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その出会いと戦いが僕を変える  作者: 風時々風
3/8

「また寝ているな」

「本当だぜ。ダイチはこんな事ばっかりだな」

「ナタリーさんが悪いのです。映像を見せたはずなのに全然反省していないのです。大智は取り乱してそれはそれはかわいそうだったのです」

「ナタリーの所為で俺もこってり絞られた。いくらなんでもあれはやり過ぎだぞ」

「ちゃんと自己紹介するってカネサダが言ってたのにやってなかったからな。そのついでにセンコに会わせてやろうと思ったんだ。これ以上ないってくらい派手な自己紹介になったと思うぜ」

「しょうがない奴だ。自分の体を壊すのは良いが、その後どうする気だったんだ? 戦子が対処してくれたから良かったが、戦子が何もできない状態にあるという可能性だってあったのだぞ」

「そん時は、カネサダかキクコがいる。ミーがいなくなれば、ダイチはおかしな事はしないと分かっていたのさ。ダイチが大人しくしてればロボット達はダイチを殺しはしないだろ」

 大智は薄っすらと覚醒した意識の中に入って来る三人の会話をぼんやりと聞いていた。

「それにしても起きないな。ミーがキスしたら起きるかな。スリーピングビューティーみたいに」

 大智の頬に熱い吐息がかかった。

「やめるのです。戦子は今回の事で理解したのです。ナタリーさんは大智に近付けてはいけない人なのです」

「ヘイ。センコ。やめろよ。良いだろ、減るもんじゃないんだから」

「駄目なのです。キスなら、えっと、あれなのです。戦子がするのです」

 大智の頬にひんやりとした金属質の何かが触れた。

「頬じゃ駄目だな。唇にしないと。そんな遠慮してるならミーがいただくぜ」

 大智の唇を塞ぐようにふんわりと柔らかい肉感的な何かが触れて来た。次いでぬめりとした熱い何かが大智の閉じている唇を割って口の中に入って来た。ナタリーの艶っぽい吐息を間近に感じ、大智は両目をパッと開けた。

「離れるのです。何をしているのです」

 大智の眼前にあったミイラのように包帯でぐるぐる巻きになっているナタリーの顔が凄い勢いで離れて行った。

「ヘイ。センコ引っ張るな。性格変わったんじゃないか。前はもっと大人しかっただろ」

「そんな事ないのです。あんなのを見たら誰だってこうするのです」

 大智は顔をナタリーとナタリーを背後から羽交い絞めにしている戦子の方に向けた。

「おお。目が覚めたか」

 兼定が嬉しそうに言い、大智の顔を上から覗き込むように見て来た。兼定の安堵の色に満ちた顔に大智の視線は吸い寄せられた。

「あの、ここは?」

「学園の保健室だ」

 意識が完全に覚醒した大智はついこの前にもこんな事があったと思いながら、自分の身に何が起こったのだろうかと考えた。

「学園の保健室」

 大智は呟くように言った。

「そうだ。君の家に連れて行くよりもこっちの方が良いと判断した。御両親に余計な心配を掛ける事になるからな。体調の方はどうだ?」

 兼定がそっと大智の頭を撫でて来た。大智は優しく頭を撫でられ、くすぐったく思いながら口を開いた。

「体調ですか? 全然大丈夫ですけど、一体何があったんですか?」

 言い終えた瞬間、大智の脳裏にナタリーが肉片と化して行く様子がフラッシュバックした。

「記憶が混濁しているのか? ナタリーが」

「ナタリー先輩、死んだはずじゃ。どうして、生きてるんですか?」

 兼定の言葉の途中で大智は大声を張り上げながら上半身を勢い良く起こした。兼定が素早く体を引き不意に起き上がって来た大智の上半身を避けた。ナタリーとナタリーをまだ羽交い絞めにしている戦子がほとんど同時に大智の方に顔を向けて来た。

「ダイチー。起きたかー」

 ナタリーが戦子を振り解こうとした。

「大智が起きたのです!」

 戦子がナタリーから離れると天井に触れそうなくらい高く跳躍し兼定とベッドを飛び越えてベッドを隔てた兼定の反対側に着地した。

「大智。無事で良かったのです」

 戦子が子猫がじゃれつくように大智に抱き付き甘えて来た。

「戦子。また会えて良かった」

 大智はナタリーの事を忘れ、戦子に再会できた事を喜んだ。

「ヘイヘイ。ウエイトアセカンド。ミーの事はどうなった? ダイチー。ミーの事は気にならないのか? こんなだぞ。包帯萌えって奴じゃないのか?」

「おい。ナタリー押すな」

 ナタリーが兼定を押し退けるようにしてベッドの横に来た。

「そうだった。ナタリー先輩。どうして生きてるんですか?」

 包帯で巻かれた顔の隙間から片方だけ出ているナタリーの目の中にある青い瞳がキラキラと輝き同じように包帯の隙間から出ている形の良いプリッとした唇が動いて言葉を紡いだ。

「どうして生きてるんですかってのはちょっと傷付く。けど、まあ良い。なあなあ。ミーが生きてて嬉しいかダイチー?」

「当たり前ですよ。本当に生きてて良かった。いや。でも、ありえない。あの状況で生きてたなんて」

「ダイチー。アイラビュー」

 ナタリーが大智に抱き付いている戦子の腕を素早くパパッと解き、不意を突かれ何が起きているのか理解できないでいる戦子をよいしょなどと言いつつ大智から遠ざけるように押すと大智に抱き付いて来た。

「ナタリー先輩。やめて下さい」

 ナタリー先輩は何をしてるんだろう? とナタリーの動きを見守っていた大智は抱き付かれハッとすると大声を上げた。

「ナタリーさん何してるのです」

 何が起きたのか状況を飲み込んだ戦子が近付いて来ると大智の体に絡み付いているナタリーの腕を解きに掛かった。

「ナタリー、戦子、二人とも大人しくしろ。ここは保健室だぞ。うるさくすると追い出される」

 兼定が厳しい声で言い、ナタリーと戦子を交互に睨み付けた。

「センコが悪いんだ。ミーは悪くない」

 ナタリーが大智を抱く手に力を込めた。

「ナタリーさんが悪いのです。戦子は悪くないのです」

 戦子がナタリーの大智にしっかりと絡み付いている腕を解くのを諦めると、ナタリーの腕の下に自分の腕を入れ大智に抱き付いて来た。

「大智の事も考えろ」

 あきれたような声を兼定が出した。

「ミーに抱き付かれて喜んでるよな、ダイチー」

「大智。迷惑なのです?」

 大智は戦子の方に顔を向けた。

「迷惑じゃないよ」

「嬉しいのです。大智大好きなのです」

 戦子が大智に頬ずりして来た。

「まったく」

 兼定がまたあきれたような声を出した。

「シット。ダイチー。ミーに冷たいぞ。センコ。センコは本当に変わったな」 

 ナタリーが戦子の姿をじっと見つめた。

「そうなのです? そんな事ないと思うのです」

 戦子がかわいらしく小首を傾げた。

「いや。変わった。良い方向にな。白煙だって噴き出さなくなっただろ? おっと、そうだ。ダイチ。ミーがなんで生きてるかって話、まだだったな」

 ナタリーが大智の顔に顔を寄せて来ると、大智の耳を甘噛みした。

「な、何してんですかナタリー先輩」

 大智は驚いて短い悲鳴を上げ、早口に捲し立てた。

「良いから黙って聞け。ミーの秘密を話す大事な告白なんだから」

 ナタリーが大智の耳元で囁くように語り出した。

「ミーの家も巡天には負けるがそれなりに大きな家でな。昔から巡天の家とは付き合いがあった。ミーは日本に来る度に巡天の家に世話になってて、兼定達と遊んでた。三年前に来た時に、運悪く巡天関連の企業を狙ったテロにあってしまったんだ。ミーは一度そこで死んだ。けど、最先端再生医療とやらのお陰で生き返る事ができた。どういう治療をされたんだか、それからミーの体はどんなに壊れても再生する体になったんだ。ダイチも見ただろ。ミーの体があの時どうなったか。あれほどに壊されてもミーは死なない。ミーは不死身のモンスターだったのさ」

 ナタリーが語り終えると、少し顔を俯けて自分の体に絡み付いているナタリーの腕を見つめていた大智の右目の眼球をペロッと舐めた。大智はまた短く悲鳴を上げた。

「何してんですか」

 悲鳴のすぐ後に言葉を出し舐められた方の目を指で擦りつつパチパチと瞬かせながら顔をナタリーからそむけるように横に向けた。

「大智がこっち向いたのです」

大智の頬に頬をくっ付けたままナタリーが語り出してからじっとしていた戦子が嬉しそうな声を出した。

「涙の味ってのはしょっぱくてデリシャスだな」

 ナタリーが不意に遠い目をしながら呟くように言った。

「死なないなら死なないって最初から言ってくれれば良かったんだ」

大智は戸惑いや怒りや不安や苛立ちや悲しみや憐憫など自身の中に渦巻き出したいろいろな感情を抑え切れなくなり言葉を漏らした。

「怒ったのかよー。ダイチー?」

 ナタリーが媚びるような声音で言った。

「怒ってませんよ。でも、目の前であんな風になって」

 ナタリーがクスクスと笑った。

「ミーの体の事は気にならないのか? あんな風になってもこうやって生き返ってるミーが怖くないか?」

 大智はナタリーがどんな表情をしているのかと思いナタリーの顔を見つめた。包帯でグルグル巻きになっているナタリーの顔からは表情は読めなかった。ナタリーが包帯の隙間から片方だけ覗いている目の中の青い瞳で大智の顔を見つめ返して来た。

「怖いですよ。怖過ぎてもう二度と会いたくないくらいです」

 言葉の途中で声が震えた。渦巻いていた感情が噴き出すように大智の両目から涙が溢れ出した。大智は上半身を捻ってナタリーの方に向けると、両腕を戦子とナタリーの腕の中かから抜きナタリーを抱き締めた。

「ダイチ。ダイチはクールガイだな。センコが好きになってカネサダが執心するだけの事はある」

「自分を大切にして下さい。もう二度とあんな事しないで下さい」

 大智はナタリーを抱く手に力を込めた。

「困ったな、これは」

 ナタリーの声が微かに震えたと思うとナタリーが言葉を切った。ほんの少しの間があってからナタリーが普段と変わらない声で話し出した。

「ダイチは咄嗟の時に行動できる人間だ。あの状況下でミーを助けようとしてくれたんだからな。その衝動的とも思える行動力は、時には、ダイチ自身を傷付ける事もあるだろう。けど、悪い事ばかりじゃない。過去の事は過去の事だ。同じ過ちを繰り返さないようにすれば良い」 

「ナタリー先輩、それって」

 大智の言葉の途中でナタリーが不意に顔を寄せて来て大智の頬にチュッと音をたててキスをした。

「いきなり何やってんですか」

「ダイチは良い奴だって事さ。カネサダ。後は任せた。ミーはまだ体がパーフェクトじゃないからな。少し疲れた」

 ナタリーがダイチの体に回している腕にキュッと力を入れると、大智に体を預けて来ながら目を閉じた。

「まったく。勝手な事ばかりする。大智。すまないな。ナタリーは君の事を試していたのだ。君が力を持つに足る人物かどうかをな。おいおい話して行くつもりだった。君を我が部に招じ入れたのには不登校にまつわる事だけでなくまだ言っていない理由がある」

 兼定が大智の反応を見るように言葉を切っった。

「どういう事ですか?」

 大智は片手をナタリーから放すと涙を拭きつつ言葉を出した。

「戦子には変形し人が乗る事のできる起動兵器になるという機能がある。SF物の映画や小説なんかの戦闘シーンに出て来る人型の兵器を想像すると分かり易い。戦子を開発した部署の者達が戦子に乗るパイロットを用意したのだが、戦子が君以外の人間を乗せるのは嫌だと言い張ってな。戦子のプログラムや体をいじり強制的にパイロットを乗せようとしても戦子の方がうわてでどうしてもうまくいかなかった」

 大智は兼定の言葉を遮るように口を開いた。

「僕が戦子のパイロットになるんですか? それで、何をするんですか?」

「有事の際に戦子とともに戦う。これは言ったかも知れないが戦子システムは軍事用だ。戦子には巡天の開発した軍事用のロボットの一団を統率して戦う能力がある」

「戦子と合体するのは大智しかいないのです。それ以外の人間はお断りなのです。戦子は必死に貞操を守ったのです。ネットを使って自分をいろいろな場所にコピーして何人も作っておいてプラグラムを改変されても平気なようにしたり、こっそり別のボディを作ったりしたのです」

 戦子が大智を抱く手にギュッと力を込めて来た。

「戦子。そんなに僕の事を。ありがとう」

 大智はナタリーを抱いていた手を解くと戦子を抱き締めた。

「うにゃー? ヘーイダイチー。ミーから手を放すなー。スヤー」

 ナタリーが寝ぼけた様子でうわ言のように呟きながら眠った事で力の抜けていた大智を抱く手に改めて力を込めるとすぐにまた眠りの中に落ちて行った。

「ナタリーさんを引きはがしたいのです。でも、今はこれで我慢するのです。スリスリなのです」

 戦子が不満そうに言い、大智に頬ずりして来た。

「大智。本当に君が戦子のパイロットになって有事の際に戦う必要はない。それはあくまでも開発者達の勝手な意向だ。だが、会社の者達の中にはそう思わずに君を戦子のパイロットにし利用しようとしている輩がいる。俺は君が戦子と一緒にいる事でそういう輩に抵抗する力を手に入れる事ができると思っている」

 兼定が申し訳なさそうな色を声から滲ませた。大智は意識して表情を引き締めると兼定の方に顔を向けた。

「戦子と一緒にいられるならなんでも良いです」

 兼定が神妙な表情をしながら小さく頷いた。

「可能な限り俺の力で君の事は守る。会社の者達が君に直接手出しをして来るような事はないとは思うが、俺の力の及ばない時や万が一の時は、すまないが、君自身が戦子と協力し降りかかる火の粉を自らの手で払ってくれ」

 兼定が頭を下げた。

「先輩。そんな風にしないで下さい。大丈夫です」

「大智。本当にすまない」

 兼定が頭を上げた。

「戦子はこれから大智と一緒に暮らすのです。ずっと一緒にいないと心配なのです」

 戦子が弾んだ声を出した。

「戦子。その必要はない。あくまでも学生らしく付き合え。一緒に暮らすなど破廉恥だぞ。大智の周辺にはこれから警備の者を付ける事にしてある。おかしな事は考えるな」

「警備が付くんですか?」

 戦子が戦子はロボットなのです。それなのに破廉恥なんて人間らしい扱いの事を喜んで良いのか悲しめば良いのか分からないのですなどと言っている横で大智は思わず大きな声を出してしまった。兼定が微笑んだ。

「そんなに嫌がるな。大丈夫だ。とても優秀な能力を持つ者が君を守る。君はいつも通りの日常生活を送れば良い」

「そう、ですか。それなら、まあ、良いと思いますけど」

 大智はずっと監視されるのかな? などと考え始め、ハッとした。

「あの消防車。まさか、あれはわざと僕を狙ったとかですか?」

 兼定の表情から微笑みが消えた。

「現在調査中だが、あれは恐らく偶然だろう。そもそもああなったのは君が急に飛び出したからだからな」

 兼定の口調が途中から大智の事を注意するような物になっていた。

「あ、はい。すいませんでした」

 大智はしょんぼりとしながら目を伏せた。

「もしも君を狙って行われていたのだとしても、心配はするな。もう二度とあんな事は起こらない」

 大智は伏せた目を上げ、頼もしいと思いつつ兼定の顔を見た。

「ありがとうございます」

 兼定が笑顔になり口を開こうとしたが、兼定が言葉を出す前に戦子が言った。

「兼定さん。戦子抜きで話を進めないで欲しいのです。警備なんていらないのです。戦子が一人で守るのです。今だって大智の事はいつも見ているのです。それをもうちょっとだけ良く見るようにすれば良いだけなのです」

 戦子が大智越しに覗き込むようにして兼定の方に顔を向けた。大智は今もいつも見てて、もうちょっとだけ良く見る気なんだと思い、微妙に気が遠くなったが何も言わずにおいた。

「良い心掛けだ。戦子も引き続きちゃんと大智を守るのだぞ。だが、警備の者は付ける。大智の為だけではなく、警備に付く者の為であるのだ。大智。頼んだぞ」

 頼んだぞという言葉を聞いて、大智は慌てて言葉を出した。

「先輩? 頼んだぞって、どういう事ですか?」

 兼定が難しい顔になった。

「なんというか、ええっと、そうだな。あれだ。警備に付くその者は今回が初の警備任務になるのだ。だからだ。不慣れなところもあると思うが、持っている能力は折り紙つきだ」

 兼定の言葉に妙な歯切れの悪さを感じたが、大智は不慣れならしょうがないと頷いた。

「そういう事ですか。分かりました。僕も警備をしてもらうなんて初めてです。なんでも初めてってありますもんね」

 兼定が大智の肩に手を置いた。

「嬉しいぞ大智。良くぞ了承してくれた。さすが我武部の新入部員だ。俺が武部を作る切欠となった新渡戸稲造の書、武士道の最初の一文は、武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。という物だ。俺は武士道は花であるという表現がとても気に入っている。新渡戸稲造の意図する意味とは違うかも知れないが、俺の目指す武士道は文字通り花と同じだ。美しく咲き季節の移ろいに合わせ咲き誇った花弁を散らせはするが時節が来ればまた花を咲かせる。ただそこにあり、持っている美しさや溢れ出る生命力で人々の心を救ってくれる。刀を振るい、力を誇示する事だけではいけないのだ。持っている力を正しく使う事が大切なのだ」

