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私は気が付けば、息を切らしながら歩いていた。
勢いよく飛び出したは良いものの、他所行きの格好と、二週間何もしていないブランクのせいで五十メートルといかない内に体力の限界を迎えた。
「はぁ……はぁ……思ってた以上にきつい……」
私はこんなに体力がなかっただろうか。内側に渦巻く不安とは裏腹に、体力とはすぐに無くなっていくものみたいだ。白い息が止めどなく出続けるも、足は止めずにゆっくりと確実に彼の家へ向かっていく。息が整いだして、落ち着きを取り戻したところで、歩きながら辺りを見回す。
彼に会いたい一心で飛び出してきたが、久しぶりの外出だ、空気感を感じるのも一興だろう。未だに辺りは薄暗く、ようやく空の青が認識できる程度で、車一台通らない静かな街並みが、私という存在を浮かせながら淡々と時が過ぎていく。少し目が粗く、砂利が転がる古めのコンクリートの道を歩く音、次から次へと視界を流れていく見慣れたはずの景色。夜の闇と共に流れていく街の景色は、私の中で、新しいものに触れる時の、好奇心が勝ったわくわくするような緊張と、安心感のある懐かしさを同時に感じさせ、まるで夢の中にいるかのような地に足がついていないような感覚になる。夜中という普段とは少し違う環境も私を少し浮世離れした様な不思議な気持ちにさせた。
そうして街に対して抱く胸懐を、たまに吹きさらす潮の匂いがする浜風が、寒さと共に私を通り抜け、全てを攫うように掻き消していく。
二週間ぶりの外出は思っていた以上に気分が良い。
約束を破ったはずなのに、私の心はとても晴れやかで、ここ最近の中では一番活力に満ちている気がする。
自分の意思で行動するという事が、こんなにも自由を知る事だとは思わなかった。少し目線を変えるだけでも、こんなにも世界は変わって見えるものなのだと気付かされた。
私は己の内にある感情と向き合いながら、少しずつ歩みを進めていく。曲がりくねった道も、T字路も、迷う事なく、まるで一本の彼へと通ずる道を通っているかのようにスムーズに歩いていく。記憶を頼りに進んでいるはずだが、不思議なくらい迷わない。
まるで正しい道に導かれるように。
きっと、記憶を失う前は、彼を想いながら同じ道を通って会いに行ったんだろう。長く染み付いた習慣は記憶が無くても本能的に覚えているみたいだ。それから順調に歩みを進め、十分と少し歩いた辺りで、長い登り坂が私を待ち構えていた。かなり急で、私の前に立ちはだかっていると言っても過言ではない程長い。
「この登り坂、はっきりと記憶にある」
ここを登りきったら、一面に広がる海辺の景色と、その手前に広がる大きな街並みが見えてくるはずだ。
そして、そこに彼の家がある。私の記憶を戻してくれたあの駅も。
私は、意を決して坂道に向かって一歩踏み出した。
ジグソーパズルを組み上げるように、地道に一歩ずつ、足を止めずに坂道をぐんぐんと登っていく。足は止めずに、前だけを見て一歩ずつ確実に進んでいく。辺りは少しずつ白んできて、太陽がみんなを起こす準備をし始める。
ようやく、後半分の所まで到達した。
この坂道を登ったら、彼に会える。
彼に会ったらどうしようか。
まずは、爽やかに挨拶をして、元気かどうか聞いてみよう。嫌そうな顔をされないか不安だ。そうしたら、事の顛末を説明して、会いたくて出てきちゃった、なんて夢の中みたいに甘えてみたりしてみようか。そうしたら、ぎゅっと抱きしめてくれたりしないだろうか。よく頑張ったねって、頭を優しく撫でてはくれないだろうか。
そろそろ坂の一番上だ。
早く彼の顔が見たい。そう思ったら、体が勝手に走り出していた。
乳酸の溜まった脚に更に追い討ちをかけ、ようやく街が見える高さまで来た。朧げな陽の光が街全体と共に、私を歓迎するかのように淡く優しく照らし出す。
しかし、陽の光は、私に一瞬で思考を吹き飛ばすほどの衝撃を与えた。
「えっ……」
街が無い。
私の頭の中には確かにあるはずのその街が、坂の下辺りから綺麗さっぱり無くなっている。
そこには、焼け野原のような酷く死にそうな大地が海岸線までただひたすらに続いていた。
「何……何これ……」
