五
「ナタリー。お久し振りですわ。そっちのあなたは、この前会いましたわね」
ワゴン車のスライドドアが開き中から降りて来た菊子がこの状況下にも関わらず何事も起きていないかのように話し掛けて来た。
「キクコ。カネサダはどうした?」
ナタリーも何事も起きていないかのような様子で言葉を返した。
「兼定なんていう名前の子は知りませんわ。兼子。ナタリーとあなたのお気に入りの男子生徒が来ましてよ」
開け放たれていたスライドドアの中から女生徒の格好になっている兼定が降りて来た。
「ヘイ、カネサダ。何があった?」
ナタリーが気遣うように優しく言った。
「すまん。ナタリー」
「兼子。その話し方はなんですの。ちゃんと女の子らしく話しをなさいとお姉ちゃんは言ったはずですわ」
「お姉ちゃん。ごめんなさい」
兼定がすぐに口調を女の子らしい物に改め小さく頭を下げた。
「兼定先輩」
大智は兼定の変わり果てた様子を見て驚きかつ動揺しながら我知らずのうちに呟くようにして言葉を出していた。
「あなた、兼定先輩などと呼ぶのはおよしなさい。巡天兼子。それがわたくしのこの世界で最も愛してやまないかわいいかわいい妹の名前なのですわ」
優しく諭すような口調とは裏腹に菊子の兼定の目に良く似ている形の目は威圧するように鋭く細められて大智に向けられていた。
「相変わらず頭のネジがぶっ飛んでんなキクコ。聞きたい事が山ほどあるんだ。そういうのはしょってくれ。それと、こいつらをなんとかしてくれ。腕とナイスバディが痛くてかなわない」
ナタリーが顔を大げさに大きく動かして自身と大智を拘束している量産ボディ達を見た。
「戦子プログラム。もうさがって構いませんわ」
「戦子プログラム?」
大智の頭の中にどういう事だ? 何が起こってるんだ? 戦子はどうしてしまったんだ? という疑念がいよいよ激しく渦巻いた。
「サンクスキクコ。ダイチ。ミーに話をさせてくれ。まずは、そうだな。ヒマワリはどうなった?」
ナタリーが大智に向けて右目をパチッと瞑りウィンクをしてから巨大戦子の残骸がある方に顔を向けた。
「向日葵は戦子プログラムがバラバラにして殺しましたわ。今は傘下の病院に移送中ですわ」
「向日葵を戦子が殺しただって? 嘘だ。戦子がそんな事するはずない」
大智は向日葵クラッシャーモードの戦子ならあり得るのかも知れないと一瞬菊子の言葉を信じそうになったが巨大戦子の内部にいる時に戦子が自分の指示に従っていてくれていた事を思い出し大声を上げた。
「その通りですわ。戦子システムはやってはいませんわ。戦子プログラムはあなたの知っている戦子システムとは違いますわ。技術部の者達が戦子システムが向日葵と戦闘している最中に戦子システムを削除し、それから新しく開発された戦子プログラムをインストールしたと聞いていますわ」
「削除? インストール? どういう事?」
大智は戦子に何をしたんだと詰め寄るように強い口調で言い放った。
「ヘイ、ダイチ。カームダウン」
ナタリーが軽く叩くようにしながら大智の肩に手を載せた。
「ここはミーに話しをさせてくれ。頼む」
ナタリーが兼定の方を一瞥してから大智に向かって小さく頭を下げた。
「ナタリー先輩。分かりました」
大智は戦子と向日葵の事で言いたい事や聞きたい事が山ほど頭の中に浮かんで来ていたが自分よりも武部の皆と関係が深いナタリー先輩も皆の事をいろいろ考えているんだろうと思うと言葉を出すのを我慢する事にして押し黙った。
「心配なさらずと平気ですわよ。向日葵も戦子プログラムも学園とあの兼子が作った武部という部に戻しますわ。兼子がそうして欲しいと頼むのですもの、お姉ちゃんとしては断る事などできませんわ。兼子の事を愛して愛してやまないお姉ちゃんは言う事を聞いてあげたのですわ」
菊子が目を細め嬉しそうに満足そうに微笑んだ。
「キクコ。カネサダはどうなるんだ?」
ナタリーが普段よりも低い真剣味を帯びた声を出した。
「ナタリー。兼定という子はいないと言っていますわ。兼子は武部をやめますわよ。言う事を聞く代わりにわたくしの前々からの頼みに応じてくれたのですわ。これからはわたくしとともに巡天の発展の為に学んで行く毎日を過ごすようになるのですわ」
「ナタリー。ごめんなさい。大智君も私から部活に誘ったのにごめんね。途中で投げ出して、二人にこんな事言える立場じゃないんだけど、向日葵と戦子の事をお願い。もう、私はあの子達の面倒を直接みてあげる事ができないから」
真っ直ぐな兼定の涙に潤む瞳が大智とナタリーの目に交互にしっかりと向けられながら真摯な口調が大智とナタリーに告げた。
「カネサダ。それで良いのか?」
ナタリーが感情を抑えた声で静かに聞いた。
「ナタリー。兼子と呼ぶのですわ」
恐ろしいくらいに優しく諭すように菊子が言った。
「二人ともごめんなさい。私がそう決めたの。だから、本当にごめんなさい」
兼定の両の目に溜まった涙は今にも溢れ出しそうだった。
「お姉ちゃん。私、先に車に戻る」
兼定が言ったと思うと、すぐに大智とナタリーに背を向けた。
「ナタリー。大智。さようなら」
歩き出した兼定の声は涙声になり震えていた。
「カネサダ」
「兼定先輩」
言葉を出す事を我慢しようと決めていた大智だったが思わずそう叫んでいた。だが、変わり過ぎてしまった兼定に何をどう言えば良いのかは分かってはいなかった。
「兼定ではないと何度も言っているはずですわ」
「お姉ちゃん。やめて」
スライドドアの中に消えて行く兼定が悲しげにそう告げた。
「本当にしょうがないですわね。兼子に免じて今日は許して差し上げますわ。けれど、次はなくってよ。優しい優しいわたくしでも、いえ、そんなわたくしだからこそ怒る時は本気で怒るのですわ」
菊子が言い終えると急に慇懃無礼なお辞儀をした。
「それではわたしくも失礼致しますわ」
体の向きを変えるとスタスタと菊子が兼定の乗っているワゴン車に向かって歩き出した。
「ダイチ。今日はこれでお開きだ。帰ろう」
ナタリーが優しく言い、気遣うような目を大智に向けて来た。
「もう、帰るんですか? なんか、こんなの全然納得できません。ナタリー先輩はこれで良いんですか?」
「ミーだって納得なんてしてないさ。だが、今はできる事がない」
