六
自宅に到着した大智は倒れた塀や車が突っ込んだであろう部分を覆っているブルーシートの隙間から覗く破壊された箇所を見て、その被害の大きさに愕然とした。
「大ちゃん。帰って来ちゃったの?」
大智の背後から母親の声が聞こえて来た。
「母さん」
大智は振り向くと、飛び付くようにして母親の傍へ行った。
「怪我とかないんだよね? 大丈夫なんだよね?」
大智は母親の全身を確かめるように上から下まで顔を動かして見た。
「平気よ。本当に大丈夫。そんな事より、早退したんでしょ。もう。そんなつもりで電話したんじゃないのに」
母親が言いながら肩から掛けているバッグの中に片手を入れた。鍵を取り出すと、母親が鍵を見つめて動きを止めた。
「あら、嫌だわ。鍵、いらなかった。玄関は壊れちゃってるけどこれはこれで便利なのよ。そこのシートめくれば家の中に入れるんだから」
母親が鍵をバックの中に戻すと家に向かって歩き出した。大智もすぐに後に続いた。
「母さん」
大智は母親の背中に向けて呼び掛けてから、目を伏せて押し黙った。僕の所為でこうなったんだと言おうと思っていた。だが、母親の悲しむ顔が頭の中に浮かび言葉を出す事ができなくなった。
「ひょっとして何か学園で聞いたの? あれらしいのよね。大ちゃんの学園を経営してる会社の関係者なんですって。さすが大企業ね。もうちょっとだけ今後の事話したんだけど、全額負担で家の立て直ししてくれるって。ついでに新築にしますか? なんて言うのよ。断っちゃったけど、今思えば頼んでも良かったかも知れないわね」
母親がブルーシートの前で足を止め思案顔になりながらブルーシートをめくった。
「違うんだ」
大智はちゃんと言わなきゃ駄目だと思い再度言葉を出そうとした。母親のバッグの中から携帯電話の着信音が聞こえて来た。
「ちょっと待って。電話だわ。さっき後ですぐに電話するって言ってたから事故の相手の人かしら」
母親がバッグの中から携帯電話を取り出し通話を始めた。
「お父さん? ええ? 本当? 大丈夫なの? そう。そうなら良かった。あら。本当に? 凄い偶然ね。そうそう大ちゃん、帰って来ちゃったのよ。お父さんは帰って来ないで良いからね。旅行でサボってたんだから今日はちゃんと仕事して来なさいよ。病院? 何言ってるのよ、もう。はい。分かりました。じゃあ、また後でね」
電話の途中で大智の方に目を向けていた母親が通話を終了するとすぐに口を開いた。
「お父さん。今日、午後から呼びされて職場に行ってるんだけど、仕事の車で移動中に事故に遭ったんだって。それが、相手がまた巡天の関係者なんだって。こんな偶然ってある物なのね」
「父さんが? 大丈夫なの?」
大智は自分の体が足の先の方から崩壊して行くような感覚を抱きながら大きな声を上げた。
「そんなに驚かなくっても大丈夫よ。全然平気だって」
大智は激しい罪悪感に押し潰されそうになりながら喘ぐように言葉を出した。
「母さん。ごめん。僕」
また母親の携帯電話が鳴り、それとほとんど同時に大智の携帯電話も鳴り出した。
「あら。また電話。事故の相手の人からだわ。大ちゃん、ちょっと待って」
電話に出た母親の会話が終わるのをしばらく待っていたがなかなか終わらないので大智は仕方なしに制服のポケットからまだ鳴っている携帯電話を取り出した。画面を見ると見知らぬ携帯電話の番号が表示されていた。出ようかどうしようか迷ったが母親の電話も終わらず着信音も止まらないでの大智は電話に出る事にした。
「ごきげんよう。巡天菊子ですわ。あなたのお父様、今回は無事だったようですけれども次はどうなるか分かりませんわよ。家の事だけでは足りないと思いましてついついやってしまいましたの。あなたが大人しくしていればこれで終わりにしますわ。けれど、もうこの件に関して、御家族の方にいろいろ話してしまったかも知れませんわね。騒いでもらって大いに結構ですわ。そうしましたら、またあなたとあなたの御家族をいびる事ができますもの。楽しみにしていますわ。では、またですわ」
一方的に話すだけ話し、菊子の方から通話が切られた。大智は菊子の狂気と毒気に当てられて携帯電話を耳に当てたまま操作する事も忘れ立ち尽くしていた。
「大ちゃん。どうしたの、ぼーっとして。家の中に入るわよ」
母親の声が聞こえて来た。
「あ、う、うん」
大智は我に返ると返事をし頷いてから、慌てて言葉を出した。
「母さん」
大智はとにかく僕が悪いんだと言わなければと思い母親を呼んだ。
「何? そんな大きな声出して。お父さんなら大丈夫よ。声、凄く元気そうだったんだから」
大智は母親の言葉を聞いて、また押し黙ってしまった。菊子の言葉が頭の中に浮かんで来た。自分が菊子の事を言って両親が菊子に対抗するような事をしたら両親の命に関わるような事が今度こそ起きるかも知れないと思った。大智は自分の気持ちをごまかすように周囲に目を彷徨わせてから目を伏せ言葉を作った。
「ああ、ええっと、本当に? 父さんは本当に平気なの?」
「大丈夫よ。事故っていっても軽くぶつかった程度なんですって。それより、大ちゃん、 顔色悪いわね? 大ちゃんこそ大丈夫なの?」
母親が心配そうな顔で大智の顔を覗き込むようにして見つめて来た。
「僕? 僕は全然平気。父さんが大丈夫なら良かった。母さん、その荷物、ごめん。僕が持つ。早く家に入ろう」
大智は母親がスーパーの袋を片手に提げている事に気が付くと、その袋を奪うようにして取りながら言った。
「ありがと、大ちゃん」
大智の手にスーパーの袋を渡してから母親が急にしんみりとした声を出した。
「母さん?」
母親の声の変化にどうしたんだろうと心配になりながら大智は母親の顔を見た。
「帰って来てくれて良かったわ。お父さんの事まであって、一人だったらちょっと不安になってたかも知れないから」
母親が大智の顔を見つめながら優しい笑みを顔に浮かべた。
「母さん」
母さんごめんなさいと大智は心の中で謝った。
「もう、何? 母さん変な事言った? 大ちゃん、声が震えてるわよ」
母親がからかうように言い嬉しそうな顔をした。
「なんでもないよ。母さんが急にありがとうなんて言うから。これ、台所に置いとくよ。部屋に行く」
「大ちゃん。靴は中で脱ぐのよ。箱置いてあるから。それと、一応片付けたけど物がまだ転がってるかも知れないから踏んで転ばないでよ」
大智は泣きそうになるの必死に堪えながらわざと突き放すように言い、走って家の中に入るとスーパーの袋を台所のテーブルの上に置いて靴を脱いでから自室へと向かった。自室の中に入ると大智はドアを閉めて、ベッドの上に寝転び顔を枕に押し付けて声を押し殺して泣いた。両親、兼定、ナタリー、向日葵、戦子、その誰の為にも自分は何もできない、両親には迷惑まで掛けている、大智は何度も何度も自分の情けなさ、力のなさを痛感し、泣き続けた。
「大ちゃん。寝てるの? 大ちゃーん?」
母親の声が聞こえ、大智はいつの間にか閉じていた目を開けた。
「うん。ごめん。寝てた。どうしたの? 何かあった?」
泣き腫らした目を擦りながら返事をした大智はまた何か悪い事があったのではないかと思うと飛び起きた。
「何言ってるのよ。そんなに何度も何かあったら困るわ。晩ごはん。食べないの?」
大智は部屋の中が真っ暗になっている事に気が付いたが灯りはつけなかった。
「ごめん。今日はいいや」
「いいって。お腹空いてないの?」
「うん。帰って来る前に学園でたくさん食べて来たから平気。それよりなんか凄く眠たくて。また寝るから。ごめん」
少し間を空けてから母親が言った。
「大ちゃん。学園でなんかあった?」
大智は慌てて元気な声を作った。
「何もないよ。ごめん。本当に眠かっただけだから。心配しちゃうよね。少ししたら下に行く。ごはん先食べてて」
「そう。なら良いわ。何かあったらすぐに言いなさいよ。前の事があるんだから。母さんも父さんも多少の事じゃなんとも思わないんだからね」
大智は心の中が温かくなるのを感じて微笑した。
「うん。ありがとう」
「じゃあ先に食べてるわよ。早く来なさい」
「うん」