あまりに凄惨なその光景に言葉を失いながら、呆然と立ち竦む。
「彼は……? 彼の家に行かなきゃ!」
言葉よりも早く、体が先に動いていた。
体はもう疲れ切っているのに、坂道を今までよりも遥かに速く駆け抜けていく。
「はぁ……はぁ……」
息遣いがどんどん荒くなっていく。胸の傷がズキズキとうずき出す。心臓の鼓動がうるさくて仕方がない。それでも歩みは一切緩まる事は無い。
そんな私を見守る様に、太陽はゆっくりと空へと登り、私に熱さと共に陽光を降り注ぐ。汗が滴り出した頃合いでちょうど坂道を下り終え、街に入ると、焼け野原の全貌が見えてきた。
それは、黒く焼け焦げた道路と、瓦礫の山だった。
コンクリートの道路は穴が無数に開いており、まともに歩ける様な場所ではなくなっている。瓦礫の山はおおよその塊が点在しており、それは家や、お店が軒を連ねていた場所だと推測された。
「何これ……酷い」
ゆっくりと、瓦礫の山から、通れそうな部分を探しながら海岸線の方に向かって歩いていく。彼の家はもっと奥にあり、この道無き道を通らないと辿り着けない。街はぐちゃぐちゃでも、おおよその街の形まで変わった訳ではない為、なんとか道は分かりそうだ。
それにしても、私が記憶を無くしている間に、いったい何が起きたというのだろう。どうしたら一ヶ月で街一つが壊滅する様な事になるのだろう。もしかしたら私の記憶を無くした原因も、これと関係しているのかもしれない。叶恵さんはこれについて何か知っているのだろうか。
大きな焼け焦げた木材などが多く散乱している場所には、決まってその下に調理器具や、燃えた衣服など、人々の生きる為の営みの証が無造作に転がっている。
「みんな、ちゃんとここで暮らしてたんだよね」
胸が締め付けられる思いを抱きながら、彼の家へと向かう。瓦礫を押し除けながら進んでいたせいで、私の一張羅は気が付けば真っ黒に汚れていた。
これじゃあ、彼に会っても笑われてしまう。こんなに汚れていたら復縁を迫る事になっても取りあってすら貰えないだろう。
早く、彼に会いたい。
もうすぐ、彼の家に着く。
彼はきっと私を見つけたら家から出てきてくれるはず。
穴あきのコンクリートに足を取られない様に気をつけながら、彼の家へ向かう曲がり角を曲がる。
「……」
どうして彼の家だけ無事でいると思っていたんだろうか。いや、多分無事じゃない事は薄々分かっていた。
ただ、分かりたくなかっただけ。
彼の家は他の家同様、瓦礫の山と化していた。ふらふらと近づいていくが彼が出迎えてくれる様子も、誰かがいる様子も無い。
もう、私に出来る事は何もない。
ただ彼自身の無事を祈る事だけ。
「あぁ……」
私は力なくその場にへたり込んだ。もう帰る気力も残っていない。力が抜けた瞬間、急に体が寒さを訴え始め、指先はかなり冷たく、霜焼けが出来ている。
叶恵さんに怒られるだろうな。それとも心配してくれるだろうか。
「叶恵さん……ごめんなさい」
見なければ良かった。こんな現実知りたくなかった。
叶恵さんの言う通り部屋で記憶を戻しながら療養する事に専念しておけば良かった。
今になって後悔と反省の念が濁流の如く押し寄せる。
「ちゃんと反省してる?」
「はい……ちゃんと反省して……ってうわっ! びっくりした!」
完全に無警戒の状態で背後から声を掛けられたので、漫才の様なリアクションになってしまった。
私の目に映るのは正真正銘本物の叶恵さんだった。
ズボンは私服だが、上は寝巻き姿に上着を着ているだけの寒そうな格好で私の後ろに立って、私の方を見ながらクスクスと笑っている。
「うふふ、何今の、かなり面白いわね」
怒られると思っていたが、意外と陽気だ。
それにしてもこの人、いつでもどこでも問答無用過ぎやしないか。
そんな事より、どうして叶恵さんがここにいるのだろうか。
その他にも聞きたいことが沢山ある。
「何でここに?って顔してるわね? 朝起きたら靴はない、玄関の鍵は開いている、その上あなたがどこを探しても居ないもんだから脱走したんだなってすぐ分かったわよ。慌てて着替えてすぐ探しに出たのよ」
こうして言われてみると無計画に飛び出し過ぎた。
もう少しバレないように気を使うべきだった。
それと私が言いたいのはそれだけじゃない。
「何でここにいるって分かったんですか?」