「そうかも知れないけど、こんな終わり方あんまりです」
「そんな顔をするな。大丈夫だ。このまま終わらせるつもりはない」
大智は自分の表情を隠すようにゆっくりと顔を俯けてから心の奥に閉じ込めてあった言葉を口にした。
「あの、ナタリー先輩。向日葵はちゃんと戻って来るんですよね? 戦子は、戦子はやっぱり消されちゃったんですか? あの言い方だとそういう事だと思うんですけど、どうしても信じられなくって」
ナタリーの手が大智の頭にそっと触れると優しく撫でて来た。
「ヒマワリは戻る。大丈夫だ。センコは、ダイチの事をあれだけ好きだ好きだと言ってた奴だぜ。簡単に消されると思うか?」
大智は両手の甲で目と目から溢れ出て頬を伝う涙を強く擦るとゆっくり顔を上げた。
「思いません。思いたくありません。でも、今いる戦子達は全然あの戦子とは違う。僕らを見ても何も変わらない」
大智は兼定達の乗ったワゴン車が移動を始めたのと同時に校庭から飛び去り始めた戦子達の方を見つめた。
「そうだな。だが、ダイチ。希望は捨てるな」
大智はナタリーの方に顔を向けた。ナタリーは走り去って行く兼定達の乗ったワゴン車の方に顔を向けていた。
「ミーのトライクで送ってってやる。行くぞ」
ナタリーが大智の方に顔を向けると、そう言ってから大きく伸びをした。
「ファック。ソーリー、ダイチ。送ってやるのは無理だった。ミーは自分の腕が片方なくなってるのを忘れてた」
ナタリーが大げさに困ったような表情を顔に浮かべてみせてから笑い声を上げた。
「ナタリー先輩」
大智はナタリーのそんな表情を見、言葉と笑い声を聞き、ナタリー先輩って強い人だ、僕も泣いてばかりじゃ駄目なんだ、しっかりしなきゃと思った。
「じゃあ僕が運転しますよ」
ナタリーが本気で驚いた顔をした。大智はナタリーがそんな顔をしたのを初めて見たような気がした。
「頼むぜ、と言いたいところだが、駄目だ。無免許運転なんてして見付かったら停学になる。まさか、ダイチ。自棄になって停学にでもなんにでもなってやるなんて思ってるんじゃないだろうな?」
ナタリーが真剣な表情になり、心配するような口調で言った。
「自棄になってなってません。今は、なんか、なんでも良いからやりたい気分なんです」
ナタリーが目を細め青色の瞳を獲物を狙う獣のように鋭くすると大智の目を見据えて来た。
「ダイチー。保健室行くか。ミーもなんでも良いからやりたくなって来たぞ。主にそっち方面的な意味だけどな」
大智は半目、いわゆるジト目になってナタリーを見た。
「ナタリー先輩。また、明日。放課後になったら武部の部室で会いましょう」
大智は突き放すように冷たい口調で告げ小さく会釈してから、ナタリーに背を向けて歩き出した。
「ヘイー、ダイチ。ウェイトアセカンド。カンバーック」
ナタリーが今生の別れの場面なのかと思うような大きな声を上げた。
「なんて声出すんですか」
大智は驚きながら足を止めて振り向いた。
「一人で行こうとするからだ。途中まで一緒に帰ろうぜ」
プリッとした唇を不満そうに尖らせてナタリーが言った。
「変な事言ったりやったりしないなら、良いですけど」
「ちぇっ。今のダイチなら弱ってるからやれると思ったのに。やったらそれを既成事実として結婚まで持って行こうと思ったのに」
ナタリーが至極不満そうにぶつぶつとこぼしながら大智の傍まで歩いて来た。
「ナタリー先輩。最低です。この状況でそんな事考えてるとか」
大智は足を踏み出すとナタリーか逃げるように早足になって歩き出した。
「ダイチー。ジョークだよジョーク。イッツアメリカンジョークって奴だ」
ナタリーがすぐに追い付いて来た。
「くれぐれもそういうおかしな行為は自重して下さい。武部と皆の事で僕達二人は協力しなきゃいけないんですから」
「オーケー。オーケー。信頼は大事だな。ミーはいつでも全身を使ってダイチを受け止めてやるぜ」
「だから、そういうのやめて下さいよ」
「オーマイーガー。そういうつもりじゃないんだ。ついつい言ってしまっただけだ」
「もう、信頼なんてできません」
大智とナタリーは離れ離れになり傷付きながらも旅を続け再会を果たした野良猫達がお互いの無事を喜び、じゃれ合うように会話しながらそれぞれの帰途につき別れるまで一緒に歩き続けた。
家に着いた大智は靴を脱ぐと真っ直ぐに風呂場に向かった。脱衣所で着ていた服を脱ぎ、風呂場に入るとシャワー用の蛇口を捻ってお湯を出した。今日起きた嫌な出来事すべてを洗い流すように熱いお湯を頭からかぶりながら、明日になったら向日葵と戦子に会えると思い、二人とどんな会話をしようかと考えた。変わってしまった戦子がずっとあのままだったら、ふっとそう思うと、体が鉛のように重くなり悲しみで何も考えられなくなりそうになったが、戦子がどんな戦子になっていてもどうにかなる、いや、どうにかする、と大智はとにかく前向きに行くんだと強く強く思いながらシャワーを止めた。風呂場から出てタオルで体を拭き自室へ戻り部屋着に着替えると、いつも通りに生活しようと努力した。ともすれば戦子や向日葵や兼定や武部の事を考えて落ち込みくよくよしてしまいそうになる自分を必死に鼓舞しながら過ごしているうちにいつもの就寝時間になっていた。
「明日に備えてもう寝よう」
大智は自分に言い聞かせるように強い意志を込めてそう言うと、部屋の灯りを消しベッドの中に潜り込んだ。皆の事を考えてしまって眠れないかも知れないと思っていたが、睡魔は見事な腕前を見せて大智の意識を大智が気付かない間に奪って行った。
目覚まし時計の音で目を覚ました大智は、ベッドから下りると寝ぼけ眼を擦りながら制服に着替え始めた。着替えを終えると不意に自分の周りに誰もいないという事に寂しさを感じた。階下へと向かって歩き出しながら放課後に部室へ行けば、ナタリー先輩も向日葵も戦子もいるんだ、と思って自分を慰めた。そうしてから、いつの間にこんなに皆の存在が自分の中で大きくなっていたんだろう、と考えた。
「今更だ。そんな事、昨日嫌っていうほど思い知ったじゃないか」
大智は独りごちると、心の中でどんどん膨らんで行く皆に早く会いたいという気持ちに急き立てられるようにして朝食も食べずに学園へ向かって出発した。学園に着いた大智はまだ誰も来ていないんだろうと思いながらも自分の教室へは向かわずに武部の部室へと向かった。
