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 日差しがレースカーテンからほのかに顔を覗かせる。それはまるで木漏れ日の様に優しく部屋に降り注ぎ、私に朝が来た事を教えてくれた。最近心無しかベッドから出るのが段々遅くなっている気がするのは気のせいか。気温が下がり、布団の恋しさに心が負けているのだと思いたい。重い瞼をこすり、ゆっくりとベッドから身体を起こす。もう痛みは無いはずなのに、身体が勝手にあの時の痛みを覚えていて反射的に身構えてしまい、身体を起こすのがゆっくりになる。すっと起き上がれない事を意識させられる度に、夢に浸っていた脳は次第に現実へと引き戻される。私の中の数少ない記憶の苦い部分が、ヘドロの様な醜い感情へと変化し私を飲み込んでいく。


「はぁ……」


 起きがけは綺麗な朝だったはずなのに、気がつけばどこか濁って見えた。


 退院してから一週間、私の記憶に大きな変化は見られない。焦っても仕方がない事など頭の中では分かっているが、じっとしている事がまるで悪い事の様に感じる。


 しかし、今この瞬間の私が何をしたって記憶がすぐ戻らない事は誰が見ても明らかだ。


「大丈夫、大丈夫」


 私は自分に冷静に言い聞かせ、鉛の様な身体を心と共に奮い起こし、朝ご飯を作ってくれているであろう叶恵さんがいる一階のリビングへと向かう。自室から出て、階段を降りていく際に、ほのかに甘い卵の焼ける匂いが鼻を抜けていく。


「おはよう、ルイ。もう少しで朝ご飯出来るから座って待ってて」


 私の気配を感じたのか、居間に入るや否や挨拶が飛んでくる。


「おはようございます、叶恵さん」


 叶恵さんは、台所でテキパキと朝ご飯の準備を進めていた。動きに一切の無駄がなく、立ち居振る舞いからデキる女という雰囲気が目に見えるくらい溢れ出ている。


 が、相変わらずエプロン姿は壊滅的に似合わない。


 デキる女が故の家庭的なアイテムとのギャップ。


 仕事をしている時の姿を見たらそのギャップも好印象なのだろうが、私は家にいる叶恵さんしか見た事がないので、ただ純粋に浮いている様に見える。しかも何故かデフォルメされた可愛らしい熊が散りばめられているキャピキャピしたエプロンを好んでつけている為、余計に浮いている。それもよく見たら所々傷んでいて、焼け焦げた様な後も見受けられる。かなり使い古されて相当お気に召している事が分かる。


「何? そんなに見られると緊張するのだけど」


 叶恵さんは味噌汁をかき混ぜながら、こちらに視線を向けずに困った様に笑っている。


 しまった、長々と見過ぎてしまった。


「ごめんなさい」


 私は少しバツが悪くなり、そそくさと箸やコップ、お茶の入ったピッチャーなどを食卓に並べ、叶恵さんが注いでくれた味噌汁とご飯を炊飯器から茶碗によそって二人の席に順に置いていく。


「あの……そのエプロン可愛いですね」


 私は意を決してエプロンの話題を切り出す。


「あぁ、これね。このエプロンはね、私の思い出のものなのよ。だからずっと使ってるの」


 そう台所から話してくれた叶恵さんは、顔は見えないがいつもより柔らかい雰囲気なのが手に取る様に伝わった。その表情を見ると、叶恵さんの中で息づく思い出がとても良いものであることは容易に想像がついた。


 もしかしたら私が作ったもので、それを大事に使ってくれているのだろうか。


それもきっと思い出せば分かるはず。


 にしても私よ、もしそうならもう少しセンスあるものを作っておくれ。人には似合う似合わないというものがあるんだよ。


「はい、お待たせ。出来たよ」


 叶恵さんが、朝のメインディッシュが乗ったお皿を両手に一枚ずつ持ってテーブルへと向かってくる。

 お皿の上には卵焼きと色とりどりの野菜のサラダ、きんぴらごぼうが乗っていて、朝の忙しさの片手間とは思えない程しっかりとしたメニューが並んでいた。


「とても美味しそう。頂きます」


 私は手を合わせ、小さな会釈をする。

 そして間髪入れずに、テレビのリモコンのスイッチを入れる。電源を入れられたテレビは、食卓の奥の居間から私達に向かって朝のニュース番組を発信してくれている。


 ちょうどニュースキャスターの人がこちらに向かってお辞儀をしてから原稿を読み始めるタイミングだった。


「好きだね、テレビ」


 叶恵さんは、私がテレビをつけるとあまり良い顔はしない。


「今、ダメでした?」


 恐る恐る尋ねてみる。やはりまだ、叶恵さんとの距離の取り方がいまいち掴み切れない。私の知らない部分の私を沢山知っている人の前で、感情を露わにする事が、まるで裸を見られるかの様な羞恥を感じて憚られる。私のお母さんなのに記憶が無いだけでこんなにも余所余所しく、距離が出来てしまう自分が嫌になる。


