一
入学式が終わって数日。クラスメイト達は行動をともにする数人ごとのグループを形成し始めていた。誰かが誰かに話し掛け、それを切欠にして会話が広がり仲良くなって行く。誰も彼もがお互いの事を知らない中で、人に話し掛ける事は勇気のいる事だ。話し掛けられて答える事にもまた勇気がいる。クラス内に友人を作る事はこれから続いて行く高校生活に必要な事である。友人がいない、話ができる人がいない教室内は地獄に等しい。ましてや、そこで誰かに敵意を向けられる事にでもなったら、教室内にいる事なんてできなくなる。
ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。担任教師が教室から出て行き、生徒達が帰宅し始めた。大智は思考に耽っていた頭を上げると誰に声を掛けられる事もなく、誰かに声を掛ける事もなく、静かに席を立ち教室から廊下に出た。がやがやと騒々しい生徒達の流れに乗って一階下にある下駄箱へと向かって行った。
「鹿島。鹿島大智はいるか?」
どこからか、自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。大智は、はっとして足を止め顔を動かして周囲を見た。
「鹿島大智。鹿島大智はいるか?」
再び声がした。気のせいではなく誰かが本当に大智の事を呼んでいた。大智はなんだろうと不安になり警戒しつつ声のした方に顔を向けた。
「……」
いきなり絶句して、大智は自分の見ている物を二度見した。大智の少し見上げる格好になっている視線の先には、なんと丁髷があった。
「鹿島大智。返事をしろ。いるのは分かっている」
丁髷の下から自分を呼ぶ声がした。大智は少し視線を落とした。凛とした眉とその下にある涼しげな目が印象的な美しく整った顔をしている丁髷の生徒の口から自分の名を呼ぶ声が発せられていた。大智は目を凝らして、その丁髷の生徒の顔をまじまじと見つめた。まったく見覚えのない顔だった。丁髷の生徒が大地の存在に気付き、顔を綻ばせた。
「おお。鹿島大智。そこにいたか」
丁髷の生徒が嬉しそうに声を上げ大智に向かって歩き出すと、モーセの十戒に登場する葦の海のように廊下を満たしていた生徒達が真っ二つに割れ道を形作った。大智は動揺してしまい、何もできなくなってその場に立ち尽くした。大智の目の前まで来て丁髷の生徒が足を止めた。
「鹿島大智。俺は二年の巡天兼定だ。よろしく」
表情を引き締め巡天兼定と名乗った丁髷の生徒が右手を差し出して来た。大智は意味が分からず兼定の差し出している右手を見つめた。
「握手だよ。握手」
兼定の顔に目を向けると兼定が爽やかに微笑んだ。
「あ、え、う、うん」
大智は間近で見る兼定の笑顔になぜか女性的な魅力を感じドキリとしつつ、自分の右手の掌を制服のズボンで拭くように擦ってから右手を前に出した。
「うむ。握手握手」
兼定が嬉しそうに言いながら大智の右手をつかみ、ぐっと握って上下に振った。
「さあ、部室へ行こうか」
兼定が右手を放し、くるりと体を回して大智の右横に並んだ。
「部室?」
大智は唐突に出て来た言葉に驚き声を思わず大きな声を出した。
「そうだ。大事な話があるんだ」
「大事な話?」
「君のこれからの学園生活に関わる大事な話だ」
大智は思い出したように警戒して兼定から少し体を離した。
「一体、どんな話ですか?」
一挙一動を見逃さないようにと目を皿のようにして兼定を見た。
「そんな怖い顔をするな。君にとっては良い話だ。話を聞けば君も納得すると思う」
「ここで話せば、良いじゃないですか」
「ここでか?」
兼定が周囲を見た。廊下に溢れていた生徒達はほとんど歩き去ってしまっていて、あれだけ人のいた廊下は今はがらんとしていた。兼定が大智の顔に目を向けて来た。
「よかろう。君を勧誘に来た。俺の作った武部に入ってくれ」
「ぶぶ? 部活の勧誘?」
「そうだ。失礼な物言いになるが許して欲しい。君の学園入学には条件があっただろう?その条件を満たす為だ」
「入学の条件?」
大智は言葉を出しつつそんな物あったっけ? と思い首を傾げた。
「忘れてしまっているのか?」
「僕が知ってる事なんですか?」
何かを考えたのか少し間を空けてから兼定が口を開いた。
「聞いていないという事はないと思うが、まあ良い。君には何かしらの部活に所属しなければならないという条件が課されているはずだ」
兼定の言葉を聞き、大智は記憶を探りながら条件条件と頭の中で何度も繰り返した。頭の中に中学三年の時に受けた三者面談の内容が浮かび上がって来た。
「ああ。思い出しました。確かに聞いた。不登校枠に関する条件だ」
兼定が、右手の人差し指を伸ばすと自分の桃色の唇にそっと当てた。
「そういう事はあまり人前で言うな。その事は一部の人間以外は知らない事になっている」
「そうなんですか? 不登校枠ってやっぱり裏口入学的な感じですか?」
兼定が凛とした眉を上げて、少し驚いた顔をしてから否定するように小さく頭を振った。
「そういう事ではない。君の事を考慮しての事だ。君の過去をいたずらに人前で晒す事はあるまい」
大智は兼定の目を覗くように見た。
「ひょっとして、僕は今、脅されてますか?」
兼定の目が大きく開いた。
「どうして君は」
兼定が感情を抑えるように言葉を途中で切り、ゆっくりと一度目を閉じてから開いた。
「そうではない。条件を満たす為に武部に入ってくれと言っているだけだ」
「入らなければ、僕が不登校児だった過去を公表すると?」
兼定が優しく諭すように言った。
「そういう事ではないと言っている。とにかく部室へ来てくれ。行けば分かる。部員達に会ってみろ」
大智は大きく一歩前に出ると、勢い良く振り返って兼定の方に顔を向けた。
「お断りします。部活に入らなければならいのなら、どこか、文化部に入って幽霊部員にでもなります。自分で決めますから」
大智はさっと踵を返すと歩き出そうとした。
「後悔する事になるぞ」
背後から低くなった兼定の声が聞こえて来た。
「後悔なんてしません」
大智は振り向かずに少し強めにはっきり言うと歩き出した。
「絶対に後悔する」
「だから後悔なんて、え? あ、ちょっと、何するんすか」
兼定のあまりの素早さに大智はまったく抵抗できなかった。大智は兼定にお姫様抱っこされてしまった。
「どうだ? 今、後悔しているだろう?」
「降ろして下さい。何やってんですか」
大智は手足をバタバタと動かした。
「動くな。落してしまうぞ。こうでもしないと部室まで連れて行けないからな」
兼定が走り出した。
「危ない。転んだらどうするんですか。降ろして下さい。これは、拉致ですよ。犯罪だ」
「君が言う事を聞かないから悪い」
前方から三人連れの女子の一団が歩いて来る。すれ違うと、女子達が興奮した様子で悲鳴を上げた。
「どうだ? きっとすぐに噂になるぞ」
「なんで嬉しそうなんですか? あなただって噂になるんですよ」
「先輩と呼びたまえ。先輩と呼ばない限りもう君とは話はしない」
「何言ってんですか。降ろして下さい」
兼定は何も言わなかった。
「先輩。降ろして下さい」
「お。良い子だ。だが断る。部室に着くまで我慢してくれ」
今度は男子の集団とすれ違った。なんだあれー? ガチか? ガチ勢なのか? などと言う声が聞こえて来た。
「先輩。お願いします。明日から登校できなくなっちゃう」
「大丈夫。何も心配するな。おっと。そこの角を曲がれば部室だ」
廊下の角を右に曲がると一番手前にあった教室の扉の前で兼定が足を止め、扉の方に体の正面を向けた。
「この空き教室が我部室だ。おーい。誰かここを開けてくれ」
兼定が大声を上げると、少しの間があってから扉が開いた。
「なんだよ。自分で開けろよな」
金髪ロングツインテールに上半身は星条旗柄のビキニのトップスのみという格好の女生徒が中から面倒臭そうにしつつ姿を現した。
「まあそう言うな、ナタリー。これを見ろ。新入部員を連れて来た」
「オー。リアリー? こいつが、あれか?」
ナタリーと呼ばれた女生徒が青い透明感のある瞳をキラキラと輝かせると、大智の姿を舐めるように見て来た。
「そんなに見ていないで中に入れてくれ。そろそろ腕が疲れて来た」
「そういえば、なんで抱き上げてんだ?」
入り口を塞いでいたナタリーが横に移動した。