「おはようございます」
言いながら大智は部室の扉を勢い良く開けた。誰からの返事もなかったが、まだ放課後じゃないしこんな時間なんだからしょうがないと思いながら大智は部室の中に足を踏み入れた。
「向日葵!?」
窓際に置かれているアンティークなテーブルの前にあるアンティークな椅子に向日葵が何事もなかったかのように座って静かに文庫サイズの本を読んでいる姿を見て大智は大声を上げた。
「大智」
文庫サイズの本からゆっくりと顔を上げた向日葵が大智の姿を見て、小さな抑揚のない声を出した。
「向日葵。大丈夫なの? 昨日」
抱き付かんばかりの勢いで向日葵に近付いて行きながら、昨日という言葉の後に殺されたって聞いたんだ、という言葉を続けようとして、そんな余計な事は言わない方が良いと思い直した大智は慌てて口を噤んだ。
「ん」
大智が傍に行った途端に向日葵が小さな声を出しながら大智を避けるように顔を伏せた。大智は再会を喜んでくれていると思っていた向日葵の思わぬ態度に驚き戸惑い傷付きつつ向日葵の反応を確認するように言葉を出した。
「向日葵? どうした?」
向日葵が顔を伏せたまま口を微かに動かした。
「さよなら」
向日葵の小さな声がしたと思うと向日葵の姿が一瞬にして消えてしまった。
「向日葵? 向日葵、どうしたんだ? 何か、まさか、何かされた? 昨日、病院に行って何か酷い事されたの?」
大智は戦子が変えられてしまったのと同じように向日葵も何かされたのかも知れないと思った。叫ぶように言った大智の言葉に向日葵からの返事はなかった。
「向日葵。どこにいる? どうしたんだよ。 ねえ、向日葵。いないの? 本当はいるんでだよね? 何か言ってよ。ねえ、向日葵」
大智は部屋の中を見回しながら自分の中に渦巻く悲しみや怒りややるせなさなどの様々な感情をぶちまけるように咆哮するように声を上げた。天井から一枚の白いA4サイズの紙がヒラヒラと舞うようにしながらアンティークなテーブルの上に落ちて来た。
「ごめんなさい」
紙の片面に短く一言だけポツリと書かれていた。
「どういう事? なんでごめんなさいなの? これだけじゃ分からないよ。ちゃんと言って。向日葵」
大智は紙を手に取り書かれた文字をじっと見つめながら、向日葵が自分の前に出て来てくれる前にまた戻ったみたいだと思った。天井から音もなく紙が落ちて来た。「昨日」とその紙には書いてあった。大智は向日葵の言いたい事が分かった気がした。
「何かされたんじゃないんだね? 向日葵は大丈夫なんだね?」
大智は念を押すように聞いた。
「大丈夫」
そう書かれた紙が天井から降って来た。
「昨日の事は、しょうがなかったんだ。僕はなんとも思ってない。向日葵は悪くない。戦子もナタリー先輩も向日葵を止めようとして戦っただけだ。皆、向日葵の事悪くなんて思ってない。だから、何も気にしなくて良いんだよ。向日葵、お願い。出て来て」
天井を見上げると文字の書かれた新たな紙が何もない空間からパッと現れたのが見えた。
「兼定。戦子」
大智はヒラヒラと落ちて来る紙に書かれたその文字を見て、なんだ? と思い、すぐには言葉を出さなかった。手を伸ばし紙を受け止めてから大智は口を開いた。
「二人が、どうかした?」
兼定先輩が武部を去り、戦子が変わってしまった事を向日葵は言ってるんだろうか? と考え、もしそうなら向日葵を傷付けないようにしなくてはいけないと思いながら大智はさり気なく何事もないような口調で聞いた。
「いなくなった」
そう書かれた紙が天井から降って来るのを見て大智は向日葵は全部知ってて責任を感じてるんだと思った。
「二人ともいなくなんかなってないよ。戦子は今日来る。兼定先輩は、家の事が忙しくなったみたい。だから、しばらくは来ないみたいだけど」
向日葵を傷付けたくないと思い、二人の事を認めてしまうようで、ありのままには言葉にはしたくないとも思いながら大智は言った。
「ごめんなさい」
背後から向日葵の小さな抑揚のない声がした。大智は慌てて振り向こうとして、途中でやめた。
「振り向くけど、そこにいて。良い?」
懇願するように声を掛け、向日葵からの返事を待った。
「ん」
大智は少しでも強く触れれば一瞬にして壊れてしまう物に優しくそっと触れるようにゆっくりと振り向いた。向日葵は消えずに大智の目の前に立っていた。
「向日葵。ありがとう」
「大智」
向日葵が小さな声で言い、大智の体が宙に浮かび上がった。
「待って。向日葵。タイム、じゃなくってそれはやめよう」
向日葵のサイコキネシスに捕まったと思った大智は大きな声を出した。
「ごめんなさい」
大智の言葉を聞いた向日葵がすぐにいつもの抑揚のない小さな声で謝ると大智の両足が教室の床に着地した。
「授業。行け」
向日葵が顔を俯けた。
「向日葵、どうした?」
サイコキネシスを使うのをうすぐにやめ、授業に行けと言う向日葵に大智は激しく違和感を覚えた。
「行け」
向日葵が顔を俯けまま瞬間移動してアンティークな椅子の傍に行き腰を下ろした。
「向日葵? 変だよ? どうしたの?」
大智はまさか向日葵自身も気付かない間に何かされてしまったのか? と思いながら向日葵の傍に駆け寄った。
「大智」
向日葵が顔を上げ、大智の顔を見つめて来た。大智の体がまた宙に浮かび上がった。
「また? 向日葵。それはやめとこう」
「ごめんなさい」
向日葵が顔を俯けるのと同時に大智の両足は床の上に着地した。
「行け」
向日葵が机の置いてあった文庫サイズの本を手に取り、視線を開いたページの上に落とした。
「向日葵? どうしたの?」
大智は聞いてから、これじゃまたサイコキネシスに捕まり堂々巡りになるかも知れないと思った。
「邪魔。行け」
向日葵が視線を上げずに文庫サイズの本を閉じながら言った。
「邪魔?」
大智は向日葵の痛烈な言葉に驚き戸惑い傷付きながら向日葵は本当にどうしちゃったんだ? と思い、閉じた本を見つめている向日葵の姿をまじまじと見た。
「行け。邪魔」
向日葵が口だけを微かに動かし、いつもよりも小さな声で追い打ちを掛けるように言った。
「向日葵。泣いてるの?」
閉じられている文庫サイズの本の上にポタポタと涙の滴が落ちたのを見て、大智は思わず大きな声を出した。
