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「……イ……ルイ!」


 誰かが私の事を呼んでいる。


 繰り返し呼ばれるその声は、深い眠りの底にいた私の意識を、垂らした糸を手繰り寄せる様に薄ぼんやりと現実へと引き戻した。


「……はっ!」


 ゴツン!


 鈍い音と共に、二つの呻き声が同時に空気を揺らした。


「いったぁー……もう、何すんだよルイ」


「いててて……あれ……? さっきのは? 夢? あっ、ごめんごめん、大丈夫?」


 痛覚に引っ張られ、私の意識は快調に覚醒していく。

 そうだ、私は彼の部屋で彼から借りた漫画を読んでいて、途中でうたた寝をしてしまったんだ。

 彼の家にお呼ばれしたは良いものの、彼はゲームにずっと夢中で私にちっとも構ってくれずに寂しくて、私はちょっかいがてら彼の背にもたれながら漫画を読むことにしたんだっけ。

 もたれた瞬間の彼の背中が小さく揺れたり、ボタンを操作する音がちょっと止まったり、もしかして意識してくれたのかな、なんて期待していたりして。

 二人とも猫背で背中を合わせているから痛いはずなのにちっとも離れようとしなくて、それがなんだか可笑しくて、愛しくて、幸せに感じていた。

 そして、あれよあれよという間に、安心感のせいで私の方は夢の中へ吸い込まれ、起こされた時の勢いで、後頭部でのヘッドバットを彼に決めてしまったというわけだ。


 気が付いたら彼はゲームのコントローラーを置き、私の真正面に座って、じっとこちらを見ている。


 私からの何かしらのアクションを待っているんだ。

 構って欲しい待ちがあからさま過ぎて捨てられた子犬みたいなオーラが出ている。


「ゲーム終わったの?」


 仕方ないので私の方から彼に自分の後頭部をさすりながら会話のタネを放り込む。


「取り敢えず、キリのいいとこまではいった」


 待ちの構えしてたのに相変わらず素っ気無いなぁ。

 けれど、なんとなく満足そうに見えるところが可愛らしい。


「私というものがいながらゲームにうつつを抜かすとは、この浮気者め」


 私は頬を膨らませてあざとさを演出する。


 今、私は似非不機嫌モードに入ったのだ。


 説明しよう、これは私が彼にいい感じに構ってもらう為にやる技で、彼からの特別なアクションがない限りこのモードは解除されない仕組みになっているのだ。

 解除されないと、ずっとプチ不機嫌のままという、非常に厄介な代物である。


「俺の背中で寝てた者が何をいうか」


 彼は自分のその大きな手の指で、微笑みながら私の膨らんだ頬を優しく両側から抑えて萎ませていく。


「寝てようが起きてようが変わんないじゃん」


 ふいっと彼の手からすり抜け顔を横に向けた。


 まだまだ、こんなものじゃ解除できないぞ。


「寝るのは駄目、一人でもできるでしょ」


「ゲームだって漫画だって一人で出来るでしょ」


 私は、大袈裟に彼に背を向ける。

 私を放置した事を反省しなさい。


 今の私は中々手強いぞ、君に機嫌が直せるか?