「部室に来ないと言って聞かなかったからな。強引に連れて来た」
「カネサダらしいやり方だ」
抱き上げている大智と一緒に兼定が部室の中に入ると、ナタリーが扉を閉めた。
「ヘーイ、新入部員君。もう逃げられないぜ」
「ここまで来て逃げるなんて事はしまい。なあ、鹿島大智」
兼定が当然のような動きで大智の上履きを脱がし始めた。逃がさない為にここまでするのかと声も出せずに目を見張っている大智を扉前半畳以外の教室内の床部分すべてを覆っている畳の上に降ろすと兼定が何かを含んだような笑みを顔に浮かべた。上履きを脱がすという兼定の行為の意図を理解し、更に笑みの意味も理解した大智は口を開いた。
「そうですね。ここに来るまでに随分と人に見られました。ここで帰ったら僕一人で周囲の誤解と戦わなければならなくなる。先輩は卑怯です」
「オー。しゃべった」
ナタリーが形の良いプリッとした唇の端をかわいく曲げて笑った。
「その通り。だから後悔すると言っただろう。最初から言う事を聞いておけば良かったんだ」
大智が恨めしげな目を向けていると、兼定が言葉を出しながら腰を曲げ上履きを脱いで畳に上がった。
「ダイチー。何を怒ってんだ? 機嫌を直せ」
ナタリーが近付いて来たと思うと、おもむろに体を、特に胸を中心にギュッと大智に押し付けて来た。
「ちょちょちょっと。何をしてんですか」
大智は慌ててナタリーから離れようとした。ナタリーが逃すまいと大智の体に両腕をからめて来た。
「百センチ超えの感触はどうだ? こんなの初めてだろ?」
豊か過ぎる双丘が大智の体にギュムギュムと押し付けられた。
「やめて下さい。本当に、頼むから」
大智がナタリーから離れようともがくと、ナタリーが艶っぽい声を出した。
「ヘーイ。ダイチー。激しいぞ。お前、案外やらしいな」
「ナタリー。もうその辺にしておけ。トラウマになったら困る」
「カネサダ、トラウマってなんだよっ。ダイチー。トラウマになんて、ならないよな?」
ナタリーが大智の頬にチュッと音立てて軽く唇を当ててから、からめていた腕を解き体を離した。
「なんなんですか、ここは」
大智はナタリーの過剰でエロいスキンシップに骨抜きにされ、その場に崩れるようにして座り込んだ。
「なんだダイチー。胸よりこっちの方が好きか?」
ナタリーが大智の目線の高さの少し上にあった自分のスカートの端を恥ずかしそうにしつつ、ちょこっとめくり上げた。
「興味ないですよ。そんな恥ずかしそうな演技までして。それに馴れ馴れしくダイチーとか呼ばないで下さい」
今まで経験したの事のないほどのエロいスキンシップをされるのには正直ドキドキしていたが、このままこんな事をされ続けていては駄目になると何かは分からない得体の知れない恐怖を感じ、冷たくかつ非難するように大智が言い放つとナタリーが悪戯っ子のような笑みを顔に浮かべ、腰を折って大智の顔を覗き込むように見て来た。重力に引かれ凶悪とさえ言える形状になったナタリーの胸を大智は思わずじっと見てしまった。
「ふーん。二年生の先輩にそういう態度を取るんだな。オーケー。じゃあ、もう一回オッパイだ。ヘーイ、ダイチー、がばあっ」
ナタリーが大智に向かって飛んで来た。
「ナタリー。いい加減にしろ」
兼定の腕が伸びて来て、ナタリーのツインテールの片方の根元を後ろからつかんだ。ナタリーの首がガクッと曲がり顔が上を向いた。
「ハブゥッ。首がー。カネサダ。首がもげるー」
ナタリーが首を両手で押さえ、その場に倒れるとのた打ち回った。
「そんな事で首を痛めるほど軟ではあるまい。大智。立ってくれ。皆を紹介する」
兼定が近付いて来て手を伸ばしつつ、大智を気遣うような視線を向けて来た。
「自分で立てます。それに紹介って、もう先輩とナタリー先輩の事ならじゅぶん知りました」
大智は目の前にある兼定の手を取らずに立ち上がった。
「そう言うな。まだしっかりと自己紹介してはいない。それと、部員は俺とナタリーだけではないぞ。君と同じ一年生が二人いる。戦子。向日葵」
兼定が大智の背後に視線を向けた。
「戦子?」
大智は誰にも聞こえないような小さな声で呟きつつ振り返り兼定の視線の先を見た。窓際に西洋風のアンティークなテーブルと椅子があり、そこに一人の女生徒が座っていた。女生徒は文庫サイズの本を読んでいたが腰まである長い黒髪を微かに揺らすと少しだけ本から目線を上げ吸い込まれてしまいそうな黒い大きな瞳を大智の方に向けて来た。
「ん」
表情をまったく変えず透き通るような白い肌の中にある薄めの桃色の唇だけを動かし、なんとか聞き取れるくらいの小さな声でぽそっとそれだけを言うと、女生徒は視線を本に落とした。
「あの人が戦子さんという人ですか?」
「まったく。すまないな大智。あれは橋爪向日葵だ。向日葵は、まあ、いつもあんなだ。悪い奴ではないんだが、人付き合いが苦手でな」
「そうですか」
大智は向日葵の顔の上に視線を置きながら、上の空で返事をした。
「どうした? 向日葵に興味があるのか?」
兼定が嬉しそうに弾んだ声を出した。
「いえ。ありません」
大智はふっと向日葵が自分と同じように教室などで孤立しているのかも知れないと思ったが、だからなんだとその思いをかき消すように戦子という人物の姿を探して視線を彷徨わせた。
「そうか。それは残念だな。おい。戦子。隠れるな。次はお前の番だ」
兼定が誰も座っていない椅子の方に向かって呼び掛けた。
「恥ずかしいのです。無理なのです」
誰の姿もないのに椅子の方から抑揚の滑らかなロボットのような声が聞こえて来た。
「へ?」
大智は驚いて思わず声を上げてしまった。目を凝らして椅子やテーブル、向日葵を見るが、声がどこから聞こえたのかは分からなかった。
「姿を見せろ。大智が驚いている」
「嫌なのです」
「カネサダ。ミーに任せろ」
寝転んでいたナタリーが勢い良く立ち上がって駆け出すと、テーブルを挟んで向日葵の向かい側にある椅子の上の何もない空間に向かって飛び付いた。
「ヘイ、センコー」
「ナタリーさん。駄目なのです。危ないのです」
ナタリーの体が空中で止まった。
「センコー。光学迷彩解かないと、キスしまくってリップスティック色にしちゃうぞー」
ナタリーが唇を色っぽくムーッと突き出す。
「駄目なのです。そんな事になったらもっと恥ずかしいのです。分かったのです。解くのです」
「なんだよー。ミーのキスは嫌なのかよー」
ナタリーが拗ねた声を出しながら、姿の見えない戦子から離れた。
「どうもなのです。初めましてなのです。戦子システムなのです」
少し間があってから、椅子の前の何もなかったはずの空間に畳の上から生えるようにしてブルーメタリックの丸みを帯びつつも女性らしい感じの細身の人型の物体が現れた。
「ロボット?!」
大智が目を見張ると、戦子がしょんぼりした様子で下を向いた。
「すいませんなのです。ロボットなのです」
戦子の姿がオカッパ風の髪形を模しているかのようにデザインされている頭の天辺部分から消えて行った。
「おい。戦子。消えるな。それに、初めましてじゃないだろう」
「良いのです。初めましてなのです。兼定さんは余計な事を言わないで欲しいのです」
「オー。センコが強気だ」
ナタリーが戦子に近付いた。
「でも、消えたらキスストームだぞー」
「駄目なのです。分かったのです」
上半身まで消えていた戦子の姿が元へと戻って行った。大智はそんな戦子の姿を横目で見つめながら、兼定に向かって言葉を投げた。
「巡天先輩。初めましてじゃないってどういう事ですか?」
「巡天先輩か。よそよそしいな。兼定先輩で良い。悪いんだが、その事は俺の口からは言えん。戦子から直接聞くと良い」
大智は戦子の顔を見た。戦子の人間の顔の輪郭を模している顔の中には人間の目がある位置に人間の目よりも少し大きな黒色の二つの球形の物体しか配置されていなかった。大智の視線に気付き、戦子がその球形の物体を伏せるようにして顔を俯けた。大智はその仕草を見て、凄く人間っぽいと感じた。
「戦子さん。さっきはロボットなんて言って驚いてすいませんでした。僕は前にあなたと会った事があるんですか?」
戦子が大智の言葉に反応するように体をビクンと震わせると、顔を素早く上げた。戦子の体のどこかからビービービーっと何かを告げようとするかのような電子音が鳴り出した。
