β-1
「…………」
暗い。暗くて、このまま沈んでしまいたい……
「ア……ス君」
うるさいな。
僕はもう、眠っていたいんだ。終わったんだ、全部。
「アルス君!」
「うのっ!?」
何か重いものが、身体にのしかかった。
意識を引きずり出されて、僕は目を覚ます。
白い何かが僕の上に乗っていた。
「やっと起きた! おはよう」
──美しい。翡翠の瞳が、僕の瞳を見つめている。
彼女の瞳が徐々にぼやけて、曇っていく。いや、違う。
「……え!? 泣いてるの……?」
僕が涙を流していた。どうしてだろう。
まだ頭がぼんやりとしていて、はっきりと考えられない。
「……レーシャ」
「うん……レーシャだけど」
彼女とはいつも会っているはずなのに、ひどく懐かしい。
「なんか……すごく辛い夢を見てた気がする」
「それで泣いてたんだね。かわいそうに……よしよし」
レーシャはふざけているのか、同情しているのか、どちらともつかずに僕の頭を撫でる。
彼女の手を払いのけようと思ったが、身体が動かなかった。
周囲を見渡す。どう見ても僕の部屋だ。
今日は……何曜日だっけ。仕事はあるんだっけ。
「ルチカちゃんが朝ごはん作ってくれたよ。早く着替えて」
「ああ……うん」
レーシャはさっさと部屋から出て行き、僕だけが残る。
日にちを確認する。よかった、休日だ。
「今日が休みかどうかも忘れるなんて……とうとうボケが始まったかな」
着替えながら、そんなことを考える。
今日の予定は特にないんだったかな。
一階に降りると、レーシャとマリーが朝食を食べていた。
僕のこと待ってくれてもいいのに。
「……マリー」
「……? はい、なんですか?」
──マリーの席ってここだったっけ。
まずい、本格的にボケてるんじゃないか?
「おはよう」
「はあ……おはようございます……」
なんだコイツ……みたいな目で見られた。
「ルチカもおはよう」
「おはようございます」
僕が席に座ると、ルチカがお茶を注いでくれた。
未だになんで彼女のような優秀な使用人が家にいるのか分からない。
「ありがとう。いただきます」
朝食を口に運ぶ。
やっぱり、ルチカの料理はすごくおいしい。
そういえば、今日は席が一つ空いているな。
「タナンは……今日はいないのか」
「まあ、あの人がいないなんて珍しくもないでしょう」
マリーが呆れたように答える。彼女はタナンに対して当たりが強い。
まあ、タナンは他人の態度など一切気にしない性格なので問題ないのだが。
「今日は何しようかな……レーシャ、何かしたいことある?」
「んー……人気の多い所には行きたくないな……」
彼女は人ごみが苦手だ。出かけるにしても静かな場所を好む。
彼女は少し悩んで、ふと声を上げた。
「……あ、キャンプ」
「突発的キャンプ……」
というわけで、なぜか今日の予定はキャンプに決まったのだ。
ーーーーーーーーーー
家から一時間ほど移動。折角だし、皆でキャンプすることにした。
ディオネの観光地の一つ、アリトーサ丘陵にやって来た。
小高い丘が連なり、どこまでも新緑のカーペットが広がっている。
「懐かしいね……ここでマリーが迷子になったの覚えてる?」
「はい……シャスタと出会った場所です」
シャスタというのはマリーの精霊だったかな。
子供の頃が懐かしい。あの時はマリーも僕に素直だったのに……
「……はあ」
「アルス君。ため息ついてないでテント張って」
「はーい」
レーシャに扱き使われ、僕はピクニックの準備を始める。
ルチカは手際よく、マリーは慎重に手伝ってくれている。ちなみにレーシャはぼんやりしてる。
「あのさ……僕に命令したんだからレーシャも動いてよ」
「めんどくさ……恋人に厳しい男は嫌われるよ」
「何も言えずに遠慮する仲の方が僕は嫌だけどな」
そう言われると、彼女は微笑んで僕の荷物を半分持ってくれた。
