150万で旦那あげますよ
仕事終わりの午後八時に、私は駅の近くのファミリーレストランにやってきた。夕食の時間にも関わらず人の入りはまばらでおいおい、このファミレス大丈夫か? と私は思う。店員が「おひとりですか?」尋ねてきて、「待ち合わせです」と答える。
「消毒だけお願いします」
私はレジ前に置かれた消毒液の容器の頭をプッシュして出てきた液体を両手にこすり合わせる。なんとなくバカバカしくなった。席の方を見渡すと、旦那が私を見て軽く手をあげた。隣には、私よりも十歳くらい若い女の子を連れている。私も“気づいたよ”くらいの合図を手で返す。一度視線を外して、深呼吸。すー、はー。よし、行こう。
旦那と女の子の向かいに座る。「はじめまして、永瀬葵です」女の子に向けて言う。ぱっちりした目の上に眼鏡、白い肌にはシミ一つなく。肩までの髪はさらさらでほどけて落ちていってしまいそうに見える。ピンクのカーディガンがよく似合っている。あの色でババ臭くないのが、若さってすごい。かわいいな、と他人事のように思う。三十を越えてしわの増えた自分の顔になにげなく触れる。
「水上です」
女の子が硬質な声で答える。そこには私のことをババアと侮る響きが多分に含まれている。その他には不倫相手の配偶者と対峙する緊張が一割と言ったところ。身分証明書を出すように言い、水上さんはしぶしぶと免許証を差し出す。私はスマホでぱしゃりとそれを写真に収める。そこそこどうでもよかったのでとりあえず旦那に向かって「それじゃあこれまでの経緯だけ聞かせてもらえる?」と言った。
途中で注文を取りに店員がやってきたので「ドリンクバー」と言う。
あちらにございますのでグラスはご自由にお取りください、店員が決まり文句を言い、引っ込む。
「どうぞ」
旦那に話を促す。旦那はいま無職だった。半年ほどまえに十年続けた仕事をクビになった。別になにか重大なミスを起こしたとかではない。単にコロナ禍で業績が傾いた会社が希望退職と言う名前の強制退職者を募ったのだ。きみ、どうだね? いまやめればメリットがたくさんあるよ。やめなければ、わかってるよね? おい、そろそろ決めておかないとまずいぞ。レッツ退職! ……ここまであからさまではないんだろうけど、こんな感じのことを毎日毎日言われ続けて、ミスとも呼べないような細かなミスをあげつらわれて、謎の叱責を繰り返され、元々芯の弱いところのあった旦那は心が折れてしまった。パワーハラスメントと言えないぎりぎりのラインを攻めることに定評がある上司だったそうだ。
旦那の手元には少しの退職金が残った。
旦那は決して金遣いの荒い人ではなくて貯金はそこそこあったし、私が働いていたから別にすぐに生活に困ったりはしなかった。最初のうちは旦那も「いい気晴らしの時間ができた」と、見たかったけれど時間がなくて見れなかった映画や、興味はあったけど読めていなかった漫画を読んで楽しそうにしていた。そして就職活動をなかなか再開できていなかった。
自由時間のうちに旦那はマッチングアプリに手を出した。私が忙しそうで時間が取れなくて愛情を感じなくて、愛に飢えていたらしい。へー、ほー。そこで水上さんと出会い、映画や漫画の話題で意気投合し、ホテルに雪崩れ込んでセックスをして、いま水上さんのお腹には旦那の子がいる。ふーん、へー。私は一度席を立ち、ドリンクバーに向かいコーヒーを入れて砂糖の袋を二本ほど切ってそこへぶちこんだ。席に戻り、一口。うん、甘い。
大丈夫、私はクールだ。
「これからどうするの?」
旦那は別れたい、僕は君の愛情が冷めきっていることに気づいた、僕は真実の愛に気が付いたんだ、水上さんとお腹の子と三人で暮らす、と言った。水上さんもそれを肯定して頷いた。眩暈がしたけど気取られないように額をおさえた。真実の愛か。そうか、真実の愛か。
「わかりました。それで構いません」
私は言った。
反対されると思っていたのか、旦那と水上さんは胸をなでおろした。
「それじゃあ慰謝料の話は弁護士を通じて、また後日に。おそらく百五十万ずつの請求になると思います」
それから急に顔を白黒させた。
「百五十万なんてとても払えません!」
なんだ。おまえら。特に水上。ひとの旦那奪っておいて、なんのリスクもないと思ってたのか。私が怒ってないとでも思ってたのか。旦那が「僕の新しい門出を祝福しようとは思ってくれないのか」だとかほざいている。できるか、ボケ。ああ、この人はこんなに頭の悪い人だったのか。それとも色恋ってのはまともに見える人間をこんなアホに変えてしまうのか。覚えはあるような気がする。私もかつては夢中だった。旦那。背の高い、顔立ちの整った私の旦那。大学時代、みんなこの人に夢中だった。頬からスッと細くなる顎までの線。細くて鋭いのに優しい光のある目。人よりちょっと高い鼻。整った眉の形。唇の色。神様の子供のようだった私の旦那。三十を越えたいまでもその美貌を残している。私はすっかりくたびれてしまったのに。二人で見た海のこと。助手席に座ってこの人の横顔を覗き見てどきどきしたこと。はじめての夜のこと。みんな覚えている。私の旦那。私はこの人に夢中だった。のぼせるくらいの幸福でアホになっていた。ああ。
「あなたたちの主張は知りませんが、法律上はそうなっています」
私は言った。水上さんが「強欲。人の心がない。鬼畜。外道」と散々に私のことを罵るが半分くらいしか聞こえていなかった。旦那もなにか喚いていたがなるべく聴き取らないようにした。
私は自分の分の伝票を持って席を立つ。
「じゃあ、あとの話は弁護士を通して」
水上さんが悲鳴をあげたけれど知ったこっちゃなかった。
家に帰ってきて、灯りをつける。
愛は、なかったと思う。旦那にはもう。旦那が欲していたような焦がれるようなとても強い愛は。でも情はあった。この人の子供を産みたいなと思うくらいの。この先をこの人と一緒に生きていきたいなと思うくらいの。無職になって半年経ったけれどまだ生活費を全面的に私が出しても平気なくらいの情は。たぶんあと一年くらいは旦那が無職でも私は全然平気だっただろう。その先はわかんないが。その情は「愛」が変化したもので、底には「恋」があって、「好き」が力強く根付いていた。私は旦那が好きだった。
ああ、今日からは一人で寝るんだな。と思うと、途端に涙がこぼれてきた。
「え。なん、で。あ、あう、あああ、ううううう。ふぐ。うぐ、あああああううううううう。はっはっ、ふっ、ひぐ。なん、わたし、がん、がんばっ、のに。ああうぐ、いや、や、やだよおうううう。はふ、ひ、ひひ。うううううううううううううう」
私は玄関に蹲って泣き続けた。
不審に思った隣人が呼んだ警察が玄関を開けて私を見つけるまで私は延々と泣き続けていた。