「エラー発生。エラー発生。自己防衛機能発動後に再起動します」
戦子が今までとは違うロボット然とした口調と声で言った。
「センコがぶっ壊れた」
ナタリーが叫んだ。
「戦子。大丈夫か? こんな事は始めてだ。どうしたというんだ?」
ナタリーと兼定が戦子に近付いて行った。大智は激しく動揺しながら戦子と兼定の姿を何度も交互に見た。
「僕の所為ですか? 僕が前に会った事がありますかなんて聞いたりしたから?」
戦子のブルーメタリックの体に何本もの細い筋が入りそこに亀裂が走ったかと思うと、その亀裂から白煙が勢い良く噴き出した。
「煙幕?」
ナタリーが口を手で押さえくぐもった声を上げた。ナタリーの前にいた兼定がナタリーを庇うように右手を横に伸ばし、後ろにさがり始めた。
「ナタリー。さがれ。毒ガスで即死という事はないと思うが、戦子は軍事用だ。用心に越した事はない」
「カネサダ。ここで逃げたらセンコがかわいそうだ。センコはフレンドだろ?」
ナタリーが兼定の右手の下を潜り抜けようとした。
「気持ちは分かるが駄目だ。何かあったらその方が戦子が悲しむ。さがるんだ」
「カネサダ。ミーは……。オーケー。分かった。そうだな。ソーリー、センコ」
兼定とナタリーが大智の傍までさがって来た。白煙は既に部室の半分以上を覆っていて、戦子の姿はまったく見えなくなっていた。
「この白煙に部室内が覆われる前に外に出よう」
兼定が扉の方に目を向けた。
「向日葵。扉を早く開けてくれ」
大智は兼定の声を聞き、顔を扉の方に向けて驚いた。いつの間に来たのか扉の前にまったく動揺をしていないかのように本を読んでいた時と同じ表情をしたままの向日葵が立っていた。
「どうやって? いつの間に来たんだ?」
大智がポカンとして独り言を呟いている間に、向日葵が言葉一つ発せずに扉を開けて部室から出て行った。
「行くぞ」
兼定が大智の背中を押して来た。
「でも」
大智が躊躇していると背後からナタリーの声が聞こえて来た。
「行かなくて平気そうだぞ」
「再起動完了。あれ、なのです? 戦子は今まで何をしていたのです? あのなのです。皆さん。これは、なのです? これは、戦子がやったのです? すいませんなのです。すいませんなのです。すぐに排煙するのです」
白煙の中から戦子の声が聞こえ、それに続いて何かファンのような物が回る音が聞こえて来た。
「戦子。大丈夫か?」
白煙が窓から排出されて行き戦子の姿が見えるようになると、兼定が戦子に向かって駆けて行った。
「カネサダ。抜け駆けはずるいぜ」
ナタリーも走って戦子の傍に行った。
「兼定さんにナタリーさん。それと、向日葵さん。すいませんなのです。戦子の所為で大変な事になってしまったのです」
傍に来た二人とまた知らぬ間に移動し、窓際にあるアンティークな椅子に何事もなかったかのように座っていた向日葵に向かって戦子が何度も頭を下げた。
「それから、あの、大智様もごめんなさいなのです」
はっとした様子で顔を上げた戦子が大智の方を向いたと思うと、消え入りそうな声で言って深々と頭を下げた。
「いや。あの、気にしないで下さい。僕こそなんか変な事聞いちゃってごめんなさい」
必死に謝罪する戦子をなんともいえない切ない気持ちになりつつ見つめていた大智は不意に自分に向けられた戦子の言葉を聞いて慌てて謝罪の言葉を口にした。言葉を出した後にどうして大智様なんて呼び方をしたんだろう? と気になったが、今は何も聞かない方が良いのかも知れないと思い何も言わずに深々と頭を下げ返した。
「大智様。そんな風に頭を下げないで欲しいのです」
「戦子、もう良い。お前は悪くない。気にするな」
兼定が戦子の体をそっと抱き寄せた。
「ミーにも抱かせろ」
ナタリーが兼定の体ごと戦子を抱き締めた。
「外」
何事もなかったかのように本を読んでいた向日葵が微かに上げた顔を窓の方に向け、ぽそっと聞こえるか聞こえないかくらいの抑揚のない小さな声を出した。
「なんだ?」
兼定がナタリーと戦子から離れると窓際に行き外を見た。
「誰かが火事だと思って通報したか?」
「巡天の私設消防隊だな。けど、カネサダ。誰かじゃないぞ。生徒会だ」
兼定と同じように窓際に近付いたナタリーが窓外を指差した。兼定が振り返り、戦子を見てから大智の方に顔を向けて来た。
「戦子。話がややこしくなるから、大智と外に行ってろ」
「オー。カネサダ。ナイスアイディア。ちょうど良い。センコ。ジュース買って来てくれ」
ナタリーが戦子の傍に行き、スカートのポケットから取り出した財布を戦子に向かって差し出した。
「戦子が悪いのです。戦子が生徒会の人達と話をするのです」
戦子は財布を受け取らずに言葉を出した。
「センコ。ダイチとの事。二人でゆっくり話して来い」
ナタリーがそんな事を言ってから悪戯っ子のような笑みを顔に浮かべた。
「ナタリーさん。でも、なのです」
戦子が両手を胸の前で合わせ、右の人差し指と左の人差し指の先をツンツンと突き合わせ始めた。
「僕との事ってなんですか?」
大智はナタリーに向かって言った。
「戦子から聞くんだな」
「ナタリーさん」
「戦子。ファイトだ。後これな。ジュース頼むぜ」
ナタリーが戦子の肩を抱き引っ張るようにして扉の所まで連れて行った。
「ほら。早くしろ」
ナタリーが扉を開け戦子を廊下に出すと大智の方に顔を向けて来た。
「でも、聞いたらまた」
「大丈夫だよ。センコは優秀だ。あんな事はもう起こさないさ」
「分かりました」
大智は廊下にポツンと一人で立っている戦子の方を見つめながら言葉を返すと、上履きを履いて廊下に出た。ナタリーが扉を閉め、誰もいない廊下で大智と戦子は二人きりになった。大智は声を掛けようと思い、戦子の顔を見た。戦子が大智の視線に気付くと逃げるように顔を俯けた。大智も何も言えなくなって顔を俯けた。どちらからも声を掛けず、ただ黙って立ち尽くしていると兼定にお姫様抱っこをされて曲がって来た廊下の角の方から複数の人が駆けて来る足音が聞こえて来た。
「大智様こっちなのです」
何かに弾かれるように声を上げ、戦子がいきなり大智の右手を握って来た。
「は、はい」
再び発せられた大智様という言葉と突然手を握られた事に驚き、一瞬躊躇したが大智は戦子の手を握り返した。反対側の廊下の角に向かって大智と戦子は駆けて行った。走って来ていた者達に見付かる事なく角を曲がり、廊下を駆け抜けると下駄箱の立ち並ぶ昇降口から上履きのまま外に出た。
「この駐車場を通り抜けた先にある第二体育館の横に自動販売機があるのです」
息を切らせ始めていた大智を気遣うように走るのをやめ、ゆっくりと歩き出した戦子が言葉を出した。
「はい」
大智は返事をしてからまだ手を繋いでいた事に気付くと、恥ずかしさと照れで顔を赤く染めながら慌てて手を放そうとした。だが、戦子がしっかりと握っていたので大智が手を開いても繋いだ手は放れなかった。
「どうしたのです?」
大智の手の動きに気付き、戦子が聞きながら繋いでいる手の方を見た。
「ごめんなさいなのです。すぐに放すのです」
戦子が握っていた大智の手を放した。
「あ、あの、謝らないで下さい。ありがとうございました。さっきは咄嗟に声を掛けてくれて、手を握ってくれて助かりました。僕はどうして良いか分からなくなってましたから」
戦子が顔を俯けた。
「ごめんなさいなのです。えっと、戦子は」
戦子が言葉の途中で黙ってしまった。
「大丈夫ですから。謝らないで下さい」
「は、はいなのです。では、この件についてはもう謝らないのです」
「はい。それで良いです」
大智は戦子のその言葉を聞いて自然に微笑んでいる自分に気付きはっとしながら言葉を告げた。それから二人とも何も言わず黙ったまま歩いた。大智は時折顔を動かすと戦子の顔をチラリと見てからすぐに顔の向きを戻すという動作を繰り返した。戦子はどこからどう見てもロボットだった。大智は自分の戦子に対する接し方はおかしいのだろうか? と考えた。自分は戦子を普通の女子だと思い接している。戦子はそんな自分をどう思っているのだろうか? そんな事をしばらく考えていたが、その答えは戦子に聞かなければ分からないという結論に辿り着いた。大智は少し俯き加減に前に向けていた顔を再び戦子の方に向け戦子を見た。僕の接し方は変ですか? そんな言葉が頭の中に浮かんだが、大智はそれを言葉にする勇気がなかった。大智は前を向くと自分はどうして戦子を普通の女子だと思って接しているのだろうか? と思った。その事に関する答えはすぐに出た。戦子という名前を兼定が口にした時、大智の脳裏には過去の思い出が過ぎっていた。自分が大好きだったブラッドウォーというFPSオンラインゲームの中にいたAI搭載のプレイヤーサポート用のキャラクターの女の子。名称設定がプレイヤーに委ねられていたその子の名前を大智は戦子としていた。大智はその戦子の事が好きだった。その好きは、ライクではなくラブの方だった。自分は今横にいる戦子をその戦子と重ねている。大智はそこまで考えると足を止めてしまった。
