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この日の夕食は、会話という会話がまるでなかった。カナリアの名前をピースにしたという報告と、飼育セットのお礼、その二回しか私と叶恵さんは言葉を交わさなかった。月並みな言葉で言うとまるでお通夜の様。読経の様に淡々と流れるテレビの音に私は集中するフリをして、そそくさとご飯を食べ終え皿を洗って自室へと戻った。
「ふーっ」
息が詰まりそうな時間だった。いつもなら話しかけたいと思うはずなのに、心がそうする事を躊躇った。あの人とは今は喋りたくないと、確かにそう訴えかけた。
これが本物の反抗期というやつか。
今は、もう何を話していいのかすら分からない上に、距離感すら掴めなくなっていた。
昼寝をして起きたばかりなのに、もう眠そうな顔をしているピースが目に止まる。静かに、刺激しないように鳥籠を覆いかぶせるサイズの暗い色の布を被せる。こうする事で、鳥達は体のリズムが整って夜を認識し、正しく眠る事ができるらしい。私の愛読書情報だ。
「おやすみ、ピース」
この子といる時間はとても癒される。手の中に入りきってしまう程小さい身体に、愛くるしい瞳、ちょこちょこと動き回る挙動のキュートさ。ずっと見ていても飽きない可愛さだ。
「本当に、ピースは運がいいね。あんな所にいたのに生きて、今じゃミニヒーターの前でポカポカしてるんだもの」
この子はきっと天性の豪運を持っているのだろう。
「私にも分けて欲しいわ、その運」
私はカナリアに何を求めているのだろうか。けれど、事故で記憶を失い、胸を手術して療養。これ程までの不運も中々ないだろう。後はきっと上がっていくだけだ。
「私も、ピースに習って早いうちに寝ようかな」
今日から私はピースの育ての親で、親友だ。寝食を共にする家族なんだ。なるべく一緒の時間で生活したい。
私の中で、家族という確固たる繋がりがこれ程までに心を躍らせるものだとは思わなかった。いや、その喜びを知っていて、憧れていたからこそ、私は叶恵さんにそれを求めていたのかもしれない。心の中がざわざわと、木々が揺れる様に波立つ。
「お風呂入って、もう寝てしまおう」
私はいつも余計なことばかり考えてしまう。きっと今も何かの毒気にやられてセンチメンタルな気分になっているだけだ。お風呂に入って寝たらきっと忘れるだろう。
こうして、私を揺らす不安定な感情の数々を、全てないまぜにして、私の中の奥深くに閉じ込め、自身を放り投げる様に睡眠へと身を落とした。
そして、次の日の朝からずっと、私はピースにべったりだった。可愛くて可愛いくて仕方がなくて、世話をしていなくても無性に鳥籠が気になり、ピースの挙動を目で追ってしまう。
逆に叶恵さんに対する心の距離は広がるばかりで、広がれば広がるほど、余計にピースとの時間が密度の濃いものになっていく。
そんなピースを溺愛している内に、一週間が経過しようとしていた。
普段の飼育に関しては、一日二日やった辺りですぐに慣れてピースに負担をかけることなく出来る様になった。愛読書がなかったら恐らくこうはいかなかっただろう。この頃のピースはまだ私の部屋にも慣れていない様子で、ジリジリと可愛い目を険しくさせている様に見せながら、私に不安感だけを植え付けさせながら周囲を観察していた。
三日目辺りから、ピースが慣れてきてくれたのか、鳥籠の内側からロックを外そうと、外に出たがる素振りを見せるようになった為、私の部屋限定で、放鳥してあげる事にした。元来カナリアは、警戒心が強く、臆病でコミュニケーションを取りづらい為、ほぼずっと鳥籠の中で飼うらしいのだが、ピースは少し異端児なのだろうか、部屋の中をぐるぐると旋回する様に飛んでは、カーテンレールなどに止まり、また飛び回るという様に、まるで運動を楽しんでいるかの様な動きをする。
四、五日経った頃には、放鳥時、私の周りをウロウロする様になった。まだ手に乗ってくれる程ではないが、やたら興味ありげに私の周りをテコテコと歩いたり、飛んだりした後、疲れを感じたら自分から鳥籠へと帰っていく。そんな事を繰り返し出した。