「持っている力。それって、もしかして兼定先輩の家の事を言ってるんですか?」

 大智の言葉に兼定が寂しそうな表情を一瞬だけ見せてから頷いた。

「そうだ。だが力を持っているのは私だけではない。君ももう持っている。戦子と協力して得られる力だ。ナタリーも、向日葵もそう。力を持つ物には義務が生じる。力を持つが故に生じる義務だ。武士道部、略して武部。我武部は持っている力を正しく使う事を学ぶ事を目的としている」

 大智は眩しい物を見るような思いで兼定の顔を見つめた。

「なんか凄いです。僕にはまだ自分が得た力の事とか良く分からないですけど、先輩の考え方良いと思います」

 兼定が大智の肩の上に置いてある手で軽く大智の肩を叩いてから、手を引いた。

「ありがとう。急に語り出したりしてすまなかった。君が我部に入ってくれたという実感がいよいよ湧いて来てしまってな。力が入った。後、俺の自己紹介を改めてすると言ってやっていなかったからな。ナタリーや戦子や向日葵が持つような特殊な能力は俺にはない。俺にあるのは家が持つ力だけだ。俺はそういう物に飲み込まれ、自分自身を見失って生きて行くのが嫌なのだ」

「戦子に会えたし、先輩やナタリーさんと知り合う事ができました。先輩、武部に誘ってくれて本当にありがとうございます」

 大智は深々と頭を下げた。兼定が嬉しそうに言った。

「こちらこそありがとう。戦子の事に関しては俺の家の会社がすべて悪いのだ。君は巻き込まれただけだ。それなのにそんな風に言ってくれて。大智。俺は今とても感動している。心の中から喜びが溢れ出しそうだ」

 大智が下げていた頭を上げると、兼定が静かに涙を流していた。

「先輩」

 大智も感動して目が潤んで来た。

「ヘーイ。うるさいぞ。眠れないじゃないか」

 ナタリーが目を擦りながら不満たらたらな声を上げた。

「大智。戦子も感動したのです。機能があったら大泣きしているところなのです」

 戦子が顔を甘えるようにグイグイと大智の肩に押し付けて来た。

「二人とも、そろそろ大智から離れたらどうだ? 大智はどこにも行きはしまい」

 兼定が諭すように言った。

「ふん。ミーは離れないぜ。ミーは決めたんだ。ダイチをミーの物にする。ミーみたいなモンスターを抱き締めてくれたんだからな」

 大智は驚いてナタリーの顔を見た。

「ナタリーさん。大智は戦子の事が好きなのです。おかしな事言うのはやめて欲しいのです」

 戦子が大智の肩越しにナタリーの方を見ながら不満そうに強い調子で言った。

「今は、だろ? 人の気持ちは変わるもんさ」

 ナタリーが弾むような口調で言い口角を上げて微笑んだ。

「ナタリーさん、さっき、戦子は変わったって、良かった良かったみたいな感じで言ったのです。あれは、応援するっていう事じゃないのです?」

「別に。ただ変わったなって思ったけだ。センコ、いい加減ダイチから離れろ」

「きいーなのです。絶対離れないのです」

 戦子が大智の体を抱く手に強い力を込めて来た。

「ミーは負けないぜ」

 ナタリーも大智を抱く手に強い力を込めて来た。

「苦しい。苦しいって。二人ともやめて」

 二人に強く抱き締められ大智は呻くように声を上げたが、二人は張り合う事に夢中になっているようでまったく聞いていなかった。

「兼定」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな抑揚のない声がしたと思うと、いつの間に現れたのか兼定の斜め後ろに向日葵が立っていた。

「向日葵。判断は自分でするんだ。俺がやってしまうと意味がなくなるからな。さてと。俺は部室へ少しだけ寄ってから帰宅する。大智。体調に問題がないのなら今日はもう帰宅しろ。学園側には今日は授業には出られないと伝えてある」

「先輩、行っちゃうんですか?」

 大智はこの状況をなんとかして下さいと懇願するように声を出した。

「うむ。やらなければならない事がある。また明日部室でな」

 兼定がさらりと言って間仕切りのカーテンを開けると外に出て行った。

「兼定先輩」

 大智は見捨てられた、と思いつつ悲しみに満ちた目を間仕切りのカーテンの隙間に向けた。

「ヘイ。ヒマワリ。何しに来たんだ?」

 ナタリーが向日葵に声を掛けた。

「警備」

 向日葵がぽそっと抑揚のない小さな声で言った。

「警備に付く人って、向日葵さんなのです?」

 戦子が驚いた声を出した。向日葵が小さく頷いた。大智は確か橋爪向日葵さんって名前だったよね、でも、この人が警備の人? と驚き疑問に思ったが、もしそれが本当ならこの状況をなんとかしてくれるかも知れないと藁にもすがる思いで声を発した。

「えっと、橋爪さん、お願い。二人に手を放すように言って」

 向日葵が大智の言葉には返事をせずにナタリーと戦子の顔を交互に見た。

「オーケー。ヒマワリ。手を放す。何もするな」

 不意にナタリーが観念したように言ったと思うと大智の体に絡み付けていた腕を解いた。

「戦子も放さないと駄目なのです?」

 戦子が寂しそうな声を出した。向日葵が小さく頷いた。

「分かったのです。しょうがないのです」 

 名残惜しそうにしながら戦子が大智から腕を放した。

「橋爪さん。ありがとう」

 どうして二人とも急に素直になったんだろう? という疑問が頭の中を過ぎったが、まずはとにかくお礼をと思い大智は頭を下げた。

「ダイチ。頭を上げな。ヒマワリならもういないぜ」

 大智は急いで頭を上げた。

「本当だ。いない。どういう事? ナタリー先輩。橋爪さんって一体どういう人なんですか?」

 ナタリーが右手の人差し指で自分の唇に触れながら言葉を出した。

「うーん。そうだな。自分で聞きな。ミーが教えるってのもなんかな。ヒマワリに悪いからな」

 ナタリーがおもむろにベッドの上に横になると、大智から離れるように横に向かって転がりベッドの端まで行ってベッドから下りた。

「ダイチ。家まで送ってってやる。帰ろうぜ」

「駄目なのです。大智は戦子と一緒に帰るのです」

 戦子が立ち上がり、その場から跳んでベッドから下りた。ナタリーが顔に巻いてある包帯の解けて来てしまっていた部分を片手で直した。

「ダイチー。ミー一人だと途中で倒れるかも知れない。まだ体調がパーフェクトじゃないんだ」

 戦子がまた跳んでベッドの向こう側に行くとナタリーに近付き、ナタリーの体を頭の先から足の先まで舐めるように顔を上下させて見た。

「スキャン完了なのです。ナタリーさんの体に異常は認められないのです。怪我はもう治っているのです。一人で帰るのです」

 大智はむむむと睨み合いを始めた二人を見ながら、ベッドから下りた。

「ナタリー先輩。三人で帰りましょう。戦子。それで良いよね?」

「大智がそう言うなら良いのです」

「しょうがないな」

二人が不満そうに言うのを聞きながら大智は間仕切りのカーテンを開けて外に出ると保健室の中に視線を巡らせた。

「大智。向日葵さんを探してるのです? 向日葵さんの生体反応はこの部屋の中にはないのです」

 戦子が大智の横に並んで来た。

「センコ。ヒマワリの事で余計な事は言うな。ミー達のような奴らは自分の事は自分で話した方が良い」

ナタリーが戦子のいる方とは反対側の横に並んで来た。戦子が顔を前に少し出し、大智越しにナタリーの方を見た。

「分かったのです。そうするのです」

 大智は初めて部室で向日葵を見た時にふっと向日葵が自分と同じように教室などで孤立しているのかも知れないと思った事を思い出しながら歩き出した。保健室から出て教室の並ぶ廊下を歩いていると、教室の中から英語の文章を朗読する声が聞こえて来た。

「そういえば、今って何時間目なんだろ」

 大智は誰に聞くともなしに呟くように言った。ナタリーが大智の腕に腕をからめ、胸をギュムッと大智の腕に押し当てて来た。

「先輩。やめて下さい」

 大智がナタリーから離れようと体を引きながら腕を解こうとすると、ナタリーが自分から腕を解いた。

「うーん。じゃ、やめる。パーハプス三時間目だったはずだ」 

 ナタリー先輩はどうして自分から腕を解いたんだろうと訝しみつつ三時間目なんだと大智は一瞬納得しかけたが、すぐに時間の経過の仕方がおかしいと気付いた。 

「三時間目ですか? 朝からまだそれだけしか時間が経ってないんですか?」

 大智はナタリーの顔をまじまじと見つめた。

「ああー。それ違うぞ。あれがあったのは昨日だ。大智は一日眠ってたんだよ。さあ、ダイチー言う事を聞いたんだ。褒美をくれ褒美を。キスで良いぞ。キスミー」

ナタリーが大智の顔を見返して来たと思うと、唇をタコの漏斗のような形にして迫って来た。

「一日経ってるんですか?! 先輩。何してんですか」

大智は驚きつつ顔を仰け反らせてナタリーから逃げるように斜めに動き戦子の前に出た。

「大智。もう二人で帰るのです」

 戦子が大智の体をいきなりお姫様抱っこし、飛行を開始した。

「何? 何が起こってんの? 飛んでる! 戦子ー、ちょっとー」

 大智は悲鳴を上げた。

「ヘイセンコ。待て。やり方が汚いぞ」

 ナタリーの叫ぶ声が背後から聞こえて来た。

「ナタリーさんの方がやり方が汚いのです。大智にベタベタ触らないで欲しいのです」

 戦子が至極不満そうな声を上げ、飛行する速度を上げた。

「ヘーイセンコ」

 ナタリーの叫び声を尻目に戦子が突然空中でほぼ直角に曲がると開いていた窓から校舎の外に出た。大智はその急な動きに吐き気を覚え口に手を当てつつまた悲鳴を上げた。青空に向かってある程度の高さまで上昇した戦子が水平飛行に移った。

「大智。驚かせてごめんなさいなのです。でも、大智にもうナタリーさんとキスして欲しくなかったのです」 

 戦子がしょんぼりした小さな声で言った。

「そうだね。でも、キスしたりはしないから。だからいきなり飛ぶとかは、これからはやめよ。怖いから」

 大智は保健室のベッドに寝ていた時にナタリーにキスされた事は憶えていなかったので、頬にキスされた時の事を戦子は言っているんだと思い、これからは絶対に頬にキスされないようにしようと心に誓いつつ、襲ってくる嘔吐感に息も絶え絶えになりながらかすれた声を絞り出すようにして言葉を作った。

「大智。キスしないと言ってくれて嬉しいのです」

 戦子が喜びを表すかのように宙返りした。

「もう駄目だ。ごめん」

 宙返りが終わった途端に大智はエロエロと、胃の中から込み上げて来た内容物を眼下に広がる町に向かって散布した。

「大変なのです。大智。急ぐのです」

 戦子が加速した。

「良いから。ゆっくりで良いから。というか、ゆっくりが良いから。もう降ろして」

 言葉の途中でまた胃の中の内容物が込み上げて来る感覚に襲われ大智の声は小さくなり風切音にかき消された。

「大智。本当にごめんなさいなのです。全部戦子の所為なのです。戦子は帰らない方が良いと思うのです。大智が元気になるまで一緒にいたいのです」

 自宅の敷地内に降りた戦子から離れた大智は玄関のドアに寄り掛かりフラフラになった体を支えながら小さく頭を左右に振った。

「戦子の所為じゃないよ。僕が情けないだけだから。少し休めば治ると思う。僕も一緒にいたいけど迷惑掛けたくないし。今日はここで解散しよ」

 声を出すと、また込み上げて来る物があってううっぷとなったので慌てて大智は口を押えた。

「戦子」

 不意に門の方から向日葵の抑揚のない小さな声がした。

「向日葵さん。警備なのです?」

 戦子が不安そうな寂しそうな声を出した。門の外に立っていた向日葵が小さく頷いた。

「戦子は帰らないと駄目なのです?」

 戦子が消え入りそうな声で言った。向日葵が小さく頷いた。

「分かったのです。大智。またなのです。でもちゃんと見ているのです。ずっと見ているのです。またなのです」

 戦子が大智に向かってこれでもかと両手を大きく振って来た。

「うん。また。気を付けて帰って」

「はいなのです。では、またなのです。ピピッなのです。兼定さんからメールが来たのです。もうこんな時になんなのです?」

 途中から至極不満そうに言い戦子は雲一つない青空に向かって飛び立って行った。上空を行く戦子の体から真っ白な雲のような物が発生したと思うと、ゴオォッとソニックブームが起こった音が鳴り響いた。

「音速、超えるんだ」

 大智はぼそりと呟いてから戦子の姿を追っていた目を門の外へと向けた。

「あの、橋爪さん。あれ? もう、いない」

 向日葵の姿はもうそこにはなかった。大智はどうやって移動してるんだろう? と首を傾げながらドアの傍に戻るとドアノブを回した。鍵が掛かっていてドアは開かなかったので大智は制服のズボンのポケットから家の鍵を取り出し鍵を開けてドアを開けた。家の中に上がると真っ直ぐに台所へ行き流し台で口の中をゆすいでからいつも食事の時に使っているテーブルの前の椅子に腰を下ろした。吐き気や気分の悪さは随分と落ち着いて来ていたので、少し休んだら自分の部屋に行こうと思いながら、何気なくテーブルの上に視線を向けた。テーブルの上に白い紙が載っているのが視界の端に入って来たので気になった大智は手を伸ばし白い紙を取った。

「父さんと二人で旅行に行って来ます。詳しい事は巡天部長さんに聞いて下さい。母より」

 白い紙は大智の家でいつも使われている古いカレンダーの裏を利用したメモ紙でその紙面には母の文字でそう書いてあった。

「旅行?」

 大智は驚いて思わず声を上げた。自分になんの話もなく父と母が旅行に行った事など今までに一度もなかった。大智はどうしてなんだろう? と思いつつメモ紙をまじまじと見た。詳しい事は巡天部長さんに聞いて下さいという文字を改めて見て、大智はもう一度驚いた。

「巡天部長さん?」

 大智はまた声を上げつつ、どうして兼定先輩がここに出て来るんだろうと困惑しながら、とにかく兼定先輩に聞いてみた方が良いと思った。携帯電話を制服のズボンのポケットから取り出し、待機状態を解除しようとして大智は手を止めた。兼定の連絡先はまだ聞いてはいなかった。大智は携帯電話の黒い画面を見つめながら、どうやって兼定先輩と連絡を取れば良いんだろうと考えた。大智はそうだ部室だと思うと足を動かし掛けたが、兼定が部室へ少しだけ寄ってから帰宅すると言っていた事を思い出し動かし掛けた足を止めた。手に持っていた携帯電話が突然鳴った。驚いた大智は携帯電話を落としそうになりながら画面を見た。画面には携帯電話会社からのメールが一通届いたというメッセージが表示されていた。大智は一応メールの中身を確認したが内容はただの広告メールだった。大智は携帯電話を待機状態に戻そうとして自分の迂闊さに気付くとすぐに母親の携帯電話の電話番号を呼び出す操作をし母親に電話を掛けた。メモ紙にあった巡天部長さんに聞いて下さいという言葉ばかりに気を取られてしまい、大智は母親や父親に連絡する事ができるのをすっかり失念していたのだった。だが、母親は電話に出なかった。続いて父親にも電話をしてみたが、父親の方も出なかった。大智はどうして二人とも出ないんだと思い何度か掛け直してみたがそれでも二人とも出ないので着信は残っているだろうからきっと掛け直して来るはずだと思いながら両親に電話するのをやめた。振り出しに戻り、どうすれば良いんだろう、何か方法はないのかなと考えていると戦子のいつも見ているのですという言葉が頭を過ぎった。大智は携帯電話に向かって呼び掛けた。

「戦子。見てる? 頼みがあるんだ。兼定先輩と連絡を取りたいんだけど、なんとかならないかな。戦子。見てたら返事して。お願い」

 しばらくそのままの格好で戦子からの返事を待ってみたが、戦子からの返事は来なかった。突然メモ紙だけを残して何も言わずに旅行に行った父と母とは連絡が取れず、ずっと見ていると言っていた戦子とも連絡が取れないという事態が大智の心の中に不安の種をまいた。大智は自分の事を戦子のパイロットにし利用しようとしている輩がいるという兼定の言葉を思い出した。父と母が騙され誘拐されていたり、戦子の身に何かが起こっているという可能性があるんじゃないか? 大智はそう思うといてもたってもいられなくなりとにかく学園に行ってみようと決めて駆け出した。玄関に到着し靴を履こうとして、靴の上に白いA四サイズの紙が載っているのを見た。