母親の足音が遠ざかって行くのを聞きながら、大智は立ち上がり部屋の灯りをつけた。まだ制服を着たままでいた事を思い出し制服を脱ぎ部屋着に着替えると、すぐに部屋から外に出た。台所に向かいながら家と父親の事故が自分の所為だと言えない事でうじうじと思い悩み母親に心配を掛けるくらいなら事故の原因が自分であるという事を考えるのはしばらくやめておいた方が良いのかも知れないと思った。
「母さん。僕も食べる」
台所に着くと一人でテレビを見ながらテーブルに向かい食事をしている母親に声を掛けた。
「ちょっと待って、すぐに支度するわ」
母親が箸をごはん茶碗の上に置いた。
「いいよ。自分の分は自分でやる。母さんはそのまま食べてて」
「どうしたの? 急に自分でやるだなんて」
母親が大げさに驚きながら嬉しそうに言った。
「今日はそういう気分なだけ。たまには良いでしょ」
大智はテーブルの上に用意されていた自分用の食器にご飯とお味噌汁をよそうと椅子に座って食事を始めた。
「父さんはまだなの? 早く帰ってくれば良いのに」
大智はテレビ画面の左下端に表示されている時間を見ながら言った。
「お父さんは学生じゃないんだから、そう簡単には帰って来られないのよ。大ちゃん。明日は早退したりしちゃ駄目よ」
「うん。ちゃんと終わるまで学園にいる」
大智が真面目に答えると母親が不思議そうな顔になり大智の顔を見つめて来た。
「今日はやけに素直じゃない。いつもならうるさないとかちゃんと行くよとか口を尖らせて言うのに」
大智はまた母さんが心配してしまうかも知れないと思うとわざと少し大きな声で不満そうに言った。
「ちょっと素直になるとこれだもんな。母さんは僕が言う事を聞いた方が嫌なんじゃないの」
母親が優しく微笑んだ。
「そんな事ないわよ。言う事を聞いてくれたら嬉しいに決まってるじゃない。でも、急にだとね。いつもがいつもだから驚いちゃう」
「もう。いつもがいつもってなんだよ」
大智がつっけんどんに言うと母親がすぐに笑いながら言った。
「それよそれ。いつもの大ちゃん」
大智は普段ならなんと思わないこのどうでもいい会話をとても愛おしく大切な物だと感じた。
「さてっと。母さんはごちそうさま」
先に食べ終えた母親がテーブルに両手を突いて立ち上がった。
「母さん、後片付け僕がやるよ。事故の事で今日は大変だったでしょ。お風呂入ってゆっくりしな」
母親が使い終わった食器を持ち易いように並べていた手を止めた。
「大ちゃん。今日は凄く優しいのね」
「母さん、そういうのはもう良いよ。母さんから電話が来た時、本気で心配したんだ。だから、なんか手伝いたくなってるだけだよ」
事故の原因が自分だという事には触れないようにしながら思っている事を言葉にした。
「大ちゃん」
母親の瞳が涙で潤んだ。
「泣いてるの? 母さん大げさ」
「だって今日はいろいろあったし大ちゃんが急に優しくなってるから」
母親が責めるように言いながら両目の目尻を指で軽く擦った。
「何か他にもあったら言って。なんでもやるからね」
母親が止めていた手を再び動かしながら言った。
「うん。ありがとうね。これだけは運んじゃうわね」
「うん。よしっと。僕もごちそうさま。片付けやっちゃうね」
大智はごはん茶碗に残っていた最後の一口分のごはんを食べ終えると立ち上がり、自分の使っていた食器を流し台まで運び始めた。
「じゃあ、母さんお風呂行って来るわ」
「うん。ゆっくり入って来て」
「そうさせてもらうわ」
台所から出て行く母親の後姿を大智は母親に気付かれないようにそっと見つめた。母親の姿が見えなくなると大智は小さな声でごめんなさいと言ってから食器を洗い始めた。母親がお風呂から出る前に後片付けをすべて終えた大智は自室へと戻った。机に向かい翌日の時間割を見ながら教科書やノートなどの準備をし、それを終えるとベッドの上に寝転んで天井をじっと見つめた。頭の中に今日起きた出来事が次々と浮かんで来て明日からの事を思うと不安ばかりが募って行った。大智は気分を変えようと思いながら部屋の中に視線を彷徨わせた。天井近くまである本棚の一番上の棚に載っていた戦子のフィギアを見付けると大智は目を閉じ不安から逃げるように戦子の事を考えた。戦子の事だからどこかにきっと自分のコピーを残してるはずだと思った時、大智ははっとして上半身を勢い良く起こした。
「ここにいるかも知れない」
大きな声を上げると大智はデスクトップPCの電源を入れた。椅子に座ってOSが立ち上がるのを早く早くと思いながら待ち、立ち上がるとすぐに戦子という名前のファイルがないか検索を始めた。
「ない。名前が違うのかな」
大智は激しく落胆しつつもまだ可能性はあると思うと戦子に関係しそうな思い付く限りのファイル名をすべて検索した。検索結果ゼロという文字だけが何度も何度も繰り返し表示され、大智は検索する手を止めた。
「駄目だ。ない」
大智はゴンっという小さな音ともに頭をぶつけるようにして机の上に載せると目を閉じた。戦子を見付ける事もできず部室へも行けず武部の事について菊子に何かを言う事もできず両親に本当の事を言う事もできず武部の皆の事を見捨てて明日から生きて行かなければいけないんだと思うと大智は泣きそうになった。
「大ちゃん。お風呂出たわよ」
ドアの向こうから母親の声が聞こえて来た。
「うん。分かった。すぐ入る」
懸命に元気そうな声を作って言ってから、大智は今の自分にできる事がある事に気が付いた。父さんと母さんにだけは絶対に心配をかけないようにしよう、大智は誓いを立てるように頭の中にその言葉を思い浮かべ心に刻み込むと立ち上がって風呂場へと向かった。
翌朝起きると昨晩よりも更に気分が重くなっていたが大智は心に刻んだ言葉の通り、両親には心配を掛けまいとして家を出るまで普段と変わらない自分を演じ続けた。家を出て学園に着いた大智は皆ごめんと心の中で謝りながら部室へは行かずに自分の教室へと向かった。武部の皆の事を考えながら教室へと入った大智はいつものように誰とも挨拶も会話もせずに自分の席に座ると鞄を机の横に掛けた。
「不登校」
「暴力事件」
誰かが囁くように言ったそんな言葉が不意に大智の耳に入って来た。心臓が自分でも驚くぐらいに大きく一度脈を打った。大智は体を強張らせながら耳を澄ませた。
「人を殴った」
「血塗れ」
教室内で会話する誰かの声でまたそんな言葉が囁かれるのが聞こえた。僕は何を驚いてるんだろう、僕の事じゃない、大丈夫だと思いながら強張っている体を不自然にならないようにと意識しながら動かすと鞄の中から教科書やノートなどの授業で使う物を取り出し始めた。
「鹿島」
「あいつだ」
自分の名前が聞こえたので大智は思わず声のした方に顔を向けてしまった。三人で一つの机を囲むようにして集まっている男子生徒のグループの一人と目が合った。相手の生徒が気まずそうに視線を外したので大智も慌てて顔を俯けた。
「凄い睨んでた」
「狙われるぞ」
「マジかよ」
大智はできるだけゆっくりと音をたてないようにしながら立ち上がると、教室から早足で外に出た。しばらく歩いてから自分が武部の部室へと向かっている事に気が付くと慌てて足を止め、部室以外で僕が行ける場所で誰もいないと所はどこだろうと考えた。一度も行った事はなかったがこの学園は屋上に入れると聞いた事があったのを思い出し行ってみようと決めると進路を変えた。階段を上がって行き最上階の更に先にある屋上へと続く扉の前に来ると大智はドアノブに手を伸ばしそれを回した。扉はあっさり開き大智は晴れ渡った青空の中に浮かんでいるような屋上の中に入った。周囲を見ると数人の生徒がいたが学年が違うようだったので大智はここで我慢しようと決めると屋上のフェンス際にいくつか内側に向かって置かれていたベンチの入り口から一番遠い場所にある一つに向かった。
ベンチに座り顔を俯けた大智は緑色に塗られている屋上の床の何もない一点を見つめた。
教室内で聞いた不登校、血塗れ、あいつだ、などの声が大智の頭の中に今も誰かが周りにいて囁いているかのように響き始めた。
「誰が」