「二人で一緒の時間が過ごせるでしょ、寝てたら時間は一緒に過ごせない」


「…………」


 私って案外ちょろいのかもしれない。


 もう、ご機嫌モードのスイッチが入ってしまった。


 勝手に緩んだ口元が元に戻るのを見計らってゆっくり振り向く。


「しょーがないなぁー、もう、そこまであんたが言うなら……うぉっ!」


 言いながら振り返ると、突如として彼から鮮烈な胸元へのタックルが私にお見舞いされた。

 そのままの勢いでカーペットへと、二人で倒れ込む。


「何? 私、ボール持って無いけど?」


「ボール持ってないと抱きついちゃだめなの?」


 彼は、私の胸元から顔を見上げてくる。


 あぁ、ラグビーのタックルじゃなくてハグだったのね。


 だとしたらムードの無い様な、ダサい悲鳴をあげてしまった。


「ダメじゃない」


 私はさっきと同じ様に、顔を彼から背け、横へと流す。


 さっきと違うのは異様に顔が火照って、心臓が激しく高鳴っている事だけ。


 彼が私の身体のそばで四つん這いになり、胸元から私の顔へと、自身の顔を近づけてくる。


 そういえば、さっき寝ていた時に見た夢はなんだったんだろう。


 こんなに大好きな彼の事を綺麗さっぱり忘れてしまう夢。


 記憶を失って沢山の不安に襲われる夢。


 なんで今このタイミングで思い出したのか、そんな夢を見たのかはよく分からない。けれど、こんな幸せな時間が無くなるなんて、夢でも想像したくないや。


 そんな夢を思い出したら、彼の顔が見たくなってきた。


 ゆっくりと彼の方へと顔を向き直す。

 私の目の前には彼の恍惚とした表情が広がり、彼の大きな手の温もりが頬を滑らかに流れていく。


 あぁ、幸せだ。


 私は静かに目を閉じた。


 彼の気配が徐々に近づいてくるのが分かる。


 心臓が破裂しそうになるのを必死に抑えて、暗闇の中彼を受け止める心の準備を整える。


 もうすぐだ、もうすぐで彼からの愛を一心に感じられる。


 緊張で一瞬が、まるで一時間に感じる。


 一瞬が……一分は経った気がする。


 あれ?


 全然来ないな。


 すごく焦らされてる気がする。


 けれどここで目を開けるのもムードが無くなってしまう気がしないでもないし、どうしたら良いんだろう。


 彼の気配もなんだか薄くなった気がする。


 これはまずい、関係の崩壊の危機を感じる。


 私はその場のムードよりも、関係の持続を優先し、目を開けた。


 するとそこには、何故か満天の銀杏並木の紅葉が眼前に広がっていた。


「あれ? ここ……駅前?」


 さっきまで彼の家にいたはずなのにどうして?


「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」


 私の右側から聞こえてくる声はいつもの聞き馴染みのある愛しい人の声だった。

 声のする方を向くと、そこには通学鞄を持った制服姿の彼がいて、真剣な顔していた。


 何か大事な話をしていた最中だったのかな。


 さっきのはなんだったんだろう?


 ボーッとし過ぎて妄想に花を咲かせ過ぎてしまったかな。


 段々と記憶の所在が、水に溶かした砂糖の様に曖昧になっていく。


「あ、ごめん」


 あまりの彼の真剣な顔つきに、言い訳の余地なく私は謝った。


 その後、彼から何かを話しかけてくる事はなく、私自身も先程のことを整理しようと自問自答を繰り返していて、彼との会話どころでは無くなっていた。


 風に揺れる木々のざわざわとした音に呼応する様に、色鮮やかな紅葉が、視界一面に舞い散る。


「ルイ……」


 木々のざわめきに消え入りそうな声で私を呼ぶ彼。


「ん? 何?」


 名前を呼ばれて、なるべくにこやかに反応する。


 そうだ、考え事をするのは今じゃない。


 今は彼との時間を大切にする時だ。


 私は、少し前の無言の時間を巻き戻そうと、歩みを緩めた。


 彼も私が付いて来なくなったのに気がついたのか、少し止まってまた横並びで歩き始める。


 さっきまでとは比べ物にならないくらいゆっくりと。


「あのさ……ルイ」


 いつになく、彼の歯切れが悪い。

 どうしたんだろう、体調でも悪いのかな?


「うん」


 彼が何を言いたいのか、さっぱり見当もつかない。


 銀杏並木がより強くざわざわと揺れ始める。


「俺達別れよ」


 ……え?


 私は彼の口から出た言葉が信じられなくて、信じたくなくて耳を疑った。


「今……なんて?」


 突然の破局の告白に手は小刻みに震え、心臓が破裂しそうな程激しく、強く脈打っている。


 気が付いたら私は歩くのをやめていた。


 怖くて彼の顔が見れない。


 私が止まったのに合わせて、彼も数歩遅れで立ち止まる。


 銀杏並木の真ん中に二人で面と向かって対峙する。


 彼は私の事をじっと見ている視線を感じるが、私は今彼の目を見たら涙が止まらなくなりそうで顔を上げる事が出来ない。


「別れよう」


 聞き間違いじゃなかった。


 私は心臓が止まりそうな程血の気がひいていく感覚に陥る。


 しかもこの声のトーン、彼は本気だ。


「どうして? 私の事嫌いになった?」


 泣きそうになるのを必死に堪えて、なんとか彼と本当の意味で対峙する。


「ううん、俺じゃない」


 俺じゃない? 何を言っているの?