「行け」
向日葵の声は涙声に変わっていた。
「向日葵。どうしたのか言って。僕にできる事ならなんでもするから」
向日葵がパッと顔を上げた。
「なんでも? 本当?」
涙に濡れる向日葵の瞳を見ながら大智はうんっと言って力強く頷いた。
「ごめんなさい」
頷いた大智を見た向日葵がまた顔を俯けた。大智はどうしたの? と聞こうとしたが同じように聞いてばかりいても向日葵の事を分かってあげられないと思い、何をどう聞けば良いんだろうかと考え始めた。背後から部室の扉が開かれる音が聞こえて来た。大智は反射的に振り向いていた。
「戦子」
「戦子」
大智と向日葵の声が重なった。扉を開き部室の中に入って来たの戦子だった。
「おはようございます」
典型的なロボットのような声と口調で戦子が挨拶をした。大智はその声を聞き改めてあの戦子がいなくなってしまったという現実を突き付けられた気がして落ち込んだ。
「おはよう。早いんだね」
大智は落ち込んでいる心のうちが表面に出ないようにと平静を装いながら、何かの切欠であの戦子が戻って来たりはしないだろうかと期待しながら、戦子に向かって懸命に作った笑顔を向けた。
「初めてなので早く来ました」
声や口調は相変わらずの典型的なロボットのごとき物だったが、大智の言った言葉に対して戦子は普通に言葉を返して来た。
「そう、なんだ」
大智は戦子が普通に言葉を返して来た事に驚き、もしかしたらあの戦子なんじゃないかと期待した。
「自己紹介を忘れていました。戦子プログラムと申します。戦子とお呼び下さい」
戦子が大智と向日葵に向かって深々と一回ずつお辞儀をした。
「ああ、うん。戦子プログラムは戦子システムとは違うんだよね?」
戦子が戦子プログラムと名乗ったので、やっぱりあの戦子じゃないんだと大智は思ったが、そう確認せずにはいられなかった。
「違います。まったくの別の存在です」
「そう、だよね」
気持ちが沈み目を伏せた大智だったが、このまま落ち込んで行ってしまっても駄目だと思うと必死にあの戦子と再会する為に何かできる事はないのだろうかと考えた。普通に話ができるのなら、何かあの戦子についての話を聞けるかも知れないと考え付くと伏せていた目を上げ戦子の顔を正面からじっと見据えた。
「聞きたい事があるんだ」
「なんでしょうか? 戦子プログラム運用規定に抵触しない範囲でしたらなんでも答える事ができます」
大智はこれなら何かしらの話は聞けそうだと思うと一呼吸置いて、はやる心を落ち着けてから最も聞きたいと思った事を聞いた。
「戦子システムはどうなった?」
「どうなった? とは、どういう事でしょうか?」
「えっと、消えちゃったのかって事。どこかに残ってたりはしないかな?」
戦子は今までとは違って、すぐには言葉を返して来なかった。大智はひょっとしたら何か有益な話を聞けるのかも知れないと思い期待に胸を膨らませた。しばらくの沈黙の後、唐突に戦子が言葉を出した。
「検索終了。戦子システムに関係するプログラム及びファイルは現時点でアクセスできる場所のどこにも残ってはいません」
「どこにも? それって、世界中のどこにも残ってないって事じゃないよね?」
「世界中のどこにも残ってはいないという意味で言いました。現時点でアクセスできる場所には残ってはいません」
「検索はどうやった? 名前から調べただけ?」
「違います。足跡追跡検索も行いました。現時点でアクセスできる戦子システムが起動していた時期にアクセスしていたすべての場所に戦子システムに関係するファイル及びプログラムは残ってはいません」
大智はその言葉を聞くとあまりの衝撃に体から力が抜け、その場に座り込んでしまった。
「じゃあ、もう、戦子は本当に、この世界中のどこにもいないって事?」
自分の頭の中に浮かんだ考えだけでは納得できず、確かめるようにその考えを言葉にした。
「現時点で知られていない足跡追跡防止対策を行ってアクセスしていた場所や現時点でアクセスできない場所やそこから更にアクセスした場所には残っている可能性があります」
大智はどうしてそんな事に気付かなかったんだと自分の愚かさにあきれながら例えば今電源が落ちてるPCや、PCなどに接続していないUSBメモリーなどの記憶媒体の中には残っている可能性があるって事じゃないかと思うと急に力を取り戻して勢い良く立ち上がった。
「そういう物のある場所って足跡追跡から分かる?」
戦子は検索を開始したのか沈黙していてすぐには言葉は返って来なかった。
「その質問に答える事は戦子プログラム運用規定に抵触します。よって答える事はできません」
大智は例のごとく唐突に言い出した戦子のその言葉を聞いて驚き、すぐには言葉を返す事ができなかった。
「教えろ」
今まで黙っていた向日葵が不意にいつものような抑揚のない小さな声で言った。
「何を教えれば良いのですか?」
戦子が向日葵の方に顔を向け、言葉を出した。
「教えろ」
向日葵が先ほどとまったく同じように言った。
「教えろという言葉だけでは何を教えれば良いのかが分かりません」
戦子が言うと向日葵が相変わらずの口調と声で告げた。
「壊す」
戦子の体がゆっくりと宙に浮かび上がり始めた。
「待って待って。向日葵。何してんだよ。駄目だって」
大智は慌てて向日葵の方を向くと両手を大きく広げて向日葵の視界を遮るように上下に振りながら声を上げた。
「邪魔」
向日葵の黒い瞳が大智の目を射るようにじっと見据えて来た。
「向日葵やめるんだ。しょうがないよ。今の戦子は前の戦子とは違うんだ」
大智は言いながら、あの戦子はもういないという現実の残酷さを改めて感じ声を萎ませて行った。
「大智」
向日葵が言うと大智の背後から床に戦子の足が付いたと思しき金属音が鳴った。
「サイコキネシスの発現を感知しました。警告します。サイコキネシスの発現をもう一度感知すると向日葵バスターモードが起動します。警告します。サイコキネシスの発現をもう一度感知すると向日葵バスターモードが起動します」
「向日葵バスターモード? それってなんなの?」
大智は嫌な予感を覚えて問い詰めるような強い口調で戦子に聞いた。
「向日葵バスターモードとは対向日葵用に開発された戦子プログラムの戦闘モード起動時における専用の名称です」