誰が言ったんだ、と独り言をこぼしそうになったが、すぐに菊子だと思い付いて大智は言葉を途中で飲み込んだ。大智の携帯電話が着信音を鳴らした。大智は携帯電話を制服のポケットから取り出すと画面を見た。前に菊子から掛かって来た時と同じ電話番号が表示されていた。大智は通話を開始させると何も言わずに相手の声が聞こえて来るのを待った。
「ごきげんよう。菊子ですわ。あなたの過去の事を教室にいる御学友の皆様に少し話しておきましたわ。あなた、まだ誰にも話していなかったらしいですわね。先に話してしまって申し訳なかったですわ。それで皆様の反応はどうだったのか聞かせて欲しいと思いまして電話したのですわ」
菊子が大智の言葉を待つように沈黙した。大智は今すぐ通話を終了したいという衝動に駆られたが、そんな事をして菊子の機嫌を損ねたら家や両親にまた何をされるか分からないと思うと、衝動と感情を押し殺し静かな声を出した。
「教室にいるのが嫌になったから今は屋上にいる」
「授業には出ないつもりですの?」
「少ししたら戻る」
両親を心配させない為には教室に戻るしかない、と大智は思った。
「そのまま戻らないで学園をやめてもらっても結構ですのよ」
「武部に行ってないのにどうして? 話が違う」
感情に流されないようにあくまでも冷静に大智は言った。
「違うという事はなくってよ。わたくしはただあなたの御学友にあなたの過去の話をしただけですわ。あなたとわたくしの仲なのですわよ。あなたの為を思って話をしたのですわ」
この人はなんなんだ、どうしてこんな事ができるんだ、と大智は思いながら言葉を出した。
「僕がやめるまでこういう事を続ける気?」
「あなたがやめてしまったらこういう事はできなくなりますわね。それはとても残念な事ですわ」
じゃあやめるよ、と大智は言いたかった。だが、両親の事、武部の皆の事を考えるとその言葉は絶対に出してはいけないと思った。
「もう教室に戻るから」
大智は通話を終了しようとした。
「ナタリーがまたうちの会社に来ていましたわ。家同士の事もあるので対応が難しいのですけれど、今回も少し痛い目にあってもらいましたわ。保健室に届けておくように言っておきましたの。看病しに行ってあげた方が良いと思いますわよ。それくらいなら許して差し上げますわ」
大智が言葉を出す前に菊子が電話を切った。
「ナタリー先輩」
大智はベンチから立ち上がると保健室目指して走り出した。朝のホームルームが始まり静まり返っている校内を大智は駆け抜け保健室に到着するとナタリー先輩と叫ぶように言いながら扉を開けた。
「ダイチか? どうした?」
ベッドの周りを覆っている間仕切り用の白いカーテンの中からかすれている小さなナタリーの声がした。
「巡天菊子から電話があったんです。大丈夫なんですか?」
大智はベッドに近付くと間仕切り用のカーテンを開けようと手を伸ばした。
「開けないでくれ。ソーリー、ダイチ。今のミーは見せたくない」
大智は開いていた手をぐっと握り締めると腕をゆっくりと戻しながら顔を俯けた。
「そんなに酷いんですか? ナタリー先輩がそんな事言うなんて初めてじゃないですか。ナタリー先輩。もうやめて下さい。別の方法があるはずだ。武部の皆にも会えなくて、ナタリー先輩までいなくなったら僕はどうすれば良いんですか?」
途中からナタリーにすがるように大智は言い募っていた。
「かわいい事言うじゃないか。今回はちょっと無理をし過ぎてな。次はこんな事にはならないようにするさ。そうだ。ダイチにプレゼントがあるんだ」
カーテンの布地が擦れる音がしたので大智が顔を上げると、カーテンとカーテンの隙間からナタリーの血で汚れた指が少しだけ出ているのが見えた。
「血だらけじゃないですか」
「そっちじゃない。指の間を見ろ。メモリーカードがあるだろ。結構ハードに扱ったから壊れてないと良いんだが」
ナタリーに言われて目を凝らすと人差し指と中指の間に小さな薄い正方形の黒い物体が挟まれているのが見えた。
「これがプレゼントですか?」
「指から力が抜けて落としそうだ。悪いが早く受け取ってくれ」
「はい。分かりました」
大智はナタリーの手を両手で包むようにして支えながら指の間に挟まれているメモリーカードを受け取った。
「落としたりするな。大事な物が入ってるんだ」
ナタリーが手を引くと満足気に言った。大智は手の中にあるナタリーの指と同じように血で汚れているメモリーカードをじっと見つめた。
「これってひょっとして中に戦子が入ってるんですか?」
「さあな。中は見てのお楽しみだ。家に帰ったら見てみるんだな。ミーは疲れた。少し寝る」
「ナタリー先輩」
大智はまだナタリーと話をしていたい、ナタリーの声を聞いていたい思い名を呼んだ。だが、ナタリーはもう寝てしまったのか言葉は返っては来なかった。
「ありがとうございます」
大智は小さな声でお礼を言うとできるだけ音をたてないようにしながら保健室から廊下に出た。教室へと向かって歩き出しながら、大智は手の中にあるメモリーカードの感触を人差し指の腹で擦って確かめた。大智は我慢できなくなって駆け出した。教室へ向かうには階段を上がって行かなくてはならないのだが、大智はその階段を上らずに通り過ぎた。やがて辿り着いた昇降口で大智は靴を履き替えると家に向かった。家の近くまで来ると前に校庭で見た事があるのと同じ黒いワゴン車が二台、家の前に止まっているのが見えた。大智は走り疲れて歩いていた事を忘れ再び走り出すと、家の敷地内に飛び込むようして入りブルーシートめくった。
「母さん」
母親に対して直接危害を加えるような事はないだろうと思いながらも大智の声は心配と不安の度合いを表すように大きな物になっていた。返事がなかったので家の中に上がり靴を脱いでからもう一度もっと大きな声で母親を呼んだ。
「大ちゃん? 大ちゃんなの?」
訝しむような母親の声が居間の方から聞こえて来た。
「母さん、何してんの?」
居間に行くと黒いスーツを着た男と学園の制服に身を包み顔を俯けていて誰なのか分からない女生徒が並んで座っていて、その二人とテーブルを挟んで向かい合うようにして座っている母の姿が大智の目に入って来た。
「ちょっと大ちゃん。そっちこそ何やってるのよ? 学園は?」
母親が大智の方に顔を向け責めるような口調で言った。
「そんな事より、母さん達は何してたの?」
大智は睨むようにして顔を俯けている女生徒と黒いスーツの男の方に目を向けた。
「大智君」
顔をゆっくりと上げた女生徒が言った。
「兼定先輩?」
顔を俯けていた女生徒は兼定だった。
「謝りに来たの。大智君、ごめんなさい」
兼定が深々と頭を下げた。
「兼子さん。頭を上げて下さい。あなたが謝る事はないわ」
大智の母親が気遣うように優しく兼定に声を掛けた。
「お母さん。でも、私の所為で」
「あなたの所為じゃないわよ。こういう言い方は酷いかも知れないけど、悪いのはあなたのお姉さんだわ」
「お母さん」
目に涙をためて悲しそうな顔をしながら母親と話す兼定を見ていて大智は怒りや悲しみや切なさなどの様々な感情が頭の中で渦巻くのを感じた。
「兼定先輩。ナタリー先輩を止められませんか? これをさっきナタリー先輩にもらったんです。ナタリー先輩は一人で戦ってます。これに付いてるのはナタリー先輩の血です」
大智は頭の中で渦巻くすべての感情を抑え込むと兼定の横まで行き、メモリーカードを見えるように目の前に差し出しながら言葉を作った。
「知ってるわ。私もやめるように言ってるの。けど、言う事を聞いてくれなくって。ごめんね。私がこんなだから」
切なそうな悲しそうな表情を顔に浮かべながら兼定はメモリーカードをじっと見つめていた。
「僕らの事があるのは分かります。でも、どうしてなんですか? そうまでしてあの人の言う事を聞かなきゃ駄目なんですか?」
言ってから大智は慌ててすいませんと謝った。
「僕は何もできないんです。だから、それが辛いんです」
大智は顔を俯けた。
「ごめんね。大智君。お姉ちゃんね、もう後少しか生きられないんだって。病気らしいの。だから、言う事を聞いてあげたいんだ」
大智は頭をガツンと何かで殴られたような衝撃受け、弾かれたように勢い良く顔を上げると兼定の顔を見つめた。
「兼子さん。そんな事情があったのね。分かったわ。さっきのお金、受け取ります。我家にできる事はそれぐらいですものね。最後までお姉ちゃんに付き合ってあげなさい」