「心配無用」

 大智は至極かわいい丸文字で紙に書いてあるのを見て、今までの状況も含めて何が起こっているのか何がなんだかさっぱり分からなくなった。

「大智。頼ってくれて嬉しいのです。折角だから今大智の家に向かっているのです。どうせなら直接行った方が良いと思ったのです。それで返事が遅れたのです」

 携帯電話から不意に戦子の喜びに満ち溢れた声がし始めた。

「戦子。無事なんだね。良かった」

 大智は手に握っていた携帯電話を急いで耳に当てると言葉を返した。

「無事なのです? はいなのです。戦子は無事なのです。大智、何かあったのです? 戦子の見えていない範囲で何かあったのです? もう家の近くまで飛んで来ているのです。すぐ降りて行くのです」

 戦子が言葉の途中から凄く心配し始めている様子が電話越しに伝わって来たので大智は慌てて否定した。

「いや、特には何もないんだ。心配させてごめん。でも、戦子。来てくれてありがとう」

言い終えたのとほとんど同時に屋根の方から激しい破壊音がし、天井を突き破って何かが背後に落下して来たので大智は心臓が止まらんばかりに驚きながら振り向いた。

「撃墜されたのです」

 戦子がしょんぼりした声を出しながら、自身と一緒に落下して来た瓦や木材の破片の中から立ち上がった。

「撃墜?! 戦子、大丈夫」

 大智は戦子に駆け寄った。

「大智。危ないのです。戦子は大丈夫なのです。大智の方が心配なのです。足を怪我するといけないのです」

 戦子が両手を伸ばして来ると大智の体を床の上から少し持ち上げた。

「僕の事より戦子の事だよ。本当に大丈夫?」

「戦子はこれくらいでは壊れないのです。本当に大丈夫なのです」

 戦子の大智の心配に喜びつつ優しく言う声を聞いて大智は胸を撫で下ろした。

「そっか。それなら良かった」

「向日葵さんに撃墜されたのです。戦子を大智を襲おうとする敵か何かと勘違いしたみたいなのです」

「橋爪さんが? 戦子を撃墜した?」

 戦子が数歩進んで破片のない場所まで行くと大智を床の上に下ろした。

「そうなのです。ああー! なのです! 大智。ごめんなさいなのです。大智の制服が埃まみれになってしまったのです」

 戦子が大智の制服に付いた埃を手で払い始めた。大智は戦子の手を優しく握って止めた。

「大丈夫。気にしないで。そんな事より、戦子を撃墜するなんて橋爪さんて凄いんだね」

 大智は戦子の手を咄嗟に握ってしまい恥ずかしくなったのでごまかすように言いながら握っている戦子の手から手を放した。

「恥ずかしがらないで欲しいのです。戦子まで恥ずかしくなって来たのです」

 戦子が顔を俯けながら押し黙った。

「そうだ。戦子に頼みがあったんだ。戦子。兼定先輩に連絡取れるかな?」

 大智は両親の事をすっかり忘れていた事に少々の罪悪感を覚えつつ、戦子を気遣うように言った。戦子が顔を上げると、大きく頷いた。

「はいなのです。連絡は取れるのです。けど、向日葵さん関しての事だと内容によっては聞いても駄目なのです」

 戦子が途中から何かを思い出しているかのような様子になりながら言った。

「橋爪さんの事じゃないんだ。母さんと父さんの事で兼定先輩に聞きたい事があって」

 戦子の背後から物音がした。大智は戦子越しに物音のした方を見た。

「天井」

 大智はまるで逆再生の映像のように天井が勝手に直って行くのを見て驚きのあまりに絶句した。

「天井、なのです?」

 戦子が振り返った。天井はあっという間に何もなかったかのように元に戻ってしまった。

「天井。うん。天井」

 大智は天井を呆然と凝視しながら呟いた。

「向日葵さん。大智が凄く驚いているのです」

 向日葵の姿などどこにもないのに戦子が向日葵を非難するような声を上げた。戦子のその言葉に応じるかのように玄関のドアが勢い良く開く音がし、次いでナタリーの声が聞こえて来た。

「ダイチー。遊びに来たー。ペアレンツが旅行だって? 今夜は二人きりで盛り上がろうぜ」

 大智は呆然としたまま玄関の方に顔を向けた。

「ダイチ? どうした? センコ。ここで何してんだ? 抜け駆けか? 一人で来るなんて、センコって意外とエロいんだな」

「エロくないのです。そんな事より、何しに来たのです? 今取り込み中なのです。邪魔しないで欲しいのです」

 戦子が大智を庇うように大智の前に立った。

「取り込み中? そういえばダイチの様子が変だ。ああ! 二人して、そういう事なのか? もう、そういう事しちゃったのか? おい。ダイチ。ぼうーっとしてないでなんか言えよ」

 ナタリーが家の中に上り込んで来ると戦子を押し退けて自分の顔を大智の顔にくっ付きそうなほどに近付けて来た。押し退けられた戦子が体勢を立て直すとナタリーの横顔にくっ付きそうなほどに自分の顔を近付けた。

「ナタリーさん。いい加減にするのです」

「センコ、シャーラップ」

「シャーラップじゃないのです」

 むむむむと戦子とナタリーが睨み合いを始めた。

「天井」 

 大智は発条仕掛けの同じ動作を繰り返す玩具のような動きで振り向くと天井を指差した。

「天井? 天井がどうかしたのか?」

 戦子との睨み合いなどなかったかのように自然に大智の横に並んで来たナタリーが訝しむような表情を顔に浮かべつつ天井を見上げた。

「天井。直った」

 大智は日本に来たばかりの外国人が話すような片言の日本語で言った。

「天井が直った? どういう事なんだよ?」

「向日葵さんなのです。戦子が壊した天井をいきなり直したです。大智がそれを見て、驚いてこんな風にぼうっとなってしまったのです」

 戦子が言いながらナタリーと大智との間に無理やり体を入れて来た。

「なるほど。ヘイ。ヒマワリ。出て来い。ダイチがパニックになってる。説明してやれ。気持ちは分かるが、このままってのは無理だ。こんな事を続けてたらダイチの頭がおかしくなっちまう」

 ナタリーがささっと大智の反対側に回り込み再び横に並びながら呼び掛けるように言った。

「戦子もそう思うのです。大智がかわいそうなのです。向日葵さん。お願いなのです」  

 戦子がまた大智とナタリーとの間に無理やり体を割り込ませつつ、ナタリーと同じように呼び掛けるように言った。

「天井」

 大智は相変わらず呆然としたままただ人の言葉に反応するだけの機械のように呟いた。

「ダイチー。しっかりしろよ。こうなったらあれだ。マウストゥーマウスだ。人工呼吸だ」

 そう言い放ったナタリーがいきなり大智の唇に吸い付いた。

「ナタリーさん。何してるのですかー」

 戦子が大智を抱きかかえると奪うようにしてナタリーから引き離した。

「ヘ~イ。センコ。邪魔すんなよ」

 ナタリーが色っぽい濡れた声で言い、唇をペロリと舐めた。戦子に抱きかかえられ首がかくんと曲がり顔が上を向いた大智は何もない天井近くの空間からA四サイズの紙が突然現れ降って来るのを見た。

「紙!?」

 大智が叫ぶように言うと、戦子とナタリーが同時に反応した。

「ペーパー?」

「紙なのです?」

「ガッチャ」

ヒラリヒラリと空中を舞うように落ちて来る紙をナタリーが跳び上がってつかんだ。

「何か書いてあるのです」

 戦子が声を上げた。A四サイズの紙の真ん中に小さなかわいい丸文字で「忍者」と書いてあった。

「ヘイヘイヘーイ。ヒマワリ。アーユーキディング?」

 ナタリーが至極あきれたように言い放ち手に持っていた紙をビリビリと破いた。

「戦子。手を放して」

 大智は戦子に声を掛け手を放してもらうと、ナタリーの顔に真剣な目を向けた。

「あまりにも現実離れしてたから混乱してました。橋爪さんは近くにいるんですか? いたら話をしてみたいです」

 ナタリーが嬉しそうに微笑むとふふーんっと小さく唸ってから片目を瞑ってウィンクしてみせた。

「ヘイ。ヒマワリ。ダイチはこう言ってるぜ」

 ナタリーが大きな声を上げた。皆の視線が先ほど紙が現れた辺りの天井に集中した。やや間があってから、また天井近くの何もない空間からA四サイズの紙が現れヒラリヒラリと落ちて来た。

「今度はなんだ?」

 ナタリーが紙をつかむと紙に書かれている文字を見た。

「帰れ」

 ナタリーが読み上げてから、紙をまたビリビリと破きつつ不敵な笑みを顔に浮かべた。

「帰れだと? 面白い。ヒマワリ。ミーがいつまでも我慢してると思うな」

 ナタリーがいきなり大智の頭に腕を回すとヘッドロックした。

「ナタリー先輩。やめて下さい」

 大智はナタリーの行動に困惑しつつナタリーの腕から逃れようともがいた。

「ナタリーさん大智から離れるのです」

戦子がヘッドロックを外そうとナタリーの腕をつかんで引っ張った。ナタリーがヘッドロックをしている腕にさらに力を込めると大智の顔に顔を近付けて来た。

「どうして顔を近付けるのです」

 ナタリーに負けじと戦子も大智の顔に顔を近付けて来た。

「二人とも協力しろ。今からダイチを痛め付ける芝居をする。そんでヒマワリを誘き出す」 

 ナタリーが小声で囁くように言った。

「嫌ですよ。そんな騙すような事はしたくないです」

 大智も小声で囁くように言った。

「そうなのです。戦子も大智と同じ考えなのです」

 戦子も小声で囁くように言った。

「なんでだよ。ダイチ、ヒマワリの事嫌いなのかよ?」

「好きも嫌いもないですよ。まだ全然話もした事ないんですから」

「じゃあ話したら好きになるのかよ?」

「どうしてそうなるんですか? だいたい僕には戦子がいるんです。他に好きな人なんてできるはずありません」

「大智。大好きなのです!!」

 小声で囁き合っていると、また紙が降って来た。

「戦子が取るのです」

戦子がパッと片手をナタリーの腕から放すと紙をつかんだ。

「帰れと書いてあるのです」

戦子がしょんぼりした声でそう言うとナタリーが顔を天井に向け、怒鳴るようにして大きな声を出した。

「だいたいなんでさっきから筆談なんだよ。出て来てトークしろ。ううん? ヒマワリ、まさか、あれか? 照れてんのか? ダイチに惚れてるのかああああ~、おい、ヒマワリやめろ」

 言葉の途中で突然ナタリーの腕が大智の頭から離れたと思うとナタリーの体が宙に浮き上がり背後にある玄関のドアに向かってゆっくりと飛んで行った。

「戦子もなのですうー?」

 戦子の体も突然宙に浮き、ドアに向かってフワフワと飛んで行った。ドアが勝手に開き、二人は外に投げ出された。

「アイルビーバアーック」

「また来るのですうー」

 バタンと音がしてドアが閉まった。

「今のも、橋爪さんがやったの?」

 恐る恐るドアに近付いて行っている大智の目の前に紙が降って来た。「超能力」と紙には一言そう書いてあった。

「超能力? 超能力ってあの超能力? 透視とか念力とか瞬間移動とかのあの超能力?」「そう」

 そう書かれた紙が降って来た。

「本当に?」

 言ったのとほとんど同時に大智の体が突然宙に浮き上がった。

「うわあっ。何これ? なんで? どうして?」

 大智の体は空中に浮かびながらフワフワと移動して行き、台所にあるテーブルの前の椅子の横まで来るとゆっくりと床まで降りて行った。テーブルの上に「サイコキネシス」と書いてある紙が降って来た。

「分かった。信じる。うん。信じるよ。あの、でも、どうして出て来て話をしてくれないの? 筆談だとやっぱり話がし難いと思う。こういう大事な話はお互いに顔を見て話した方が良いと思うんだ」

 大智は「サイコキネシス」と書いてある紙を手に取って見つめた。今度はすぐには紙は降っては来なかった。

「聞こえてなかったのかな。おーい。橋爪さん。聞こえなかった? おーい」

 大智がそんな風に何度か呼び掛けていると紙が降って来た。

「馴れ合い。いらない」

 今までの丸文字とは違い、すべての文字がなぜか少しずつ角張っていた。

「馴れ合いって」

 大智は向日葵の言葉にショックを受けて呟き、顔を俯けながら押し黙った。「両親。兼定。計画」と書かれた紙がテーブルの上に降って来た。大智は顔を上げると新たに降って来たその紙を今持っている紙と重ねるようにして手に取った。

「兼定先輩? 計画? それって、兼定先輩が計画して二人を旅行に行かせたって事?」

 すぐに「そう」と書かれた紙が降ってきた。

「そうだったんだ。知らせてくれてありがと。でも、どうしてそんな事したんだろ。知ってたら教えてくれる?」

 大智は向日葵が自分がショックを受けた事に気を使ってこのタイミングで両親の事を知らせてくれたのだと思い嬉しくなった。「避難」と書かれた紙が降って来たのを見て大智はその紙がテーブルの上に落ちる前に言った。

「避難? それって、やっぱり僕の所為って事、だよね。このまま一緒に暮らせなくなったりしたら嫌だな」

 大智がテーブルの上に視線を落とすと「戻る」と書かれた紙が降って来た。大智はその紙をじっと見つめながら、橋爪さんは優しい良い人なんだと思った。

「あのさ。橋爪さん。聞いて欲しい事があるんだ。馴れ合いなんていらない。僕もそう思ってた。あの日からそう思うようになってた」

 大智の手に自然と力がこもり持っている紙が潰れて渇いた音を鳴らした。

「周りの人に声を掛けるのが怖くなった。だから、ずっと一人だった。けど、寂しかった。怖かった。一人でいると、息が詰まりそうになって苦しかった。僕は、ここ数日で武部の皆に出会って変わった。だから、橋爪さん。僕は君にも僕のようになって欲しいと思う。初めて橋爪さんを見た時、僕みたいに孤立してる人なんじゃないかって思った。まだ橋爪さんの事良く知らないから見当はずれな事言ってるかも知れないけど。でも、言う。橋爪さん。僕と仲良くなって。僕は君を救いたい。武部の皆がそうしてくれたみたいに君を僕みたいにしたい」

 大智は立ち上がって周囲を見た。

「橋爪さん。お願いだから出て来て」

 ヒラリヒラリと宙を舞い、テーブルの上に紙が降って来た。その紙には「無駄」とだけ書いてあった。大智は頭の中が一瞬真っ白になるくらいのショックを受けた。そんな言葉が返って来るとは思っていなかった。

「どう言われたって良い。けど、出て来て。それで僕と向き合ってよ」

 大智は自分の受けたショックをねじ伏せようとするかのように半ば叫ぶようにして言った。天井の照明が突然小さな音を鳴らしながら点滅を繰り返した。テーブルの上に紙が降って来た。点滅を繰り返す天井の照明を受けて黒くなったり白くなったりしながら落下して来たその紙には何も書かれてはいなかった。

「ん」

 聞こえるか聞こえないかくらいの抑揚のない小さな声が大智の正面のテーブルを挟んだ向こう側から聞こえて来た。大智は声のした方に顔を向けた。天井の照明が消え、部屋の中が真っ暗な闇に包まれた。

「橋爪さん。来てくれてありがとう」

 大智は暗闇の中で大智の方をじっと見つめている向日葵の姿を見て微笑んだ。

「見ろ」

 何を? と大智は言おうとした。だが、自分の身に起こり始めた現象に心も体も飲み込まれ、大智は言葉を失った。大智は気が付けば手術台のような所の上に寝かされていた。

「本当に人間なんですか?」

「人間は人間だ。だが、完全に規格外の化け物だ。いや。神か。この子の持っている力の謎を解明できれば、人類は全知全能となるだろう」

 ぼんやりとした感じの黒い亡霊のような影が寝かされている大智の傍に二つ立っていて、その二つがしているらしい会話が聞こえて来た。二つの影が覗き込むように長細い体を大智に向かって曲げて来た。

「解剖を開始する」

「はい」

 細長い影の一つの体から更に細長い腕のような物が生えて来ると、その腕のような物の

先端が銀色に輝いた。大智はその輝きに恐ろしさを覚え、手術台のような所の上から逃げ出そうと身をよじろうとした。体がまるで他人の物のように感じられ、まったく動かす事ができなかった。胸部にひんやりとした感触がしたと思うと、鋭い痛みが走った。大智の体はまるで大皿に載った料理を取り分けているかのように簡単にバラバラにされて行った。絶え間なく襲い来る言葉にできないほどの激痛に大智は意識を失いそうになった。世界が変わった。今度は教室のような場所だった。大勢の亡霊のような黒い影達が椅子に座っている大智を囲んでいた。大智は酷く惨めで悲しい気持ちを抱えながら懸命に身を縮めつつ静かに泣いていた。

「死ね」

「化け物」

「怖いんだよ」

 子供のような声で影達が口々に大智に向かって言った。

「帰れ」

「学校に来んな」

「なんの騒ぎかな?」

 大人の男のような声がしたと思うと大智は言い知れぬ恐怖を覚え、体が強張るのを感じた。子供のような声が一斉に言った。

「先生。向日葵が悪い事した」

「向日葵が悪いんだ」

「全部向日葵の所為だ」

 大智は何もしてないと言おうとした。強張っている体の所為で声を出す事ができなかった。

「また向日葵か。お仕置きが必要だな」

 大人の男のような声が告げ、突然大智の頭の上から大量の水が降って来た。大智はびしょ濡れになった体に纏わり付く濡れた服の冷たさを感じつつ、もう死にたいと思った。世界が変わった。病院の診察室のような場所だった。亡霊のような一つの細長い影が大智の座っている椅子の向かいにある椅子に座っていた。