「また、それなんだ。戦子。そういうのやめる事はできないの?」
大智はこんな事戦子に言っても意味がないと思いながらも、頭の中に浮かんだ言葉を口から出さずにはいられなかった。
「サイコキネシスなどの能力の発現がなければ向日葵バスターモードは起動しません。向日葵が能力を行使しなければ問題はありません」
大智は向日葵の方へ体の正面を向けると向日葵の黒い瞳を真剣な眼差しで見た。
「向日葵。ごめん。戦子の前では力を使うのは我慢して。今の戦子だと、すぐにまたこの前みたいな事になりかねない。今度そうなったらどうなるか分からない。兼定先輩もあの戦子もういないんだ」
向日葵がプイッと顔を横に向け大智の目から目をそらした。
「ごめんなさい」
しばしの間を空けてから向日葵が小さな声を出して顔を俯けた。
「向日葵」
そんな風に謝らなくて良いよ、と大智は言おうとして口を噤んだ。今の向日葵はきっと何を言っても謝るんだろう、大智は向日葵の俯いている姿を見ながら、この状況はなんなんだと激しく憤った。部室の扉が開く音がした。振り向いた大智の目に菊子の姿が入った。
「お二人とも、ごきげんよう。戦子が戦闘準備に入ったという連絡を受けたので来てみたのですわ。けれど、これでは無駄足だったようですわね」
菊子が大智と向日葵の顔を交互に見ながら、嬉しそうな笑みを顔に浮かべた。
「無駄足って、どういう意味?」
大智は菊子の兼定に似ている涼しげな目をを睨むように見つめながら菊子の笑顔を見て心の中に広がった怒りや嫌悪といった感情を押し殺し小さな低い声で言った。
「そのままの意味ですわ。向日葵がもう一度暴れたら問答無用で研究所に連れて行くつもりでしたの。それができなくって残念ですわ」
「そんな事絶対に許さない。兼定先輩だって反対するはずだ」
菊子の目が細められ鋭くなり大智と菊子は睨み合った。
「兼子はもう関係ありませんわ。あの子はこの部をやめたのですもの。向日葵の事はしょうがない事ですのよ。向日葵がまた暴れてしまったら今よりも厳重な監視を付けなければならなくなりますわ。そうなると研究所に移してしまった方が費用も人員も節約できるという物ですわ」
「兼定先輩の前でも同じ事言える?」
大智の脳裏にふっと変わってしまった兼定の姿が浮かんだが大智はそんな事は関係ない、きっと兼定先輩なら協力してくれるはずだと強く思った。
「さっきから黙って聞いていれば兼定兼定としつこいですわね。あの子は兼定ではありませんわ。兼子ですわ。何度言ったら分かりますの。あまり目障りな事ばかりしていると、あなたの学籍を剥奪しますわよ」
学籍を剥奪という言葉に大智は驚き怯んだが、菊子みたいな人間には屈したくないという気持ちが大智の心を突き動かした。
「兼定先輩とは大違いだ。兼定先輩が武部を作ったのは自分の持つ力の使い方を学ぶ為だって言ってた。あなたみたいな人こそ武部に入るべきだったんだ。その力をもっとちゃんと使えるように学んだ方が良い」
大智は頭に中に浮かんだ言葉をそのまま叩き付けるように口から出した。
「何を言い出したのかと思えば、くだらない事を言いますわね。そんな事よりも、わたくしの言っている言葉の意味は分かっていますの? 学籍を剥奪するという事は退学になるという事ですのよ」
「そのくらい分かってる。でも武部と向日葵を人質にして兼定先輩の志を曲げさせたあなたみたいな人の言う事は聞きたくない」
菊子が心底嬉しそうに優雅に微笑んでみせた。
「では、退学という事になりますわね。そもそもあなたみたいな人にはうちのような学園は合わなかったのですわ。面白そうだからと入れてみたのですけれど、もう結構ですわ。明日から、いえ、今からもうこの学園の生徒ではありませんわ。早く消えるが良いですわ」
菊子が腹を空かせてすり寄って来た野良犬を追い払いでもするかのようにしっしと言いながら手を振った。
「あなたみたいな人がいるような、こんな学園こっちから出てってやる」
大智は本当に退学になってしまったと愕然としながらも、なんでもない風を装い強い口調で言い返してから部室の出入り口に向かおうと視線を菊子の目から外した。
「お姉ちゃん、何してるの?」
固く強ばった声で言いながら女生徒然とした姿になっている兼定が部室の中に入って来た。
「兼子。先に車に行ってなさいと言ったはずですわ」
菊子が甘えて来る幼子をあやしながらたしなめる母親のような表情と声色で言った。
「大智君の退学なんて嘘だよね?」
兼定が大智の傍まで歩いて来た。
「そうですわねえ。兼子がそう言うのだったら今回は許して差し上げますわ。けれど、兼子からも言ってあげて欲しいのですわ。わたしくしに対しての態度がなっていないと。わたくしのような権力者を前にして、ただの小市民風情が生意気なのですわ。これは、いけませんわね。これ以上言うと兼子を怒らせてしまそうなのでやめておきますわ」
菊子が兼定の傍に行くと兼定をいきなり自分の方へ引き寄せるようにしてギュッと抱き締めた。
「お姉ちゃんを待っていられなかったのですわね。うーん、もうっ。ほんっとにかわいい妹ですわ。ここにわたくし達以外誰もいなかったらうんと濃厚なキスをしていましたわ」
菊子が兼定の頬に自分の顔を近付けると、頬ずりした。
「お姉ちゃん、やめて」
兼定が辟易しながら大智の方へ弱々しく視線を向けて来た。
「兼定先輩」
大智は兼定の顔を見ていた目を微かに伏せ何も言えずに、ただ名前だけを噛み締めるように小さな声で呟いた。兼定が自嘲の笑みを顔に浮かべ何かを言うとすると携帯電話が振動する音が鳴った。
「タイミングが悪いですわね。掛けて来た人間には処分を科さないといけませんわ」
菊子がプリプリと怒って言いながら制服のポケットに手を入れると黒色でなんの飾り気もない携帯電話を取り出し、耳に当てた。
「何事ですの?」
二言三言短く会話をしてから菊子が通話を終了した。
「兼子。もう少しここにいる事にしますわ。これからここで面白い物が見られますわよ」
菊子が嬉しそうに微笑みながら大智の方に顔を向けて来た。
「兼定先輩は良いですけど、もう一人は部外者なんだから部室から出て行けば良いんだ」
大智は吐き捨てるように言い、もう話は終わりとばかりに向日葵の方へと体の向きを変えた。
