76.ディスペア・カレス
……意識が、無くなっていたらしい。
夢の世界に沈んでいたわけではなく、私の意識は暗い闇に食まれていた。瞼を閉じたまま、自分の意識が戻ったことを私は確かめる。
意識はしっかりとある。思考も正常に出来る。そして何よりも、全身に火傷を負っているような痛みを確かに感じる。
私はゆっくりと瞼に隙間を作り、その先を見た。
目が痛まないほどの仄かな明かりの中で、私の部下であるシュリアの顔が見えた。憔悴した表情で瞼を閉じ、薄く開いた唇から苦し気にかすれた息を吐いている。
「……シュリ、ア」
どうも私の喉は潰れかけているらしく、ひどく嗄れていた。私はシュリアの耳に届くように、何度も声をかけた。しかしシュリアからは何の反応も返ってこない。
私とシュリアはどうも、冷たく底濡れた地面にうつ伏せで倒れこんでいるようだった。視線を横に少し動かせば、細かく凹凸した地面が目に入る。そして、その凹凸に這う、私とシュリアの身体から流れる血が作った溜まりも。
「目が覚めた?」
耳障りな声が聴こえた。
私は痛みに小さく喘ぎながらも、首を動かして頭の先の方を見る。
私のすぐそばに細く小さな足があることに気が付いた。視線はそれ以上上げることが出来ないが、わざわざそんなことをしなくても、この足が誰のモノなのか私にはわかった。
「……アレハンドロ」
「流石にしぶといね。全身の骨が砕けてるのにさ、まだ二人とも生きてるよ」
「ここ、は……どこだ」
「砦じゃあないよ。君たちにやってもらうことがあったから、おあつらえの場所に移動してきたんだ」
眼球を動かすだけでもひどく頭に痛みが走る。ゆっくりと、震えた眼を動かして周囲を見回してみるが、首を動かさずして見れる範囲などたかが知れていた。
ここがどんな場所なのか、この地面だけではわからなかっただろう。しかし私は、アレハンドロの小さな足の向こうに見覚えのあるものを見つけた。
黒い、あの石板だった。ジュリアとミオを捕えたあの洞窟にあった、あの石板だ。
真っ暗だったあの洞窟内にいくつもの松明が焚かれ、視界が広がっている。
「さて、と。デュオス、スカーレットを持ってあげて。どうせだからちゃんと見せてあげたいからね」
「……ゥルルルル」
とても巨きく、重いものが私の背中にのしかかる。かと思えば、鋭い何かが私の腹の下へと何本か入り込むと、そのままゆっくりと私の身体は宙へと持ち上がった。
全身の外側が一斉に悲鳴を上げる。砕けた骨が肉の中で蠢いているせいだろうか、鋭い痛みと熱がこみ上げてくる。
「ほぉら、見えるスカーレット? ここにいるのは君とダグラスだけじゃないんだよ」
「っ……アスト、セルゲイ……ステファー……!」
三人ともが地面に伏し、微とも動かない。
それもそのはずだ。誰一人動くわけがない。
それぞれの背中に、痛々しいほどに、数本の剣が突き刺さっていたのだから。
「ハッ……ぐ、ぅぅうっ……!」
「一足先に死んでもらったよ。どうせ死ぬなら早い方がいいでしょ」
「う、ぁあ、ああぁあ、ぁぁぁあッッ……!!」
三人の姿がひどく、ひどく無機質に見えた。一目見て、生の雰囲気を感じられないと私の頭が愚かにも理解してしまうと、ひどく無機質に。
それが悔しかった。それが哀しかった。それが恨めしかった。
あの三人を、三人だったものを見て、私は胸の奥底から激しい感情に突き動かされた。どうしようもない感情は行き場が無い。腕も足も動かずに、ただ、ただ息だけが上がり。どうしようもなく嗚咽と震えがこみ上げた。
セルゲイも、ステファーも、そしてアストも。みんな死んでいる。
他のみんなは。ここにいないみんなはどうしたんだ。なぜ、私たちだけがここにいるんだ。
「戦友が死んでも涙を流さないのは上位騎士らしいね。でも、心の震えはあるみたいだ。人間だもんね、そうじゃなきゃおかしいよ」
「ぅっ……アレハンドロ……貴様、貴様っ、きさまぁッ……!!」
「そんなに呪い殺しそうな眼で睨みつけないでよ。こんな最悪な光景を見せたがったのはボクじゃなくて彼なんだから」
「かれだと……!?」
アレハンドロが指差した方向に何とか首を回す。私の後方から姿を現したその男の姿に、見覚えがあった。
私がレッドチョーカーとなる以前。ただの上位騎士として所属していた隊の、同期の騎士。
褐色の肌に銀色の瞳。久しく見ていなかったが、名前はすぐに脳裏に思い浮かんだ。