 彼は少しずつ私に近づいてくる。


 風はいつのまにか止んでいて、銀杏の木達は憎らしい程静かに私たちを見守っている。


 やめて、近くにこないで。


 言いようもない恐怖が私を襲う。


 彼から発せられる恐怖というより、私の内側から出る不気味なまでに底を見せない、知る事が出来ない物に対する恐怖。

 本能的には存在を理解しているのに、ぽっかり抜けてしまった何かを彼に今、突きつけられようとしている恐怖。


「君が……俺を忘れたのがいけないんだ」


 嫌、もうやめて。


 それは私じゃない。


「違う……違うの……私は――」


 もう、私でさえ何を言っているのか分からない。


「俺達はもう、終わりだ。どんな理由があろうと、大切な人を覚えていないなんてそんなの有り得ない」


 彼は、私に背を向けて、一人銀杏並木へと吸い込まれる様に進んでいく。


「もう、会う事はないだろう。さようなら」


 待って、待ってよ、お願いだから。


 声に出そうとするが、声帯がまるでついていないかの様に喉が音を発さない。


 周囲の景色が歪んでいく。


 お願い、やめて。


「行かないで!!」


 叫んだ私の目に飛び込んできたのは、私の部屋の天井だった。


 ベッドに仰向けで寝ながら、私は右手を天井に向かっていっぱいいっぱい伸ばしている。


 辺りは一片の光も感じない程に暗い。


「はぁ、はぁ、全部……夢か……」


 正確には、私の記憶をなぞった夢。


 最後の部分は記憶にないけれど、場所自体はパズルの場所だった。


 私は、天井に向かって伸ばした右手を静かにしまい、ゆっくりと時間をかけて仰向けの姿勢から上半身を起こす。やはりまだすっと起き上がる事は出来ないみたいだ。体は夢の影響か少し汗ばんでいて、ベタベタする。大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせて大丈夫、大丈夫。そう心の中で何度も言い聞かせ、ベッドの上で、誰に見られるでもなく平静を装う。


 最悪の夢だ。


 私が感じていた一抹の不安を、残酷に、そして何食わぬ顔で私に堂々と突きつけてきた。

 一番見たくも知りたくもなかった事だった。

 考えない様にしていた事が突きつけられた今、否が応でも考えなければならない。


 体と心から熱がどんどん奪われていく。


 思い出したは良いものの、二週間も会えていない上に音信不通。これはやはり、もう嫌われていてもおかしくはないだろう。それとも、思い出していないだけで、夢の中の様に別れを告げられているから会いに来ないのかもしれない。


 どちらにせよ、私は失恋をしてしまったという結論にしか至っていない。プラスの方向に考える事が出来る様になる為に、私に浮かぶ方法はたった一つしかなかった。


 彼に直接会う事。


 彼に会って、真実を確かめなければいけない。


 あの叶恵さんに対して反抗期なんて私には来ないと思っていた。


 しかし、私は理解した。

 反抗というのは、相手が嫌だからするだけじゃなく、自分のやりたい事をやり通す為にする事もあるのだと。


 ハイリスクローリターンは百も承知。


 それこそが反抗なのだ。


 体が、心が少しずつ温かくなっていくのを感じる。


「よし、今すぐ行こう」


 隣の部屋で寝ている叶恵さんを起こさない様に、抜き足差し足で下に降りる。寝汗でベタベタする体をシャワーでさっと流し、叶恵さんが用意してくれた他所行きの冬服に袖を通す。ひらひらと舞い踊るフレアスカートに、胸元のリボンタイがアクセントのニットという可愛らしいコーディネート。


 さすが叶恵さんだ。女子高生の象徴である制服をどことなく想像させる様なシルエットにも関わらず、色合いを落ち着かせる事により、大人っぽさも同時に醸し出す素晴らしいセンス。


 この服は、すぐに私のお気に入りに登録された。


 これが叶恵さんと二人で出かける時なら、きっと子供の様にはしゃいでいただろう。


 しかし、今はそうも言っていられない。


 彼に会える期待と、彼に拒絶されるのではないかという不安とで、私はヤジロベエのようにグラグラと揺れ、心の座りが悪い。


「あっ、あれを忘れてた」


 忘れ物に気が付き、二階へとまた、そろりそろりと向かう。昨日、叶恵さんからもらったネックレス。リボンタイにネックレスは少々アクセサリーが渋滞してしまうかもしれないが、お守りとして付けておこう。


「よし、行こう」


 身だしなみは完璧。体調もギリギリ問題ない。


 後は、叶恵さんが起きてくるまでに戻ってくれば何も問題ない。


履き慣れない綺麗な靴に、片方ずつゆっくりと足を入れていく。


 私は開かずの扉と化していた玄関の鍵を開け、堂々と自由への扉を開く。冷たく締まった空気が流れる様に私の体にぴたりと張り付き、私に季節を感じさせる。


 世界に置いて行かれた私の時間が戻ってくる。

 今なら記憶も共に戻ってきそうだ。


 私は、記憶を頼りに薄暗い夜を切り裂く様に彼の家へと駆け出した。

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