「大智君。駄目だよ。自分をもっと大切にしないと」
兼定のどこか物悲しくも優しい声が背後から聞こえて来た。
「退学の件はありがとうございました。兼定先輩」
大智は振り向かずに、そこまで言って言葉を切った。兼定の辛い気持ちや立場を考え、武部に帰って来て下さい、前のように戻って下さい、と続けようとしていた言葉を飲み込んだ。
「菊子様。連行して参りました」
部室の外から男の声が聞こえて来た。
「ナタリーだけを中に入れてあなた達は外で待機なさい」
「ですが、何か起きましたら」
「お黙りなさい。わたくしがそう言っているのですわ」
「はっ。了解しました」
来ている服も体も血塗れでボロ雑巾のようになっているナタリーが部室の中へ押し込まれるようにして入って来た。
「ミーを捕まえたって何も出ないぜ」
ナタリーがそう言って血で赤黒く染まっている頬を歪め唇の端を吊り上げて笑ったような表情を作ると、その場に崩れるようにして倒れ込んだ。
「ナタリー先輩」
大智はナタリーの名を叫びながら駆け寄った。
「ナタリー」
兼定の悲痛な声が上がった。
「兼子。行ってはいけませんわ。今のあれは友人ではありませんのよ。我社に潜入したただのテロリストですわ」
菊子が蔑むような声音で事もなげに言った。
「ダイチか? まさかダイチも捕まったのか?」
ナタリーが顔を大智の姿を探すように微かに動かした。
「ここは武部の部室です。ナタリー先輩が連れて来られたんです。ナタリー先輩。大丈夫ですか? 僕は目の前にいますよ。見えてないんですか?」
大智はナタリーを抱き起し、顔を覗き込んだ。
「兼定の奪還は、また今度だ。しばらく休めば治る。心配すんな」
ナタリーが大智の存在を確かめようとするかのように左腕を震わせながら微かに上げた。
「ナタリー先輩。無茶し過ぎです。こんなになるまで。どうして一人で行ったんですか」
大智はナタリーの左手を両手で包むようにして握り締めた。
「温かいな。ついに、ミーに惚れたか?」
ナタリーが安堵したような嬉しそうな表情を顔に浮かべた。
「こんな時に何言ってるんですか」
「ソーリー。意識が、もう、駄目そうだ。なあ。ダイチ。ミーが治るまで待機だからな。何も、するな」
ナタリーの口が動きを止め、大智の両手の中にあるナタリーの左手が力を失った。大智は燃えるような怒りに駆られ、菊子の顔を睨み付けた。
「そんなに怖い顔をしないで欲しいですわ。わたくし達は当然の事をしただけですわ。ナタリーは武装して我社のビルの一つに押し入ったのですわ。本来なら警察に引き渡すか、秘密裏に処分するところでしたのよ。これくらいで済ませた事に感謝して欲しいですわ」
「大智君。こっちを見て」
大智が頭の中に溢れている様々な言葉を菊子に叩き付ける為に口を開こうとすると兼定が凛とした強い口調で言った。大智は引き込まれるように兼定の顔を見た。兼定は真っ直ぐな目を大智に向けていた。その目は男装をして髷を結っていた頃の兼定の目だった。
「ナタリーが目を覚ましたら伝えて。私にはもう関わらないでって。君も、おかしな事は考えないで。私は今、幸せで楽しくしているわ。だから、皆は皆で楽しく幸せになるようにして欲しいの」
「嘘だ。僕にだってそのくらい分かる。兼定先輩は嘘を言ってる。戦いましょうよ。武部を、皆がいる武部にまた戻すんだ」
大智は兼定先輩戻って来て下さいという強い思いを込めて咆哮するように叫んだ。
「大智君」
兼定の真っ直ぐな目の中にある黒い瞳が微かに揺れた。
「まったく困った子ですわね。先ほど目障りな事をするなと言ったばかりですのに。分かりましたわ。口で何を言っても無駄なようですので、少し痛い目にあってもらいますわ」
菊子が兼定の姿を隠すように兼定の前に立ち、大智の目を真正面から射るように見据えて来た。
「お姉ちゃん。武部の皆には何もしないで」
兼定が懇願するように言った。
「ここにいる子達には何もしませんわ。さあ。兼子。もう行きますわよ。それではまた。ごきげんよう」
菊子が兼定の手首をつかむように握り歩き出しながら携帯電話を取り出してどこかに電話を掛け始めた。
「兼定先輩。行かないで下さい」
連れて行かれるようにして歩き出した兼定と目が合った大智は叫んだ。
「大智君。ごめん」
兼定が目を微かに伏せた後に少しだけ間を空けてから悲しげな声で言った。
「兼定先輩。戻って下さい」
大智の言葉には答えずに兼定が体の正面を扉の方へ向けた。
「ダイチ? どうした?」
ナタリーの消えりそうな小さな声が大智の腕の中から聞こえた。
「大きな声を出してすいません。なんでもないです。ナタリー先輩は寝てて下さい。大丈夫ですから」
「ソーリー、ダイチ」
ナタリーの小さな声を聞きながら、大智は兼定の去って行く背中を見つめた。兼定が部室から出ると、扉が菊子の部下によって閉じられた。
「保健室」
向日葵がぽそっと抑揚のない小さな声で言った。
「ナタリー先輩を連れってった方が良いよね。でも、保健の先生驚かないかな」
大智は腕の中で規則正しい寝息をたてているナタリーの顔に視線を落とした。
「自宅に連れて帰るというのはどうでしょうか?」
戦子が典型的ないかにもロボットというような口調と声で言った。
「良いと思うけど、どうやって連れて行けば良いのかな。家の場所も分からないし」
起こして家の場所を聞いてみようかと思い、でも起こすのはかわいそうかも知れないとも思い逡巡していると大智の制服のポケットの中に入っている携帯電話が鳴った。大智はナタリーの左手を握っている手を片方だけ放すとこんな時に誰だろうと思いながら制服のポケットから携帯電話を急いで取り出し画面を反射的に見た。画面には自宅からの着信を告げる自宅という文字と自宅の電話番号が表示されていた。
「もしもし。僕だけど」
出ずに切ろうかどうしようか束の間迷ってから母さん達旅行から帰って来たんだと思って電話に出ると母親が自宅に車が突っ込んで来て家の内と外が大騒ぎになっていると告げた。あまりの事に取り乱しそうになったがナタリー先輩や向日葵に心配を掛ける事になると思い必死に自分を落ち着かせながらすぐに怪我とかは大丈夫なのと聞くと二階にいたから怪我などはしていないと母親が答えたので大智は胸を撫で下ろした。大ちゃんが家に帰って来た時に驚かないように電話しただけなのよと笑いながら言い、驚かせてごめんねと付け加えてから母親は電話を切った。