「随分元気になったみたいだね。きっと大丈夫だから一緒に頑張って行こうね」

 優しい大人の男のような声が言った。大智は穏やかで温かい気持ちになりながら微笑んだ。

「それじゃ、また明日」

 大智は名残惜しい気持ちを抑えつつ小さく頷くと立ち上がり、診察室のような場所から外に出た。

「こっちだ」

 外にいた黒い亡霊のような細長い影がいきなり大智の腕をつかんで来た。

「ご苦労様でした。今日でカウンセリングは終了です」 

 もう一ついた細長い影が診察室のような場所に上半身を入れながら言った。

「良かった。やっと終わりですか。こんな化け物を扱うのは怖くて大変でしたよ。もう顔も見たくない。早く連れて行って下さい」

 大智はその言葉を聞いて目の前が真っ暗になるほどに愕然とした。世界が変わった。子供部屋のような所だった。二つの背の高さの違う影が子供用のベッドの上に寝ている大智の事を見下ろしていた。大智は耳を塞ぎたい気持ちを必死に抑え、息を潜めて寝ている振りをしていた。

「もう無理よ」

「そうか。それならこの子を売ってお金をもらおう」

決定的な終わりを感じた。この子を売ってお金をもらおうという言葉に初めて悲しみよりも強い怒りを感じた。心の片隅に押し固めてあった憎しみ、怒り、殺意といった負の感情がゆっくりと広がり出し、心の中はコールタールを塗りたくったようにドロドロになった。世界が変わった。大きな公園のような場所だった。大智の周りには遊びに来ていたり、散歩を楽しんだりしている大勢の大人や子供がいた。大智の足元に赤いビニール製のボールが転がって来た。大智はそれを右足で押さえるようにして踏み付けた。ぐいっと力を込めてボールを踏むと、その場にいたすべての人達の体が大智に踏まれているボールのようにひしゃげてから弾け飛び公園のような場所は一瞬にして死屍累々の地獄と化した。大智はその光景を見て自分の行いに狂気と恐怖と愉悦と後悔と絶望と悲嘆と自責の念を感じ狂ったように笑った。世界が変わった。銃声、砲声、爆音。戦争が起こっていた。戦争の中心には大智がいて、すべての兵器の矛先は大智に向いていた。大智は怒りと憎しみと破壊衝動に駆られて右手を前に向かって伸ばし、開いた手をギュッと握り締めた。すべての兵器が丸く潰れて爆発した瞬間、得も言われぬ快感が大智の体の芯を貫いて走り抜けて行った。世界が変わった。大智の目の前に向日葵がいて、大智に向かって右手を伸ばしていた。向日葵が右手を軽く握った。何も分からぬままに大智の体は内側から捲れるようにして爆ぜた。

「ん」

 向日葵の声がし大智はいつの間にか閉じていた目を開けた。大智は知らぬ間にテーブルの前の椅子に座っていた。カラカラに喉が渇いているのを感じて大智は唾を飲み込んだ。体が突然震え出し、体中から嫌な汗が噴き出した。今まで見て来た光景と聞いた音や言葉や感じた事が自分が本当に経験した事のような実感を伴って思い出され頭の中と心の中を蹂躙した。大智はテーブルに額を強く打ち付けながら突っ伏した。

「駄目」

 向日葵の小さな抑揚のない声が耳鳴りに襲われている大智の耳に響いて来た。大智は歯を食いしばりテーブルから引きはがすようにして顔を上げた。

「ん」 

 向日葵が抑揚のない小さな声で言い、大智に背中を向けた。大智はガクガクと体を震わせながら必死の思いで椅子から立ち上がると、テーブルにつかまりながら向日葵に向かって歩き出した。

「待って」

力が入らず体が酷く重く感じられ足を進める事が辛かったが大智は懸命に体を動かした。向日葵の姿が闇の中に溶け込み始め消えて行こうとした。

「僕よりもずっとずっと想像もできなくらいの辛い思いをしたんだね。でも、橋爪さん。駄目じゃない。僕は、今、君に親近感を覚えてる」

「ん」

 向日葵の小さな抑揚のない声が返って来た。

「橋爪さんが自分の事見せてくれたから。同じ物を見て同じ思いをしたんだ。僕らはきっと仲良くなれる」

 向日葵が振り返った。

「友達になろう」

 大智は向日葵に向かって右手を伸ばした。向日葵の姿が消えたと思うと、一瞬にして大智の目の前に現れた。

「瞬間移動」

驚き、小さな声で短く悲鳴を上げた大智に向かって向日葵がぽそっと言った。

「凄い」

 大智は心底感心して言った。伸ばしたままだった大智の手を向日葵の手が取ると向日葵のほんのりと温かい体温が感じられた。

「鹿島大智」

 不意にフルネームで呼ばれ大智はまた驚いたが今度は悲鳴を上げずにはいっと返事をした。

「お試し期間」

 ギュッと向日葵の大智の手を握る手に力が入った。

「お試し期間?」

意味が分からず大智は聞き返した。

「駄目。殺す」

 大智は向日葵の顔を凝視した。

「お試し期間中に友達になれなかったら、殺すって事? 本当に殺す気?」

「ん」

 頷いた向日葵の表情からは冗談か本気かは分からなかった。

「警備してくれるんだよね?」

「ん」

「それなのに殺すの?」

「殺す」

 向日葵が手を放した。

「警備はしないって事?」

「する」

「警備するのに殺す? どういう事?」 

 大智はしばらく考えて、ある結論を導き出した。

「もしかして、警備が終わったら殺すとかってそういう事?」 

「ん」

 頷いた向日葵の姿が一瞬にして消えると、天井の照明が小さな音をたてて点灯した。

「橋爪さん。もう一度出て来てよ。仲良くなる為に話をしよう」

 大智は周囲を見回しながら姿の見えない向日葵に向かって呼び掛けた。

「橋爪さん。聞いてる?」

 何度か呼び掛けてみたが向日葵からの返事はなかった。大智はこのままじゃどうしようもない、出て来てもらって話をしないと駄目だ、どうすれば出て来てくれるんだろう? と椅子に座って矢継ぎ早に考えた。テーブルの上に一枚の紙が降って来た。

「橋爪さん? いるなら出て来て」

 大智は立ち上がり大きな声を出しながら、テーブルの上に落ちた紙を手に取った。紙には「読める」と書いてあった。

「読める? 何が? 話を、とにかく話をしよう。いるなら出て来て」

 大智は向日葵が出て来てくれるのを待った。天井付近から一枚の紙がふっと現れ降って来た。手に取ると「読心能力」と書かれていた。

「読心能力? 心が読めるって事? じゃあ、僕の思った事が全部分かるって事?」

 大智は驚きのあまりに悲鳴のような声を上げてしまった。大智の目の前に紙が降って来た。手に取ると「分かる」と書いてあった。大智は分かるという丸文字で書かれた言葉をじっと見つめつつ、こんなのどうすれば良いんだと思い途方に暮れた。「殺す。楽しみ」と書かれた紙がヒラリヒラリと大智の眼前に舞いながら落下して来た。

「殺す? 楽しみ? 橋爪さん。今すぐ殺したいって事じゃないよね?」

 心を読まれても平気なようにと大智は困った人だななどと独り言を付け足し平静を装ったが、もしかしたら本当に殺されるかも知れないと一瞬考えてしまった。「お試し期間」という言葉が書かれた紙が降って来た。

「お試し期間はあるって事だよね? そうだよね?」

懇願するように言った大智の言葉に応じるように降って来た紙には「ある」と書かれていた。

「良かった。うん。良かった。そうだ。えっと、あれだ。お腹空いた。何か食べよ」

 大智はこのまま今の状態で考えている事を読まれ続けてはたまらないと思い、なんでも良いから行動を起こし別の事を考えようとした。

「ごめん。今、思ったり考えたりした事はなんとういうか、ごめん。とにかくごめん」

慌てて言いながら大智が椅子から立ち上がると「火」と書かれた紙が大智の目の前に降って来た。火? 燃えちゃえば良いとか思ってるのかな? と大智は今までの向日葵の言動からそんな風に向日葵の言葉を受けて考えてしまったので、また慌てながら今度は考えた事をそのまま口から出し心の中で思っただけじゃなく言うつもりだったという演技をした。すぐに「取扱注意」と書かれた紙が降って来た。

「火を使うなら気を付けろって事、だね。ああっと、ありがとう。さて。何を食べるかな」

 大智は演技をしてしまった事に罪悪感を覚え、きっと演技だと気付かれてるだろうから謝った方が良いよねと思いつつ火を使う事を心配してくれるなんて橋爪さんはやっぱり良い人なんだと嬉しくなりながら、しまった、僕は今また余計な事を考えたと最終的に弁解の言葉を出す気が失せるほどに落ち込み冷蔵庫の前に行き扉を開けた。肉や野菜や卵など何かしら作れそうな材料は入っていたが、大智は料理などまったくといって良いほどにやった事がなかったので何を作れば良いのかが分からなかった。そういえばご飯は炊いてあったかなと思いつつ冷蔵庫の扉を閉じると、玉子掛けご飯なら僕でもできると思いながら炊飯器の置いてある所に行き蓋を開けた。大智はすぐにがっかりしながら蓋を閉じた。炊飯器の中身は空っぽだった。大智は椅子の所に戻ると静かに腰を下ろした。テーブルの上に紙が降って来た。紙には「作る?」と書かれていた。大智は丸文字で書かれた作る? という言葉をためつすがめつした。

「作る? 作る? まさか、何か食べる物を作ってくれるって事じゃないよね?」

 大智は橋爪さんの手料理って事なのかな? けど、それって大丈夫なのかなと思いつつ恐る恐る聞いてからまた僕は余計な事を考えてしまったと思って項垂れた。「料理する。作る。大丈夫。おいしい。自信ある」などと今までにないほどに多弁になっているのかも知れないような感じで言葉が綴られた紙が降って来た。

「橋爪さんって料理好きなんだ」

 大智はなんか意外だなと思った。やや間があってから「嫌い」と書かれた紙が降って来た。

「ごめん。僕またいろいろ余計な事を考えた」

 大智は頭の中空っぽになれ空っぽになれと念じながら言葉を出した。向日葵は大智の言葉になんの反応も示さなかった。

「ごめん。怒った? ほんっとにごめん。カップラーメンとかレトルト食品とかがあると思うからご飯は自分でなんとかする」

 大智は流し台の下にある収納に確かそういう物が入っていたはずだと思いながら歩き出した。

「大智。困っているのです? 戦子が助けるのです」

 制服のズボンのポケットに入れてあった携帯電話から突然戦子の声が聞こえて来た。大智は体をビクリと震わせて驚きつつポケットから携帯電話を取り出すと急いで耳に当てた。

「戦子。どこにいるの?」

「今は自分の家なのです。大智の家には近付く事もできないのです」

「そう、なんだ。えっと、今までの話聞いてた?」

「全部は聞いていないのです。ごめんなさいなのです。いろいろあって連絡が遅れたのです。けど、記録はしてあるのです。すぐに見てみるのです。そんな事より大智は全然心配してくれてなかったみたいなので寂しかったのです。連絡欲しかったのです」

 大智はごめんと言おうとしたが、携帯電話が何かに突然引っ張られたので手から放してしまった。

「あれ? 携帯」

 大智は空中をどこかに向かってフヨフヨと浮遊して行く携帯電話に向かって咄嗟に手を伸ばした。携帯電話が急に飛ぶ速度を上げて大智の手から逃れ、流し台の蛇口から水が勝手に流れ出した。蛇口から流れ出る水を見た大智の脳裏に嫌な予感が走った。トッポンという音ともに、大智の携帯電話が流し台の中にあった洗い桶の中に落下した。

「そんな。なんで」

 大智は流し台の前に急いで行くと、洗い桶の中に手を入れようとした。大智が手を入れる前に洗い桶が凄い勢いで天井に向かって舞い上がった。

「……」

大智は呆然と水を滴らせながら頭上に浮かんでいる洗い桶を見上げた。テーブルの方から何か硬い物が天板にそっと当たる音がした。テーブルの方に顔を向けると、海苔の巻かれたおにぎりが三つ盛られた皿が一つ置かれていた。

「おにぎり?」

 大智は携帯電話のことを忘れ、テーブルに向かって歩き出した。おにぎりの入っている皿の横に紙が載っていた。「捨てろ」とだけその紙には書かれていた。大智はテーブルの傍に行くと、おにぎりを一つ手に取った。

「温かい。作ったばっかりみたいだ。捨てろだなんて。これ、食べて良いんだよね?」

 大智は向日葵の姿を探すように顔を巡らせた。「自由」と書かれた紙が降って来た。大智はおにぎりを齧った。具はおかかだった。

「おいしい。ありがとう」

 大智はすぐに一つを食べ終わると次のおにぎりを手に取った。大智の目の前に洗い桶の中に落ちたはずの携帯電話がフヨフヨと飛んで来た。

「そうだった。携帯」

 大智は慌てて空いている方の手で携帯電話をつかんだ。水の中に落ちたはずなのに携帯電話は少しも濡れてはいなかった。

「通話禁止」

 携帯電話の通話口から向日葵の声がした。

「橋爪さん? ねえ。橋爪さん」

 呼び掛けるが向日葵からの返事はなかった。携帯電話の嘘の水没の事や通話が突然切られた事に付いて話をしたかったが集中して食べないと折角作ってくれた橋爪さんに悪いと思うと携帯電話をテーブルの上に置き、何も言わずにおにぎりを全部食べた。

「ごちそうさま。ありがとう」

 洗おうと皿を持ち上げると大智の手の中にあった皿が消えた。

「消えた!?」

 驚いて声を上げると、紙が降って来た。「好物」と書かれていた。

「好物? 好きな物って事だよね? 今の流れからだと食べ物の事? カレーかな。あんまり辛くない奴」

 今までになかった向日葵との普通っぽい会話に大智はどんな言葉が返って来るんだろうと期待しながら向日葵の返事を待った。天井付近から紙がパッと現れ、大智の眼前に降って来た。手に取ると「幼稚」と書いてあった。

「幼稚? 子供っぽいって事?」

 大智が幼稚って言われたとにへこみながら言うと「そう」と書かれた紙が降って来た。

「橋爪さん。提案というかお願いというか頼みというか、できればやってもらいたい事ががあるんだけど良いかな?」

へこみつつも折角普通っぽい会話ができてるんだからもっといろんな話をしたいと思い大智が言うとやや間があってから「言え」と書かれた紙が降って来た。

「あのさ、言葉なんだけど、もう少し、分かり易く書いてもらえないかな。橋爪さんの言葉は短過ぎて難しい。本当は目の前に出て来てくれて顔を見ながら話をできたら一番良いんだけど、それは無理っぽいから。でも、紙に書く言葉はすぐにでも変えられるかなと思うんだ。悪い風に受け取らないで。分かり易いともっといろいろ話せると思うし、そうすれば仲良くなれると思うんだ。ごめん。いきなり失礼な事言ってるよね。でも、本当に悪い意味じゃないんだ。橋爪さんの言いたい事とか人柄とか変に誤解したり間違えちゃったりしたくないから」

 大智は言い終えると緊張しながら向日葵からの返事を待った。「検討」とだけ書かれた紙が降って来た。

「検討してくれるって事?」

 再び紙が降って来た。「そう」とだけ書かれていた。

「ありがとう。僕にも何か言いたい事があったらなんでも言って。二人して意見を出し合って変わって行こう。そうすればきっと仲良くなれるし、橋爪さんも出て来られるようになると思う。一緒に頑張ろう」

 言い終えてからしばらくしても紙が降って来なかったので大智は天井を見上げたり周囲を見回したりした。

「橋爪さん。やっぱり怒ってる?」

 やっぱり変な事言っちゃったのかなと不安になり聞いてみたが向日葵からの返事は来なかった。大智はしょんぼりしたり不安を更に募らせたり何かあったのかな? と向日葵の身を心配したりしていたが何か用事ができたとか別の事で忙しいという可能性もあるし、うじうじしてると橋爪さんが心配するかも知れないと思うとネガティブな思いを振り切るように携帯電話を手に取った。向日葵が通話禁止と言っていた事をふっと思い出したが、あれは食事をしてた時だからだろうと思うと大智は口を開いた。

「戦子。戦子? 聞こえてる?」

 戦子からの返事はなかった。大智は忙しいのかなと思いつつ再度呼び掛けてみたが通話口から戦子の声が聞こえて来る事はなかった。大智は携帯電話を見つめ戦子の事を考えながらPCからも呼び掛けてみたらどうだろうと閃くと自室へ向かう事にした。二階にある自分の部屋へ着くと大智はデスクトップPCの電源を入れ携帯電話をPCのディスプレイの前に置きPCデスクの前の椅子に座った。立ち上がったPCのディスプレイがすぐにメールの受信を告げるアイコンを表示させた。メールソフトを開き受信されたメールを確認すると件名に戦子と書かれていた。大智はやったと思いながらすぐにメールを開いた。「やっと会えたのです。大智の携帯電話は故障しているのです。だからこっちにメールしたのです。声を出さないのはまた向日葵さんに邪魔をされたら嫌だからなのです。読心能力を使われたらすぐに気付かれるのです。けど、音を出したらもっと早く気付かれるのです」 