「――しばらく見ねぇうちに随分弱くなっちまったね、ジゼル」
「……クラウ、ディオ」
クラウディオは指先で顎をいじりながら私の方へと近づいてくる。
ああ、やはりクラウディオに間違いはない。私の記憶にある彼の姿と、全く変わりない姿と仕種だ。
なぜ、ここにいるのか。いちいち自分でそう疑問を唱える必要も無い。アレハンドロと共に彼がいるという事は、彼もまた、騎士を裏切った側だというだけなのから。
「どぉしてもお前には絶望してほしくてね。そうじゃなきゃ、償いにならないだろ?」
「償い……? なんの、ことだ……」
「大事な現界転生の素材を二つも壊したことの償いだよ。覚えているだろ? 俺たちの隊にいた双子のことをね」
「っ! エロール達のことか……!」
忘れるわけがない。私の目の前で、惨たらしくも度し難い振る舞いをしたあの二人の事だ。
私が心の底から嫌悪し、赴くままに剣を繰ったあの時のことは常に記憶の上澄みにある。
騎士の称号を一度剥奪され、この深緋色の首輪をすることになった原因なのだ。あの日の、あの時の出来事は。
「あの双子は狂気と猟奇を愛していた。そして本能に忠実であり、理性の鎖を断ち切ることの出来る稀有な存在だった。もう少し続けさせていれば、十分『四王』に成り得たはずだったんだ」
「クラウディオ貴様……アレを是認していたのかっ……」
「あぁそうだ。そしてお前はその可能性を二つ潰した。せめて死ぬ前に償ってもらわなきゃならないのよね。……そうじゃなきゃ俺の気が済まねぇ」
頬を裂くように嗤うクラウディオの顔を見て、私は眩暈を憶えた。
もう、誰が何なのかわからない。誰が信じられる者で、何が信じられる物なのか。一度気を失う前、セルギウスグラードでアレハンドロから聞いた話によれば、『上』は全て黒だ。
帝国の頂に立つ皇帝すらも、そして今私の目の前にいる心を許し共に戦った同期の騎士さえも、忌むべき立場に立っている。
クラウディオは私の視線の下で、おもむろにシュリアの方へと近づいていく。
シュリアは、シュリアはまだ生きているはずだ。もうやめろ。シュリアだけでも生かしてここから出してやってくれ。殺す必要は無いだろう。
「や、めろ……クラウディオ……」
「駄目だね。もうお前らの運命とやらは決まっちまってる」
「そうそう。しないとは思うけど、命乞いも無駄だよスカーレット?」
苦し気な表情を浮かべて伏しているシュリアの頭を、クラウディオが靴底で踏みつける。
低い呻き声を上げるシュリアを、私は巨きな腕に掴まれながら、ただ見ている事しかできない。
クラウディオは私の前でひたすら、弄ぶようにシュリアを嬲った。
髪の毛を根元から掴み上げ、握り浮き出た指骨で顔を打ち続ける。鼻は折れ曲がり、瞼は見る見るうちに黝く腫れ上がり、至る所から血が滲む。
腹の肉に膝を打ち沈められ、シュリアは腫れた瞼の隙間に見える瞳をぐるりと上転させて、濁声と共に胃の中身を吐き出していく。女性が苦しむ声には到底聴こえない、低く唸るような、耳を塞ぎたくなるような声が洞窟内に響いていく。
「ッ……やめろ! やめてくれクラウディオぉっ!」
「そうやって悲嘆けジゼル。お前の最期は己が無力に組み伏せられ、後悔に侵食るのが相応しい」
痛みに喘ぎ喉を絞り続けていたシュリアが、徐々に声を失っていく。目を潰されても四肢を異様な方向に捻じ曲げられても、もうシュリアは叫び声を上げない。
クラウディオは力任せに彼女の右腕を折りたたんでいく。針金を適当な方向にくねくねと捻じるように。針金だって同じ箇所を何度も別方向に曲げ続けていれば、いずれぱきりと折れ断つ。
シュリアの腕の骨は既に原型を留めないほどに千切れており、赤黒く染まった肉ごと肩からぶつりと捥ぎ取られてしまった。
何故だ。私は何故こんなにも奴らに苦しめられる。
私が、私の部下が、私の仲間が何をしたというのだ。人の為に、守るものの為に力を尽くしていただけだと言うのに。
セルゲイも、ステファーも、自分の為ではなく守るべきものの為に戦っていただけだと言うのに。アストも、シュリアも、私も、ただ戦っていただけなのに。
私たちは一体何なんだ。私はいま、何を見せられているんだ。
アレハンドロとクラウディオの訳のわからない理屈で、どうしてここまで苦しめられ死に至らなければならないんだ。
これは何だ?