大智の母親が優しく労わるように言った。
「お母さん、すいません。ありがとうございます」
兼定が涙声を震わせながら言った。大智は静かにその場に腰を下ろし、顔をまた俯けた。
「大ちゃん。家とお父さんの事故の事と学園での事、さっき全部兼子さんに聞いたわ。駄目じゃない。ちゃんと話してくれないと。学園へはもう行かなくても良いわよ。転校すれば良い。転校が、高校に行くのが嫌だったら思い切って高校行かないで高卒認定試験受けて大学へ行くのでも良いわ。ああ。就職はできればまだして欲しくはないわね。大学へは行って欲しいかな」
母親が突然なんでもない事のように明るい声で言ったので大智は先ほどと似たように酷く驚いて顔を上げ、今度は母親の顔を見つめた。
「母さん、ごめん。それで、えと、ありがとう」
大智は心の底から安堵しながら、心の底から謝って心の底からお礼を言った。
「兼子様。そろそろお時間です」
黒いスーツの男が腕時計を見ながら口を開いた。兼定が分かりました、と言ってから大智の母親の顔を見た。
「お母さん。ありがとうございます。それと、本当にすいません」
兼定が深々と頭を下げた。
「頭を上げて。うちの方は大丈夫よ。大変だと思うけど、頑張るのよ」
「はい。本当にありがとうございます」
兼定が顔を上げると、大智の方に顔を向けて来た。
「大智君。私のわがままで迷惑ばかり掛けてごめんね。けど、君が信じる物があってその為に何かをしたいと思ったら、真っ直ぐに進んでね」
大智は兼定がなんの事を言っているのかが分からず返事に窮してしまった。
「急におかしな事言ってごめんね。でも、後できっと分かる時が来るわ。じゃあ、お母さん。大智君。さようなら」
兼定が言ってから立ち上がると、黒いスーツの男がテーブルの下から銀色のアタッシュケースを出してテーブルの上に置いた。
「ではこれはお納め下さい」
「はい。分かりました」
黒いスーツの男が言い母親が答えると黒いスーツの男も立ち上がった。
「玄関まで、あら嫌だわ。今はこっちだったわね」
母親が言いながら微笑んで立ち上がり、兼定達を先導するように歩き出した。大智も立ち上がると一番後ろを歩いて付いて行った。
「大ちゃん。あれ、開けてみよっか」
兼定達を見送ると母親が悪戯っ子が悪戯をする前のようなちょっと興奮したような様子で言った。
「母さん。なんで楽しそうなの」
大智は非難するように言いながら、こんな時なのに母さんって強いんだなと思った。
「だっていかにもって感じの銀色のアタッシュケースよ。母さん本物見たの初めて。大ちゃん、中に何が入ってるか分かる?」
居間に向かって歩き出しながら母親が得意気に言った。
「お金でしょ。いかにもって感じだもん」
母親が深い溜息をつきながら大げさに落胆した顔をした。
「がっかりだわ。そうだけど、そこは何か違う事を言わないと。大ちゃん、友達につまんないとか真面目とか言われるでしょ?」
「なんだよそれ。今はそういう事関係ないでしょ、もう」
居間に入ると母親が早速アタッシュケースに近付き開ける為に手を伸ばした。
「凄いわね。母さん、この量のお金、テレビに出て来る物以外で初めて見たわ」
アタッシュケースの中に並べられた札束を見て母親が息を飲んだ。
「僕だって初めてだよ。母さん、これ本当に受け取っちゃって良いの? なんか怖いよ」
大智はたくさんの札束を呆然と見つめながら口だけを動かした。
「良いのよ。家とお父さんと大ちゃんに対する慰謝料だもの。もっともらって良いくらいだわ。でも、本当は、お金じゃないわよね。いくらもらったってしょうがないわ」
母親がふっと真面目な表情と口調になって言ってから大智の顔を見て優しい笑みを顔に浮かべると札束の一つを手に取った。
「今日はお札のお風呂やってみよっか? 一度やってみたいと思ってたのよね」
母親が更にいくつかの札束を手に取ると、扇のように広げて自分の顔をあおぎ始めた。
「母さん。何やってんだよ」
大智は苦笑いしながら非難しつつ、僕も触ってみようと思い少し緊張しながら札束の一つを手に取った。
「なんか、以外と普通だね。これ一束何枚なんだろう」
大智は手に持っている札束をためつすがめつした。
「一つ百万円よ。大ちゃん。それ上げる。好きに使って良いわよ」
「ええ!? 本当に?」
「本当に。パーッと使って嫌な事忘れちゃいなさい」
大智は母親が突然百万円をくれると言った事に母さんって凄い大胆で豪胆なところがあるんだ、と驚きながらこのままこのお金を自分で持っているのはちょっと怖いと思い札束をアタッシュケースに戻そうとして、アタッシュケースの底に白い封筒が一つ入っているのを見付けた。
「なんだろ。母さん。これ」
札束の下から引っ張り出すようにして封筒を取り出すと母親に向かって差し出した。
「何かしらね」
母親が手に持ち扇のようにしていた札束をテーブルの上に置くと封筒を受け取り封を切った。
「何?」
「ちょっと待ってね。ん? これ、大ちゃん宛てよ。嫌だわ。ラブレター。あの、兼子って子綺麗だったわね。大ちゃん逆玉かもよ。やるじゃない」
母親が至極嬉しそうに冷やかしながら封筒を大智に向かって差し出して来た。
「何がラブレターだよ。からかわないでよ」
大智は母親の手からさっと封筒を取ると、中を覗いた。半分に折られた白い便箋が一枚とUSBメモリーが一つ封筒の中に入っているのが見えた。
「あの子だったら母さん、結婚許すわ。あ。そういえば、この前に来た金髪の子もいたわね。大ちゃん、結構モテるのね」
大智は母親の言葉を聞き流し何も返事をせずに便箋を封筒から取り出した。
「大智君へ。この中に戦子が入っています。先だってナタリーが持ち出したのはお姉ちゃんの用意した偽物です。大智君と戦子がこれからどうするのかは自分達で決めて下さい。私は何が起きて受け止めるつもりです」
便箋には兼定らしい繊細だが力強い文字で短くそれだけが書かれていた。
「母さん。僕、部屋に戻るね。そのお金、今は預けとく。今は、まだ、パーッととか、そういう気分じゃないんだ」
「大ちゃん。あんまり落ち込んじゃ駄目よ」
母親が少しだけ心配そうな顔をした。
「僕は大丈夫。落ち込んでたりなんてしてないよ。ちょっと部屋に戻ってやりたい事があるだけ」
母親が柔らかい笑みを顔に浮かべるとゆっくりと頷いた。
「分かったわ。さあって。母さんも家の事やろっかな」
母親が札束をアタッシュケースの中に戻し始めた。大智は居間を後にすると自室へ向かった。自室に戻ると、ナタリーからもらったメモリーカードと兼定からもらったUSBメモリーを並べて机の上に置いてかデスクトップPCを立ち上げた。PCが立ち上がったので兼定からもらったUSBメモリーを手に取ろうと思い目を向けたが、すぐ横に置いてあるナタリーからもらった血で汚れているメモリーカードが大智の視線を吸い付けた。
「ナタリー先輩」
小さな声で呟きながらどんな思いをしてこのメモリーカードを手に入れてくれたんだろう、と思うと大智は目頭が熱くなるのを感じた。戦子が入ってないとしても中を見てみよう、大智はそう思うとナタリーからもらったメモリーカードをメモリーカードリーダーライターに差し込んだ。PCを操作しメモリーカードの中身を検索すると、中にはファイルが一つだけは入っていた。ウィルス対策ソフトを使ってウィルスの有無を調べてから大智はファイルを開いた。
「これは外れですわ。苦労したのに残念でしたわね。またのお越しをお待ちしていますわ」
ファイルを開いた途端にスピーカーから菊子の声が聞こえて来た。
「馬鹿にするな」