そして一週間が経とうとしている今日この頃、私が移動をすると、ピースも一緒について回りながら頭の上を旋回する様になった。本当にカナリアかと疑ってしまう程、私に懐いてくれている。
しかし、何度となく様々な方法を試しても、私の手の上に乗る事と、鳴くことだけは絶対にしなかった。
「私は、あなたの歌が聴きたいなぁピースくん」
今までも何度だってリクエストしたが、答えてくれたことは一度たりともなかった。わたしも口笛を吹いたりして、一緒に歌って鳴き方を覚えさせようともしたが、なんやこいつと言わんばかりに知らんふりされてしまうのが関の山だった。
「もしかして、ピースってメスなのかな? メスはあんまり鳴かないってあの雑誌にも書いてあったし……」
もし雄ならば、是非一度は聴いてみたいところだが、一向に囀ってくれる気配はない。私と一緒で反抗期なのだろうか。
私は私で、叶恵さんとの距離が縮まる事は一切なかった。あれだけ楽しみに私に聞いてきた記憶の話も、ピースの世話をしていて記憶を戻すトレーニングをしていない事を分かっているのか、話しかけてこない。それ以外に関しても、会話は一切無く、ただ御飯時に共に時間を過ごしているだけになってしまっていた。
「もう、どうしていいか分からなくなってきた」
私は何をしたらいいのだろうか、今どうしたいのだろうか。
ピースがまた、鳥籠のロックを外そうと躍起になっている。
そういえば、今日はまだ一度も放鳥していなかった。ピースの訴えるがままに、鳥籠を開ける。するとピースは一目散に外へと飛び出し、カーテンレールの上へと移動して静かに佇み始めた。
私は、ピースがいなくなったタイミングでいつも鳥籠のメンテナンスをしている。下に敷いている新聞紙の取り替え、餌の補給、水浴び用の水と飲み水の交換。慣れた手つきで手早く進めていく。
「ピースは自由でいいわね」
ピースにも、私に分からない苦労をもしかしたらしているのかもしれない。けれども、やりたい事を自由にやれるピースの生活に少し憧れる。
普段鳥籠の中から出られないピースよりも今はむしろ私の方が閉じ込められているのではないかと思うくらいに、どことなく窮屈な日々が続いている。
「まるで思い出の籠に閉じ込められた飛べない鳥のようね。私は美しく囀る事も出来ない」
己を卑下しながらも、メンテナンスは続けていく。五分程であらかた籠内のやるべき事は終わり、水浴び用の水と飲み水の補給をしに、居間に向かう。
最近、居間に降りる事が苦痛でしかなくなったいる事に気がつく。それは叶恵さんがいなくても同様で、心無しか体が重くなり、降りるのを躊躇わせる。
しかし、行かないわけにもいかない。ピースは水浴びが好きだし、飲み水がないと死んでしまう。
覚悟を決めて重い扉をゆっくりと開ける。その時だった。
「ギャッ! ギャッ!」
変な音が聞こえた瞬間、私の目の前を何かが通り過ぎた。
通り過ぎた瞬間は驚いて頭が追いつかなかったが、何をどう考えても答えは一つだった。
「ピース! そっちに行っちゃダメ!」
しまった、考え事に気を取られてピースが鳥籠の外にいる事に意識が回らなかった。
ピースが私の部屋の外に出てしまった。今までにない緊急事態で、どうしていいのか分からずパニックになる。
何かにぶつかってしまったらどうしよう。部屋の中とは違い、飛べる範囲が広い上に飛行を邪魔する障害物も多い。どうやったら戻せるだろうか。無理に捕まえようとしたら逆に傷つけてしまう。
思考を回せば回すほどに、焦燥が波のように押し寄せ、冷や汗が噴き出してくる。
「追いかけないと!」
どこにいるか分からなくなってしまったピースを、踏まないように足元に気をつけながらゆっくりと捜索していく。
玄関から手洗い場に行き、風呂場を捜索するが見当たらない。台所を隈なく見るがどこにもいない。
心音が私の体の中の音を全て支配して、私をより焦らせる。