「誰?」
向日葵が聞いて来たが余計な事は言わない方が良いと思い大智は親だよとだけ言った。また大智の携帯電話が鳴った。母親からだと思った大智は画面を見ずに電話に出た。
「ごきげんよう。菊子ですわ。御両親、良いタイミングで御旅行から帰って来たようですわね。わたくしにとってはこんな事は造作ない事ですわ。これは警告ですのよ。また目障りな事をしたら、分かっていますわね? 次に何が起きるのか楽しみですわ」
大智は何も言い返す事ができなかった。恐怖と戦慄と怒りと嫌悪と苛立ちと、それ以外にも様々な感情が頭の中で激しく渦を巻いた。
「誰?」
向日葵の声が聞こえた。大智は電話が切れている事に気が付くと携帯電話を制服のポケットに戻した。
「間違い電話みたい」
大智は家の事と菊子から来た電話の事を考えながら答えた。
「ずっと抱いててくれたんだな。ミーはますますダイチの事が好きになった。どうしてくれんだよ」
ナタリーの声が腕の中から聞こえて来た。大智はナタリーの顔を見た。輝きを失い白く濁っていたナタリーの瞳が透き通るような綺麗な青色に変わっていた。
「ナタリー先輩、目が」
「大智の愛のお陰さ。随分回復したぜ。ありがとうな」
ナタリーが右手を床に突いて上半身を動かすと大智の胸に顔をギュッと押し付けて来た。
「ナタリー先輩?」
「ついでだ。甘えさせろ」
「もうっ、ついでってなんのついでですか」
大智はまだ完全に回復していないナタリーを気遣い体勢はそのままに不満だけを口にした。
「死ね」
向日葵がぽそっと言った。
「ヘイ、ヒマワリ。力は使うなよ。キクコの思うつぼだからな」
ナタリーがからかうように言った。
「そんな事より、ナタリー先輩。家に帰った方が良いですよ」
大智はギュイッと胸に押し付けられているナタリーの顔を覗き込むようにして見た。
「まだ帰りたくない。こんな時くらいもっと甘えさせろ。背中とか見るか? 拷問の傷があってな。実はまだ酷く痛むんだ」
「拷問?」
途中から消え入りそうな弱々しい声になりナタリーが言った拷問という言葉に大智は自身の耳を疑いながら激しい怒りを覚えた。
「拷問はされてはいません。全身スキャンをしたので間違いはありません」
戦子が典型的なロボットのような声で言った。
「はい? 戦子、今の本当?」
「戦子は嘘は言えません」
ナタリーの顔を見ると、ナタリーが片目を瞑ってペロッと下を出した。
「てへぺろー」
「死ね」
向日葵がいつもの声と口調で言った。
「そういう嘘はやめて下さい。本気で心配します」
大智はナタリーの両の目の中にある青い瞳を真剣な眼差しで見た。
「そんな目で見るな。ミーが悪かった」
ナタリーがいかにも名残惜しいという表情をしつつ大智の胸から顔を離した。
「センコ。本当に前のセンコとは違うんだよな?」
「はい。戦子システムは削除されています」
「その割には言う事が似てたけどな」
大智はブツブツと独り言を言っているナタリーの左手を握っていた手を放し、念を押すようにもう一度言った。
「ナタリー先輩。帰った方が良いですよ」
ナタリーが自身の左手を右手で感触を確かめるように触りながら大智の耳に顔を寄せて来た。
「ヘイ」
「何してんですか」
大智は飛び上がるようにしてナタリーから離れるとナタリーを睨んだ。
「内緒話だ。おかしな事はしない」
大智は疑いの目を声を小さくして言うナタリーに向け、耳に残るナタリーの吐息の感触を消し去ろうと耳を手で擦った。
「本当ですか?」
「本当だ」
ナタリーがいたって真剣に言うので大智は分かりましたと言って立ち上がった。
「二人に聞かれたくないならあっちに行きましょう」
大智は小声で言いながら部室の端に顔を向けた。
「オーケー。おっと」
ナタリーが立ち上がってすぐによろけたので大智は慌てて抱き締めるようにしてナタリーの体を支えた。
「ダイチ。サンクス」
ナタリーが頼るように大智の体に体を預けて来た。
「帰る時は家まで一緒に行きます」
「大丈夫だ。もう少し休めば普通に歩けるくらいには回復する。ミーの体の事より話だ」
ナタリーが足を踏み出したので大智も歩き出し、ナタリーを支えながら部室の端まで歩いた。
「ここらで良いだろ」
向日葵達がいる場所の反対側の壁の端まで行くとナタリーが足を止めた。
「座りましょう」
「今日の大智は優しいな。これからはいつも怪我をしてた方が良いのかも知れないな」
「何言ってんですか」
「ジョークだよジョーク」
畳の上に並んで座るとナタリーが小声で囁くようにして言った。
「さっきの電話の話が聞こえててな」
「それって僕がしてた電話ですか?」
大智は驚き思わず大きな声を出した。
「声が大きい」
「すいません」
大智は小声で謝った。
「ミー達の事は良いから早く帰れ。それと明日からはしばらくここには来ない方が良い。何かあったらすぐに連絡するから普通に学園生活を送っとけ」
大智は向日葵と戦子を交互に見てから畳の上に視線を落とした。
「嫌です。僕だけ逃げるような事はしたくない。向日葵、凄く僕らに悪い事したって思ってるんです。超能力も戦子がいて全然使えなくなってて。放っておけないですよ」
「ミーは良いのかよ」
大智は目を上げると、ナタリーの顔を見た。ナタリーは不満そうにプリッとした唇を尖らせ大智の方に顔を向けていた。
「良いなんて言ってないじゃないですか。ナタリー先輩だって放っておけないですよ。また今日みたいな事する気なんですよね? 今度は僕も行きます。前に一緒に行ったじゃないですか。あの時みたいに手伝います」
ナタリーが嬉しそうな笑みを顔に浮かべてから真剣な顔になり厳しい口調で言った。
「サンクス、ダイチ。気持ちは嬉しいが駄目だ。キクコはサイコだ。やると言ったら本当にやる」
「でも、このままなんて」
大智は携帯電話から聞こえて来た菊子の声と言葉を思い出し負けたくないと思い声を荒げた。
「少しきつい言い方になるが、ダイチがここに来なければヒマワリは何もしないと思うぜ」