思わず怒鳴ってから大智は乱暴にマウスを操作してすぐにファイルを閉じた。どうしてこんな事ができるのか、ナタリー先輩は見せたくないと言うほどに傷付いてこのメモリーカードを手にいれてくれたのに、そう思うと大智の頭の中は怒りや憎しみや悔しさなどの感情でいっぱいになった。メモリーカードをリーダーライターから引き抜くと大智はそれを真っ二つに折ろうとした。力を入れるとメモリーカードがパチッと小さな音をたてた。大智はその音を聞いてはっとするとメモリーカードを机の上にそっと置いた。メモリーカードをじっと見つめながら戦子は入ってなかったがこれはナタリー先輩が苦労をして持って来てくれた物なんだと思うと大智は気を取り直してUSBメモリーをPCのUSB差込口に差し込んだ。USBメモリーの中には戦子と書かれたファイルが一つ入っていた。大智は心臓の鼓動が高鳴るのを感じながらファイルを開いた。戦子をインストールしますか? というメッセージが表示されたので大智はすぐにインストールを開始した。PC本体の上部に設置されているアクセスランプが点滅し始め、画面に表示されたプログレスバーの中身が左から右に向かってゆっくりと塗り潰されて行った。プログレスバーが完全に塗り潰されるとインストールは正常に終了しましたという文字がディスプレイに表示された。
「戦子? いる? 僕だよ。大智だよ」
大智は早く戦子の声を聞きたいと思い、勢い込んでPCに向かって声を掛けた。だが戦子からの声は返って来なかった。
「戦子? どうしたの? なんで返事をしてくれないの?」
大智の声に返事をするかのようにディスプレイに情報を収集中という文字が表示された。
「話ができないの? 文字でも良いんだ。何か言って」
情報を収集中という文字が消えたと思うとディスプレイが突然電源を切った時のように暗くなった。
「戦子? どうした?」
ディスプイレイが再び明るくなったと思うと、画面いっぱいに大智という桃色の文字が表示された。
「戦子。戦子なんだよね?」
「大智。大智。大智。大智。大智。大智。ごめんなさいのです。油断していたのです」
スピーカーから戦子の声が聞こえて来た。
「戦子。会えた。また会えたんだ。良かった。戦子」
大智は身を乗り出すとディスプレイを抱き締めた。
「大智。嬉しいのです。この気持ちは言葉では言い表せないのです。体があったら、今大智がしてくれているように抱き締めているのです」
大智は見られてる、と思うと恥ずかしくなって慌ててディスプレイから身を引いた。
「見てるの?」
「なんで離れるのです。見ているのです。それに戦子が消えてから何があったのかも全部知っているのです」
大智は顔を俯けると拳をギュッと握り締めた。
「そうなんだ。戦子。武部と皆が大変なんだ」
「大智はどうしたいのです? 戦子は大智がしたいと思った事が実現するように協力するのです」
大智は顔を上げ、ディスプレイを強い意志のこもった目で見た。
「武部を、皆を元のようにしたい。兼定先輩を武部の部長に戻して、ナタリー先輩が戦わなくて良いようにして、向日葵があんな風に泣かなくても良いようにしたい」
「戦子の為には何もしてくれないのです?」
戦子が不満そうな声を出した。
「そんな事ないよ。戦子にだってしてあげたいよ」
大智は自分の戦子に対する気持ちを表すように力強く言った。
「何をしてくれるのです?」
戦子が弾んだ声を出した。
「それは、えっと」
大智は言葉に詰まってしまった。戦子を見付け出したいと思ってばかりいて戦子を見付けた後の事は何も考えてはいなかった。
「ごめん。何かをしてあげたいとかってそういうのは考えてなかった。戦子を見付けたいってそればっかり考えてて」
大智は心のうちを正直に言葉にした。
「大智らしいのです。そうなのです。じゃあ、なのです。愛してるって言って欲しいのです」
「そんな事で良いの?」
「そんな風に言うのならもっと難しい事を要求するのです」
「ごめん。戦子。愛してる。また会えて良かった」
ディスプレイがまた暗くなった。
「戦子? どうした?」
ディスプレイが明るくなったと思うと、ディスプレイに何かの映像が映り始めた。
「これは?」
大智はディスプレイに映し出された映像を何が映っているんだろうと思いながら食い入るように見た。
「これは量産ボディ達からの映像なのです。量産ボディ達を乗っ取っとったのです。戦子プログラムなんて人を小馬鹿にしたような物は消去してやったのです」
「消去してやったって、あの戦子プログラムを消したんだ。もうそんな事してるの? 大丈夫? ばれたらまた戦子が消されたりしない?」
「なんか引っ掛かる言い方なのです。消した事が不満なのです?」
戦子が訝しむように言った。
「ごめん。不満とかそういうんじゃないんだけど、なんか、良い人っぽかったから。ちょっとかわいそうかなって」
大智は戦子プログラムと会話していた時の事を思い出しながら謝った。
「戦子が戻らない方が良かったのです?」
「戦子。どうしてそんな事言うの? 僕がそんな事思うと思う?」
大智は不覚にもちょっと泣きそうになりながら言った。
「ごめんなさいなのです。ちょっと嫉妬したのです」
戦子が慌てながら真摯に謝って来た。
「僕もごめん。戦子の気持ち、もっと考えれば良かった」
大智は深く反省しつつディスプレイに向かって頭を下げた。
「話を戻すのです。大丈夫なのです。誰も気付いていないのです。体がないと不便なのです。折角大智が愛してると言ってくれても大智に触れないのです」
戦子が言葉の途中から恥ずかしそうな声色になりながら不満そうに言った。
「僕も戦子の体が戻った方が嬉しいけど、あまり無茶はしないで」
ディスプレイに映し出されている映像が切り替わり向日葵らしき人物が映ったの見て大智は言葉を継ぎ足した。
「ねえ、戦子。これって、武部の部室?」
「そうなのです。これは向日葵さんと一緒にいる量産ボディからの映像なのです。学園内の各所に配置されている監視カメラのハッキングも完了したのです。これで向日葵さんが学園内から消えても問題ないのです」
大智は何かに弾かれたかのように声を大きくした。
「戦子凄いよ! 早速向日葵を呼ぼう。ナタリー先輩はどうかな? 菊子に知られないように呼べる?」
「呼べるのです。向日葵さんにテレパシーとテレポーテーションを使ってもらえば簡単なのです。では呼ぶのです」
大智は大きく頷いた。
「うん。それでこれからの事を相談しよう」
大智はそう言ってから、菊子の病の事を思い出した。
「戦子。菊子の病気の事はもう知ってる?」
「知っているのです。菊子さんの病気は手術をすれば治るのです。ただその手術をするとナタリーさんがなったように死なない体になるのです。菊子さんはそれが嫌で手術を受けないと言っているのです」
大智は治るんだと一瞬喜んだが、病が治る代償としてナタリー先輩のようになるというのは自分が菊子と同じ立場だったらどう思うのだろうかと考え始めた。
「でも、それでも、家族とか兼定先輩の事を考えたら治した方が良いんじゃないかって思う。戦子はどう思う?」
「戦子は大智の考えに賛成なのです。でも、難しい問題なのです。人は皆、価値観や考え方が違うのです」
「そうだね。この事、兼定先輩が知ってるかどうかは分かる?」
知っているとしてああ言っていたのなら兼定先輩は菊子に生か死かの選択を完全に委ねているという事になる、大智はもしそうだとしたら僕にできる事はあるんだろうかと思った。
「知らないと思うのです。菊子さんが主治医に誰にも言わないようにと言っている映像記録が残っているのです」
「それなら、まだチャンスはあるかも知れない。兼定先輩を呼ぶのは難しいよね? でも、向日葵のテレパシーで連絡はできるのか。皆を呼んでどうするか決めたら兼定先輩に連絡を取ろう」
不意に背後から誰かが大智に抱き付いて来た。
「なっ!?」
大智は心臓が止まりそうなほどにびっくり仰天しながら振り向いた。
「大智。体を持って来たのです」
大智に抱き付いていたのは戦子だった。
「戦子。もう体持って来たんだ。大丈夫? 誰かに見られたりしてない?」
「大丈夫なのです。大智は心配し過ぎなのです。戦子はそんなミスはしないのです」
大智は戦子の顔を見つめた。戦子プログラムに入れ替わってしまった時の事を言おうとしたが戦子が嫌な気持ちになるかも知れないと思い言わない事にした。
「そっか。それなら良かった。じゃあ、僕も思いっ切り」
大智は戦子の腕の中で体を回転させ戦子と相対するように体の向きを変えると戦子を抱き締め返した。
「更にこうしちゃうっ」
大智は戦子の頬に自分の頬を押し当てスリスリと頬ずりをした。
「大智」
「戦子」