 大智がメールの文面を読み終え、故障? と思いつつ携帯電話の画面に目を向けていると、PCが聞いた事のない電子音を発した。なんの音だろうとディスプレイに目を向けると、戦子のデフェルメされた姿が上下左右に描かれた見た事のないチャットソフトが開いていた。「これは戦子オリジナルのチャットソフトなのです。これでチャットするのです。向日葵さんに気付かれるまではこれで話せるはずなのです」と戦子が文字を打って来た。「携帯電話は壊れてないみたいに見えるけど。さっきは食事をしてて行儀が悪いから通話は駄目だって意味だと思う。今ならきっと平気だよ」と大智が打ち込むとすぐに「向日葵さんが気付いたら絶対に邪魔するのです。それと大智の携帯電話は間違いなく故障しているのです。戦子はずっと声を掛けていたのです。今もやってみているのです。携帯電話から戦子の声は聞こえているのです?」と戦子からの言葉が返って来た。大智は携帯電話を手に取り、ボリュームが小さいのかなと耳に当ててみたり操作をしてボリュームを上げたりしてみた。それでも戦子からの声は聞こえては来なかった。大智はやっぱり戦子の言う通り故障してるのかなと思いつつ、携帯電話を見つめた。携帯電話がメールの受信を告げる音を鳴らした。大智は不意を突かれて驚きながら、件名のないメールを開いた。「外部接触禁止」とメールには書かれていた。

「これって? まさか、橋爪さん? 橋爪さんなの?」

 大智は部屋を見回しながら声を上げた。PCが電子音を鳴らした。大智はディスプレイに目を向けた。「そう」と戦子のチャットソフトに新たな文字が表示されていた。

「良かった戻って来てくれて。でも、どうして? 戦子と話すくらい良いと思うんだけど」

 チャットソフトに「安全。配慮」という文字が打ち込まれた。

「でも、戦子だよ。セキュリティとかも完璧だと思うし僕と戦子との会話が他に漏れたりはしないと思う」

 大智はチャットソフト上で点滅しているカーソルをじっと見つめた。

「駄目」 

 向日葵のぽそっと呟くような小さな声が聞こえて来た。大智は話をしてくれてると嬉しくなりながら携帯電話からかな? と携帯電話を耳に当てた。

「じゃあ、少しだけ。すぐにやめるから」

「駄目」

「どうしても? ほんっとにちょっとだけ」

「駄目」

「じゃあ、さよならだけ」

「駄目」

「さよならも? ってあれ?」

大智はその声の質がスピーカーなどから発せられている物とは違う事に気が付いた。大智はまさかと思いながら、周囲に目を向けて向日葵の姿を探した。立ち上がり振り向いた時、背後の壁際に立っている向日葵の姿を見付けた。

「駄目」

 目が合ったと思った途端に向日葵がくるりと回って背中を向けて来た。

「橋爪さん。凄い。出て来てくれたんだ」

 大智は嬉しさから興奮しつつ向日葵に駆け寄った。向日葵まであと一メートルくらいという所で大智は見えない壁にぶつかりもんどりうって倒れた。

「い、痛い。な、何これ? 何があるんだ?」

 大智は強かに打ち付けた顔を手で押えながらヨロヨロと立ち上がると、見えない壁に向かってもう片方の手を伸ばした。

「あれ? 何もない」

 壁を探すように動かしても大智の手は空を切るばかりだった。

「鼻血」 

 いつの間に移動して来たのか、大智の目の前に向日葵が立っていて心配そうで悲しそうで申し訳のなさそうな表情を顔に浮かべていた。

「鼻血? 出てる?」

 大智は橋爪さんってこんな顔ができるんだ、と思ったがあえてその事には触れずに鼻の下に手を当てようとした。

「駄目」

 向日葵がいつもより少し大きな抑揚のない声で言ったと思うと、大智の鼻に強烈な勢いでティッシュの塊がぶつかって来た。大智はブバッフウゥという変な声を出しながら、ティッシュの塊にKOされ、その場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。

「駄目」

また向日葵がいつもより少し大きな抑揚のない声で言ったと思うと大智の体が宙に浮かび上がり、そのまま上昇して行き天井にぶつかった。大智はその衝撃でモウッン~というおかしな声を出しながら気を失いそうになった。

「駄目」

またまた向日葵がいつもより少し大きな抑揚のない声を出すと大智の体は急降下を始めた。

「ちょっと、死んじゃう。橋爪さん。やめて」

 大智は喉の奥から絞り出すようにして呻き声を出した。

「……」

向日葵が息を飲んだ気配がしたと思うと、大智の体が床から数センチの所で急停止した。

「帰る」

 向日葵の抑揚のない小さな声が聞こえ、大智の体はそっと床の上に着地した。

「帰っちゃうの? 橋爪さん。出て来たばっかりだよ。待って」

 大智は慌てて立ち上がると、先ほどまで向日葵が立っていた場所を見た。向日葵の姿は消えていてもうそこにはなかった。

「橋爪さん。戻って来て。折角来てくれたのに何も話をしてない。僕が何か悪い事したのなら謝る。ごめん。この通り。だから、もう一度出て来て。お願い」

 大智はその場で頭を深々と下げ、懇願するように言った。

「無理」

 しばらく間があってから向日葵の小さな声が返って来た。

「そんな事言わないで、お願い」

大智は頭を更に深く下げた。

「なぜ?」

 またしばらく間があってから向日葵の小さな抑揚のない声が聞こえて来た。

「何が? 何がなぜなの?」

 必死になって聞く大智の声は自然と大きくなっていた。

「出て来て。なぜ?」

「顔を見て話をしたいからだよ。紙とかメールとか電話とかじゃ伝わらない事があると思うんだ。ちゃんと向き合ってお互いの顔を見て話をしたいんだ」

 大智はこの気持ち橋爪さんに届けと心の底から願いながら叫ぶようにして言った。大智の声が部屋の壁の中に吸い込まれるようにして消えると、部屋の中にある音はPCのファンが回る音だけになった。

「鼻血。体。平気?」

 不意に大智の背後のすぐ近くから向日葵の声がした。

「全然平気だよ。橋爪さん。振り向いて良い?」 

 大智はすぐに振り向きたいという衝動を抑え、驚かしちゃいけないと振り向く前にそう聞いた。

「良い」

「じゃあ、振り向くね」 

「……」

 向日葵が頷く気配がしたので大智はゆっくりと体の向きを変えた。向日葵が大智のすぐ後ろに立っていた。大智は向日葵の目を見ようと視線を動かした。大智の視線に気付いた向日葵が目を伏せるとくるりと体を回して背中を向けて来た。

「橋爪さん?」

 大智は困惑しつつ、でもその仕草は少しかわいいかもなどと思いながら向日葵の背中に声を掛けた。

「向日葵」

 向日葵のいつもの声よりも更に小さくなった声が告げた。

「向日葵?」

「そう」

「何が? ああ。向日葵って、橋爪さんの名前だよね?」

「そう」

 大智は名前がどうしたんだろう? としばし沈思黙考したが向日葵の意図が分からなかった。

「ごめん。考えたんだけど分からなかった。僕はどうすれば良い?」

 向日葵が先ほどよりももっと小さな声を出した。

「呼べ」

「ごめん。聞こえなかった。もう一度良い?」

「呼べ」

 向日葵の声が相変わらず小さいので聞こえなかった大智は気を使うのをすっかり忘れて向日葵の前にいきなり回り込んだ。

「聞こえない。もう一回お願い」

大智に気付いた向日葵が素早くまたくるりと回って大智に背中を向けて来た。

「ごめん。こっちに来た方が聞こえるかなって思ってつい。橋爪さん。もう少し大きな声で言って」

 大智は向日葵の背中に頭を下げながら言葉を出した。

「意地悪」

 いつもの声の大きさで向日葵がそう言った。大智は一瞬呆気に取られてから僕は一体何をしてしまったんだろう? と必死になって考えた。

「ごめん。僕、また何かしちゃったかな?」

 考えても何をしてしまったのか分からなかったのでとにかく謝ろうと思った大智は言いながらまた頭を下げた。

「した」

 向日葵の声の大きさは先ほど同じいつもの物だった。大智は驚いて頭を上げた。

「何した? 何が悪かった? 言って。次から気を付けるから」

「嘘」

「嘘?」

大智は大きな声で言いながら、嘘って事は何もしてないって事で良いのかなと思った。

「ん」

 向日葵が頷きながらゆっくりと振り向き、大智の方に顔を向けて来た。

「橋爪さん」

 大智は突然の向日葵の行動に驚き、呆然としながら呟いた。

「仲良く」

 向日葵がぽそっと言ってから照れたように目を伏せた。これって橋爪さんが心を開こうとしてくれてるって事だよね? と思い大智は心の中で大喜びした。

「うん。仲良くしよう」

「する」

 向日葵が勢い良く大智の胸に飛び込んで来た。何が起こったのか分からないながらも大智は反射的に向日葵の体を受け止めた。二人は抱き合うような格好になったまま背後にあったベッドの上に倒れ込んだ。大智の上に乗っている向日葵が無言のまま目を大智の目に合わせて来た。

「橋爪さん」

 大智は吸い込まれるように向日葵の黒色の瞳を見つめ返し、そのまま視線を外せなくなって見つめ続けた。

「ん」

 向日葵が消え入りそうな小さな声を出し目を閉じた。大智がどうして目を閉じたんだろう? と思っていると、向日葵の顔がゆっくりと大智の顔に近付いて来た。大智はしばしそのままの状態で向日葵の近付いて来る顔を見つめていたが向日葵の行動の意図をこれってまさかキスをしようとしてる? と推測すると慌てて腕を動かして向日葵の動きを止めようとした。だが腕は向日葵のサイコキネシスによって押えられているらしくまったく動かせなかった。大智は腕を使って向日葵の動きを止める事を諦めると、顔を横に向けようとしたが、顔も押えられているらしく動かす事ができなかった。大智はやめてお願いと叫ぼうとした。だが、口の動きまでもサイコキネシスによって押さえ込まれ唸る事しかできない状態になってしまった。どうしよう何かしないとと必死に考えていると向日葵が出て来てくれた事に夢中になってすっかり忘れていた向日葵の読心能力の事を思い出した。「橋爪さん。お願い。頼むからやめて」と大智は強く念じるように思った。だが、向日葵の動きは止まらず大智は念じるように思い続けたが向日葵との距離は縮まって行く一方だった。向日葵の迫って来る唇が大智の唇に触れるか触れないかの距離に来た時、大智は念じるように思うのをやめ戦子にごめんと謝った。

「なぜ?」

 向日葵の動きが止まり一瞬天井を見上げるような仕草をしてから小さな声が告げた。大智は顔を撫でる向日葵の息の感触を受けながら無意識のうちに口を動かした。

「だって、僕は戦子が好きなんだ。橋爪さんと、えっと、なんていうか、変な事しちゃったら戦子を裏切る事になる」

 声が出るようになっていた。大智の言葉を聞き向日葵が顔を大智の顔から少し離した。

「好き?」

 大智は頷いた。

「うん。好き。戦子とは会えない期間があって、やっと会えたんだ」

 黒い瞳が微かに潤んだと思うと向日葵がゆっくりと目を閉じた。

「何? どうして? なんで? 橋爪さん何する気?」

 大智はその仕草にどうしようもない不安を覚え大声を出した。

「ん」

 向日葵の顔が下りて来た。

「橋爪さ」

 大智の唇に向日葵の唇が重ねられた。大智は突然襲って来た向日葵の唇の柔らかくて優しくて暖かい感触に脱力し呆然としてしまった。向日葵が唇を離した。

「ん」

 向日葵が言うと、大智の服が勝手に脱げ始め宙を舞った。大智は何すんのやめてと言おうとしたが口がまた動かせなくなっていて、うーうーと唸る事しかできず声を出す事ができなかった。

「寝取る」 

 向日葵がいつもの小さな抑揚のない声で言い、上半身を起こし大智の上に座るような格好をすると自身も着ていた制服を脱ぎ始めた。大智は向日葵の行動の意味を知って驚愕し、更にうーうーと唸りながらそうだ読心能力と思うとやめて本当にやめてと強く思った。次第に露わになって行く向日葵の姿態を見せられた大智は目を閉じた。

「駄目」

 無慈悲な向日葵の言葉とともに大智の目が見えない力によって強引に開かれた。大智はこれでもかというくらいにうーうーと顔を真っ赤にして本当に駄目お願いだから許してと強く念じるように思いながら唸ったが、向日葵の動きは止まらなかった。ブラウスを脱ぎスカートを大智の上に圧し掛かったまま器用に脱いで投げ捨てると、下着だけの姿になった向日葵が動きを止めた。

「ん」

 吐息混じりに小さな声を出し、向日葵が起こしていた上半身を倒した。大智の胸やお腹に向日葵の少し汗ばんでいてしっとりしている肌と肌に比べて乾いている下着の布の感触がぐっと押し付けられた。大智は一際大きなうーという唸り声をやめてーという悲鳴のような思いとともに発した。

「寝取った」

 向日葵が小さな抑揚のない声で告げた。大智が早く離れてと強く思いながらうーと唸るとその唸り声と思いに応えるように向日葵が言った。

「浮気。殺す」

 向日葵が頭を上げると大智の目をじっと濡れた優しい瞳で見つめて来た。大智はその瞳を見て、唸り思う事を一瞬忘れてしまった。

「ん」 

 向日葵が浮かせていた頭を大智の鎖骨付近に預けるように下ろした。大智は押し付けられた向日葵のサラサラとした髪の毛の感触にビクリと体を痙攣させるように震わせつつ、うーうーと今までよりも更に必死になって唸り早く離れてお願い頼むから離れてと思った。

「来る」

 向日葵がぽそっと言うと、轟音が鳴り響き天井を突き破って戦子が瓦や木材の破片とともにベッドの横に降りて来た。

「こんなもの見せ付けて許せないのです。大智。早く離れるのです」

 部屋の空気をその声がはらむ怒気でビリビリと震わせながら戦子が言った。大智はこれは違うんだと言おうとしたが、口が動かせずうーうーと唸る事しかできなかった。

「寝取った」

 向日葵が大智の上に寝たまま口だけを動かした。

「きぃー。この泥棒猫がなのです。とにかく離れるのです。いつまでそうしてるのです」

 戦子が向日葵に向かって手を伸ばした。

「ん」

 向日葵が言うと、戦子の体が空中に浮き上がった。

「その手はもう通じないのです。今まで外で戦って来て分かっているはずなのです」

 戦子の声とともにまた天井が破壊され、戦子がもう一体降りて来た。

「ん」

 もう一体の戦子が近付こうとすると、向日葵が言い、もう一体の戦子も宙に浮かんだ。

「まだまだなのです。戦子専用ボディは完全量産体制に入っているのです」

 連続して天井が壊され、複数体の戦子が部屋の中に降りて来た。大智は星の出ている夜空を穴だらけになった天井から見上げながらこのままだと家が壊れると思いつつ二人とも喧嘩はしないでと叫ぼうとしてうーうーと唸った。駄目だまだ声が出ないと思った大智が喧嘩はしないでと向日葵に訴え掛けようとして強く思い始めると向日葵が頭を上げ大智の顔を名残惜しそうに見つめながら上半身を起こした。

「邪魔」

 向日葵が一番初めに天井から部屋の中に入って来て、今も空中に浮かんでいる戦子を見上げた。

「それはこっちの台詞なのです。大智を誘惑するなんて許せないのです」

 向日葵が立ち上がった。大智は今なら体が動かせるかも知れないと思い腕を動かそうとしたが動かす事ができなかったので次に横に転がろうとしたが、それもできず、誰にも気付かれる事なくひっそりと諦めて意気消沈した。

「黙れ」

 向日葵が右手を前に伸ばすと手を開いた。

「させないのです」

 複数体いる戦子の顔にある目のような円形の物体が赤く光ると、向日葵に向かって一斉に赤い光線を発射した。向日葵が伸ばしていた右手を薙ぐように横に振った。すべての赤い光線が向日葵の体に触れる前にぐにゃりと曲がり、あらぬ方向に向かって飛んで行った。光線は部屋の壁や机やPCに当たり、火花を散らしながらそれらを焼き切ってから消えた。

