81. 春永Ⅳ
──遺産を起動させてはならない。
父の遺産は廃棄されていなかった。廃棄する前に彼は死に、この世から抹消されず……結果として起動されようとしている。
『それ以上続けるとお前の支配する人理は滅ぶぞ』……というように警告を受けたと、研究録には記されていた。大いなる意志とは何なのか。そんなものは知らない。
しかし、一部で噂があるのは知っている。管理者たちは『全創世の根源にして、全てを見守る者』をルアと定義している。其が父に警告したのだろうか。
ともかく、遺産の因果律の操作を実行してしまえば、大変なことになる。
止めねばならない。私は全速力で中央世界へと戻った。
~・~・~
辿り着いた先は、地獄だった。
文明が燃えている。灰色の炎と、翡翠色の雨。絶対に崩壊することのない魔鋼が脆く崩れ、絶対に破られることのない虚数障壁が雨に砕かれている。
数多の世界と創世主を吸収し、最高技術を有する人理が、一瞬にして死滅。
周囲から魂の反応を感知できない。生命体はみな死んでしまったのだろうか。いや……僅かに燻っている消えかけの魂がこちらへ近付いている。
「……遅かったな、準八番。崩壊する我らの世界を置き去りにして逃げ去ったかと思ったが。これは一体どういう状況だ? ……いいや、状況は分かっているんだ。これは何によって引き起こされた現状なのかを説明しろ」
滅びの雨の中、息も絶え絶えに姿を現したのは『医療』を管理する二番の管理者だった。
彼の意志力によって形成された魂魄シールドも、灰の炎の熱気に溶かされている。管理者の意志力は創世主をも凌駕する。そんな彼が為す術もなく斃れかけているとは。
彼の無様な姿は、まるで塩をかけられた蛞蝓だった。
「私も詳しくは分かりませんが……父の研究録を参照してきました。父の遺産は大いなる意志の目を覚ましてしまうという理由で、廃棄される予定でした。しかし廃棄の前に死んでしまったようで……」
「はあ? 意味が分からない……なぜ因果律の操作がルアの喚起に結び付く!? クソ、クソクソクソッ……! 私たちは今まで必死にルアの目覚めを妨げてきたってのに……大いなる意志が存在することは既に観測してたんだ! だから新世界創世プログラムなんて馬鹿らしいって言ってた! それは八番が最もよく理解してたはずで……そもそも、準八番! お前が八番を殺さなきゃこんなことにはならなかった! どう責任取ってくれるんだよ!?」
「ッ……!」
二番が私に詰め寄り、意志力をぶつけてくる。
──強い。灰色の炎と翡翠の雨で大幅に減衰しているとはいえ、管理者は全世界を支配する者。私の魂を消し飛ばす勢いで力の暴威が押し寄せた。
「そもそも……そもそも、なんでお前はこの異常の影響を受けていない!?」
「え……?」
……そうだ。
なぜ私の魂は、この灰色の炎に焼き焦がされていないのか。管理者でさえも消えかけているというのに。
「やはり、お前が引き起こしたのか? そうだろう!? 若しくは、LFの差し金か!? お前らの派閥が邪魔な他管理者を押し退けて、資源を独占しようって訳だ! いつだって痛みのない世界を望む私の崇高な理想は、お前らみたいな賤者に邪魔される……!」
二番の怒りが大きく膨れ上がり、意志力が増大。
鋭利な魂の激情が私へ向けて飛来し──
世界が停滞した。
~・~・~
【完全無欠。最高存在。金甌無欠。
時間、空間、次元、絶対掌握。
其、理に非ず。宇宙の外界、全能の思考夢回識より来たれり。
十誠を誣告し、宿罪を信孚とす。
全にして一、
一にして全。
法則、無効。因果律、無視。
全ての時間軸を束ね、吐息万象の意思。特異なる心を糧として、万象不変に息づくモノ。
汝の瞳に其は在り、汝の体躯に其は在り。
捉ふること能はず、脆弱たる意志は蝕まるる。無貌の牙。
人、端倪すべからざる其を知らず。主もまた、其をおもねる。
──未知。不明。認識不可。無辜の化物。
『魂と存在の根源であり、我らの存在が如何に矮小なものか。あらゆる法則と因果は彼の者に収束し、万祖のアブヂェル──或いは、全世の主たるベフンチェイフェを凌駕する悍ましさ。創世と壊世、そして調停の主が『ルア』と呼称するものである。されど其の名は渺茫たる六幻に過ぎず、彼の完全世界ベンデュラジにおいても観測されず、ひどく夢寐たるものとして恐れられ、無量無間のハジタエル銀河の彼方でさえも観測不能──否、そのような形容さえ其の言霊には相応しくなかろう。私はここで筆を置く。これ以上の書留は、其の存在に抵触し、我が魂魄は度を失うにちがいない』
──とある創世主の管理記録。
記された其の名は、無名。俗称には、ルア】
~・~・~
「あ……なんだよ、アレ……」
二番が呆けた声を上げる。いや、この絶対的な存在の下に声を発せられるだけでも大したものだろう。
私の足は竦み、呼吸すら忘れていた。
突如として現れた超常存在。
目には視えない。しかし、たしかに其処に居る。
立ちすくむ私たちへ向けて、其はたしかにこう言った。
このように意志を与えたもうた。
『──』
『怖がるな、哀れなる者よ』と。