もしかして、声をかけられるのを待っていたのだろうか。気配りが足りないぞ、アルス。
「準備が終わったら……あっちの川の方に行ってみよう」
レーシャが指さした方向には、ずっと川が続いている。
あまり遠くに行きすぎないように注意しないと。
彼女に従って、川に沿って進んで行く。
マリーとルチカにはテント付近で留守をお願いした。
「川のせせらぎが聞こえるくらい、周りに人がいないね……私はこういう環境が大好きなんだ」
「僕も静かな環境は好きだよ。フロンティアに行けば静かな自然はあるけど、魔物も出てくるからね。こうやって気の休まる自然は貴重だ」
アリトーサ丘陵が観光地とはいえ、こんなところまで歩いて来る人は滅多にいない。時には喧騒から外れて大自然に身を委ねるのも悪くない。
しかし、この川長いな。レーシャはどこまで進むのやら。
「川がずっと流れてる……どこまで続いてるんだろう?」
「神域までずっと続いてるよ」
「えっ……!? まさか国境まで超えて歩いて行くつもりじゃないよね?」
レーシャは振り返り、僕をじとりと見つめた。
「まさか。私だってそこまで無計画じゃないよ。もう少し先……ほら、あそこ」
彼女が目を向けた方角の少し先には、石柱があった。
僕らはその石柱まで歩いて立ち止まる。
「ああ、この石柱……世界中の史跡から見つかってるけど、何のために建てられたか不明なんだよね」
二人分くらいの高さで、側面には変な紋様が画かれている。
魔力を媒介するものでもないし、謎のオブジェとして考古学者の間では有名だ。まさかここにもあったとは。
「これはね、『忘れじの碑』だよ」
「……? なにそれ」
レーシャは知ってるみたいだ。
「歴史の墓場、とでも言えばいいのかな。大昔……人々がこの地に文明を築いていたことを示す碑。特別な意味は何もないよ。ただ、『私たちはたしかにここに居ましたよ』……って示すもの」
「へえ……何の意味もないのか。学者たちも正体が掴めないわけだ」
まあ、僕がこの石柱の正体を知ったところで……何か歴史が動くわけでもなし。
僕の言葉を聞いて、レーシャが訂正する。
「私は『特別な意味はない』って言ったんだよ。『何の意味もない』とは言ってないのです」
「んん……? じゃあ、普通の意味があるってこと?」
普通の意味とは。
「そう。誰かがここにいて、歴史があって、ここで絆を育んだ……それを残す意味があるんだ」
少々、僕の頭は学術的になりすぎているのかもしれない。
レーシャの言ってる意味が分からない。
アホ面を晒す僕に、彼女は淡々と説明を続ける。
「もしも自分がいたことを、誰も覚えてくれていなかったら……悲しいでしょ? 私たちはこの石柱を通して、誰かがいたことを過去から教えてもらってるんだ」
「なるほど。じゃあ、僕が『忘れじの碑』を遺したとしても意味がある?」
「うん、きっとあるよ。でも……」
彼女は僕の瞳を覗き込んで尋ねた。
「もしも、自分の存在が何も残らなかったら。アルス君はどう思う?」
彼女の瞳の色に不安が混じっている気がした。
どうしてだろう。
「……寂しいよ。でも、それはないと思う」
「……どうして?」
「だって、僕の存在が残らなくても。僕が変えた世界は残る。だから、僕が与えた影響が、歴史が……それこそが僕という存在を残すんじゃないかな」
たとえ名前が歴史に刻まれなくても、誰からも忘れ去られても。
僕がしたことは消えないし、守った命は失われない。
「そっか……ふふっ」
「なんで笑ってるの? そんなにおかしい返事だったかな……」
思い返すと、今の返事は恥ずかしい気がする。
……いや、恥ずかしい!
「アルス君は、やっぱりアルス君だなって……そう思っただけだよ。どうか、君はそのままでいてね」
「う、うん……僕は僕だよ。ずっとこのままだし、レーシャからも離れたりしない」
「…………」
彼女は嬉しそうに、寂しそうに笑った。