「ううん、今は私がいるから大丈夫よ」


 私は叶恵さんに、二つの事をやってはいけないと言われた。

 一つ目は叶恵さんが仕事に行っていたりして、家を留守にする時はテレビを観てはいけない事。


 もう一つは、外出をしてはいけない事。


 まだ退院して一週間と言う事で、胸の傷に響くから大事をとってこの二つを叶恵さんは禁止した。

 テレビの方は、療養中で家から出れない私にとっては致命的だった。

 何故テレビが胸の傷に響くのかは分からないが、言われた事をやるという事も、信頼関係を築いていく上では重要な事の一つだと思っているので従っている。


 だから、テレビが付いている事そのものが、今の私にとっては貴重な事で、病院にいた時期も含め約二週間世間と隔絶された私が外界を知る唯一のチャンスになる。国内の経済状況や、他国との関係と言ったお堅いニュースを淡々と読み上げるキャスターの声に耳を傾けながら、叶恵さんが作ってくれた朝ご飯をゆっくりと味わいながら食べていく。


「とても美味しいです」


 全てにおいて、私に気を遣ってくれているのか、味付けが比較的薄めに作られていて、それでいて尚、素材の味をしっかりと感じる優しい味。叶恵さんが私の感じにくい所でも気を遣ってくれている事が分かり、より一層美味しく感じる。


「そう、それは良かった。作った甲斐があるわ」


 叶恵さんはふわりと花の様な笑みを浮かべた。

 自分の母親ながら、この人が笑った顔はとても美しい。すらりと通った鼻筋に長いまつ毛が瞬く切れ長の目、微笑む時にあらわになる純白な歯。笑った顔だけじゃなく全てにおいて完璧に見える。