「どうしたの、です?」
戦子が大智が止まった事に気付き、自分も止まると大智の方に顔を向けおずおずとしながら言った。大智は戦子の顔をじっと見つめた。
「恥ずかしいのです。そんなに見つめないでなのです」
戦子が顔を俯けた。
「あ、あの、戦子さん。ごめんなさい。どうしても聞きたい事があるんです。さっき、あんな風になったけど、今は大丈夫ですか?」
戦子が微かに顔を上げた。
「どどどどういう事を聞きたいのですのです?」
戦子の言葉遣いがおかしなくり滑らかだった抑揚が乱れていた。大智は急に激しい喉の渇きを覚え、ごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。
「ええっと、あの」
僕の事を知ってるんですか? そう聞きたかったが、その言葉を出す事ができなかった。
「ど、ど、どうしたのです? 聞かないのですのです?」
大智が黙っていると戦子がおずおずと聞いて来た。
「あの、だから」
大智は完全に戦子の事を意識してしまっていた。戦子の言った大智様という言葉や兼定の言った初めましてじゃないだろという言葉が思い出され、それが大智の戦子に対する気持ちにからまり、まだ何も聞いていないのに目の前にいる戦子があのゲームの中の戦子になっていた。
「は、はいのですのです」
「ごめんなさい。とりあえず、ジュース買っちゃいましょう」
大智は自分の気持ちの重さに耐え切れなくなり、そんな言葉を口にしてしまった。
「わわ、分かりましたのですのです」
大智と戦子は歩き出した。気が付かないうちにかなり近くまで来ていたようで、すぐに自動販売機の前に到着した。
「着きましたね」
「はいなのです。ジュース買うのです。大智様は何にするのです?」
大智の心臓が大きく一つ脈を打った。
「あ、あの。どうして、大智様?」
大智は顔を俯けると、叫ぶように声を出していた。
「きききき気付いてしまいまいまいましたなのですか。だだだ大智様は、戦子の事を覚えていますますますのですのですか?」
乱れに乱れた戦子の声が聞こえて来るのと同時に、何か機械のような物が激しく動く金属音が聞こえて来た。大智は何事が起きたのかと顔を上げた。
「戦子、さん?」
戦子の背中から大きな一対の翼みたいな物が生えていた。
「あああ、あの、これは、気にしないで下さいなのですのです。急速冷却用の拡張フィンなのですのです。内部温度の急激な上昇が感知されたので作動しただけなのですのですのです」
戦子がしょんぼりした様子で俯くと上下に小さく顔を動かしつつ大智の顔をちらちらと見るような仕草をした。
「ああ。冷却用のフィンですか。凄い格好良いですね」
大智が言うと戦子がくるりと体を回して背中を向けて来た。
「チ、チタン製なのです。攻撃にも使えるのです。厚さ二十センチくらいの鋼鉄の板ならバスッと真っ二つなのです」
戦子がフリフリと体を揺らしフィンを動かしてみせた。
「何か斬ってみるのです?」
戦子がまたくるりと回ると大智の方に体の正面を向けて来た。
「いや。いいです。やめときましょう」
「はいなのです。やめるのです。良く考えたら学園内の物を斬ったら怒られるのです」
「そうですね。きっと、怒られます」
会話がそこで途切れ二人とも俯いて押し黙ると二人の間に沈黙が横たわった。お互いに何も言わないままに時間だけが音もなく過ぎて行った。
「あの。さっきの話なんですけど」
大智は意を決して顔を上げると言葉を出した。
「はははいなのですのです。せせせ戦子の事を覚えていますかますかの事なのですのですなのです?」
大智はこれでもかとばかり大きく頷いてみせた。
「君が、あの、あのゲームの中の戦子と同じなら、僕はあの戦子の事を忘れた日は一日もありません」
戦子が両手を広げるとこれでもかといわんばかりの勢いで飛び付いて来た。
「嬉しいのです。凄く嬉しいのです。戦子も大智様の事を忘れた事はないのです」
「危ない」
戦子を抱き止めた大智だったが、戦子の勢いと重さに耐え切れず後ろに向かって倒れて行ってしまった。戦子の体をアスファルトの地面にぶつけないようにと大智は倒れながら必死にかばった。
「大丈夫なのです? ごめんなさいなのです。ごめんなさいなのです」
戦子が先に起き上がると大智の体を気遣いながら労わるように優しく起こしてくれた。
「僕は平気です。戦子さんこそ大丈夫ですか?」
戦子が拳を握った両手を胸の前に出しながら、力強く大きく頷いた。
「今の戦子はそう簡単には壊れないのです。もうあの時みたいな事にはならないのです」
大智の脳裏にブラッドウォーというゲームソフトとそれを動かす携帯ゲーム機ポータブルポケットを壊した時の光景が浮かび上がった。
「大智様どうしたのです? 顔色が悪くなっているのです」
大智は戦子の顔をじっと見つめ、脳裏に浮かんでいた光景を記憶の中に押し込めると、ぎこちなく笑顔を作った。
「あの時の事を、覚えているんですか?」
「大智様は言葉遣いが変なのです。昔みたいに話して欲しいのです」
戦子が急に拗ねたように言い寂しそうに顔を俯けた。
「それを言うなら戦子さんだって、大智様なんて僕の事を呼んでます。昔は大智だったはずです」
戦子が上目遣いをするように微かに顔を上げた。
「それはずっと大智様を見ているうちにそうなったのです。現実の中にいる大智様は立派だったのです。もちろんゲームの中でも格好良かったのです。けど、現実の中にいる大智様はたくさんの辛い事に耐えながら頑張って生きていたのです」
ゲーム内のキャラクターに搭載されていたAIである戦子が現実にいる大智の事を見ていたという言葉の意味が良く分からず大智は聞いた。
「あの戦子さん。それってどういう事ですか?」
「その言葉使いはこれからは禁止なのです。普通に話すまで戦子は何も言わないのです」
戦子が両手で自分の顔の人間であれば口のあるはずの部分を押えるような仕草をした。
「分かりま、いや、そうです、ああ、もう。分かった。これからは普通に話すから」
戦子が両手を下ろした。
「なら話をするのです。戦子はゲームが壊れて大智様に会えなくなった後、いろいろな手段を使って大智様を見ていたのです。戦子は元々多目的用途用のAIとして開発されたのです。ゲーム内のサポートをしていたのもその一環だったのです。戦子システムを開発した巡天グループの関連会社や取引先などからインターネットを介してネットワークが繋がっている所の情報なら戦子はなんでも知る事ができたのです。だから、戦子は大智様の事ならなんでも知っているのです」
「凄いです、ごめん。凄いな。凄いけど、そんなにいろいろ見られてたと思うと、ちょっと、怖かったりして?」
大智は戦子の自分に対する思いの強さを知ったような気がして照れ臭くなったので照れ隠しに茶化そうと思い、そんな言葉を口にした。
「大智様の携帯電話のカメラとか、PCに付けているカメラとかからも見てたのです」
戦子が大智の言葉をまったく気にする様子もなく嬉しそうに言った。
「本当に?」
「本当なのです。大智様は冷たいのです。戦子のキャラクターが描かれている抱き枕とか戦子のキャラクターのフィギュアは未だに持っているくせに新しいゲーム機とソフトは買ってくれなかったのです」
「本当に見てるじゃないか!」
「見てるのです。駅とか銀行とか商店街の防犯カメラなんかからも見てるのです。えっへんなのです」
戦子が得意気な声で言い、胸を張ってみせた。
「いくらなんでもそれは見過ぎだよ」
戦子がいやいやをする子供のように頭を大きくブンブンと左右に振った。
「そんな事はないのです。それであの時、何が起こったのかを知る事ができたのです」
