき運が悪い」
「運……?」
「そ、運。別に致命的な悪運に苛まれてるわけじゃないんだ。ただ、少し自分の思い通りにいかないことが、人よりも多い気がして……勘違いかもしれないけど。で、こんな歌をよく母さんが歌ってたんだ」
オズは息を吸うと、少し潜めた声で『歌』を諳んじる。
『ああわが童よ、あわれな子よ。きみの手が落ちる前、きみの心が煤に染まる前。どうか純情を忘れるな。きみの想いは旅に乗る。きみのやさしさ、風を超ゆ。どうか、どうか忘れないで。きみの心は世界のゆりかご』──と。
「この歌の意味は、『旅をすれば自分の納得できる姿を見つけられる』ってことだ。旅をして、不運を跳ね除けられるくらい強くなって、幸運な人を憎まないくらい素敵な心を育てて……そんで俺は自分を完成させたい。……という願望が俺を旅へ駆り出した」
「納得できる、姿……」
振り返れば、この時の彼の言葉は私の生涯を縛り続けることになる。
私もまた、ぼんやりと自分の将来の姿を描いていて……不明瞭なままだった。彼は自我の輪郭をはっきりとさせるために旅へ出たのだろう。
立派な志だ。心の奥で何かが弾けた気がした。
「ま、そんなとこだ。じゃ、俺は行くよ。いつかまた会えたら、旅の話でも聞いてくれよ」
「はい、お気をつけて」
彼を引き留めてはいけない。彼は自分のために旅をしているのだから。
私のように空虚な人間が止めてよいものか。
最後に視界に映った彼の顔は、私に見えぬものを見据えているようだった。