「もらったのです」

 一体の戦子が大智を抱き起し、ベッドの上から下ろすと複数体いる戦子の中に戻った。

「大智」

 向日葵がいつもよりも大きな声で大智の名を呼んだ。

「大智。怖かったのです? もう大丈夫なのです。早く一緒に逃げるのです」

 戦子が足元を確認してから大智を立たせると、母親が転んでしまって泣き付いて来た小さな我が子にするように大智の体をためつすがめつした。

「二人とも喧嘩は駄目だ。すぐにやめて」

 大智の口から声が出た。大智は自分の声を聞き声が出ると分かると更に言葉を出した。

「戦子。橋爪さん。お願いだからもうやめて」

 向日葵の体が消え、一瞬にして大智の傍に現れた。

「駄目」

 向日葵がしがみ付くようにして大智に抱き付いて来た。

「橋爪さん」

 大智は戸惑いながら抱き付いている向日葵に一旦離れてもらおうと手を向日葵に向かって動かした。

「離れるのです」

 数体の戦子が向日葵に近付き、向日葵の体を拘束した。大智は拘束され自分から引き離れされて行く向日葵の姿を見ながら動かしていた手をゆっくりと元の位置に戻した。

「放せ。大智。嫌だ。大智」

 向日葵が突然悲鳴のような声で叫んだ。向日葵の声に驚き、大智は向日葵の顔を見た。大智の名を叫ぶ向日葵の顔は悲しみと絶望に歪んでいて目からは涙が溢れ出ていた。

「泣いているのです」

 向日葵を拘束していた数体の戦子が一斉に呆然と呟き、向日葵をつかんでいた手を放した。

「嫌だ。大智。嫌だ」 

 向日葵が大智の胸に飛び込んで来た。

「橋爪さん」

 大智は自分の胸に顔をギュッと押し付けて泣きじゃくる向日葵に困惑しながらも、向日葵の小刻みに震える体を放っておく事ができずにそっと抱き締めた。

「大智。酷いのです。そんな風に向日葵さんを抱くなんて、酷いのです」

 一番最初に部屋に入って来て空中に浮かんでいた戦子が床の上に落ちるようにして下りて来ると言いながら大智と向日葵の傍に来た。

「戦子。これは、誤解っていうか、しょうがないっていうか、ごめん」

 大智は向日葵を抱いたまま頭を下げた。

「大智はもう戦子の事嫌いなのです?」

 戦子が聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で聞いた。

「僕は」

「嫌。嫌」

 戦子の事が好きだと言おうとすると向日葵が叫び大智を抱く手に一際強く力を込めて来た。大智は向日葵に気を取られてしまい、すぐに言葉を続ける事ができなかった。

「今日は、帰るのです。また明日なのです」  

 戦子がしょんぼりした声で告げ、複数体いた戦子達が一斉に空に向かって飛び立って行った。

「戦子。待って。戦子」

 大智はまだ泣きじゃくっている向日葵をどうする事もできずに抱いたまま夜空に向かって飛んで行く戦子達に向かって叫んだ。戦子達の姿が夜の闇の中に消えて見えなくなるまで大智は叫び続けたが、戦子達が戻って来る事はなかった。大智は口を閉じて顔を俯けると腕の中で泣きじゃくっている向日葵に目を向けた。

「橋爪さん。大丈夫?」

 大智は言いながら向日葵をベッドの上に座らせようと思った。

「駄目」

 向日葵が泣きじゃくるのをやめると顔を大智の胸から少し離し、涙で赤く腫らした目を擦りながら言った。

「駄目? とりあえず少し歩いて座る事はできる?」

「ん」

 向日葵が小さく頷いた。

「じゃあ、あっち行こ」

 大智が歩き出すと足元でたくさんの小さな虫のような何かが蠢いた。

「なんだ? 何かいる?」

 驚いて大智はその場で足を止めた。

「破片」

 向日葵が小さな声を出した。

「破片?」

 言いながら目を凝らすと天井から落ちて来ていた瓦や木材の細かな破片が大智と向日葵の足元から離れて行くように移動しているのが見えた。

「もしかして戦子が来てからずっと守ってくれてた?」

「ん」

 向日葵が小さく頷いた。

「ありがとう」

大智はお礼を言い向日葵をベッドまで連れて行くと座るよと声を掛けてからベッドの端に向日葵を座らせた。

「天井がこんなだし風邪ひいたら大変だから、服着ないと」

 大智は労わるように言ってから床やベッドの上に落ちている向日葵の服を拾おうと向日葵から離れようとした。

「嫌」

 向日葵がいつもより大きな声で言い、大智の胸にまた顔をギュッと押し付けて来た。大智は向日葵の濡れた頬の感触や吹きかかる息の感触に体をビクンと震わせて敏感に反応すると自身も下着姿だった事を思い出し慌てて裏返った声で言った。

「そうだった。駄目だよ。このままじゃ。二人ともこんな格好で。服を着よう。とにかく早く服を着なきゃ」

 大智は向日葵から再度離れようとした。

「嫌」

 向日葵がさっきよりも少し大きな声で言い、大智を抱く手に力を込めて来た。

「橋爪さん。お願い。駄目だって。こんなの。とにかく服を」

 向日葵がクチュンっと小さくてかわいいくしゃみを一つした。

「ほら。風邪ひいちゃう。そうだ。服着たらまたこうしよう。今日はこれから、ずっとこうしてくっ付いてるから。それなら良いでしょ?」

 大智はこの状況から抜けられるのならなんでも良いと思い苦肉の策に打って出た。

「本当?」

 向日葵が大智の胸から顔を少し離し大智の顔を見つめて来た。大智は戦子をまた裏切ってしまってると思いつつ、うんと言って小さく頷いた。頷いてから橋爪さんは心が読めるんだったと思い、余計な事思っちゃったかなと考えながら向日葵の顔を遠慮がちに覗くように見た。

「着る」

 向日葵が大智の思った事には触れては来ずに小さな声でぽそっと言った。

「じゃあ服拾うから離れよう」

 大智は空っぽ空っぽと頭の中で繰り返しながら言葉を出し向日葵から離れようとしたが向日葵が大智の体に巻き付けている腕を放さないので放すの待った。

「このまま」

 向日葵が言った。

「このまま?」

 大智は自分の履いていた制服のズボンに向けていた視線を向日葵の顔に向けた。

「一緒」

 向日葵がアルビノの白兎のように泣いて赤くなった瞳で大智の目を見つめて来た。大智はしばらく向日葵の瞳を見つめてから、しょうがないなと思い小さく微笑みつつわざとらしく不満そうに言った。

「もう。橋爪さんはわがままなんだから。じゃあ、僕が運ぶから橋爪さんが拾って」

 大智は兼定や戦子にお姫様抱っこをされた事を思い出しながら、向日葵をお姫様抱っこした。天井から戦子達とともに落下して来ていた瓦や木材の破片を避けながら向日葵の来ていた制服一式と自分の着ていた制服をすべて拾い終えると大智はベッドの所に戻り、向日葵を元いた場所に座らせた。

「さすがにこのままだと服が着れないと思う。離れないと」

「嫌」

 向日葵が大智に抱き付いたまま器用にスカートを履いた。

「ん」

 向日葵が履き終えたスカートを大智に見せるように腰をかわいく曲げた。

「何それ。じゃあ、僕もこのまま着てみるよ」

 大智は着れるもんなんだなと感心しつつ、うまく着れるかな? と思いながらなんとか制服のズボンを履き終えると制服の上着やワイシャツはそのままにTシャツだけを着ようと手に取った。

「ん」

 向日葵が微妙に不満そうに唇を尖らせながら体を大智から離すように動かすと大智の着ようとしているTシャツがなんとか通るくらいの隙間を作った。

「ありがと。橋爪さんも早く上着て」

「ん」

 向日葵が大智に抱き付いたまま器用にブラウスを着た。

「次は」

 大智はふっとある事を考えてしまい、ああまた橋爪さんの読心能力の事を忘れてた、これは絶対に駄目だ、大変な事になると思うと慌てて頭の中にあったその考えをかき消した。

「入る」

 大智の心を読んだらしい向日葵がそんな言葉をいつもの抑揚のない小さな声で告げた。

「今の、読んだ?」

 大智は向日葵の顔を恐る恐る覗き込むように見た。向日葵が小さく頷いた。

「ん」

「今日はお風呂はなし。お風呂よりやらなきゃいけな事があった」

 大智は天井から落ちて来た瓦や木材の破片が散乱している部屋の中を見回した。

「ん」 

 向日葵が短く言うと、部屋の中に散乱していたたくさんの破片が天井に向かって昇って行った。

「これ、あの時と同じ。直せるの?」

「ん」

 向日葵が小さな声を出して頷いた。天井がみるみるうちに元の形に戻って行き、何もなかったかのように直ると戦子の放った赤い光線で焼き切られた壁やPCも直り始めた。

「凄い。これも超能力なんだよね?」

「サイコキネシス。透視。原子。再結合。分解。構造。理解」

 大智は向日葵の言った言葉の意味が分からなかったので理解しよう七つの単語を頭の中で並べ替えながら考えてみた。

「透視。構造。理解。サイコキネシス。原子。再結合。分解」

 向日葵が大智の考えに答えるかのように言った。

「ええっと、それって構造を透視しながら原子をサイコキネシスでいじって直してるって事? それができるならなんでもできちゃったりするの?」

 大智は向日葵の言葉の意味を理解して驚き声を大きくした。

「蘇生。無理」

 ゆっくりと目を伏せ普段と変わらない口調と声で向日葵が言った。大智の胸に蘇生という言葉が突き刺さるように入って来た。大智は向日葵が見せてくれた向日葵の過去の事を思い出した。

「ありがと。すっかり直った」

 大智は頭の中に浮かびそうになった向日葵の過去に対する思いや言葉を振り払うように言うと、なんでも良いから何か別の事を考えようとした。

「大丈夫」

 向日葵が大智の顔を見つめて来た。

「ごめん。頭の中って、難しい。考えがすぐに浮かんじゃうんだ。今も、また、橋爪さんは大変だったんだって思ってる。過去の事が橋爪さんを苦しめてると思うから、思い出させるような事しちゃ駄目なのに」

 向日葵が大智の体を抱く手に少しだけ力を込めて来た。大智は向日葵のまだ赤い瞳に吸い込まれるようにして目を向けた。

「違う。優しい。分かる。気持ち」

 向日葵が拙い言葉を使って懸命に気持ちを伝えてくれているのが分かり大智は泣きそうになって声を震わせた。

「うん。ありがとう。僕も橋爪さんの気持ち分かってると思うから」

 大智と向日葵は見つめ合った。向日葵が目をそっと閉じた。大智はどうしたんだろう? とその様子を見て一瞬思ったが、こんな事、前にもあったとその意味に気付くと顔をさっと横に向けた。

「どうしてそういう事するかな。そういうのはなし。駄目。今度やったらすぐに離れるから」

 大智は強気に言い放ってから向日葵の様子を探るように、顔をそろそろと向日葵の方に向け直した。

「ん」

 目を開けた向日葵が不満そうに微かに唇を尖らせた。

「トイレ」

 向日葵が唐突に言い放った。

「トイレ?」

「行く」

 大智は向日葵の顔をまじまじと見た。

「トイレ、一人で行けばって言っても駄目なんだよね? このまま一緒に行くって事だよね?」

「一緒」

 これはわざとだ。橋爪さんはさっきの仕返しにわざと言ってるんだ、と大智は向日葵の恐ろしさを感じながら思った。

「怖い?」

 向日葵がいつもの小さい声を更に小さくして言った。

「ごめん。違う。そういう意味じゃない。えっと、けど、ごめん。でも、ほら。そんな急にトイレ行きたくなる? 前兆とかって、あの、ない、かな?」

 大智は考えた事が読まれているのなら意味がないのかも知れないと思いつつしどろもどろになりながら弁解を試みた。

「漏れる」

 向日葵が止めを刺すようにいつもの抑揚のない小さな声で言った。

「漏れる? トイレ。トイレ。トイレ。どうしよう」

 行きたいのが本当で橋爪さんが我慢しているのなら早くしないとかわいそうだと大智は思いつつどうすれば良いのかと激しく悩んだ。

「信頼」

 向日葵がぽそっと言った。

「分かった。行こう」

 大智はトイレまで行ったら絶対に離れようと心に決めて、向日葵をお姫様抱っこの要領で持ち上げると立ち上がって歩き出した。

「ここからは一人だよ。これ以上は無理だから」

 トイレの前に着き足を止めた大智は向日葵にこれ以上はないというくらいの真剣な眼差しを向けた。

「一緒」

 向日葵が大智を抱く手にギュウッと力を込めて来た。大智は頭を大きく左右に振って、その言葉を否定した。

「無理だよ。駄目だってば。絶対一緒に入れない」

 大智は向日葵をその場に下ろそうとしゃがんだ。

「嘘つき」

 向日葵が震える声で告げ、大智の胸に顔を強く押し付けて来た。大智は動揺する心を抑え付け、心を鬼にし、決死の覚悟で言葉を紡いだ。

「一緒に入って本当にできる? 僕が目の前にずっといるんだよ? えっと、えっと、下着脱ぐの見るんだよ? それと音とかそういうの聞こえちゃうんだよ? 良いの? 想像してみて」

 大智はもうこうなったらしょうがないと自分が便座に座っている向日葵の前にいる姿を頭の中に思い描いた。

「駄目」

 向日葵が普段よりも大きな声で言った。大智は胸を撫で下ろした。

「じゃあ、僕は先に部屋に戻るから終わったおいで」

 大智はしゃがんで向日葵を床の上に座らせた。

「嫌」

 大智は予想外の言葉に向日葵から離そうとしていた体の動きを止めた。

「嫌? なの?」 

 向日葵が大智の顔をじっと見つめて来た。

「ん」

 小さな声で言って頷いた。大智は向日葵の顔を見つめ返しながら口を開いた。

「でも、無理だよ。一緒に入れないんだから」

「向日葵」

 向日葵が唐突に普段よりも大きな声で自分の名を口にした。

「向日葵? 自分の名前?」

 大智が聞き返すと向日葵が、んと言って頷いた。

「呼べ」

 向日葵がまたいつもよりも大きな声を出した。

「呼べって、僕が呼ぶの?」

「ん」

 向日葵が頷いた。大智はしばし黙って考えた。

「呼んだら、トイレに一人で入る?」

「ん」

 大智はまたしばし考えた。

「じゃあ、こっちからも一つ交換条件。呼んだら、お風呂も別々に入るってのはどう? それなら呼んでも良いかも」 

 向日葵が不満そうに唇を微かに尖らせた。大智はその表情に気付いたが気付かない振りをした。

「卑劣」 

 向日葵が小さな声に戻って言った。大智は意地悪をしているような気持ちになり、向日葵の事をかわいそうだと思ったが、これは譲っちゃいけないんだと再び心を鬼にした。

「ごめん。けど、駄目。向日葵さん。お願い」

 大智は大サービスだと思いながら恥ずかしさと照れ臭さを堪え向日葵さんと呼んでみた。

「ん」

 向日葵が向日葵さんという言葉に反応して目をキラキラと輝かせた。

「ん」

 向日葵がキラキラと輝く目を大智の顔に向けて来た。

「何? どうした?」

 大智は名前を呼ぶ前よりも照れ臭く恥ずかしくなったので素知らぬ振りをしてとぼけた。

「さん。駄目」

 向日葵がキラキラと輝かせた目を潤ませると唇を微かに尖らせながら言った。

「向日葵さんじゃ駄目?」

「ん」

 向日葵が頷いた。大智はさっきはなんとか言えたけど、こんな風に喜ばれてその後で呼び捨てにするのは厳し過ぎると思い向日葵と呼ぶのを躊躇った。

「入る」

 向日葵が大智の体に回していた手に絶対に放さないと宣言するかのように強く力を込めて来た。大智は慌てて口を開いた。

「言う、言うから」

 向日葵と言おうとしたが、口が動かなくなった。過度の照れ臭さと恥ずかしさが大智の口を硬直させ、喉から声を奪っていた。

「言え」

 向日葵が少し大きな声で催促した。

「ごめん。すぐに言うから」

 向日葵と再度言おうとするがその言葉がどうしても出て来なかった。

「ん」

 向日葵が微かに唇を尖らせ顔をトイレの方に向けると、トイレのドアが開いた。

「入る」

 向日葵と大智の体が宙に浮かび上がり、トイレの中に向かって移動して行った。

「待った待った。言う。言うからストップ」

 大智は大声を上げながら、両手でドアの縦枠を握り、両足を伸ばすと床に付いたのでそのまま踏ん張って向日葵のサイコキネシスに抵抗した。

「無駄」

 向日葵が抑揚のない小さな声で斬り捨てるように言うと無情にも大智の手は縦枠から引きはがされ足は宙に浮き上がった。大智の体がトイレの中に完全に入り切るとドアがバタンと音をたてて閉じた。洋式便器の閉じていた蓋が開き向日葵と大智の体がゆっくりと降下した。

「脱ぐ」

 向日葵が告げたと思うと、向日葵の下半身の方から衣擦れの音がし始めた。

「本気? 待って。分かった。向日葵。向日葵。ほら。言ったよ。だからやめて。僕をここから出して」

 大智は強盗犯に凶器を突き付けられた人質が命乞いをする時に出すような声で言った。

「遅い」

 向日葵が普段と変わらない抑揚のない小さな声で言ったが大智にはその声が酷く冷酷な声に聞こえた。大智に抱き付いたまま向日葵が便座の上に座った。大智は向日葵の背後に斬首用の大斧を、大智よ、お前の首を斬るぞと言い放ちながら構えた死刑執行人の幻を見た気がした。

「本当にする気? 駄目だって。お願い」

 大智は向日葵の姿を見まいとして目を閉じ顔を横に向け、音を聞くまいとして両耳を両手で塞いだ。大智は目を閉じ耳を塞いだままただただいつ終わるのか分からないこのなんとも言い難い時間が過ぎ去るのを待った。不意に大智の瞼と耳を覆っている両手が強い力によって無理やりに動かされ閉ざし塞いでいた目と耳が本来の感覚を取り戻してしまった。

「終了」

 向日葵がいつもの抑揚のない小さな声で言った。大智は終わったんだと心から安堵し激しく脱力してその場に座り込みそうになったが、サイコキネシスによって体が宙に浮かんでいたのでただその場で手足をだらんと下げただけになった。