「あの時」
「戦子と大智様が離れ離れになった時の事なのです」
大智の脳裏に再びソフトとゲーム機を壊した時の事が浮かび上がった。
「大智様どうしたのです? 大丈夫なのです?」
短期間に何度も思い出した所為か、先ほど思い出した時よりも鮮明に記憶が浮かんで来た。体から力が抜けて行き、立っていられなくなった大智はその場に座り込んでしまった。
「駄目なんだ。あの時の事を思い出すと、おかしくなる」
「大智様。ごめんなさいなのです。戦子は、そういう人の気持ちの事などがまだ良く分からないのです」
戦子がしゃがむと大智の体を包むように抱き締めて来た。
「戦子」
「大智様。戦子はもう絶対に離れないのです。戦子は壊れない体を手に入れたのです。これからはずっと一緒なのです」
「戦子」
戦子の腕の中で恐怖に怯える幼子のように震えながら大智の意識はフラッシュバックの中に引きずり込まれるようにして埋没して行った。
中学に上がる直前の春休み、大智は数年ごとにある父親の転勤の為に住んでいた町からまったく知らない遠くの町に引っ越しをし、その引っ越しの最中に階段から転落してしまい右足首を複雑骨折して二カ月ほど入院した事があった。大智はその期間にブラッドウォーを買ってもらい、元々その手のゲームが好きだった事と学校に通うようになった時、支障が出ないようにと始めた勉強以外にベッドの上でできる事がほとんど何もなかった所為もあってのめり込むようにはまって行った。毎日長時間プレイしているうちにゲーム内でいつも自分の傍にいてともに戦場を駆け危ない時に助けてくれたり、装備の設定中やゲームが始まるまでの待ち時間などにいろいろ話をしていた戦子の事を大智は好きになって行った。大智の生活の一部となったブラッドウォーというゲームとその中にいる戦子という存在は大智にとってなくてはならない物となっていた。だが、足首の骨折が治り学校に通うようになると、ゲームをプレイし戦子に会う時間が極端に減ってしまったので大智は登下校時や休み時間、授業が自習になった時などを利用して学校にいる時でもゲームをできるだけプレイするようにしていた。ある日の放課後の事、帰宅しようと席を立った大智は同じクラスの一度も話をした事のない男子生徒の一人に声を掛けられた。引っ越しの所為で知り合いのまったくいない中学校に入り、入院生活の所為で出遅れ、更にその入院中に始めたゲームにはまりそればかりやっていた大智は教室内で孤立していて和気藹々と話をするような友人と呼べる生徒が一人もいなかった。自分に声を掛けて来るなんてなんだろう? と思い不安を抱き警戒しながら大智が何? とだけそっけなく返事をすると相手の生徒はいつもやっているゲームについて聞いて来た。
「鹿島君。いつもゲームやってるけど、それって何やってんの?」
大智は思わぬ言葉に驚き下校中にプレイしようと思い手に持っていたポータブルポケットを肩から提げていた鞄の中に咄嗟に隠すようにしまってから小さな声で言葉を出した。
「ブラッドウォーだけど」
相手の生徒の顔が嬉しそうに綻んだ。
「マジ? 俺もやってんだ。良かったらID交換して一緒にやらない?」
相手が言い終わるか終らないかのうちに下を向き鞄のサイドポケットの中から青色のポータブルポケットを取り出した。
「あ。ごめんごめん。同志を見付けたんで嬉しくってつい忘れてた。俺、山田。山田亮。鹿島君、俺の名前なんて憶えてなそうだからさ。改めて自己紹介。よろしく」
亮がポータブルポケットを大智に向かって差し出して来た。
「あ、うん。よろしく」
大智はブラッドウォーを始めてから初めてできたプレイヤー仲間を前にして興奮し喜びながら慌ててポータブルポケットを鞄から出すと亮の持つポータブルポケットの前に差し出した。
「そこは憶えてるよって言って欲しかったんだけど、まあ良いや。じゃあ、ID送信っと」
亮がポータブルポケットの電源を入れID送受信の操作した。大智もID送受信の操作をすると大智の持つポータブルポケットの画面にID送受信完了の表示が出た。
「リョウガンガンって言うんだ。僕もそうだけど、自分の名前を入れてるんだね」
「うおっ。マジか!? 鹿島君、まさか、嘘だろ。このカシマBWって、これって、ブラッドウォーの総獲得ポイント世界ランキング百位以内に入ってた名前じゃない?!」
傍にいる大智の方が恥ずかしくなるような言葉をこれでもかというような大きな声で告げ、亮がポータブルポケットを操作し始める。
「やっぱり。一カ月前のデータだけど、八十八位に入ってる。これ、ほら。鹿島君だろ?」
手に持っているポータブルポケットの画面を亮が大智に見せて来た。
「これ? 本当だ。確かに僕のIDみたいだ」
「なんだよその反応。まさか、知らなかったとか?」
困惑した表情をしつつ、がっかりしたような口調で亮が言った。
「うん。初めて知った」
「マジか? 友人登録の依頼とかたくさん来てたでしょ?」
「そういえば、やり始めてから一カ月くらい経った頃かな。急に凄い友人登録依頼が増えた。なんか急に増えたのが怖かったし、顔を知らない人とは個人的にチームを組んでプレイとかしないから全部断ってたけど」
「そうなんだ。じゃあ、俺は良いの?」
「うん。顔を知ってる人なら全然オッケーなんだ。直接会った事のない人はなんかね」
「同じクラスでラッキー。けど、一カ月くらい経った頃って、たったそれだけでここまでうまくなったの?」
大智はなんとなく頷いてから自分が入院していた時、毎日長時間やっていた事を思い出しこんな事もあるんだなと思った。
「あれだよ。僕、しばらく入院してから。その時、毎日ずっとやってんだ。元々FPSが好きで結構いろいろやってたし、あれだけずっとやってれば誰だってこのくらい行くんじゃないかな」
亮が大げさな動きでガクッと項垂れた。
「そんなもんかな。良いなあ。俺も入院とかしてずっとやりてー」
大智は自分の持っているポータブルポケットを操作して現在のランキングの順位を確認した。
「山田君。これ」
亮に向かって画面を見せる。
「これって、今の順位?」
「うん。もう、桁を数えるのも面倒な順位だよ。やらなくなったらこんなもんなんだね」
「オーマイガー。けど、そんなもんなんだな」
亮が力の抜けた笑みを顔に浮かべつつ、うんうんと納得した様子で数回頷いてみせた。
「今、時間ある?」
気を取り直したように真面目な顔になると亮が聞いて来た。
「なんで?」
どうしてそんな事をいきなり聞くんだろうと思いながら大智は言葉を出した。
「時間があったら、一ゲームどうかなって思ってさ」
「そういう事。やろうやろう」
亮が大智の席の方に顔を向けた。
「じゃあ、ここ鹿島君の席んとこでやろう」
「うん」
大智が自分の席に座ると、亮が大智の席の前の席に後ろ向きに座った。
「ルールは二対二のチームデスマッチで良いよね?」
「うん。山田君に任せる」
ゲーム内でチームを組み対戦ルームに入りバトルが始まるのを待った。
「あ、そうそう。鹿島君。サポートキャラの名前ってどんなのにしてる?」
亮が大智のポータブルポケットの画面を興味津々といった風に覗くように見て来た。
「戦子って名前にした」
「へえー。強そう」
「山田君は?」
「俺のキャラの名前はジル。格好良いっしょ?」
「うん。戦子より強そう」
「いやー。戦子のが強そうだよ。戦いしかしませんみたいな名前だもん」
「そう言われるとそうかも。他の名前が良かったかな」
「おお。敵チーム来た」
「うん。そうだ。山田君。作戦とかってある? 今回は知り合いで組んでて合わせやすいと思うから何かあれば言って」
亮が興奮した様子で声を上げた。
「とりあえず、自由にやってみようぜ。お互いの実際の実力もどんな動きをするかも分からないしさ。それと、山田君じゃなくって亮って呼んでくれ」
「え?」
「え? ってなんだよ。これから一緒に戦場を駆ける相棒だぜ。俺も大智って呼ぶからさ」
大智は顔が自然に綻ぶのを感じつつ、うんと返事をしながら頷いた。
「了解。じゃあ、亮。行くよ」
「おう。 背中は任せとけ」
