39. フェージング
イージアは独り地へと降り立ち、雲一つない空を見上げた。
ラウンアクロードの残滓を踏み躙る。邪気を吸い込みながら、ただ黙して佇む。
風がローブをはためかせた。ほのかに林檎の匂いが漂う。
仮面の奥底から温かい水が流れ出し、彼の頬を伝った。
「…………」
過去は戻らない。
復讐は果たされた。しかし、彼を想った人は二度と帰らない。
それでも。今、彼を想ってくれる人がいる。
──虚脱。
彼の内側から執念が霧散し、人型の器だけが残った。
わずかに残る愛と絆を抱きしめて……彼はその場へ膝を付く。
「──」
声にならない嗚咽が、とめどなく溢れ出した。
仮面を外す。自らのローブを握り締めて、自らの成れの果てを凝視した。
人間性の欠落。感情の喪失。愛の拒絶。
あらゆる自分の変貌を乗り越えて、彼は再び立ち上がり、仇敵を討った。以前のように無邪気に人間として過ごすことはもはやできまい。
此処に座するは、一柱の神。そして英雄。
これから先も、過去の面影が離れることはないだろう。
それでも前を向かなくてはならない。
だから彼は、ついぞ伝えられなかった言葉を。
愛する者との別れ際、現実が直視できずに『行ってきます』と嘯いた言葉を。
帰還の約束を交わしてしまった罪過を。今、浄化しようとした。
真実を見据えて、もはや彼女に伝えることのできない言葉を。
「……さようなら、レーシャ」
~・~・~
「ここに居たのか……イージア」
イージアの背後から声が掛かった。
「……レア」
始祖レイアカーツは少し煤けた服を着てやって来た。
戦闘があったのだろう。
「すまない。教皇に邪魔をされて結界を維持できなかった。ATは蜃気楼のように突如として消えて、気付けばラウンアクロードは討たれていた。ただし……多くの被害が出てしまったみたいだ」
「…………」
彼は答えずに俯いていた。
「まさか君がリンヴァルス神として力を宿すとはね。君が創世主から私を守ってくれなければ、過去に渡って私が国を築くこともなかった。だからこそリンヴ=アルス帝国と名付けたのだが……それが良い方向に転んだ、と考えてもいいのかな」
「…………」
彼は放心状態で、レアの言葉もまともに耳へ届いていない。
何もかも彼の心に届かない。
「……疲れたんだね。今は休むといいよ。君はあまりに重いものを背負いすぎた。おやすみなさい……」
イージアは心が灰色へと色褪せていく中、意識を手放した。
~・~・~
レアがイージアを抱えて宮殿へと戻った後。
未だにラウンアクロードの残滓が渦巻く高台にて。
「ラウア……」
ATは亡き少年の名を呟く。
彼は暫しの間、昏い感情を瞳に宿していた。しかし悲哀を振り切り、自らの目的を思い出す。
ATは両手を広げて、周囲に渦巻く邪気を全てその身に宿す。
あますことなく全て。災厄の僅かな力を取り込んだに過ぎないATだが、それだけで目的は果たされた。
そして振り返ることなく場を去った。
~・~・~
同刻。
ラウンアクロードとイージアの戦いが行われた海上を見下ろす者が一人。
オッドアイの少女は、何かを探すように視界を動かしていた。
「……!」
彼女は何かに気付いたかのように、急速に海中へと潜って行く。
彼女の視線の先には、深海へと沈みゆく男の姿があった。男の姿はたしかにラウンアクロードの核となっていた人型のもの。
少女は人型の腕を掴み、泡のように消え去った。
13章完結