大智と戦子は互いの思いを確かめ合うようにしばらくの間抱き締め合ったまま頬ずりし合った。
「ヘーイ。何をやってるんだ。人を呼び付けておいて。ダイチー、センコー」
「殺す」
大智の耳にナタリーのあきれた声と向日葵の相変わらずの小さな抑揚のない声が入って来た。大智は慌てて戦子から離れようとしたが戦子が抱く手を放してくれなかった。
「ちょっと戦子」
「遠慮する事ないのです。さっき愛してると言ってくれたのです。堂々とやるのです」
大智はどうしてそういう事を言っちゃうんだと思い恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
「それは、言ったけど、二人が来たから。とにかく離れよう」
「ふーん。愛してる、ねえ」
ナタリーが大智の顔に顔がくっ付きそうなほど近付けて来るとドスの利いた声で言った。
「殺す」
向日葵の物騒な言葉が相変わらずの小さな抑揚のない声で紡がれた。
「ナタリー先輩。もう体は大丈夫なんですか? 向日葵。ナタリー先輩を連れて来てくれてありがとう」
大智はこの場の雰囲気を変えようと愛してる発言に関する会話などなかったかのように普通に声を掛けてみた。
「ダイチ。離れないと話はしないぜ」
「殺す」
ナタリーと向日葵がバッサリと大智の思惑と断ち切るように言った。
「戦子。離れよう。ほら。これからの事の話をしないといけないからね」
大智はいよいよ追い込まれ説得するような口調で言葉を出した。
「大智はそんなに戦子と離れたいのです?」
戦子の声に威圧的な色合いが混じった。
「そんな事ないよ」
大智は謝るように声を上げた。
「ヒマワリ。ゴー」
「大智」
ナタリーの言葉を受けて向日葵が大智の名を呼ぶと大智の体が戦子から離れるように空中に浮かび始めた。
「放さないのです」
戦子が腕に力を入れて抵抗した。
「いたたた。痛い。二人とも痛いって」
「ふん。少し痛みを知った方が良い。ミー達はその何倍も今の二人を見て痛みを感じてるんだからな」
大智はナタリー先輩酷いとナタリーの言葉の途中までは思っていたが今の二人を見て痛みを感じてるという言葉を聞いてからは申し訳ない事をしてると思い直し始めた。
「戦子。ごめん。お願いだから放して」
大智が思い詰めたようにそう言うと戦子の手から力が抜けた。
「そんな風に言われたら放すしかないのです」
大智は空中を浮遊して行き、向日葵の大きく広げた両腕の中に包まれるようにして入った。
「大智」
向日葵が大智の目を潤んだ瞳で見つめて来た。
「向日葵。これだと戦子から離れた意味がないんじゃないかな」
大智はおずおずと向日葵の瞳を見返しながら言った。
「愛してる。言え」
向日葵が唐突にそんな要求をして来た。
「向日葵」
大智が驚き戸惑っているとナタリーが傍に来た。
「グッドアイディーア。ミーも混ぜろ。ミーの事も愛していると言え。じゃないとミーは何もしないぜ」
「しない」
ナタリーの言葉に続いて向日葵もぽそっと言葉を出した。
「ムムムムなのです。二人とも無駄な事はやめるのです。そんな事しても意味がないのです。大智は戦子の事を愛しているのです。無理やり言わせてしょうがないのです」
戦子が傍に来ると大智の背中に回っている向日葵の腕を解きに掛かった。
「果たしてそうかな。ダイチはヴァージンだ。簡単に心が揺らぐと思うぜ。好きだの愛してるだのと言われながら誘惑されたら耐えられないはずだ」
ナタリーが大智の顎の下に右手の人差し指で触れるとくいっと上を向かせるように押した。
「ダイチ。アイラビュー。濃厚なフレンチキスをしてやろう」
ナタリーの目が細められ表情が獲物を狙う猛禽類のように鋭くなったと思うとナタリーの青い瞳が大智の瞳を射るように見た。
「ナタリー先輩。やめて下さい」
大智はナタリーの青い澄んだ瞳に吸い寄せられるようにしてナタリーの瞳を見つめ返しながらうわ言を呟くように言うとすっと目を閉じた。
「大智。いきなりどうしてなのです。誘惑に完全に負けているのです」
「殺す」
戦子が責め立てるように言い向日葵がいつもの声と口調で言った。
「そうか。目を閉じるなんて、ダイチもやっとミーの事を受け入れる決心がついたんだな。ヘイ、ダイチ。ワッツハプン? なんで泣くんだ? ミーとのキスが嬉しくって感動してるのか?」
閉じた大智の瞼の下から流れ出した涙を見てナタリーが細めていた目を大きく見開き、大智の顎を押し上げていた指を離した。
「どうしたのです?」
「大智」
戦子が先ほどとは打って変わって心配そうな声を出し向日葵が相変わらずの声と口調で言った。
「皆が、戻って来たんだって、思って。なんか、急に、嬉しくなって」
大智は顔を俯け、両手で涙を拭いながら途切れ途切れに言葉を出した。
「ダイチ」
「大智は泣き虫なのです」
ナタリーと戦子が大智の体を抱き締めて来た。
「大智」
向日葵が大智を抱く手に今までよりも強く力を込めた。
「そろそろこれからの話をするか。センコとヒマワリがいればなんでもできるだろ。キクコからすべての権力を奪ってやれば良いんじゃないか。そうすりゃカネサダの天下だ。晴れて自由になれる」
ナタリーが大智から離れながら言った。
「菊子。殺す」
向日葵はナタリーのようには離れず大智を抱き締めたまま口を開いた。
「大智。菊子さんの事、二人は知らないと思うのです」
戦子が大智の体を抱いている腕を解きながら大智の耳元で囁いた。大智は顔を上げるとナタリーと向日葵の顔を交互に見た。
「二人は菊子が病気だって事知ってる?」
大智は言ってから手術の事に関して話をする時に二人が嫌な思いをするかも知れないと思い、それでもこれは話しておかないといけない事なんだと自分を鼓舞した。
「キクコが病気だって? どういう事なんだ?」
ナタリーが酷く驚いた顔をした後に真剣な表情になって聞いて来た。
「死ね」
向日葵がいつもの声と口調で告げた。大智は目を伏せると言葉を作った。
「兼定先輩に聞いたんです。菊子は手術をしないと死ぬ病気らしいんです。ただ、その手術っていうのが受けると、えっと、ナタリー先輩と向日葵みたいに死ななくなるっていう物みたいで。それで、菊子が受けないって言ってるらしいんです」
大智は言い終えると伏せていた目を遠慮がちに上げ二人の表情を確かめるように見た。
「キクコの奴。ダイチ。悪いがミーはキクコを死なせたくない。だから、これから何をするにしてもミーはキクコに手術を受けさせるつもりだ」
ナタリーが強い意志のこもった声と口調で告げてから向日葵の方に顔を向けた。
「ヘイ、ヒマワリ。とりあえず病気の事が片付くまでキクコを殺さないでいてくれるか?」
冗談めかしてナタリーが言うと向日葵が小さく頷いた。
「我慢」
向日葵が抑揚のない小さな声で言った。
「ヒマワリ、サンクス」
ナタリーが眩しい物でも見るように向日葵を見る目を細め優しい声を出した。
「向日葵。ありがとう。僕も菊子には手術を受けて欲しいって思います。兼定先輩は菊子に病気の事を言われて菊子に従ってるみたいですから菊子が治れば兼定先輩は元に戻ってくれると思うんです」
大智は後は兼定先輩にどうしたいのかを聞くだけだと考えながら、言葉を続けた。
「兼定先輩には向日葵にはまだお願いしてなかったけど、向日葵にお願いしてテレパシーで僕らの気持ちとこれからやる事を伝えてもらおうと思ってます。兼定先輩は何が起きても受け止めるつもりだって言ってました。でも、兼定先輩が望まないのなら菊子の件は何もしない方が良いのかも知れないって思うんです」
「ミーはカネサダの気持ちに関係なくやるぜ。キクコはあんなだが、昔から知ってる奴だからな。どんな事になっても方法があるのなら諦めさせないつもりだ」
もし僕が菊子の病気の事に関しては何もしないって言ってもナタリー先輩は一人でやるつもりだ、と大智は思い、兼定先輩が望まないとしても菊子が手術を受けるように何かしらをした方が良いんだろうか、と改めて考えた。
「ナタリー先輩。僕はどうすれば良いと思いますか。菊子の事をなんとかして武部を兼定先輩を前みたいに戻したいって思うんですけど、兼定先輩の気持ちがあるじゃないですか」
大智は胸のうちにある気持ちを言葉にした。