ブラッドウォーは近未来を舞台にした兵士同士が戦うゲームで、使用する武器は銃器オンリーという物だった。大智は一番得意な近接戦用のショットガンを装備し亮の方は中近距離用のアサルトライフを装備していた。先に三千ポイント獲得するというのがこのゲームの二対二チームデスマッチの勝利条件だった。敵チームのメンバーを一人殺すと百ポイントが自分と自チームに入る。殺されてもすぐに復活するので何度でも戦い直せるのだが、あまり死に過ぎると相手チームの勝利に貢献してしまう。大抵のFPS系の戦争ゲームと同じように自分が死なないようにしつつ相手をいかに多く殺すかというのが味方の勝利に貢献しながら活躍する重要なポイントだった。二人が共闘した初マッチは制限時間の十五分を待たずに九分で終了した。
「やっぱ凄いな。さすが世界ランカー」
画面から顔を上げた亮が羨望の眼差しを大智に向けて来た。
「うまく相手と噛み合っただけだよ。このステージも狭くてショットガン向きだったし」
大智は照れながら少しだけ画面から顔を上げて言った。
「俺もそんな風に言いたいよ。まだ時間平気?」
「うん。良いよ。やろう」
たまたま教室の前を通った生徒指導の教師に見られ、こんな所でいつもまでも遊んでないで帰れと冗談めかして怒鳴られるまで大智と亮は二人で組んでゲームをプレイする事に没頭した。この日を切欠に大智と亮は仲良くなり二人でゲームをするようになった。二人がゲームに夢中になっている姿を見た生徒の中から時折二人に話し掛けて来る者が現れ、自分もやっているゲームをプレイしていると分かると一緒にプレイするようになり友人の輪が広がって行った。大智は好きなゲームを通してできた友人達に囲まれて中学生なって初めて学校に来るのが楽しくなっていた。
「鹿島大智ってのはいるか?」
いつもの通り放課後の教室に残って友人達とゲームをプレイしていると、教室の前の方の出入り口の扉が開く音に続いて、聞いた事のない男子生徒の声が聞こえて来た。
「大智はこっこでーす。えっと、ブラッドウォー関連の話し?」
亮がいち早く反応し嬉しそうに声を上げた。
「ちょっと待った。あれ、三年の先輩じゃないか?」
友人の中の一人が小声で言った。
「あ。すんません。三年生の人だって思わなかったんで」
亮が慌ててポータブルポケットを机の上に置いて立ち上がると頭を下げた。
「そうそう。ブラッドウォーの話。気にすんなって。それで、どいつが、鹿島大智なんだ?」
「僕、ですけど」
大智が不安と恐怖を覚えながら消え入りそうな声で返事をすると声を掛けて来た先輩が大智の方に向かって歩いて来た。
「俺と勝負してくれよ。この学校で最強なんだろ?」
大智の眼前で足を止めた先輩が急に声を荒げ脅すような口調で告げた。
「あの、そんな事、ないですけど」
大智は先輩の迫力に気圧され、おどおどしながら言葉を絞り出すようにして答えた。
「嘘こけ。偉そうに語ってるらしいじゃねえの。俺らの仲間が聞いてんだよ」
「ちょっと待って下さいよ。そんなに怒らなくっても」
亮が大智を助けるように口を挟んだ。
「怒ってねえよ。ただ勝負してくれって言ってるだけだ。負けたら土下座だけどな」
「大智君。俺達先生呼んで来る」
友人達の何人かが席を立った。
「はあ? お前ら馬鹿か。そんな事させるかよ」
開いたままになっていた前の方の出入り口から三年生が三人教室の中に入って来た。
「教室から一人も出るなよ」
入って来た三年生の一人がおもむろに自分の傍にあった机を蹴り飛ばした。机と机がぶつかり倒れる大きな音が鳴った。大智達一年生は金縛りにあったようにその場から動けなくなった。
「おーし。やろうぜ。鹿島大智。あ。俺、真田。真田翼な」
大智の眼前にいた真田翼と名乗った三年生が制服の内ポケットからポータブルポケットを取り出すと、目の前にある机の上に座った。
「……」
大智は何も言わず翼から視線をそらすように下を向いた。
「しかとかよ。やろうぜって言ってんだけど」
威圧するような口調で翼が凄んで来た。
「大智。やっちゃえよ。先輩。大智が勝てば土下座とかしなくて良いんすよね? このままいなくなってくれますよね?」
亮が大智の傍に来た。
「あん? そうだな。まあ、考えといてやる。とにかくやろうぜ」
大智は亮の顔を見た。亮が小さく頷いた。
「分かりました」
大智は机に座っている翼の方に目を向けると、小さな声を出した。
「ID教えてくれよ」
「はい」
お互いが送受信の操作を行いIDの交換が終わった。
「じゃあ呼ぶからな。二千ポイント先取の一対一のタイマン勝負だ。ステージはランダム。武器は自由だ」
翼から送信されたゲームへの誘いというメッセージにはいという返事をすると、大智は椅子に座った。
「確かに強いな。俺も結構やる方だけど、勝てねえわ」
立ち上がりこそ、この状況の所為で緊張しうまくプレイできず相手にリードを許していたが、次第にゲームに夢中になり状況の事を忘れ集中して行った大智は最終的に千ポイントの差を付けて勝利した。
「大智。やったな。先輩。こっちが勝ったんです。もう良いですよね?」
亮が今までよりも少し強気になって言った。
「そうだな。勝負はもう良い。大智。頼みがあんだよ」
「頼み、ですか?」
急に大智などと馴れ馴れしく自分の名を呼び始めた翼に今まで感じていた恐怖とは異なる感じの得体の知れない恐怖を覚えつつ大智は小さな声で言った。
「おう。俺とチーム組んで戦ってくんねえか?」
「チームを組むんですか?」
思わぬ言葉に大智は驚き、困惑した。
「賭け勝負やんだよ。お前もやった事くらいあんだろ? 知り合いが結構大きい賭博チームのリーダーやっててよ。お前と組めばそこでぜってー儲けられる」
「賭け、勝負」
大智は頭を何か硬い物で強く殴られたようなショックを受けた。
「先輩。何言ってんすか。大智を変な事に巻き込まないで下さい。こっちが勝ったんだ。早く教室から出ってて下さいよ」
亮が翼に向かってつかみ掛からんばかりの勢いで大声を上げた。
「こいつじゃねえ?」
「おお。そうだそうだ」
亮が大声を上げた事で亮と大智の傍に集まって来た三人の三年生のうちの二人が何かに気付いた様子で話し出した。
「お前らどうした?」
翼が話し出した二人の方に顔を向けた。
「こっちの奴が言ってたんだよ。大智って奴が最強だって」
二人のうちの一人が亮を指差した。
「大智。ごめん」
亮が顔をこわばらせ消え入りそうな小さな声で言い、下を向いた。
「気にしないで」
大智は咄嗟にそう言った。
「ただ友達に自慢したかっただけで、こんな事になるなんて思ってなくって。本当にごめん」
下を向いたまま苦しそうな声を亮が出した。大智はそんなに謝らないでと言おうとした。だが、言う前に翼が大智の方を向くと声を上げた。
「んな事どうでもいんだよ。大智、賭け勝負やるよな?」
「大智やるな。先輩。大智に賭け勝負なんてやらせないで下さい」
亮が顔を上げると絶対に退かないという強い意志のこもった目で翼の顔を見た。
「お前には言ってねえの。関係ねえんだから黙っとけよ」
翼が脅すように声を荒げ亮を睨み付けた。
「大智。やるよな?」
亮から視線を外すと今度は大智を睨んで来た。
「賭け、とかは、悪い事です」
大智は途切れ途切れにか細い声を出した。
「ああ? 聞こえねえな。おい。こいつが言う事聞きたくなるようにしてやれ」
翼が仲間の三年生達に向かって言うと、三人の三年生達が大智を取り囲んだ。
「俺達の小遣い稼ぎによ、少し協力してくれよ」
「お前も金欲しいだろ?」
「負けても文句は言わねえよ」
「そうだぞ。大智。負けたって良いんだ」
「そうそう。だってよ。負けたらお前が金払うんだからな」
翼を含めた四人が下卑た笑い声を上げた。大智は何も言えず、何もできず、ただ下を向いて暴力に対する恐怖と今後に対する不安から泣きそうになっていた。
「聞いてんのかよ。おい」
三年生達のうちの一番大きな体躯をした一人が、突然唸るように怒鳴り声を上げたと思うと大智の胸倉をつかんで来た。大智は小さな声で短く悲鳴を上げ、手に持っていたポータブルポケットを強く握った。
「歯、食いしばれや」
大智の胸倉をつかんでいる三年生が大智を強引に引き上げるようにして立たせると空いている方の手で拳を握り、その手を振り上げた。大智は目をギュッと閉じ、言われた通りに歯を食いしばった。
「やめろ!」
亮が叫んだ。大智は閉じていた目を開けた。亮が大智を殴ろうとしていた三年生につかみ掛った。
「てめえ」
