水の世界
大正の帝都東京に、一人の書生が歩いていた。
書生は、土地成金を親に持つ、すねかじりのドラ息子で、先月ついに二十四才の誕生日を迎えた。
彼は作家になりたいと高い金を払い、立派な学校へ入ったものの、途中で飽きてしまったのか、ほとんどをサボタージュしていた。
なまじ捨てるほどの金が有り余っているだけに、彼の生活は道楽を極めた。
朝から晩まで酒を飲む日もあれば、女を品定めして朝まで楽しむこともある。正に、寝て食って遊ぶの三拍子を揃えていた。
が、作家になりたいという夢が消えたわけでなく、その間にも彼は、ヘラヘラとしながら独学と惰性で物語を書き続けていた。
悠々自適な生活に満足していた書生は、また今日も同じように酒を飲んで、月も頂点に昇ろうという時に帰路へつこうとしていた。
ところが、路地を通って帰ろうとした彼は、木箱に躓いて安定を崩し、なんと水樽の中へと頭から突っ込んでしまったのである。
書生は驚いた。
樽の中なのに、まるで湖にでも落ちたような、水中の世界が広がっていた。
しかし、息は出来る。でも、息を吐くと水が空気を含んで水泡をつくり、プカプカと浮かんでいった。
それを負って彼は泳いだが、いくら上に泳いでも泳いでも、あがれない。
これは夢だと決め付けつつも、途方に暮れていた彼だったが、眼下に光が見えて、そこへ急いで水をかいていった。
そこには女がいた。
といっても、女は身体が半透明で、水に溶けているかの如く、触れられない人物だったが。
「私はこの水の主です。あなたは樽の中に落ち、たまたまこの水の世界にやってきてしまいました」
「どうすれば出られるんだ。教えなさい」
書生は、声を裏返らせながら水の主に掴みかかった。といっても、掴む事は出来なかったが。
「出るためには、あるものを捨てて、あるものにこの世へ出るための空気を入れなくてはなりません」
「理解出来ん。簡単に言え」
「一つを選んでください。あなたが落としたものは、夢と財力です。どちらを選びますか? 片方を捨てれば、片方がより強力になりますよ」
「どちらだって?」
「夢を捨てれば、あなたは惰性どころか、本当に遊んで暮らすことが出来ます。ただし二度とまともな文章は書けなくなるでしょう。財力を捨てれば、今の悠々とした生活は失われますが、作家に対する熱意は一生残ります。どちらにしますか」
彼は考えた。財力を捨てるということは、今自分が持っている手持ちの銭を捨てていくということであろう。
それぐらいならば大したことは無い。家にはいくらでも金があるのだから。
それより、作家になりたいという夢を捨ててしまったら、自分は二度と物が書けなくなってしまう。現実だとしたら、それは大いに困る話であった。
「財力を捨てて、夢を拾う」
「あなたは、熱意のある方ですね」
といった水の主は、書生の足元から竜巻を起こすと、彼を水面へと吹き飛ばしてしまった。
目が覚めた彼は、全身びしょ濡れになっていた。
サイフに入っていた紙の札はドロドロになって、使い物にならなくなっていた。なるほど、あれは夢ではなかったのかと彼は少し身震いした。
この不思議な体験に恐怖しながら家に帰ってみると、なんと家は火事にあっていた。
翌日、彼の家の財産が全て焼け落ちたことを知った。それは、今まで自分が書き溜めてきた小説も同様である。
全てを失った彼は、友人から紙とペンだけをもらって、取り憑かれたように小説を書き始めた。
その後、彼の成功の噂を聞いたものはいない。
大正の帝都東京。優雅な建物がひしめく町の屋根で、泥棒が走っていた。
もう五〇になる彼は、泥棒暦三〇年のベテランである。今まで、捕まったことは一度も無い。
だが、それは彼の腕と運が良かったのもあるが、そもそも、彼自身がそれほど有名な泥棒ではないという理由もあった。
つまり、ベテランのコソドロなのである。
ある日、彼は成金の家に忍び込んだ。
玄関や廊下の明りにロウソクを何本も使っている、いかにもといった豪邸である。
