時雨。情動。藍する伽藍堂と陽鶴の記述。
白濁する液体を手に持ち、その拍動を思う時、その感触以上に、現在性についての考察を始めてしまう。この白濁は藍。いつか見た青白いまでの晴れやかな景色を思い出す。あの景色が展開されていた時は時間は何時迄も無限に続いていくものだと思っていた。なんて愚かな感覚だろうか。愚かだが今以上に汚くはなかった。
あの輝きを僕は屋上で見ていた。屋上に疎外化された私的空間を見出す社会学者と同じ様に。
情動は秒を刻む毎に汚染を繰り返し、その反復に現在性を感じ、冷ややかに笑う姿を、気持ち悪いと切り捨てる人達の事を僕は大衆と読んでいる。だがそれは確かな他者の総体であり、僕もその一部に包摂されていると思考する場合、全ては数学的な変数として語る簡素的解釈が有効だと知る、と同時に何処かニヒルな気持ちにもなる。
愚かさと悲しさ。あの愚かさは反復していた過去と反復しないであろう未来を指す。悲しさも然り。