 この人に反抗したい時期なんか来るのだろうか。

 私も本来なら完全に反抗期に入っていてもおかしくはないが、むしろ自慢したくなるのではないだろうか。


 ただ、その完璧ぶりが私の中での物理的距離を遠ざけている一因であるのも事実。

 料理の感想以外、叶恵さんに話しかけるネタが全く思い浮かぶ事もなく、キャスターの声と食の進む音だけがひたすらこだまする時間が続く。


「最近寒くなりましたね」


 沈黙はなるべく避けなければと、まるでお見合いでもするかの様にテンプレート的な天気の話を放り込む。


「そうね、そういえば私のと一緒に冬服をおろしておいたから、お外に出られる様になったらそれを着てね」


 用意も周到で抜かりなく、さすがという他ない。


「ありがとうございます」


 また、会話が無くなってしまった。


 ただでさえ今までの分を失っているのだから、何か自分から話題を振り、会話を弾ませて仲良くならないと。


 その時、焦燥に駆られる私の心を一つのニュースが掴んだ。

 私達の国が、とある兵器を開発したというニュースだった。私は自分の国は平和で、そういう事には無縁だと思っていたので驚きのあまり、箸が止まった。


 どうやら、それは新型の爆弾兵器らしく、名前をティアーズというらしい。

 どういう物か、詳細は語られなかったがどうして涙なんて兵器に似つかわしく無い名前を付けたのか。


 涙が落ちる様に落下していくからとか、雫の形をしているからとか、そんな感じのネーミングだろうか。


 色々と想像が頭を巡ったが、恐らくこのニュースに心が傾いた一番の理由は、キャスターの声のテンションが少しだけ上がって聞こえた事による違和感だった。

 それはまるで朗報を伝えるかの様な物言いで兵器開発の話をしてくるもんだから、右も左も分からなくなった私にとっては興味がひかれるのには十分過ぎた。


「私達の国、兵器なんて作ってたんですね。知らなかった。国防の類も色々物騒で大変なんですね」


 叶恵さんは私の言葉を聞いても、テレビを見ることもなければ私の方を見ることもなく、皿から口へと箸を行ったり来たりさせ続けている。

 怪しい予兆に体が徐々に強張り、変な汗が少しずつ出てくるのを感じる。


「兵器なんて私は嫌い。人を殺める道具を作るなんて、人のする事じゃないわ」


 私はその言葉を聞いて、血の気が引くような感覚に陥った後、猛烈に顔が熱くなった。

 苦し紛れとは言え、叶恵さんの気を悪くする事を口走ってしまった自分を強く恥じた。


「ごめんなさい……」


 私はどんな顔をしていいか分からず、ただ俯いた。


 キャスターは空気も読まず、わたしを責め立てるかの様に未だ爆弾兵器の話を専門家と共に嬉々として続けている。


「あなたが謝る事じゃないわ、悪いのはそういう世界なんだから。いつか兵器なんて物が作られなくていい様な世界になればいいわね」


 私は小さく頷き、手持ち無沙汰なこの空気を埋める為に朝ご飯を食べ進めた。粛々と食べている様に見せかけているが、心は全くその場に居なくて、気がついたら目の前のご飯は全てなくなっていた。

 少し前まではあんなに美味しく感じたのに、まるで味を感じなかった。


「美味しかったです、ごちそうさまでした。後片付けはやっておくのでお仕事頑張って下さい」


 私は叶恵さんの顔を見ないで、強がりに一つ微笑んだ後、テレビを消し足早に食器を台所へと持っていく。

 その少し後に、叶恵さんもご飯を食べ終わったのか、立ち上がり、こちらに歩いてくる音が聞こえてくる。


 今は何も言わずにそっとしておいてほしい。


「ありがとう、それとごめんね。じゃあ私は準備して仕事に行ってくるから、家で大人しくしていてね」


 叶恵さんはそう言って洗い物をしている私の頭を軽く撫でた。


 私の切なる気持ちに反して、叶恵さんは大人な対応を振り撒いた。


「はい」


 本当は何も言いたくなかったが、無視するのも居心地が悪く、折衷案として小さく返事をする。


「後……記憶、戻るといいわね」


 少しの間、叶恵さんからの視線を感じたが、私は洗い物に集中しているふりをして叶恵さんの方を見なかった。


 今の私にその言葉は要らなかった。


「ありがとうございます、頑張りますね」


 届いたかは分からない。届かなくても良いと思いながら、自分の居心地の悪さが無い様に言葉を放つ。

 仕事に行く準備をしに居間から出た叶恵さんを確認した後、私は深く溜め息をついた。


「私……子供だなぁ……」


 食器を洗う手が止まる。


 先程までの音が嘘だったかの様に消え去り、沈黙という名の空気が充満しているのを感じる。それは私に思考の余地を与え、先程の後悔をこれでもかと突きつけてくる。


 いたたまれない思いに苛まれ、蛇口を全開まで開いた。

 遮られる物が無くなって、ここぞとばかりに止めどなく流れていく水を見ていると、叶恵さんに感情を剥き出しにした自分と重なって辟易してしまう。


 しかし、強く荒々しく周りに水飛沫をあげながら流れていく勢いが、ちっぽけな悩みにつまづいている私と違って、とても生き生きしている様に見えて、なんだか羨ましくもあった。


「何やってるんだろうな、私」


 自嘲しか出来ない事を呪いながら、私はそんな表情豊かな水を一旦止めて、また洗い物を一つずつ片付けていく。

 全てを片付けるのに、五分とかからなかった。

 その後は、自分の中の嫌な感情も一緒に拭い去る様に一心不乱に食卓テーブルを拭いたり、シンクの周りを綺麗にしたり、居間の掃除なんかもしたりして、時間を潰した。


「ルイ、行ってくるわね」


 玄関から叶恵さんの声が響いて来る。


「行ってらっしゃい」


 いつもだったら見送りに行くところだが、今日はそんな気分じゃない。


 玄関の開閉音がして、ガチャリと鍵の音が家の中に響き渡った。

 それはとても重たい音で、私はいつも囚人にでもなった気分にさせられる。


 家には記憶をなくした私一人だけ。


「そして誰もいなくなった……と」


 こんな事ばかり思い付く私はもういよいよかもしれない。


「……戻ろう」


 こんな事を続けていても不毛な上に、虚しいだけだ。


 全てを置いていく様にリビングを後にし、手早く洗面台で身支度を済ませ自室へと戻る階段を上る。


 あれもこれも、記憶さえ戻れば、きっと上手くいく。

 今日は私の全てを取り戻さないと。


 私は決意を胸に、自室の扉を開けた。

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