「お風呂」

 向日葵が事もなげに言った。大智は一瞬にしてシャキッとすると、大声を出して懇願した。

「お風呂だって? 無理。もう許して。お願い、向日葵。このままじゃ僕は精神的に死んじゃうよ。頼む。向日葵って呼んでるんだから。本当にお願い」

 大智は両手を向日葵に向かって合わせ深々と頭を下げた。

「透視。お風呂」

 向日葵の声が冷淡に告げると、トイレのドアが開き大智と向日葵の体が空中を移動し始めた。

「向日葵。本当にやめて。こんな事駄目だよ。ほら。そうだ。そうだよ。嫁入り前なんだよ? こういう事は、なんていうか、ああ、あれだよ。好きな人としなきゃ。僕なんかとしちゃ駄目だ。だから、ね? もうやめよう」

 大智はとにかくなんとか止めなければと思い付いた言葉を片っ端から口に出し必死に説得を試みた。

「好きな人」

 向日葵が大智の顔を指差すと羞恥で顔を赤らめ、目を伏せつつ、聞こえるか聞こえないくらいのいつもより小さな声で言った。

「好きな人?」

 大智は向日葵の指差す方を見ようと後ろに顔を向けた。当然のように大智の背後には誰もいなかった。

「誰もいないよ?」

 大智が言うと、大智と向日葵の体が空中で静止した。

「お風呂」

 向日葵がいつもより少し大きな声でそう言い、突然首が後ろに持って行かれそうなほどの勢いで大智と向日葵の体が前に向かって移動を始めた。

「向日葵。危ないから。怖いから。急にどうした?」

 大智は向日葵の体にしがみ付きながら叫んだ。

「朴念仁」

向日葵の小さな声が返って来た。大智は朴念仁ってどういう意味だっけ? と聞こうと思ったがその言葉を出す前に脱衣所に到着してしまったので慌てて別の言葉を力を込めて言った。

「駄目。絶対に駄目。お風呂は絶対に一緒に入らない」

 大智は今度こそ絶対に入らないと示す為に向日葵の顔を目を細め睨むようにして見た。

「脱ぐ」

 大智の態度や言葉など、どこ吹く風といった様子で向日葵がぽそっと言った。

「向日葵。本当に駄目だってば。さっきも言ったけど、こんな事しちゃ駄目だ」 

 向日葵が大智に抱き付いたまま離れずにサイコキネシスを使って服を脱ぎ始めた。

「聞いてんの? 駄目だって言ってるよね? 分かった。言う事聞いてくれないなら、怒るからね」 

 大智はトイレの二の舞には絶対にしないと心の中で炎を燃やしつつ声を荒げた。

「怒る?」 

 向日葵が抑揚のない小さな声で言うと向日葵の服の動きが止まった。

「そうだよ。怒って、えっと、もう、話しないから。無視だよ無視。ずっと話をしないからね。心の中を読んでごらん。僕の決意は本気なんだから」

 大智は何も考えずに勢いに任せて頭の中に浮かんだ言葉を言い放ってから無視無視無視無視と頭の中で何度も繰り返した。

「無視?」

 向日葵が小さな声で聞いた。大智はさっそく実行だと思い何も言わずにただ向日葵から顔をそむけるように横を向いた。

「大智」

 向日葵が大智の名を呼んだ。大智は顔をそむけたまま何も言わなかった。

「大智」

 もう一度大智の名を呼んだ向日葵の声はいつもの声よりも大きかった。大智は向日葵の顔を見そうになったが、ぐっと堪えて我慢した。

「許して」

 向日葵がいつもよりも小さな声を悲しそうに切なそうに震わせて言った。大智は吸い寄せられるように向日葵の顔を見た。向日葵の目と目が合うと向日葵の潤んだ瞳がキラキラと輝いた。

「じゃあ、許すけど、お風呂は別々だよ。良いね?」

 大智は酷い事をしてしまったと罪悪感に苛まれながらも、ここで全面的に許しては駄目だと思い釘を刺すように言った。向日葵がいやいやをするように小さく頭を左右に振った。

「一緒」

 大智はこれはまた駄目なパターンに入ったと思うと、この状況を打破しようと再び怒る事した。

「また。駄目だって言ってるでしょ。そういう事言うなら無視するから」

 向日葵が親や先生に叱られている子供が言い訳をする時のように視線を下に向けながら口を動かした。

「嫌」

「そうやってまた言う事聞いてくれないんだ。向日葵はわがままだよ。駄目だって言ってるのに。そんなんじゃいつか嫌いになる」

 大智は言ってからきつく言い過ぎたと思い自分の言葉を聞いて傷付く向日葵の顔を見たくないと思って顔を横に向けた。

「嫌い?」

 向日葵が普段よりも小さな声で言った。大智は向日葵ごめんと思いながらその言葉を無視したがそうだ心を読まれてたら意味がないと思うと無視無視無視と頭の中で繰り返した。

「大智」

 向日葵が大智の名を呼んだ。大智は顔を横に向けたままもう一度無視した。

「嫌。大智。嫌」

 向日葵が悲鳴のような声で叫んだ。

「向日葵」

 大智は向日葵の顔を見た。

「大智」

 向日葵が大智の体に回している手に強く力を込めた。

「向日葵。お願い。言う事を聞いて。駄目な物は駄目なんだ。一緒にいたいんだったらお互いの事をちゃんと考えないと」

「なぜ?」

 大智の言葉の途中で向日葵が言った。

「なぜって、向日葵が僕の立場だったらどう? 駄目だって言ってるのに僕が無理やり向日葵が駄目って言っている事をやったらどう思う?」

「嫌」

 向日葵がまた悲鳴のような声で叫ぶと脱衣所にあった洗面台の鏡にいくつもの亀裂が走った。

「なんで?」 

 大智は言いながら鏡の方に顔を向けた。先が鋭く尖った向日葵の開いた掌くらいの大きさの鏡の破片が一つ鏡から離れてゆっくりと大智の方に向かって飛んで来た。飛んで来た破片は驚いて目を見開く大智の右の眼球に突き刺さる寸前で静止した。大智は恐怖のあまりありえないくらいの大声で悲鳴を上げた。

「な、なんだよこれ。まさか、向日葵? 向日葵がやってんの?」

 大智は文字通り目の前にある鏡の破片の先端を凝視しながら恐怖で痙攣する喉をなんとか動かして声を絞り出した。

「好き」

 大智は向日葵が自分の言葉に応じるように言った唐突な好きという言葉に何かがおかしいと今感じている以上の恐怖を覚えつつ、目だけを動かして向日葵の顔を見た。

「大智」

 大智の視線に気付いた向日葵の目がキラキラと輝いた。鏡の破片がもう一つ鏡から離れて宙を舞った。その破片は向日葵の喉の白磁のような肌に尖った先端を微かに触れさせて静止した。

「何やってんの? 向日葵? どうした?」

 大智は薄氷を踏むような心持になりながら口を動かした。

「怒る。二人。死ぬ」

 向日葵が抑揚のない小さな声で告げた。

「何言ってんだよ? 向日葵? 冗談だよね?」

 大智はすがるような声を出した。向日葵の喉に尖った先端を触れさせている鏡の破片が微かに動くと向日葵の白い肌に一筋の鮮やかな朱色の線が走った。

「死ぬ。殺す」

 向日葵が小さな抑揚のない声で告げた。大智は向日葵の心の中にある触れてはいけない何かに触れ、その中にある見てはいけない何かを見た気がした。大智は今まで自分が向日葵に対して行った事や言った事に責任を感じ、自分のすべてを投げ打ってでも向日葵を止めなければいけないと思った。

「分かった。もう怒らない。無視もしない。お風呂も一緒に入る。だから、お願い。やめて」

「本当?」

 大智は頷き掛けて鏡の破片の先端に眼球を触れさせそうになり、ビクッと体を震わせて頭を後ろに引くと口を開いた。

「本当だよ。考えてた事、分かってるでしょ?」

「ん」

 向日葵が心なしか頬をほんのりと赤く染めて小さく頷くと大智と向日葵に尖った先端を向けていた鏡の破片が止まっていた時間が突然動き出したかのように床の上に落下し小さないくつもの破片となって辺りに散らばった。大智は盛大に安堵の息を吐き、もう二度とこんな事にならないようにしようと心から思った。

「お風呂」

 向日葵が微かに嬉しそうに言い、サイコキネシスを使って途中まで脱いでいた服を脱ぎ始めた。大智はあられもない姿になって行く向日葵を見ていられなくなり顔をそむけるように横に向けた。

「大智」

 向日葵に呼ばれたので大智は顔の向きを変えずに言葉だけを返した。

「何?」

「怒った?」

 大智は動機が激しくなるのを感じながら慌てて頭を左右に大きく振った。

「怒ってない。全然怒ってないから。心読んでみて。分かるよね?」

「なぜ?」

 大智は自分が顔をそむけている事を向日葵は言ってるんだろうとすぐにピンと来た。

「向日葵が裸だからだよ」

「駄目?」

 大智はついうっかり返事をするのを忘れて、どう説明しようかと考え始めた。

「怒った?」 

 大智が無視しているようになっていたので向日葵が大智が怒っているのかも知れないと思ったようだった。

「怒ってないよ。考えてたんだ。お風呂は裸で良いんだ。けど、僕と向日葵が一緒だから裸は駄目なんだ。向日葵は平気なの? 僕に、その、見られて」

 途中で僕は何を言ってるんだろうと恥ずかしくなり最後の方の言葉が消え入りそうなほどに小さな声になった。

「大丈夫」

 向日葵が少し間を空けてから言った。

「大丈夫って」

大智は向日葵の方に顔を向けたが向日葵のもうほとんど全裸になっている姿を見て慌ててまた顔を横に向けた。

「嫌?」

 向日葵が小さな声で言うと、洗面台の割れている鏡の方からパキッという音がした。

「嫌じゃない。入ろう。一緒にお風呂入ろう」

 大智はパキッという音を聞いて動悸が激しくなるのを感じながら風呂場の扉の方に顔を向けた。

「脱ぐ」

自分の服を脱ぎ終わった向日葵が告げ、大智の着ている服がサイコキネシスによって脱がされ始めた。

「向日葵。僕は服を着たままで良いよ。やっぱり二人とも裸ってのはまずいと思う。そうしよう。お願い」

 脱がされて行く服をなす術なく見つめていた大智はせめて僕だけでも裸は避けよう、とにかく抵抗しないと駄目だと思うと、なるべく顔だけを見るようにしながら向日葵の方を向き、懇願するように言った。向日葵が大智の言葉を否定するように小さく頭を左右に振った。

「駄目」

 向日葵はいつもの調子で言っていたが、その言葉と声は大智にはとても残酷な物に感じられた。

「ああっ。忘れてた。僕の家は服を着たままお風呂に入る決まりだったんだ。ほら。そうするとついでにその日着た服を洗えるでしょ? うっかりしてた。そうそう。なんでこんな事言い忘れちゃったのかな」

 大智は天啓のように思い付いたこれぞ妙案と思える言葉を信じてお願いと必死に念じつつ口にした。

「嘘」

「そうだった」

 大智は向日葵の読心能力の事を思い付いた妙案に釣られて一瞬にしてすっかり失念してしまった自分の愚かさを呪いながら、もうどうにでもしてと諦観し放心した。

「終了」

 向日葵が小さな声で大智の服のすべてを脱がし終わった事を告げた。生まれたままの姿になった大智と向日葵は空中に浮かんだまま移動を始めると、静かに開いた風呂場の扉をくぐって中に入った。

「入る」

 いつの間に用意していたのか、蓋がどけられたバスタブの中にはお湯が張ってあった。死んだ魚のような目で遠くを見ながら大智が脊髄反射で小さく頷くと湯気に煙っているバスタブの中に向日葵と一緒に入れられた。

「湯加減」

 向日葵が声を掛けて来た。大智は掛けられた声に反応して作動する機械のように小さく頷いた。

「無視?」

 向日葵が言った。大智は動悸が激しくなるのを感じ、体をビクンと小さく痙攣させると、シャキッとして向日葵の顔を見た。

「頷いたよ。全然無視してないから。湯加減はちょうど良いかな」

 大智は一気に捲し立てるように声を出した。

「ん」

 向日葵が小さく頷いた。お湯につかっている心地よさが大智の心と体をゆっくりとほぐして行った。大智はこんな状況なのにお風呂のリラックス効果って凄いと思ってから、体に密着している向日葵のナタリーほどの迫力はないが実に女の子らしい体の感触を急激に意識し始めてしまい、これはまずい、変な事を考えちゃいけないと必死になって頭の中を他の様々な考えでいっぱいにしようとした。

「窓」

 向日葵がそう言うとサイコキネシスで風呂場に一つだけあるすりガラスのはまっている窓を大きく開けた。

「外から見えるよ」

 窓の外には塀があり塀を越えて家の敷地内に入るか塀の上に立たなければ覗く事などできないのだが大智はこれは向日葵から離れる良い口実だと思い窓を閉めに行こうと立ち上がろうとした。

「駄目」

 サイコキネシスで大智の動きは封じられてしまい立ち上がる事ができなくなった。

「向日葵。でも、閉じないと」

 大智は心を読まれていてもここは踏ん張るところだと思い粘った。

「少し」

「もう少ししたら閉める?」

「ん」

「じゃあその時は僕が閉める」

「駄目」

 向日葵の返事を聞きながら、大智は窓の外の夜の闇に包まれた空を誰かこの状況をなんとかしてとすがるような目でじっと見つめた。夜空を見つめる大智の瞳に一筋の流れ星が映った。大智は流れ星を見て、夜空を飛び去って行った戦子の事を思った。

「閉める」

 向日葵がぽそっと言い、窓が大智の目から夜空を奪い去るように閉じられた。大智は向日葵に読まれるから駄目だと思いながらもあれやこれやと戦子の事を考え始めてしまった。

「駄目」

 向日葵が体を今までよりも更に密着させて来た。大智は向日葵の体の感触に頭の中がフワフワして来てしまい戦子の事を考えられなくなって来たので誘惑には負けないと思い意地になって戦子、戦子と心の中で何度も名前を呼びながら己の中に湧き上がって来る邪で不埒な思いには流されないと歯を食いしばった。

「出る」

 向日葵が微かに唇を尖らせながら言い、大智と向日葵の体がお湯の中から外に出た。空中を浮遊して行き大智はサイコキネシスによって用意された風呂椅子の上に座らされた。大智に抱き付いていた向日葵が大智から離れた。大智は大きく安堵の息を吐き、向日葵の裸体を見まいと向日葵に背を向けた。

「洗浄」

 向日葵が言ったのでシャンプーや液体ボディソープなどの場所が分かるかなと気になった大智は向日葵の裸体は絶対に見ないようにと配慮しつつ、少しだけ顔を向日葵の方へ向けた。向日葵がシャワーの下のラックの上に置いてあった液体ボディソープのポンプ部分をサイコキネシスで動かし両手にたっぷりと液体ボディソープを出した。

「スポンジあるよ」

 大智はボディソープの容器の横に置いてあるボディスポンジを指差した。

「ん」

向日葵がスポンジは必要ないと主張するかのように両手にたっぷりと出した液体ボディソープを泡立てると自分の体を洗い始めた。大智は顔の向きを元に戻すと、向日葵に背中を向けたまま椅子から立ち上がった。

「僕も洗おう」

 大智はシャワーの傍に行こうと歩き出した。

「ん」

 向日葵の小さな声と同時に、大智の背中にヌルヌルとした感触をともなった向日葵の体が密着して来た。大智は言葉にならない奇声を発しながら向日葵から離れようと前に向かって飛んだ。

「駄目」

 大智の体が空中で静止した。

「洗浄」

「やめて。お願い。ほんっとに」

「駄目」

 向日葵の体が再び密着して来たと思うと両手が大智の体を這い回り、大智は一瞬、もう好きにして、と己の操を捧げる覚悟をしてしまった。向日葵の手の感触に溺れて行こうとする大智の脳裏にふっと戦子の姿が過ぎった。

「ちがーう。向日葵。駄目。やめて。今すぐ離れて。ほんっとにやめて。頼むから」

 大智は頭をブンブンと左右に大きく振りながら全身を使って大声を出した。

「もう好きにして?」

 向日葵がいつもの抑揚のない小さな声で言った。

「だからちがーう。そんな事は思って、えっと、思ったけど、それはなんていうか、と、とにかく、離れて。そんな洗い方駄目だよ。大体スポンジを使わないと綺麗にならない。それに自分でやらないと隅々まで洗えないから」

 大智は思い付く端から言葉を繰り出した。

「言え」

 向日葵の手が止まった。

「言え? どこを洗って欲しいか言えって事?」

「ん」

 洗う場所が指示できるという事はもう全部綺麗に洗えてると言えばこの新手の拷問が即座に終わるかも知れないと閃いた大智はこれはチャンスだと思い心の中でサムズアップした。