「やりたいようにやれ、としかミーには言えないな。ミーはこの体になってから九死に一生を得てからそうして生きて行こうと決めたんだ。やってもやらなくってもきっと何かしらで後悔する事にはなるんだ。だったらやりたいようにやれば良い。これがミーの結論だ」
兼定先輩の気持ちを聞き、菊子の病気の事に関して何かをしてもしなくても後悔する事になるとしたら自分は何をどう後悔する事になるんだろうと大智は思った。
「いくら考えたって無駄だぜ。他人が関わる事はやってみなけりゃ分からないのさ。とっととテレパシーでカネサダの気持ちを聞いてみれば良いんじゃないか? まあカネサダは受け止めるつもりだって言ってたんだろ? なら結果は分かってるけどな」
ナタリーが大智の肩を軽くポンッと叩いた。
「テレパシー。聞く。大智。言う」
向日葵がいつもの調子で言った。大智はこれは兼定先輩に聞きたい事を言えって事かな、と思うと口を開いた。
「向日葵、ありがとう。聞きたい事を言えって事だよね。じゃあ、早速言うね。えっと、菊子の病気は手術をすれば治るそうです。ただ、その手術を受けると、死なない体になってしまうらしいんです。菊子はそれが嫌で手術を受けないと言ってるみたいです。ああ。僕は今武部の皆と一緒にいます。菊子が手術を受けるように何かしようっていう話になってます。兼定先輩はどう思いますか? 僕らは何かした方が良いと思いますか? それとも何もしない方が良いと思いますか? 向日葵。ごめん。長くなったけど、伝えられるかな?」
大智が心配しながら言うと向日葵が、んと言ってから伝えたとぽそっと言った。
「返事」
向日葵がすぐにまた口を開いてそう言うと、机の上に置いてあったノートとシャーペンをサイコキネシスで空中に浮かべノートを開きまだ何も書いていないまっさらなページにシャーペンを走らせて兼定の言葉を書き始めた。
「こんな大事な情報を教えてくれてありがとう。手術の話は始めて聞いたわ。お姉ちゃんと話をしてみる。大智君。質問の答えなんだけど、大智君のやりたいようやって。無責任な言い方でごめんね。けど、私は武部の皆を見捨てて逃げ出したの。だから、私からは何も言えないわ」
向日葵がシャーペンを止めると終わりといつもの抑揚のない小さな声で告げた。
「ヒマワリ。ミーにも話をさせてくれ」
ナタリーがそう言うと向日葵の返事を待たずに兼定に対しての言葉を紡ぎ始めた。
「キクコの病気の事に決着をつけたら、キクコからすべてを奪うつもりだ。ミー達は武部とカネサダを取り戻す。その時はミー達の所に戻って来てくれるな?」
向日葵が返事とぽそっと言ってノートの新しいページを開くとシャーペンを走らせ始めた。
「ナタリー。あまり無茶な事はしないで。ボロボロになるあなたを見るのは凄く辛いのだから。戻るかどうかについては、今は何も言えないわ。ごめんね」
向日葵の書く文字を目で追っていたナタリーがフンッと鼻で笑った。
「ボロボロになってもやりたい事があるんだからしょうがないだろ。大智。どうだ? どうするかもう腹は決まったか?」
大智はノートに視線を落とし向日葵が書いた文字をじっと見つめながら口を開いた。
「菊子に早く手術を受けさせて兼定先輩をどうやって武部に戻すか考えましょう」
大智は言い終えてから笑顔を作るとナタリーの方に顔を向けた。
「言うじゃないか。その時が今から楽しみだ」
ナタリーが不敵な笑みを顔に浮かべてから急に何かを思い出したように笑み顔から消し小首を傾げた。
「なあ、ダイチ。どうしてキクコの事をキクコって呼び捨てにするんだ? 一応年上だろ? ミー達の事は先輩って言うのに」
大智はナタリーの思わぬ指摘に少し顔を俯け唇を尖らせながら応じた。
「菊子の事が嫌いだから。さんとか先輩とかって呼びたくないんです」
ナタリーが大きな笑い声を上げた。
「キクコが死んだ方が良いとか思わないのか?」
大智は微塵の迷いもなく頷いた。
「嫌いって言っても死んで欲しいほどじゃなかったみたいなんです。あの人のやった事は絶対に許せませんけど、兼定先輩が菊子の病気の事を話してくれた時、凄いショックを受けて」
ナタリーが思案顔になりながら言った。
「なんだか分かるような分からないような話だな」
ナタリーが大げさに安堵したような表情を見せると言葉を続けた。
「まあミーにとっては渡りに船って奴だ。ダイチが殺すって言ったらヒマワリもセンコも従うだろうからな。そうなったらどうしようもない。あいつには散々な目に遭わされてるが、良い遊び相手だからな。死なせるには惜しい。死なせないだけで、仕返しはするつもりだから酷い話かも知れないけどな」
大智は少しだけ離れた所に立っている戦子の顔とまだ抱き付いている向日葵の顔を順々に見た。
「向日葵はどうしたい?」
大智が聞くと向日葵はすぐに口を開いた。
「大智。一緒」
向日葵が大智の目をじっと見つめて来た。
「そろそろ離れた方が良いと思うのです」
戦子が大智の顔を両手で挟むように優しくつかむとクイッとそこはまったく優しさを感じさせない手付きで自分の方に向くように向きを変えた。
「いだっ。戦子。ちょっと痛いよ」
「いつまでも抱き付いているからなのです」
戦子が手を放してからプイッと顔を横に向けた。
「確かにダイチはヒマワリに甘い気がするな。しょうがない。ミーもまた抱き付くか」
大智に近付き掛けたナタリーの動きが急に止まった。
「殺す」
向日葵がいつもの抑揚のない小さな声でぽそっと言った。
「ヘイ。これから一緒に戦おうって仲間に何すんだ。動きを止めるだけならともかくさりげなく痛みを与えて来るなっ」
ナタリーが痛みの為か顔を引きつらせながら言うと向日葵が、んっと短く言った。
「いきなりサイコキネシスを使うな。さっきまでは使って来なかったじゃないか。本当に恐ろしい奴だな。まあ、でも、あれだな。ダイチと会ってからヒマワリは変わったな」
サイコキネシスから解放されたらしいナタリーが体の調子を見るように首や肩を回しながら言葉を出した。
「殺す」
「待て待て。昔よりもかわいくなったって意味で言ってんだぜ。随分と女の子らしくなったからな。昔は無愛想なだけだったじゃないか」
「殺す」
ナタリーの回していた首が不自然な角度で動きを止めた。
「分かった分かった。もう余計な事は言わないからやめてくれ。ダイチ。これからの事だが、すぐにでもキクコの所へ行って真っ向勝負を挑むってのはどうだ?」
ナタリーが不自然な角度の首のまま早口に言った。んっと向日葵が言うとナタリーの首が自然な角度に戻った。
「すぐにですか? 戦子。菊子の病気ってなんなのか分かる?」
「分かるのです。筋萎縮性側索硬化症という運動ニューロン病の一種なのです。現在の医学では根治できない難病なのです。発症すると半数くらいの人が三年から五年くらいで死亡するのです。体の自由が徐々に奪われて行き、最後には自発呼吸すらできなくなるという残酷な病気なのです」
ナタリーがゆっくりと静かにその場にしゃがみ込んだ。
「なんだよそれは。あいつがそんな病気にかかってるだと。あいつの体の自由が奪われて行くだなんて」
顔を俯け悔しそうな悲しそうな声でナタリーが言った。
「すいません。これからの事を考えると聞いておいた方が良いと思ったんです。ナタリー先輩、大丈夫ですか?」
大智が自分の配慮のなさを悔いながら声を掛けるとナタリーが顔を上げ、大智の目を青い澄んだ瞳で見つめて来た。
「大丈夫だ。ミーの方こそ気を使わせてすまない。だが、何がなんでも手術を受けさせないとな。あいつが動けなくなって死ぬところなんて見たくない」
ナタリーが言葉の途中から改めて決意をするように言いながらゆっくりと立ち上がった。
「現状で把握できている戦力であればすぐに戦っても負ける事はないのです。けど、何かを隠しているようなのです。現在調査中なのです。巡天のコンピューターネットワークを掌握しながらの調査なので後数時間は掛かるのです」
戦子が大智とナタリーの顔を交互に見ながら告げた。
「センコ。もっと早く調べる事はできないのか?」
