31.サウスガルムの異変
大通りに所狭しと立ち並ぶ出店を品定めするような目で見ながら、エイジはレンティアに貰った小銭入りの袋を懐から取り出していた。重さからして、一日の食事を十分に賄えるほどの金額が入っているようだ。
エイジにとって空腹はそれほど苦痛ではない。一週間くらいなら全く食事を摂らなくても平気でいられる体質になってしまっている。かと言って、貰ったこの小銭を全く使わずに返してしまえばレンティアは怒るだろうし、厚意で渡してくれた彼女の気持ちを蔑ろにしてしまう。
「……あそこでいいか」
適当に済ませてしまおうと考えたエイジは一つの青果店に目をつけた。その出店の規模自体はそこまで大きくはなく、品数も少ないようだ。だが並べられている野菜や果物はどれもこれもが陽の光に照らされ、みずみずしさに輝いている。
何人もの常連と思われる客が店を取り囲んでいるその様子から、青果店の評判が窺えた。
「すまない、リンゴを一つくれないか」
「はいはい、まいどね」
代金を店主に渡し、少々小ぶりなリンゴを一つ手に取ってエイジはまた歩き始めた。
買ったばかりのリンゴを丸ごと齧る。歯がリンゴの果肉を砕き、まな板の上で野菜を切っている時のような独特の咀嚼音が鳴る。舌触りが良く、鼻に抜けていく甘みと程よい酸味が具合よく混ざり合う、その味はエイジの口に合った。
果肉は歯で小さくすり潰され口の中が溢れ出る果汁で一気に満たされていく。リンゴを食べているという感覚は徐々に無くなっていき、飲んでいる感覚に近づいていった。
エイジの口は大きく、一齧りでリンゴを大きく削ぐ。よく噛んで食べてはいるがリンゴ一つを食べきるのに数分と必要なかった。芯も種も果梗も全て胃袋に収め完食したエイジは唇に付いたリンゴの果汁を親指で拭う。既にドルヤガの町の入り口まで来ている所だった。
「ん? てめぇは……」
「昨日の……ヴェインだったか」
町の入り口のベンチには赤髪のヴェインが座っていた。ローストビーフのサンドイッチを頬張っていた彼女は、すぐ近くにやってきたエイジと目が合い口に含んでいたものをろくに噛まずに飲み込んで口を開く。
「エイジじゃねぇか。こんな町の入り口まで来てどうしたんだよ」
「出かけるところだ」
「出かけるぅ? 一人でどこ行こうってんだ」
「俺がどこに行こうが俺の勝手だ」
ヴェインから視線を切り、エイジはそのままサウスガルムとイスターを分ける地別線へ向かって町を出ていく。エイジの態度に腹を立てたヴェインは、膝の上に広げていたサンドイッチを一気にすべて平らげて彼の背中を追いかけていった。
「おい待てよ!『竜殺しの異界者』!!」
「……」
ヴェインは腰に提げた剣の鞘をがちゃがちゃと鳴らしてエイジの横に追いつく。
肩を並べて歩きながら、彼女はエイジの顔を覗くように見た。
「なんだぁ? いきなり呼ばれて驚いたか? ……その左手の召喚紋、よほどの世間知らずでも無けりゃ一発でわかるぜ」
「別に隠しているわけじゃないんだがな」
「竜殺しの噂は俺も耳にしたことがある。出かけ先は地別線だろ、竜居る所に竜殺し在りってのは伊達じゃあねぇな。そんなに竜の血が見てぇのか?」
「……わかっているならついてくるな。戦闘になるかもしれないぞ」
エイジの目的はあくまで様子見。だが様子を見たうえで問題なさそうだと判断が出来ればそのまま自分一人で殲滅するつもりだった。竜獣が百匹いたとしても、エイジの力をもってすれば全滅させるのは容易いだろう。
だがヴェインはエイジの力を知らない。彼女から見ればエイジの姿は、自分の力を過信している死に急ぎに映っていた。
「戦闘になるなら、なおさら放っときゃおけねぇな。いくら異界者でもその自信は慢心だぜ……それに、奇遇にも出かけ先は一緒なんだよ。俺も地別線の様子を見に行こうとしてたんだ」
「……お前は戦えるのか」
「舐めんじゃねぇ。この俺がたかが竜獣の群れにヤられるタマかよ」
「……ならいい。自分の身は自分で守れ」
二人は並んで地別線へと向かって行く。その途中に交わされる会話はほとんど皆無だったが、気まずい雰囲気とはまた違った。どちらかが話そうとしているのにもう一方が話そうとしなかったり、互いに相手のことが嫌いで話そうとしないというわけではない。
エイジもヴェインも、互いの力量を推し量っているのだ。互いに涼しい顔を浮かべながらも、身体つきや闘気をその眼で肌で感じようとしている。
(……どうやらそれ相応に力はあるようだ。竜獣程度なら、だが)
エイジは本当に彼女が竜と戦えるかどうかを確かめていた。レンティアのように竜を相手にするのが難しいようなら、引き返せと言うために。何もわざわざ死地に向かう必要も無いのだから。
だがヴェインの身体つきはレンティアとは違い、訓練を積んだ確かなモノだ。筋肉の付き方はしなやかで力強く、身体の周りを流れる闘気も申し分なく練度が高い。今まで何度も竜と戦ったことがあるのだろう、露出している肌の所々には薄く傷がついている。
(竜殺しの噂は嘘じゃねぇらしいな。……だけど、所詮はトウシロか。殺気立ちすぎだぜ)
お互いの力を判断し終わると、ヴェインの方から口を開いた。
「しっかし、異界者の生き残りってのは珍しいな。3年前の戦争でほとんどが居なくなっちまったってのによ」