脱走したとしても、ここにいる事までは分からないはずだ。
「あなたの考え付きそうな事くらい分かるわよ」
女の勘、いや、母親の勘と言うべきか。
たったそれだけで私を見つけるなんて、全く頭が上がらない。
「あの……叶恵さん……これ、どうしてこうなったんですか? 私が記憶を無くしている間に何があったんですか? もしかして、私の怪我もこれと関係あるんですか? 彼は……無事なんでしょうか」
堰を切ったように叶恵さんに質問をしてしまった。
「……帰ったらきちんと説明するわね。さぁ、立って。ここはもう長居するような所では無くなってしまったから」
叶恵さんは少し押し黙った後、私を諭すように促した。
思いの丈を思い切りぶちまけてしまったようで少し居心地が悪い。それでも促されるままに、何とか立ち上がる。
「叶恵さん、突然飛び出して、心配をおかけしてすいませんでした。それと……ありがとうございます」
私は深々と頭を下げる。
「いいのよ、あなたが無事ならそれで、もう心配かけるような事はしないでね」
叶恵さんの優しさに、崩れかけていた心がゆっくりと修復されていく気がした。
「はい、気をつけます」
叶恵さんが笑顔で私に手をゆっくりと伸ばしてくる。
これは手を繋いで帰ろうという事だろうか。
こういう事を叶恵さんから求めてくるとは思わなかった。
そして、それを少し照れ臭く、ドキドキしながら手を伸ばす私の反抗期は短かったなぁと思いつつ、私が差し出された手に触れようとしたその瞬間だった。
カタンッ。
おかしな音が鳴り響いて、私は動きを止めた。
カタンッ、カタカタッ。
未だに鳴り響くこの音はどうやら彼の家だった場所から鳴っているようだ。
気づいた時には体が動いていた。
本当に良くない癖だ。
「あぁ、もう、言ったそばから!」
叶恵さんの呆れ返った声に耳を貸さずに、音のする部分の瓦礫の山を押し除ける。手や服を更に汚しながら瓦礫を無心にどかし続ける。
もう、叶恵さんの手は握れないな。
痛む霜焼けを気にも留めずに、ただただ瓦礫の山を掻き分ける。
ようやく見えてきたそれは、鳥籠と中に入った一羽の美しい黄色い鳥だった。
彼の飼っていた鳥だろうか、ちょうど瓦礫と瓦礫の間に空間ができていて、鳥籠が潰れずにそのままの形を維持していた事が奇跡的にこの鳥を生かしていた。
少し辛そうなのか、羽ばたいたり、鳴いたりといったそういう仕草を見せる事はなく、ただただじっと止まり木の上で佇んで、周囲をちらちらと伺っている。
「叶恵さん!」
自分の思っていた以上に大きな声が出て少し驚いた。
「鳥がいました! 生きてます!」
「鳥? 何でこんな所に……」
そう言いながら、訝しげに私の手元を覗き込む。
「あら、カナリアじゃない、可愛いわね」
この子がカナリアと言うのか。
名前は聞いたことがあったが、実物は見た事がなかった。
つぶらな瞳に綺麗な三角をした嘴、何より美しいのは原色にかなり近い色鮮やかな黄色いその体色だ。
瓦礫の中から救いだされ、朝の光を受け、より艶やかに自身を輝かせて見せている。
「あの……」
恐る恐る顔を覗き込む。
「……飼いたいのね?」
無言でこくりと頷く。
「本当にあなたは……ふふふ、責任持って育てるのよ?」
時には振り切って思い切りやる事も悪くないのかもしれない。
「やった! ありがとう叶恵さん!」
今この瞬間、私に新しい家族が一匹増えた。
当の本人はどこ吹く風といった表情で、キョロキョロと辺りを見回している。
この子はきっと彼が私に贈ってくれた命の灯火なのかもしれない。
彼に会えた時、この子を見せてあげよう。
残酷な現実を突きつけられた私に、一筋の光が差し込んだ。
それはまるでカーテンの隙間から差し込む、弱くか細い朝の日差し。
嫌な事の方が多かったけれど、今日は脱走して良かったと最後に思えることが出来た。
私は鳥籠を大事に持ち上げて、待っていた叶恵さんの方へと向かう。
「さぁ、帰りましょう。今日は朝ご飯の支度手伝って貰うからね」
そう言いながら叶恵さんは私に手を差し伸べた。
心がじんわりと暖かさに包まれるのを感じる。
今度は叶恵さんの手を取るのに、恥ずかしさは微塵も無かった。
握り締めた叶恵さんの手は、私の手と違い、とても温かい。
二人と一匹は、朝の日差しに照らされながら家路に就いた。