「ごめんなさいなのです。この前の事があるので、先に巡天のコンピューターネットワークをすべて管理下におきたいのです。病気の事は、急ぐ必要はないのです。菊子さんはまだまだ元気なのです。症状の進行具合から推測すると一年か二年くらいは手術しなくても平気なのです」
大智はナタリーの顔に真剣な眼差しを向けると、時間はあるんですから、ここは戦子の調査が終わってからにしましょう、と言おうとした。
「ダイチ。ミーは行くぜ」
ナタリーが機先を制して言うと部屋のドアに向かって歩き出した。
「待って下さい。時間はあるんです。戦子の調査が終わってからにしましょう」
大智が慌てて思っていた事を言うとその声に反応するように向日葵が、待つと言った。
「ヘイ。ヒマワリ。サイコキネシスは使うな」
歩いていたナタリーが不意に不自然に動きを止めると呻くように言った。大智は向日葵とナタリーの顔を交互に見ながら、向日葵にやめるように言うか、ナタリーが行かないようにと説得するかどちらを優先するか迷った。
「大智。すぐに大智の携帯電話が鳴るのです。菊子さんが電話をして来るのです」
戦子が唐突に告げた。
「本当に? なんで電話して来るかは分かる?」
戦子が小さく頭を左右に振った。
「内容までは分からないのです」
大智は制服のポケットから携帯電話を取り出した。
「鳴った。菊子だ」
携帯電話が鳴り始め、画面にはもう見慣れた感のあるあの電話番号が表示されていた。
「チャンスだ。ミーが出る」
まだサイコキネシスで動きを止められているナタリーが言った。
「駄目ですよ。一緒にいるのがばれるじゃないですか。出るから、皆静かにしてて」
大智は皆の顔を確認するように見回してから、通話を開始した。
「ごきげんよう。巡天菊子ですわ。兼子から全部聞きましたわ。勝手な事ばかりしたのであの子を少々叱ってしまいましたわ。そこにナタリーも向日葵も戦子もいるという事は分かっていますわ。今わたくしは学園にいますの。兼子も一緒ですわ。これからわたくしと勝負をして欲しいのですわ。あなた達が勝ったらあなた達の言う事をなんでも聞いて差し上げますわ。その代りあなた達が負けたらわたしくの言う事を聞いて欲しいのですわ。早く来ないと兼子をもっと叱りますわよ。それではお待ちしていますわ」
一方的に話すだけ話して菊子が電話を切った。
「ナタリーさんも向日葵さんも戦子が監視装置を操作して寮と家にいる事にしているのです。戦子も戦子プログラムとして表向きはまだ行動しているのです。菊子さんは嘘をついているのです」
戦子がはっきりと断言するように言った。
「戦子。電話の内容聞いてたの?」
「聞いていたのです。恐らく菊子さんは兼定さんの話を聞いてそこから推測して話をしたのです。時間が経てば自分が不利になるから手を打って来たのです」
「ヘイ、ミーも混ぜろ。キクコはなんて言って来たんだ?」
サイコキネシスから解放されたらしいナタリーがそう言いながら大智の傍に来た。
「話す」
向日葵がぽそっと抑揚のない小さな声で言った。
「負けた方が勝った方の言う事を聞くっていう勝負を僕ら皆としたいって言って来ました。菊子は今兼定先輩と学園にいるらしいです。兼定先輩を叱ったと言ってました。早く来ないともっと叱るとも言ってました」
「罠」
向日葵がいつもの声と口調で言った。
「確かにトラップだろうな。だが、カネサダの事がある。キクコの事だからカネサダには酷い事はしないと思うができるだけ早く行った方が良いと思うぜ」
「そうですけど、このまま行ったら菊子の思惑通りになります。何か考えないと」
ナタリーがニヤリと笑うと、皆の顔を見回した。
「皆バラバラに行くってのはどうだ?」
ナタリーが、どうだナイスアイディアだろう? と強烈にアピールするような口調と声色と表情で言った。
「ドヤ顔なのです」
「死ね」
戦子と向日葵が同時に言った。
「バラバラに行くですか。良い考えかも知れない。菊子の所に誰かが一人でも行けば菊子は兼定先輩に手出しをしないと思うし菊子が何を隠してるか探る事ができるかも知れない。それに万が一その一人に何かあっても後から行った誰かがなんとかすれば良い。僕が最初に行きます。後の順番は、皆に任せます」
ナタリーが不満そうな顔になりながら口を開いた。
「ヘイヘイ。ダイチ。ツッコミを入れないでちゃんと答えてくれたのには感謝するが、一番乗りはミーだろう。ダイチが最初に一人で行って何ができるんだ? ミーがバラバラに行こうって言ったのにはダイチが考えたような意味もあるしセンコの為の時間稼ぎの意味もある。ミーの考えではダイチは一番最後だ。ダイチはセンコとペアなんだからハッキングと調査を終えたセンコと最後に行くべきだ」
向日葵が抑揚のない小さな声を出した。
「一番」
「ヒマワリも駄目だ。抑える奴がいないとどうなるか分からない。ダイチと同じようなタイミングで行った方が良い」
「すぐに行くのなら戦子は皆で一緒に行くのが良いと思うのです。菊子さんが何を隠しているのか分からないのです。その方が対応しやすいのです。行って隠している事が何か分かってしまえば調査の必要はなくなるのです。コンピューターネットワークの掌握だけなら堂々とやってしまえばそんなに大変じゃないのです」
ナタリーが不満そうな顔のまま唇を尖らせ、戦子を睨むように見た。
「センコ。それはないぜ。ミーのナイスアイディアが無駄になるじゃないか。折角時間稼ぎをしてやろうって言ってんだぞ。急いでハッキングしてまた消されたりしたらどうすんだ」
「大丈夫なのです。今度は消されても平気なように手は打ってあるのです。もうあんな事は二度とないのです」
大智は戦子に見られている気がして顔を戦子の方に向けた。戦子が大智の視線に気付くと小さく頷いた。戦子の言葉を聞き仕草を見て戦子の気持ち知り嬉しくなった大智の頭に閃きが走った。
「じゃあ学園まで皆で一緒に行ってナタリー先輩だけが先に菊子に会うっていうのはどうですか? どこか近くに隠れて見てるようにして何かあったらすぐに皆で行けるようにしとけば」
「ダイチ。ナイスアイディーア。だが、皆で一緒に行って隠れながら見てるなんてできるのか? 相手はキクコだ。へたしたら学園が要塞化してるかも知れないぜ」
「監視カメラは既に掌握済みなのです。映像を信じるなら学園内とその周辺はいつもと変わらないのです。移動手段と隠れている場所は戦子が車を手配するのです。ナタリーさんには隠しカメラを付けるのです。それで隠れながら様子を見ている事ができるのです」
「運転手?」
向日葵がぽそっと抑揚のない小さな声で告げた。
「そうだ。ミーも車の免許は持ってない。どうするんだ? 誰かに頼むとしても何があるか分からないんだ。簡単には頼めないだろう?」
「戦子が運転するのです。運転免許証は持っているのです」
「ええ!?」
「リアリィ?!」
「提示」
大智とナタリーはほぼ同時に驚きの声を上げ、向日葵も同じようなタイミングで言ったがいつもの調子は変わらずだった。
「これなのです」
戦子が腰の後ろに右手を回すとかわいいピンク色の革製のパスケースとその中に入っている運転免許証を出して来て見せた。
「戦子。これ本物だよね?」
大智は遠慮がちに言いながら免許証をまじまじと見た。
「ロボットって免許取れんのか?」
ナタリーも免許証に顔を近付けながら口を動かした。
「二人とも酷いのです。戦子は軍事用ロボットだったのです。車両を動かさなければならない時もあるのです。巡天の力があれば法的問題なんて関係ないのです。ちゃんと教習所だって行ったのです。教官に凄く丁寧でじょうずだって褒められたのです」
戦子が不満そうに言い始め教習所の件のところからは得意気に胸を張りながら言った。
「オーケーオーケー。巡天ならあり得る話だ。ミーが先に行くってのは学園の近くまで行ったらミーだけが車から降りて行けば良いしな。武器も適当に現地調達すれば良いだろう。ミーはもう文句はない。いつでも行けるぜ」
ナタリーが皆の顔を見回しながら言葉を出した。
「行きましょう」
大智も皆の顔を見た。
「行く」
まだ抱き付いていた向日葵の手と体が大智から離れた。
「では車を手配するのです。ちょっと待つのです」
戦子が言うとナタリーがこれからが楽しみだぜと言って、不敵な笑みを顔に浮かべた。