「…………」
「こりゃ、本格的に竜に反旗を翻すチャンスかもな。なぁエイジ」
「…………」
「……もしかしたら他にも異界者や騎士の生き残りがいるかもしれねぇしよ」
「…………」
「……おいコラァ!! てめぇ人の話聞いてンのか!?」
ヴェインは眉間に皺を寄せてエイジに食い掛かる。瞳孔を細く小さくしながらエイジを睨みつける彼女だったが、エイジの眼は遥か先の方向をじっと見ている。ヴェインの話を無視していたわけではなく、何かに集中していて聞こえていなかったようだ。
エイジの視線の先が気になり、ヴェインも険しい表情のまま首を動かした。
「……ンだよ。何見てんだ?」
「もう地別線は見えてもいい頃だろう。だが、どこにも竜の姿が見当たらないが」
「……マジかよ、どうなってやがる」
二人は走り出した。周りは視界が開けている平原だ、だというのにどこを見回しても竜の影一つ見当たらない。
地別線に当たる、大きな地割れがある位置まで二人はやってきたが、やはり竜の姿はそこに無かった。
「どうなってんだ……? 昨日にゃ百以上の竜が集まってやがったってのに……」
「……妙だな」
肩透かしを食らうよりも、不可解な気持ちが勝り二人を戸惑わせた。
ヴェインの言うように、たしかに昨日の時点でこの場所には百以上の竜が集まっていたのだ。だがどういうことか、その竜たちは一匹残らずこの場から消えてしまっている。
ヴェインはその場にしゃがみこみ、地面に刻まれた凹凸を確かめながら考えた。
「……足跡は残ってる。間違いねぇ、ここに竜はいたはずだ」
「どこかに行ったということか? ……だとしても、そもそも竜たちはなぜこんな所に集まっていたんだ」
「俺に訊くんじゃねぇ、知ってたらこんな風に驚きゃしねぇよ」
エイジは地面の足跡を確認し、地割れを覗き込んだ。底は深く延々と暗闇が続いているように見える。この奥がどうなっているかは想像も出来ないほどの闇だ。地割れの幅は思ったよりも広く、跳んで飛び越えることも出来ないほど長い。
そのままエイジは視線を地割れの先、サウスガルムの方向に向ける。地割れの先はしばらく平原が広がっているようだが、地平線は蜃気楼が発生してぼやけてしまっている。
「……砂漠、か?」
「なんだ知らねぇのか? サウスガルムは年がら年中クソあちぃ地方で、半分以上が砂漠になってんだよ」
「……そうか」
するとエイジの視線の上方から、蜃気楼を抜けてこちらに飛んでくる一羽の鳥が姿を現した。エイジはただの鳥だと気にしていなかったが、それはどんどんとこちらに向かって降下しながら向かってきている。
ヴェインもその鳥の姿に気がついたようで、左腕を掲げた。鳥は減速しながら降下し、掲げられた彼女の左腕に脚を乗せて羽を畳んだ。
「……? なんだその鳥は、ハヤブサか?」
「ああ、俺の飼ってるハヤブサでワーロックってんだ。……手紙を届けてくれる」
ワーロックの脚には小さな筒が取り付けられており、ヴェインはその中から丸められた小さな手紙を取り出した。しばらく黙って手紙に目を通していたが、彼女の表情は徐々に険しいものになっていった。
先ほどとは違い、焦りによって顔を強張らせるヴェイン。左腕を動かしてワーロックを空に飛ばすと、急ぐように話し始めた。
「エイジ! ここらに居た竜どもはサウスガルムへ行きやがった!」
「なんだと?」
「クソッたれ……竜同士で何しやがる気だっ……、とにかく俺はこのまま先にゲティスローツに向かう! 急がなきゃなんねぇ用事が出来た!」
「おい待てヴェイン、この地割れじゃ向こうには渡れない。向こうの無事な街道に回って……」
「ンな悠長なことできるかよっ……舐めんじゃねぇ、こちとらお前とおんなじで……ただの人間じゃねェんだからよ」
ヴェインは地割れの縁に立ち、膝を曲げてしゃがみ込む。両足のつま先を地面に垂直に立てて、力を込め始めた。するとヴェインの両脚、太ももの辺りから異様な音が鳴りはじめる。薄いガラスが割れるようなパキリパキリという音や、鉄の棒を捻じ曲げるようなギシリという音だ。
ヴェインのしゃがみ込んでいる地面はみしりと軋み、陥没していく。
「……らぁッ!!」
大きな掛け声とともにヴェインは脚の力を使って跳び上がった。その衝撃で地面は大きく凹み、軽い地響きを引き起こす。およそ人が跳躍できる高さとは思えない高さに跳んだヴェインは、そのまま余裕を持って地割れの向こう側へ着地した。
その様子を見ていたエイジは何よりもヴェインの身体能力に驚かされた。エイジも並の人間では出来ない動きをすることが可能だが、これほどまでに大きな地割れを飛び越すのは厳しい。
「エイジぃ! ハナミズキって宿屋に俺の荷物が置いてある! てめぇらもゲティスローツに来るんなら、ついでに持ってきてくれ!!」
「お、おいヴェイン!」
「……頼むぜ!」
ヴェインはそれだけ言い残すと、上空を飛ぶワーロックと変わりない速度で砂漠へと走り始めた。見る見るうちに彼女の姿は遠くなっていき、やがて蜃気楼の中へと溶け行くように消えていった。
「何者だ、あいつは……」
―――消えた竜たちと、去り行くヴェイン。
―――サウスガルムで、何かが起ころうとしているのは確かだ。
―――だが、何が起こるのか今の俺にはわからない。
―――そして、ヴェインの正体も。