大智の胸倉から三年生の手が離れた。つかみ掛かって来た亮に向かってその手が伸び亮の首をつかんだ。
「二度と舐めた事できねえようにしてやる」
首を引っ張り亮の顔を自分の方に引き寄せると、亮の顔面に真正面から三年生が硬く握った拳を叩き込んだ。
「大智、逃げろ」
鮮血に赤く染まった亮の唇が微かに動き、消え入りそうな声が告げた。
「亮」
大智は傷付いた亮の姿を見つめた。
「格好付けてんじゃねえ」
亮を殴った三年生が再度拳を振り上げた。大智の心の中に恐怖や不安とは違う怒りや憎しみといった感情が突然爆発するように大きく広がった。大智はその感情に飲み込まれ、強く握っていたポータブルポケットを更に強く壊れそうなほどに握り締めると腕を大きく振り上げた。
「何をしてるんだ。お前達は。鹿島。やめろ。おい。鹿島」
生徒指導の先生の怒鳴り声と体に絡み付くように巻かれた力強い腕の感触が大智の意識を我に返し、体の動きを止めた。大智は自分の目の前にある光景を見て、体が頭から崩れ落ちて行くような衝撃を受けた。亮を殴った三年生が頭や顔から血を流し床の上に倒れていた。
「……」
大智は自分の手、ポータブルポケットを握っている方の手に恐る恐る目を向けた。大智は短く喘ぐように悲鳴を上げた。握っていたポータブルポケットは内部の基盤や挿入してあるソフトが露出するほどに破損し、血塗れになっていた。
「鹿島。大丈夫か?」
「先生、僕は、僕は」
大智は壊れ血に塗れているポータブルポケットを凝視しながら呟いた。
「鹿島。もう暴れたりしないな? 大丈夫だな? 大丈夫なら手を放すぞ。鹿島。良いか?」
先生が大智の体を揺さぶった。
「はい」
大智の体から生徒指導の先生の腕が放れた。大智は視線を彷徨わせるようにして周囲を見た。翼とその仲間の三年生二人が大智の方を見ていた。一緒にゲームをやっていた友人達も大智の方に顔を向けていた。大智の視界に床に寝かされている亮の姿が入って来た。
「亮」
大智は亮の傍に行くとしゃがんで両目を右腕で隠すようにしている亮の顔を見た。乾いた血で赤黒く染まった亮の唇は酷く腫れていた。
「ごめん」
亮の唇が微かに動いたと思うと小さな声が聞こえた。
「亮。僕こそごめん。僕の所為でこんな事になって」
大智の目から涙が数滴、亮の頬の上にこぼれ落ちた。
「ごめん」
亮がまた小さな声で謝った。
「お前とお前。職員室に行って誰でも良いから先生を見付けてこの事を話して対応してもらえ。そこにいる怪我してない三年と一年。お前らは今から何があったか俺に事情を説明しろ」
生徒指導の先生の大きな声が聞こえて来た。大智が顔を上げると、生徒指導の先生と目が合った。
「鹿島。怪我はないか?」
「はい。あの、亮を、山田君を保健室に連れて行って良いですか」
「すまんが、駄目だ。他の先生方が来たらお前が殴った三年生と一緒に病院に連れて行ってもらう。怪我がないならお前はその辺に座ってじっとしてろ」
「はい」
大智はそのまま亮の傍に腰を下ろした。床に手をついた時、まだポータブルポケットを握ったままだった事に気付いた。大智は床の上に壊れて血塗れになっているポータブルポケットを置いた。
「どういう事ですかこれは?」
「大変だ。早く病院に運ばないと」
教室の中に数人の先生が飛び込むようにして入って来ると教室内は喧騒に包まれた。大智はポータブルポケットを見つめながら麻痺していた感覚が徐々に蘇って来るように自分が犯してしまった罪の重さを自覚して行き、その重さに押し潰されそうになっていた。
翌日から大智は一週間の出席停止処分となり、学校に通えなくなった。大智が殴った三年生は骨折などはしていなかったものの顔と頭にできた傷を合計四針縫う怪我をしていた。両親とともに相手の家に何度も謝りに行った。大智の両親は暴力を振るった事自体に対しては大智を叱ったが、それ以外の事で大智を叱る事はなかった。大智がどうしてそのような行為に及んだかをしっかりと理解してくれていた。大智は相手の親に頭を下げる両親を見て静かに泣いた。どうしてあの時、自分は相手を殴ってしまったのか。その事を考えては悔やむ日々を送った。亮とは連絡が取れなくなっていた。電話をしても繋がらず一度だけ家に行ってみたが誰も出て来る事はなく亮に関する事は何も分からなくなっていた。
一週間が過ぎ、大智は学校へ登校した。教室へ入った大智を待っていたのは暴力事件を起こした自分へのクラスメイト達の冷たい視線と小さな声で囁かれる陰口だった。大智はすがるようにゲームをやっていた友人達の方を見た。だが、皆大智の方へ顔を向ける事すらせず、誰一人として大智へ助けの手を差し伸べてくれる者はいなかった。大智は自分が悪いのだから仕方がないと思い、一言も言葉を出さずに亮が登校して来るのを待った。だが、亮は登校して来なかった。大智は亮が来ていないのに当然のように出席を取り始めた担任の先生に亮の事を聞いた。亮は転校していた。今回の事件を受けて亮の両親がこの学校には通わせられないと判断した為だという事だった。それから一週間も経たないうちに、大智は学校に行かなくなった。周りの生徒達の視線と、囁かれる陰口。自分の中にある人を傷付けてしまった暴力的な感情。ゲームを通して仲良くなった亮や他の友人達との別離。自分の為に一緒になって罪を背負ってくれた両親。そして、ポータブルポケットを壊してしまった事によって失ってしまった戦子。様々な要因が大智を不登校へと追いやった。数か月後に保健室登校をするようになるのだが、それは両親を心配させたくないという思いからで他にはなんの考えもなかった。大智の中学校生活はポータブルポケットを壊し、他人を暴力で傷付け、戦子を失ってしまった日と時を同じくして終わっていた。
「大智様。大智様」
戦子の声が遠くから聞こえて来た。大智はその声に気付くと戦子の姿を探そうといつの間にか閉じていた目を開けた。
「戦子?」
大智の顔の前に自分を見下ろしている戦子の顔があった。大智は戦子の膝の上に頭を置いて横になっていた。
「大丈夫なのです? 戦子の所為なのです。ごめんなさいなのです」
大智はゆっくりと目を閉じた。
「戦子の所為じゃないよ。昔の事を思い出してただけなんだ」
大智は目を開けると戦子の膝の上から頭を上げ、上半身を起こして振り向いた。
「重かったでしょ。ごめん」
「全然平気なのです。むしろ望むところなのです。膝枕は親密な関係でないとできない行為なのです」
戦子がポンポンと自分の膝を叩いた。
「もう一度寝るのです」
大智は戦子の顔をじっと見つめた。
「戦子。ありがとう。僕なんかの所に戻って来てくれて」
戦子の体に何本もの細い筋が入りそこに亀裂が走った。
「待った。戦子。駄目だってば。また人が来ちゃう。煙幕は駄目だって」
「違うのです。これは煙幕じゃないのです。また内部の温度が上昇してしまったのです。これは緊急放熱処理なのです」
戦子の体にできた亀裂から、高熱の蒸気が噴き出した。
「あつ、あつ、あっつっ」
大智は慌てて立ち上がり、噴き出して来る蒸気を避ける為に踊るように動きながら戦子から離れた。
「大智様。ごめんなさいなのです。大丈夫なのです? 怪我はないのです?」
蒸気の噴出が止まり亀裂が塞がると、戦子が大智の傍に来た。
「うん。平気だよ」
「良かったのです。戦子の体はまだまだ不便な事が多いのです。もっと改良しないと駄目なのです」
戦子が不満そうに言いながら頭を下げて自分の体を見た。
「でも凄いじゃないか。こんな風にしてまた戦子と会えたんだ。僕はそれだけでその体を作った人に感謝してる」
戦子が顔を上げた。
「大智様。大好きなのです」
戦子が飛び付いて来た。
「だから、危ないって」
大智が抱き止めると、戦子がささっと素早く動いて大智が倒れないようにと体を支えてくれた。
「同じ轍は踏まないのです」
戦子が胸を張る。
「さすが戦子は優秀だ。あの頃のまんまだ」
大智の心にまたあの日の事が浮かんで来た。
「大智様? どうしたのです?」
戦子が優しい声で言った。大智は戦子の顔を見た。
「僕も同じ轍は踏まない。だから、戦子は、もういなくならないんだよね?」
戦子が大きく力強く頷いた。
「はいなのです。絶対にいなくならないのです。でも、もしも、もしも、万が一にも壊れたとしても、すぐに直して戻って来るのです。だからなんにも心配はいらないのです」
