41. T
とん、とん、とん。
たん、たんと。
白き瞳孔の前で、黒と白のピースが動き続ける。
白いピースが黒いピースをテイクした。かと思うと、そのピースは隣のピースにテイクされる。
とんとんとん。
たんたん、たん……
ATはひたすらにその光景を眺めていた。
こうして戦いが続く限り、終わりは必ずやって来る。混沌と秩序が相克する盤上世界に、救いは存在しない。いずれは必ず、災厄の手に落ちて滅んでしまう。或いは災厄を乗り越えども、内側から厄滅が来たる。
永遠の輪廻。世界は同じ時を刻み続ける。
ある時は共鳴者が秩序へと堕ち、ある時は創世主が討たれ、またある時は壊世主が討たれ。それでもなお、永劫の輪廻は止まらない。何度世界が滅びようが、未来を歩もうが──否応なく時は円環の内側で巡り続ける。
なればATが取る一手は。動かすべき駒は。
見つめるべき盤面は。
「…………」
彼は瞑目し、今は遠き記憶を思い出した。
~・~・~
誰かを幸せにしたい。
助けたい、救いたい。
それが彼……Tの願いだった。
叶いもしない大願に思いを馳せ、愚鈍に地上を奔走した哀れな男。
「重い物は二人で持ちなさい。パンの欠片も分け与えなさい。誰かの髪に付いた泥を拭いてあげなさい。光がないのならば手を繋ぎなさい。背中を預け合って眠りなさい。誰よりも、何よりも──人の心を忘れてはなりません」
人の心を忘れてはならない。
たとえ苦悶の果てに血を流すことがあっても、尊い犠牲が生まれたとしても。
感情を、思いやりを忘れるな。
ひたすらに、ひたすらに。
哀れな白き駒は奔走し続けた。彼は彼の信念がために、彼の心がために。
迫る暗愁打ち払い、弱き者らへ手を差し伸べ。
哀れな白き駒は……
「……『愚者の空』。僕がついぞ訪れるはずのなかった領域」
「どうして……あなたがここに居るのですか」
ノアは信じられないモノを見るような目で彼を見とがめた。
二百年以上前、Tは『愚者の空』とノアに関する記憶を消去され、地上へと旅立った筈だった。叶わぬ理想を吐き捨てて。
「全てを思い出してしまったんだ。だからここに来た」
「……私の記憶処理が不完全でしたか? そもそも、なぜ人間のTが二百年の時を生きて……」
「いや、違うんだ。たしかに君のことも、この空間のことも思い出したんだ。それだけ思い出したなら、まだ良かったのに」
ノアは漫然と佇むTを見据える。
以前とはずっと違う、不気味な雰囲気を湛えている。しかし依然として彼の詳細は完全に不明。
──怒り。いや、悲しみ。
彼の目には、煩悶とした感情が見える。Tの心に射し込む、昏い影。
「私……いや、僕は全てを思い出した。どうして僕がここで目覚めたのかも、どうして僕が記憶を失っていたのかも、全てを思い出してしまった」
「それは……何を思いだしたのかを私に話してくれますか?」
彼は首を横に振る。
「……思い出したくなかった。こんなことなら、何も思い出さなければ良かったのに。馬鹿なまま死んでしまえたら良かったのに。真実を知るということは、この世で最も残酷な罰だ」
彼は全てを知ってしまった。
混沌の創世主の存在、秩序の壊世主の存在。そして彼らの生きる世界が二者の盤上遊戯であり、救いはないことを。
盤上世界に生きる命は、ただ遊戯のために消費され、必滅を迎える。
彼は残酷な真実を知り、そして──
「僕は世界を護る。それだけを告げに来たんだ」
「あなたが何者かは知りません。でも……その心が変わっていないのなら良かったです」
「ああ、そうだ。僕は護る。だからノア……【ノアの魂鏡】を僕に渡してほしい」
ノアの魂鏡。
完結に言えば、魂を閉じ込める道具。魂の記憶を自由自在に操る、洗脳道具に近い装置。
しかし、唯一操作できない記憶があるとすれば……それは魂が絶対に忘れてはならないと刻んだ記憶のみ。
Tは何のために魂鏡を欲しているのか。
「……できません」
「それなら、君の調停者の力を貸すことは?」
「不可能です」
「──そうか。それなら諦めるしかないね。でも、今の答えで分かったよ。君と僕は相反する。いずれ必ず相克してしまう」
「分かりません……私には、あなたが何を言っているのか分からない」
Tは長らく忘れていた微笑を浮かべ、ノアに背を向ける。
彼が記憶を取り戻す原因となった事象は、己のXugeとの融合。自らの存在が消えかける度に己の残滓を別の世界線に遺し、魂を『愚者の空』へ送る。この行程を繰り返すことにより、ATは何度も世界の破滅を防ごうと輪廻してきた。いつしか本来の人格も力も漂白して、彼は必滅に抗い続けていたのだった。
「……これより、我が名は『AT』とする。僕と君、どちらが真の救済を齎すか……世界に問い質すとしよう」
これが全ての始まりだった。
そして、終わりを知らせる瞬間だった。