そんな彼の目当ては勿論金であった。
たいまつ片手に家主の部屋に入り、その部屋の金庫を開けると、彼の狙い通り大金が眠っていた。
信じられないほどの大金を手に、万歳三唱をしたい気分になっていたが、そこで警備していた人間に見つかってしまった。
急いで逃げようとした彼は、たいまつを手から転げ落として、廊下を火の海へと変えてしまった。おまけに尻に火がついたから、さあ大変。
彼は、水はないかと慌てているうちに、庭に通じる窓に池を見つけると、ガラス窓を蹴破ってそこへ飛び込んだ。
彼が忍び込んだのは夜だったが、飛び込んだ池の中はまるで昼間のように明るかった。
そして、海よりも広い空間であった。
どっちに泳いでも、延々と続く水。そして、何故か空気が出来る水中。
彼が動揺していると、目の前に女神のような姿をした女が現れた。驚いて身を引く彼だったが、その女神の美しさにすぐ見惚れた。
といっても、彼には妻と娘がいる。その妻に比べれば、この美しい女神ですら二番目である。
「あなたは水の世界に落ちました」
「そうなんですか」
「この世にあがりたければ、二つのうちどちらかを捨てて、片方に空気を入れなくてはいけません。ただし、捨てなかった方は、より強固なものになるでしょう」
「本当ですか。それで、何を選べばいいんですか」
「泥棒と家族の絆です。泥棒を選べば、家族は二度とあなたを愛しません、絆が途切れることでしょう。家族の絆を選べば、あなたは一生家族と暮らせるでしょうが、泥棒の出来ない身体になります。どちらにしますか?」
男は、少しうーんと唸ると、コクリと頷いてから即答した。
「家族の絆です」
「では、泥棒は廃業ですか」
「出来なくなるなら仕方ありません。その代わり、暮らしのために今度は妻に泥棒の技術を教えます。身体が出来なくなっても、頭でわかってれば、完全でなくても技術は伝えられます」
「なるほど。そうかもしれませんね」
「そして、妻の後を娘が継ぎます。女泥棒なんて、随分とロマンがあって良いではありませんか」
喜々として語る彼に、女神はその足元へ竜巻を誕生させた。
もろにそれを食らった彼は、地上へと回転しながらあがってすった。
目が覚めると、彼は池の横で寝転がっていた。起きた先には、メラメラと焼ける家があった。
ふと、足に激痛を感じて見てみると、脚にやたら太いガラスが刺さっていた。歩けないことはなかったが、もう機敏に走ることは出来なくなっていた。
医者に見てもらって、もう自分が走れないことを確認して、彼はあれが本当にあったことなんだと、少しワクワクした。
帰ってから、生きて火事から戻ってきたことを喜んだ家族と抱擁をかわした彼は、早速自分の代わりに泥棒をやってくれないかと頼んだ。
彼を普段から慕っていた妻は、その頼みに快く応じて、夫の指導の下、泥棒稼業のなんたるかを学んだ。
技術を叩き込んでから数年後、泥棒猫なんて呼ばれるようになった妻が食事を作る風景を見ながら、元泥棒は椅子にどっぷりと座って、眠りかけていた。
そんな彼に、もうすぐ一四になろうかという娘がやってきて、「もう教えることがなくなった?」と、複雑な表情で聞かれた。
元泥棒は、それを頷いて肯定した。
「じゃあこれから、お父さんは何をなされるの?」
娘の、一番聞きたかったであろう質問をぶつけられた彼は、いつの間にか生えた不精髭をいじりながら、にこやかに答えた。
「そうだねえ、いっそ我が妻の活躍を、小説にでもしてみるか」
彼の小説『大泥棒猫』は、後世には残らなかったものの、当時一時的な話題を呼んだ。
狼仙人では、読んだ方はわかるように『狼少年』を土台に話を広げましたが、今回は名作童話『金の斧』を元に書いてみました。今回は知り合いと共に、ある程度テーマと縛りを設けて書きました。今回は、時代と登場人物とモチーフを縛ったのですが駄目書生を書くのが楽しすぎて、泥棒はやや投げてしまいました。