不安で押し潰されそうになるのを堪えながらゆっくりと捜索を続ける。
「どこに行っちゃったの、ピース」
ショックの余り声が震え、手足も徐々に冷たくなり、血の巡りが悪くなっていくのを感じる。
最後にリビングの捜索を開始する。フローリングや、カーペットにいるわけではなさそうだ。机の上やテレビの上にもいない。ソファの上に寝転んでいるわけでもない。最後に縋るように大きな窓のカーテンレールを確認する。
「いた!」
カーテンレールの上に明らかに浮いている黄色がちょこんと座っているのが確認できた。
しかし、カーテンレールには私の背では届かない上に、下手に刺激するとまた飛んでいってしまうかもしれない。静かに、向こうからこちらに来てもらう様に誘導しなければならない。
「誘導……餌か、水浴び器を近づけてみよう」
無事を確認し、少し落ち着きを取り戻した私は、水浴び器と餌を手に再びピースの元へと急ぐ。
一先ず、手に餌を乗せて、飛びついてきたら優しく包む様に捕まえよう。これが一番無難でピースが怪我をする可能性も低い。
「ほら、ピース。餌だよ」
優しく声をかけるが、応答は無い。それどころか頑なに拒否している様な強い意志すら感じた。やはり私の手の上じゃ駄目か。
あんまりやりたくないが、これしか無い。
水浴び器をギリギリまで近づけて、入ってきたところを手で塞ぐ。もし、ピースが水浴びを始めてしまったら、辺り一面水浸しになるのがネックだが、この際四の五の言っていられない。今日は、水浴びをしていないからきっと乗ってくるはず。
「ほら、ピース。水浴びの時間だよ」
極力私の気配を消しながら、水浴び器を、近くに寄せる。腕をギリギリまで高く伸ばしているこの体勢はかなり腕がきつい。
中々入ってくれる気配はない。しかし、ここでおろしてしまうと、警戒されてしまうかもしれない。限界寸前の腕を奮い起こすように、よりピースの元へ近づける。
もうかれこれ五分は経っただろうか。もう限界だ。そろそろ降ろさないと腕がもげる。
もう一度作戦を考え直さないといけない。ゆっくりと腕を下ろした時だった。
「ピピッ」
羽音と共に、鳥の鳴き声とは思えないような滑らかな高音が聞こえた後、上からバシャバシャと水が落ちてくるのを感じた。
「あっ! 入ってくれた!」
私は慌てて水浴び器を胸元近くに寄せ、入り口を手で塞ぐ。
そのまま小走りに自分の部屋へ戻り、鳥籠の中に水浴び器と共にピースを入れ、籠を急いで閉じた。
「ふぅ……」
心臓が未だに鳴り止まない。あの時、ピースの身に何かあったら私はきっとこの先ずっと塞ぎ込んだまま生きていく事になっていただろう。この子は私にとっては大切な家族で、彼との唯一の繋がりでもあるのだから。
「もう、駄目でしょう、勝手に出て行ったら。危ないんだからここで大人しくしていて」
私にも大いに非があるので、そこまで強くは叱れないが、注意程度はしておかないと気が済まない。
ピースは水浴びを終え、何事もなかったかの様に止まり木でぼーっと何かを眺めている。
しかし、何より無事で良かった。まさか部屋の外にまで出ていくとは思わなかった。
「危険しかないのに、どうして出ていくのかね。カナリアは警戒心が強いんじゃなかったのかい? ねぇピース君。君男の子だろう。脱走した時、一瞬だけどあんなに綺麗な声で鳴いたから私はピンときたよ。君はこの部屋で楽しく過ごしていつか私に綺麗な歌声を聴かせておく……れ……」
私は言い終わる前に気がついてしまった。
私が今、ピースに言っている事は私が叶恵さんに言われた事と全く同じだという事を。
「私……叶恵さんとおんなじだ……」
立場が変われば、同じ事象でも全く別の見え方をしてしまうのだという事を否が応でも突き付けられる。
平然とやられて嫌だった事をピースに押し付けた自身に対する嫌悪が止まらない。
そして何より、私自身が実際に籠の中の鳥であったという事実に対して得体の知れぬ恐怖に包まれる。
私は、自分の中にある小さな正しさが揺らいでいくのを感じた。