「チャンス?」

 大智は向日葵の発した言葉を聞こえていない振りをして黙殺すると口を開いた。

「もう洗うのは良いよ。じゅうぶん綺麗になったから。ありがとね。それじゃ終わり。石鹸流したらもうお風呂から出よう」

「頭」

 向日葵が即答した。大智は向日葵が体、まだ、洗浄、と言わなくて良かったと心の底から安堵した。

「じゃあ、それで終わりね」

 念を押すように大智は言った。

「体。まだ。洗浄」

 大智は向日葵のその言葉を聞いて衝撃を受け凍り付いた。固まっている大智の体を再び向日葵の両手が這い回り始めた。

「向日葵。約束して欲しい」

 大智は死に体になりながら己の迂闊さを呪いつつ、なんとか言葉を絞り出した。

「約束?」

「うん。もう僕の心は読まないって」

「なぜ?」

 大智は力をためるようにしばし沈黙してから雄叫びを上げた。

「頭の中がこんがらがって来てるし、こんな事されてたら人に見せられないような恥ずかしい妄想をいっぱいしちゃうからだよっー」

 ブビビビッーと大智の鼻にある二つの穴から血が勢い良く噴き出した。

「大智。大丈夫?」

 大智の体を這い回っていた向日葵の両手が動きを止めた。大智は風呂場のタイルと自らの体を鼻血で赤く染めながら結果オーライだと思った。

「駄目。のぼせたみたい。早くお風呂から出ないと」

 大智は顔を上に向けこれ以上鼻血が流れ出ないようにしながら、これで止めだ! とばかりにそう言い放った。大智の体が空中に浮き上がった。

「出る。大丈夫? 大智。大丈夫?」

 向日葵がいつもより大きな声で言いながら密着させていた体を大智から離すと空中を移動し始めた大智の横に寄り添うようにして浮かびながらついて来た。

「向日葵。ごめん。僕はもう駄目だ。体を拭いたら急いで部屋に戻って一人で寝るよ。悪いけど、ここで降ろして」

 風呂場から出るとすぐに大智はいかにも体調が悪いという風を装いつつ、このチャンスを逃してなる物かと一人で寝るよというところを特に強調しながら言葉を出した。

「ん」

 向日葵が普段よりも大きな声で言うと、空中に浮いたままの大智の体に何枚ものバスタオルが纏わり付いて来た。

「ありがとう。すっかり体が乾いた。ああ。でも、なんだか体がだるいなあ。向日葵。降ろして。部屋に戻って一人で寝るよ」

 大智は今までの経験からこの流れのままでは絶対に一緒に寝る事になってしまうと思い、体が乾いた頃を見計らってもう一度一人で寝るよというところを特に強調しながら言った。

「服」 

 風呂場に入る前に向日葵に脱がされた服が大智の傍に飛んで来て静止した。大智は向日葵の様子からここでこれ以上押すのは危険かも知れないと思うと頭の中を切り替えた。

「ありがとう。じゃあ着るから降ろして」

 顔を下に向けると大智の視界の端に向日葵の足が入って来た。大智は向日葵の体がまだ濡れている事に気が付き、向日葵の方に顔を向けそうになったが慌てて止めると顔をまた上に向けて口を開いた。

「僕の事より、早く自分の体拭いた方が良いよ。まだ濡れてるじゃないか」

「着せる」

 向日葵が短く言うと大智の履いていたトランクスが大智の両足を通す為に両足の爪先に触れて来た。

「向日葵」

 大智はそんな事より早く自分の体を拭きなと言おうと思ったが、その言葉を飲み込んだ。何を言っても向日葵は自分の体を拭く前に服を着せようとするだろうと思った。

「分かった。早く着る」

「ん」

 向日葵が返事をすると、トランクスが両足を通して上がって来たので大智はそれを両手を使って履いた。トランクスを履き終えると今度はTシャツが大智の腕を通そうと近付いて来た。大智が腕を伸ばすとTシャツが腕を通し次いで頭も通して大智の体をすっぽりと覆った。トランクスと同じ要領でズボンを履き終えると大智はこれなら向日葵も自分の体を拭くだろうと思い、言葉を出した。

「向日葵。早く体拭きな」

「拭け」 

 予想外の言葉が大智を襲った。

「え? なんだって?」

 大智は思わず向日葵の方に顔を向けて聞き返していた。

「拭け。体。大智。拭け」 

 向日葵がいつになく多弁な感じで言った。大智は慌てて顔を横に向けながらしどろもどろになりつつ必死に断ろうとした。

「駄目だよ。そんな事。自分で、やらないと。僕はあれだよ。えっと、そうだ。体調が悪いでしょ? 鼻血だって、あれ? 鼻血は、もう止まったみたいけど、まだ、駄目だから。とにかくできないから。ああっと、そうだった。早く寝たいなあ。頭が痛くなって来たかも知れないなあ」

 大智は思い出したように体調が悪いという風な芝居を始めた。

「駄目?」

 向日葵が小さな声で言った。パキッという音が洗面台の方から聞こえ、大智は鼓動が激しくなるのを感じた。

「拭きます。拭かせていただきます。さあ。向日葵。こっち来て」

「ん」

 バスタオルが宙を舞って大智の腕の中に落ちて来た。大智は目を閉じるとどうしてこんな事になってるんだと悲痛な思いに駆られながらも、そこは思春期の男子なのでそれなりに邪で不埒は事を考えそうなったり、考えてしまったり、我慢したりしつつ、向日葵の体をそっと優しく必死に拭いた。

「拭き終わりましたあっ!」

 目を閉じているので本当に全身を拭き終わったかどうかは分かってはいなかったが、ある程度ふいたところで勘で判断して言った。

「着せろ」

 大智は閉じていた目を大きく開いて、向日葵の顔を凝視した。

「今なんて?」

 ちゃんと聞こえてはいたのだが、そう聞かずにはいられなかった。

「着せろ」

向日葵がぽそっと言った。

「服の事だよね?」

 もうすでに分かっていたが、大智はやっぱりそう聞かずにはいられなかった。

「ん」 

 向日葵が頷くと、向日葵の着ていた制服と下着が大智の傍に飛んで来て静止した。

「さすがに、下着は自分で着た方が良いと思う」

 大智は目の前にあった向日葵のショーツから視線をそらした。

「着せろ」

なんの躊躇いもなしに向日葵が言った。大智はなんか新しい自分の性癖に出会えてしまうかも知れないとちょっと思ってから、そんな事になってたまるかと頭を大きく左右に振って気をしっかりと持つと横目でショーツを睨みつつショーツの両端を両手の指先でそっと摘まんだ。大智は腰を折り摘まんだショーツを横に引っ張って広げると、自分は一体何をしてるんだろうという思いに苛まれ身をよじりながら言葉を出した。

「足。早く入れて」

 向日葵が「ん」と返事をすると、思い出したように恥じらいに頬を朱に染めながらおずおずと足をショーツに通し始めた。大智は向日葵のそんな姿に邪で不埒な妄想をかき立てられ、駄目だ妄想してはいけないと必死に自制しようとしたが、そこはやっぱり思春期の男の子の悲しさからついついあんな事やこんな事を妄想してしまった。ブビビビーッと、大智の鼻にある二つの穴からまた鼻血が噴き出した。

「大丈夫?」

 向日葵の声とともにハンドタオルが飛んで来て大智の鼻を覆った。向日葵から逃れるために体調が悪いという芝居をもう一度するチャンスかも知れないと大智は思ったが、こんな風に優しくしてくれる向日葵に対してまた邪で不埒な事を考えてしまっていた自分が許せず自分を戒める為にあえて向日葵の服を最後まで着せるという茨の道を選ぶ事にした。

「ありがとう。大丈夫。僕の事は気にしないで、早く服を着るんだ」

 大智は鼻血がこれ以上出ないようにと顔を上に向け、僕の屍を越えて行くんだと言わんばかりの勢いで言い放った。

「大丈夫?」

 ショーツを履き終えた向日葵が再度言った。今ならやっぱり駄目と言って体調が悪いという芝居をすれば解放してくれるかも知れないと思い、大智の心は揺らいだが、自分の気持ちを疑いもせずこんな風に気遣ってくれる向日葵を裏切ってはいけないと強く思うと小さく頷いた。

「平気。終わったらすぐに寝るから。向日葵が着替え終わるまで手伝う」

 大智の言葉を聞いた向日葵の目がキラキラと輝いた。

「就寝」

 向日葵の声がなぜか突然スロー再生した動画の中の登場人物の声のように間延びしたと思うと大智の視界が一瞬暗転した。

「これって貧血なのかな?」

 大智は鼻血が出過ぎたのかな? と思いながら言葉を出してすぐに周囲の景色が変化している事に気が付いた。周囲を確認しようと顔を動かそうとすると向日葵が言った。

「就寝」

 空中に浮いていた体がゆっくりと降下し始め両方の足の裏が心地良い適度な硬さと弾力を持った良く知っているような気のする何かに接触した。大智はその何かが自分の部屋にあるベッドだと気付くと、何が起こったのか分かった気がした。

「瞬間移動した?」

 ベッドの上にショーツを履いただけというあられもない姿で立っている向日葵の顔をじっと見つめた。

「ん」

 向日葵が頷いた。

「凄い。瞬間移動なんてしたの初めてだ。こんな感じなんだ」

 大智は興奮して大きな声を出しながら顔を下に向けると、自分の体のあちこちを確かめるように見た。

「就寝」

 向日葵が大智の手を握り引っ張った。

「そっか。その為に瞬間移動を。ありがとう」 

 大智は再度向日葵の顔を見て、ちょっと待てと思った。

「向日葵。まだ着替えの途中じゃないか」

 言ってから向日葵は絶対に一緒に寝るつもりだ、女の子と寝るというだけでもいろいろな意味で無理なのにこんな格好で一緒に寝られたら絶対に朝まで悶々として寝るとか寝ないとかそういう問題じゃなくなると大智は思った。

「着る」

 言い終えるのとほとんど同時に向日葵の姿が消えた。大智の鼻を覆っていた鼻血塗れのハンドタオルがはらりと静かに鼻から離れて落下した。大智はベッドに血が付くと思い、急いでしゃがむとハンドタオルを拾い上げた。そういえば鼻血止まったんだと思い鼻に手を当てた瞬間、大智の顔になんとも柔らかく優しくそれでいて扇情的な感触のする布に包まれた何かがギュムッと押し付けられた。

「大智」

 抑揚のないいつもの向日葵の声がした。大智は自分の顔に押し付けられた何かが向日葵の体のどこかしらの部分だと判断すると慌てて顔をその何かから離した。

「ごめん。わざとじゃないんだ」

 顔に押し付けられていた何かが向日葵のスカートに包まれたお尻だと気付くと赤面しどぎまぎしながら顔を上げた。大智の方に振り返った向日葵と目が合った。

「着替えて、来たんだ」

 大智は気恥ずかしさをごまかすように言った。

「ん」

 向日葵が頷くと、大智の片手の中にあった鼻血塗れのタオルがふっと消えた。

「洗濯」

 向日葵がぽそっと言った。

「洗濯してくれるの?」

「ん」

「いいよ。自分でやる。そのままにしておいて」

 向日葵が頭を小さく左右に振った。

「やる」 

 大智はこれは何を言っても向日葵が聞かないパターンだと思うと頷く事にした。

「分かった。ありがとう」

「行く」 

 向日葵が言い、また姿が消えた。大智はそのままの格好で向日葵が戻って来るのを待っていたがなかなか戻って来ないのでベッドの上に寝転がろうとした。大智の脳裏に先ほど向日葵が戻って来た時に起きた恥ずかしい接触事故の事が過ぎった。大智は立ち上がって、向日葵を待つ事にした。立ち上がったまましばらく待っていても向日葵が戻って来ないので、大智は向日葵の様子を見に行った方が良いのかも知れないと思った。ベッドから下り部屋のドアに向かって数歩歩き、大智はふと今、自分は一人きりだ、自分は向日葵から離れて一人きりになりたいと思っていたのではなかったのかと考えた。大智はこのまま下に行くか、それとも寝てしまうか、としばしの間懊悩した。大智は体の向きを変えるとベッドの方に戻り、思い切ってベッドの上に寝転んだ。天井をただ見上げていると向日葵は一人で大丈夫かな、寂しくしてないかな、という思いが頭の中に浮かんで来た。大智はすぐに頭の中のその思いを別のどうでもいい事を考えてかき消した。向日葵が今の自分の思った事を読んでいたら喜んではしゃいでしまってまたおかしな事になりかねない、そんな事を考えて大智は、あれ? そういえば、いろいろな事を思ったり考えたりしてるけど、その事に向日葵が触れて来なくなってないか? と思った。大智は自分が向日葵にもう心を読まないと約束してと言った事を思い出した。向日葵が律儀にその約束を守っているのかも知れないと思うと大智は急に切なくなって涙ぐんでしまった。大智はちょっぴり目尻から垂れてしまった涙を腕で拭うと、洗濯機のある脱衣所に向かって駆け出した。部屋を出て廊下を走り抜け階段を駆け下りまた廊下を走り抜けると、ドアの開いていた脱衣所の中に飛び込むようにして入った。

「向日葵」

 洗濯機の横にあるタオルなどが入っている戸棚に寄り掛かり両膝を立てて座りながらその膝の上に頭を載せて目を閉じている向日葵を見付けた大智は反射的に向日葵の名を呼んでいた。向日葵は目を閉じたままなんの反応も示さなかった。大智は向日葵の傍まで行き、向日葵の顔を上から覗き込むように見た。大智の耳に向日葵がたてる規則正しい寝息の音が聞こえて来た。大智は向日葵の寝顔をじっと見つめた。

「大智」

 向日葵がいつもよりも小さな声でぽそっと言った。大智は返事をしようとして、向日葵の出した言葉が寝言だと気付くと何も言わずに小さく微笑した。

「こんなとこで寝るなんて。しょうがないな、向日葵は」

 大智は向日葵を起こさないようにと気を使いながらお姫様抱っこの要領で向日葵を抱き上げると、二階の自分の部屋に運んで行った。自分のベッドの上に向日葵を寝かせると布団を掛けて部屋の灯りを消し部屋から外に出た。部屋のドアを閉じると、一階にある客間で寝ようと思い、階下に向かおうと歩き出した。背後で閉めたはずのドアが開く音がした。大智は向日葵が起きたのかなと思いながら振り向いた。暗闇に沈んでいる部屋の中に、落ちて行くようにいきなり見えない力によって大智は引き込まれた。

「大智」

 向日葵の小さな声が聞こえて来た。声を上げる間もなく大智の体は素早く空中を移動し、向日葵の寝ている布団の中に入った。

「就寝」

 向日葵の腕が大智の体に絡み付くようにして回ると大智はしっかりと向日葵に抱き締められた。

「何やってんだよ向日葵」

 大智は悲鳴のような声を上げた。

「就寝」

 向日葵が抑揚のないいつもの調子で言った。大智はこれはまた駄目なパターン入ったと思い、諦めて寝るしかないと目を閉じてみた。

「寝れない。全然眠くならない。向日葵はどうなの? こんな状態で寝れる?」

 大智は目をカッと見開くと言いながら向日葵の顔を見た。向日葵は安らかな顔をして眠っていた。向日葵の無防備な寝顔が大智に邪で不埒な事を考えてしまう自分の心がおかしいのではないかという気持ちを想起させた。大智はもう一度目を閉じた。頭の中を必死に空っぽにし、眠気が這いよって来るのをじっと待った。向日葵の大智を抱く腕に不意に力が込められた。既に密着している向日葵の体が更にギュッと大智の体に押し付けられた。

「絶対無理。向日葵、起きて。このままじゃ眠れない。頼むから起きて。それで解放して」 

 向日葵がゆっくりと目を開けた。

「大智?」

 大智は眠れないから腕を放してと向日葵に向かって言った。

「駄目」 

 向日葵が小さな声でぽそっと言った。

「このままだとおかしな事をいろいろ考えちゃって眠れないんだ。向日葵だって嫌でしょ? 僕が向日葵の事を、えっと、その、とにかく、いろいろ考えて、それを読んじゃったら」

 向日葵が小さく頭を左右に振った。

「約束。守る」

 大智は向日葵の言葉を聞いて、閃きが走ったようにやっぱりそうだったんだと思うと目に涙がにじみ鼻の奥がツンとしたのであんまり表情を見られたくないと思い、顔を天井に向けた。

「なんで? 向日葵があの約束を守るなんて思ってなかった」

向日葵が大智の耳元に顔を寄せて来た。

「なぜ?」

「なぜ? だって、向日葵って自分の考えとか曲げない感じだし。今日だってそういう事何度かあったから。僕が何言っても聞いてくれない時が」

 部屋の中のどこかから、パキッという聞き覚えのある恐ろしい音が聞こえて来た。反射的に大智の鼓動は激しくなり、大智は向日葵を怒らせた!? と勢い良く顔を動かして向日葵の顔を見た。間近にある向日葵の両目は開いていて、大智の目をじっと見つめ返して来た。

「心。怖い」

 向日葵が口を微かに動かし小さな声で言った。この様子なら鏡の破片は飛んで来ないはずだと安堵すると激しくなっていた大智の鼓動は静かになって行った。

「そっか。人の考えを知るのって、確かに怖そうだもんね。あれ? ちょっと待って。じゃあ、向日葵は僕の事を考えて約束を守ってくれたんじゃないって事?」

 向日葵がすっと目を閉じた。

「就寝」

「向日葵? 寝るの? まだ話終わってない」

 またパキッという音が室内のどこかから聞こえて来た。

「寝よう。僕もなんだか急に凄く眠くなって来たなあー。じゃあ、向日葵。おやすみ」

「ん」

 向日葵が返事をしつつ、また大智を抱く腕にギュッと力を込め体を押し付けて来た。大智は向日葵の体の感触に何も思わないほどにこんな調子で向日葵と一緒にいたら僕はこれからどうなってしまうんだろうとかなり真剣に自分の明日からの事について考えていた。


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