私たちが何をしたという。貴様らは何がしたい。
私に恨みがあるのなら、私にだけ痛みを与えればいいだろうクラウディオ。
『上』に何か考えがあるならば、他の騎士や人々を巻き込まなくてもいいだろうアレハンドロ。
私たちは貴様らにとって一体何だというんだ。貴様らが作った機械仕掛けのその仕組みに、無数に組み込まれた小さな歯車とでもいうのか。
「や、めて……くれ…………」
「…………」
「やめて……おねがいだから……やめてくれ…………!」
私たちは騎士だ。常に死と隣り合わせの戦いに身を投じる、戦士だ。
今まで幾度となく死線をくぐり抜けた。そしてその度に、その悲惨の線に断ち切られた者達を見てきた。
明日は我が身、明日は友の身と、心を冷たく凍てつかせてきた。
仲間が死んでも、揺るがないための訓練を積んできた。仲間が目の前で竜に殺されても、揺るがない心を持っていた。
だが。でも。
目の前で仲間が、ただ殺されるよりも陰惨で、悲痛で、酷たらしい目に遭っているのを眺めているだけなど、どうして耐えられようか。
私の心を、人の心を折るには、満足に過ぎる。
「ジゼル。その眼でしっかり視ろ。お前の部下がいま、どんな風になっているのかを」
「っ……ぁ……」
「……目を開けッ」
私の顔に何かが通る感覚があった。
そして、左頬から額にかけて亀裂が走る。そこから申し訳なさそうに生温かい血が滲み出るが、私は瞼を閉じたまま何も見ようとしなかった。
「――ねぇクラウディオ。もうその子死んでるよ」
「――仕方が無いだろう。ジゼルが目を開く気が無いなら、せめて死んじまった奴の肉を嬲る音の方を、もっと聞かせてやるだけだ」
これ以上ないくらいに瞼を閉じても、耳の奥には音が響く。
どれだけ唇を噛み締めても、心の苦痛は紛れない。
「――さぁ、償いはそれくらいで済ませてあげてさ、そろそろ始めるよ。現界転生を」
「――ああ。セルギウスグラードの奴らはともかく、レッドチョーカーは元から『死線をくぐらせ続ける為に作られた隊』だったからなぁ。四王に成る可能性は高いだろうね」
「――君もでしょクラウディオ。六人の中で誰が四王になるかはお楽しみだねっ」
「――ほらジゼル。絶望の中で死んでいけ。目が覚めたとき、更に深い絶望の底で『そこが底だと気づけない』真の絶望が待ってるぜ」
ほとんど、何も考えられなかった。
何も聞きたくなくて、何も考えたくなくて。私の心は壊れた方がましだと思ったのだろう。
全身が震えて、恐怖とも狂気とも取れない感情に支配された私の心。
意識が、まるで篝火が一瞬にして消えるように、すっと落ちていこうとした瞬間。
私の背骨を中心にして、その外側に今まで感じたことの無い圧力がかけられた。
そのとき私の口から漏れだしたのは胃袋の中身でも、暗い赤色の血でもなく。
情けないくらいに滑稽な、口笛のような咳だった。