大智は何も言えなくなって、ただナタリーの顔をじっと見つめた。不意に涙がじわりと目の中に広がるのを感じた。八つ当たりだと思いながらも家の事も向日葵の事も僕が悪いって言うんですか? 僕がいない方が良いって言うんですか? と言いたくなったが大智はぐっと堪えてその言葉を出さずに飲み込んだ。
「それが武部の為になるっていうんなら、分かりました」
大智は精一杯虚勢を張って言ってから堪え切れなくなって顔を俯けた。涙が畳の上にポタポタと落ちて目地の間にゆっくりと吸い込まれて行った。泣きながら畳の上に増えて行く染みを見つめていると中学の頃に孤立した時の事が頭の中に浮かんで来てまた似たような事になっちゃってると思い余計に悲しくなった。どうしてこんな事になるんだよと悔しく思いながら早く泣き止もうと思い両手で両目から流れ出る涙を懸命に擦っているとナタリーと向日葵の声が間近から聞こえて来た。
「ヘイ、ダイチ」
「大智」
ナタリーと向日葵が大智の体を包むようにして抱き締めて来た。
「ナタリー先輩。向日葵」
大智は二人の優しさを受けて余計に止まらなくなった涙を拭いながら涙声で二人の名を呟いた。
「反撃の時が来たら必ず教える。その時は二人で大暴れしてやろう」
ナタリーの優しい声が言った。
「大智。泣かす。殺す」
小さな抑揚のない声で向日葵が告げた。
「ナタリー先輩、了解です。向日葵、気持ちは嬉しいけど、殺しちゃ駄目だ」
大智はまだ流れ出る涙を拭きながら自然と綻んだ顔を上げた。
「顔が濡れています。これを使って下さい」
大智の顔の前に水色のハンドタオルが差し出された。
「戦子。ありがとう」
大智は驚きながら戦子の手からハンドタオルを受け取った。
「センコは良い奴だな。だが、前のセンコが戻って来たら消されちまうんだぞ。そんな事してて良いのか?」
「ハンドタオルを差し出したのはいけない事なのですか?」
「壊す」
向日葵がぽそっと言った。
「どうしてそうなるんだよ。向日葵駄目。これから部室にいる時は、向日葵と戦子は二人きりになるんだ。仲良くしないと」
向日葵が大智の顔を見つめて来た。
「大智。一緒」
「ごめん。向日葵。僕はしばらくここには来れないんだ」
「嫌」
言ってから向日葵が急に俯いた。
「分かった」
消え入るような声で言い堪える向日葵の姿を見て何もできない自分に大智は激しい憤りを覚えた。皆は自分にいろいろしてくれるのに自分は皆に何もしてあげられない、そう思うといつの間にか止まっていた涙がまた目から溢れ出した。大智は慌ててハンドタオルを顔に当てた。
「耐えるのも戦いだぞ、ダイチ」
「はい。すいません。皆本当にごめん」
大智は顔にハンドタオルを当てたまま大きな声を出した。
「大智」
向日葵が言い、向日葵の大智を抱く手に力がこもった。
「へイ、ヒマワリ、ずるいぞ」
ナタリーの腕にも力が加わった。
「二人とも、苦しいから」
大智はまた涙を流しながら顔を綻ばせつつ声を出した。
「大智。落ち着いたら早く帰るんだぞ。ミーはもう少し休んでから帰る。向日葵はどうする? ミーの家に来るか?」
「嫌」
「嫌ってなんだ。センコと二人で平気なのか?」
向日葵が相変わらずの声と口調で応じた。
「大丈夫」
「向日葵さんが行く場所に戦子プログラムも一緒に行きます。寮から出ている間は離れずに監視するようにとプログラムされています」
戦子が相変わらずのロボットらしい声と口調で告げた。
「別に二人一緒だって構わんぜ」
ナタリーが向日葵と戦子の顔を交互に見ながら言った。
「ここ」
「ここにいます」
向日葵に続いて戦子も言葉を出した。
「本当に大丈夫なのか?」
ナタリーが言いながら大智の体にからめていた腕を放すと向日葵が大智の体に回している腕を解き始めた。
「ん」
向日葵が不満そうに微妙に唇を尖らせた。
「向日葵。超能力は使っちゃ駄目だよ」
大智はナタリーによって解かれた向日葵の手を両手で握り優しく言った。
「使わない」
向日葵が唇を元に戻すと、抑揚のない小さな声を出した。
「オッケー。解散だ。ダイチ。帰る前にミーの手も握っといた方が良いと思うぜ」
ナタリーがそう言い、向日葵の手を握る大智の手の指を一本一本丁寧に伸ばし始めた。
「ん」
向日葵がまた不満そうに唇を微妙に尖らせた。
「ヒマワリはもういいだろ」
「ナタリーさんもさっき握ってもらっていました」
戦子が告げた。
「ヘイヘイ。センコ。ここは空気を読め。ミーがダイチの本命なんだからな」
ナタリーが至極不満そうに言いながら大智の指を伸ばしていた手を引くと向日葵が大智の手を握って来たので大智は何事かと思いながら向日葵の顔を見た。
「どうしたの?」
「送る」
向日葵がぽそっと言って立ち上がると大智の手を少しだけ引っ張った。
「向日葵、ありがと。じゃあ、ナタリー先輩。戦子。また」
大智は立ち上がり、ナタリーと戦子の顔を交互に見ながら挨拶をした。
「戦子も一緒に行きます」
戦子が向日葵の横に並んだ。向日葵が戦子の方に目を向けたが、すぐに視線を外すと大智の方に目を戻した。
「ミーも、と言いたいところだが、ミーは休む事にするか。ダイチ。シーユー」
「はい。ナタリー先輩。無理だけはしないで下さい」
「ダイチにそう言われたら、無理はできないな。ドンウォーリー。大丈夫だ」
ナタリーがパチッと右目を瞑ってウィンクした。
「行く」
向日葵が歩き出した。
「うん」
大智が足を踏み出すと、戦子も歩き出した。三人で部室を出ると、誰も何も言わないままに廊下や階段を進んで行き昇降口にある大智の下駄箱の前まで行った。
「さよなら」
向日葵が大智の手を握っている手を持ち上げ自分の顔の前まで持って行くと大智の手をじっと見つめた。
「向日葵。そんなに見たら放し辛いよ」
大智は寂しさや悔しさなどの感情を笑顔を作って押し隠しながら、もう片方の手を動かして靴を履き替えた。
「大智さん。さようなら」
戦子が大智に体の正面を向けたと思うとペコリとお辞儀をした。
「戦子。向日葵をお願い」
今の戦子に言っても意味がないと思いながらも大智はそう言わずにはいられなかった。
「分かりました。最善を尽くします」
戦子が頭を上げた。
「さよなら」
向日葵がもう一度言ってから、大智の手から手を放した。
「二人とも仲良くね。向日葵。ごめん」
大智は後ろ髪を引かれる思いを振り切るように体の向きを変えると歩き出した。