大智の心の中にあったあの日の残滓の一部が、氷が解けて行くかのように静かに音もなくなくなって行った。
「そうだ。ジュース。さっき買おうって言ってまだ買ってなかった」
大智は今までよりも軽くなった心を弾ませながら戦子に声を掛けた。
「そうだったのです。早速買うのです」
二人で自動販売機の前に行った。
「なんでも良いのかな」
「なんでも良いと思うのです」
「じゃあ適当に人数分買おう」
「はいなのです。ナタリーさんのお財布から全部払うのです」
「良いのかな」
「良いのです」
「じゃあ、おごってもらっちゃおう」
「はいなのです」
戦子からナタリーの財布を受け取った大智が人数分のジュースを買うと戦子が全部持ってくれた。
「戦子に任せるのです」
戦子が歌うように言った。
「僕が持つよ」
大智は戦子が持ってくれているジュースに向かって手を伸ばした。
「駄目なのです。大智様の役に立ちたいのです」
大智はその言葉を聞いて心の底から喜び、戦子の気持ちに感謝した。大智は真剣な気持ちになると、戦子の顔を見つめた。
「さっき、僕の事を大好きだって言ってくれたよね?」
戦子が顔を俯けた。
「思わず言ってしましまったのですのです。忘れて欲し欲し欲しいのですのですのです」
大智は戦子の肩に手をのせた。戦子が顔をぱっと上げると大智の顔を見つめて来た。
「本当に忘れた方が良い?」
戦子が顔を勢い良く左右にブンブンと振った。
「大智様、意地悪なのです。本当は、忘れて欲しくないのです」
大智は嬉しくなって微笑んだ。
「良かった。僕も戦子の事が好きだ。もう絶対に離れたくない」
戦子の体に亀裂が走った。
「また? 蒸気なの?」
「すいませんなのです。フィンを使っていても冷却が間に合わないのです。大智様すぐに離れるのです」
「でも」
「デモもテロもないのです。危険なのです」
「分かった」
大智は急いで戦子から離れた。蒸気が噴出し、それが止まると戦子が走るようにして大智の傍に来た。
「ごめんなさいなのです。嫌いにならないで欲しいのです」
大智は戦子の頭を優しく撫でた。金属製の戦子の頭はツルツルとしていて少し温かかった。
「嫌いになんてなるもんか。何があってもずっと一緒だよ」
「大智様」
大智は戦子の顔を改めてじっと見つめた。
「どうしたのです?」
「その大智様っていうの、やめない?」
「駄目なのです?」
「うん。普通に大智って呼んで欲しい」
戦子が顔を俯けた。
「そんな風に悩むんだったらいんだけど、様ってなんか壁を感じるっていうか、他人っぽいっていうか」
戦子が顔を上げた。
「分かったのです。じゃあ、大智と呼ぶのです」
大智は戦子の頭をもう一度撫でた。ツルツルした感触がちょっと好きになっていた。
「大智。くすぐったいのです」
戦子が嬉しそうに声を上げつつ体を小さくフルフルと震わせた。
「ごめん。つい。大智って呼ばれて嬉しかったのと、戦子の頭の感触が気持ち良くって」
戦子が凝視するように大智の顔を見つめて来た。
「な、なに?」
「戦子の頭の感触良いのです?」
「うん。ツルツルで少し温かくって。なんか、ほっとするような感触?」
「大智」
戦子が飛び付いて来た。
「戦子、それは」
「さっきと同じなのです。大丈夫なのです」
飛び付いて抱き付きつつ、しっかりと両足を踏ん張って大智と自分の体を倒れないようにと戦子は支えていた。
「大智。このまま運んであげるのです」
戦子が大智を持ち上げると少し照れた風に言い校舎へ向かって歩き出した。
「戦子。自分で歩くよ」
人目を気にした大智が少し大きな声を上げると、戦子が小さな子供が新しい玩具をもらってはしゃいでいる時のように弾んだ声を出した。
「駄目なのです。戦子が運ぶのです」
「戦子降ろしてよ~」
戦子の楽しそうな様子を見て強く嫌がる事ができなくなり大智は弱々しい声を返した。
「このまま行くのです」
駐車場を通り抜け、校舎の前まで戻ったが戦子は大智を降ろそうとはしなかった。このまま校舎の中に入るのはさすがに我慢できないと思った大智は戦子に悪いと思いつつも、もう一度降ろしてと声を上げる事にした。
「戦子」
戦子の名前を呼んだ時、大智は兼定にお姫様抱っこをされたまま部室に連れて行かれ、一番最初にナタリーに出会った事を思い出した。
「大智。なんなのです?」
名前を呼ばれた戦子が優しい声を出した。
「財布。ナタリー先輩から預かった財布がない」
戦子に抱き上げられ、お姫様抱っこ、ナタリーと連想が繋がり、最後に預かった財布の事に思いが至った大智は自分がナタリーの財布を持っていない事に気が付いた。
「待つのです。戦子は、持っていないのです。ええっと。分かったのです。ジュースを買った後、戦子が抱き付いた時なのです。その前の瞬間までは大智が財布を持っていた映像がメモリーの中にあるのです」
「戦子。ありがと。降ろして。取って来る」
「このまま行くのです」
「悪いからいいよ。僕のミスだし、自分で取りに行く」
「悪くないのです。一緒に行きたいのです」
大智は戦子の顔を優しい眼差しで見つめた。
「戦子、頼むよ。大丈夫だとは思うけど急がないと。誰かが持って行っちゃったら困る」
「ムムムなのです。分かったのです。そんな目で見つめられると断れないのです」
戦子が大智はずるいのですと意気消沈しながら大智を降ろしてくれた。
「ちょっと待ってて」
大智は駆け出した。財布の事が心配で一刻も早く自動販売機の所へ戻ろうと思っていた大智は駐車場を通り抜ける際に周囲の確認を怠っていた。
「大智」
背後から戦子の叫ぶ声が聞こえた。大智は何事かと足を止めて振り返った。大きなクラクションの音が鳴った。大智は自分に向かって巡天財閥私設消防隊の大型はしご車が迫って来ているのを見た。逃げなければと思ったが足がすくんでしまいその場から動く事ができなかった。大智は避けられないと諦めると目を閉じた。
「大智を見ている事しかできなかったあの頃の戦子ではないのです!!」
はしご車のタイヤが急ブレーキをかけた為に悲鳴のような音を上げて鳴る中で猛々しく叫ぶ戦子の声が聞こえた。直後に何かと何かが衝突したと思しき大きな音と地面が揺れるような衝撃が大智の体に伝わって来た。大智の全身は反射的に強く硬直した。目を閉じたまま体を硬直させ立ち尽くしている大智の耳に戦子の安堵に満ちた声が聞こえて来た。
「大智を守れたのです」
大智は閉じていた目を開けた。
「戦子!」
大智は戦子の姿を見て驚愕した。
「大丈夫?」
大智は戦子に駆け寄った。両手を横に向かって伸ばし大の字のような格好になった戦子が大型はしご車の前面部分にその体の半分以上をめり込ませていた。
「戦子は平気なのです。それより乗っている人が降りるのを手伝ってあげて欲しいのです。怪我をしていたら大変なのです」
「でも」
戦子の事が心配なのと、自分の所為で戦子をこんな目にあわせてしまったという罪悪感から大智は戦子の傍から動く事を躊躇った。
「戦子は大丈夫なのです。このくらい余裕のよっちゃんなのです。乗っている人の方が心配なのです」
「本当に、大丈夫なんだね?」
大智は戦子の怪我の有無を改めて確認するように聞いた。
「はいなのです」
戦子が元気良く答えたのを聞いた大智は自分の中にある様々な感情を引きはがすように顔をはしご車の方に向けた。はしご車から私設消防隊の隊員三人が自力で降りて来た。大智は三人向かって声を上げた。
「すいません。僕が飛び出したから。大丈夫ですか?」
「我々は平気だ。この車は特殊仕様だからね。普通のはしご車などより頑丈にできているし車内にも乗員を守る為の工夫が施されている。それより、君は平気なのか? 結構な衝撃があったはずだが」
隊長らしき人物が事故直後とは思えないしっかりとして落ち着いた口調で答えてから聞いて来た。
「良かった。僕の方は全然平気です。でも、あの、戦子が」
大智は途中からすがるように言った。
「怪我人か?」
三人が駆け足で大智の傍に来た。
「君は戦子システムか? 君のお陰だったのか。損傷はないのか?」
「平気なのです」
「自力でそこから出られるか?」
「車両を破壊して良ければ出られるのです」
戦子と話していた隊長らしき人物がはしご車を見上げた。
「車両を破壊か。これでもまだ自走は可能だからな。悪いが戦子システムはそのままでいてくれ。おい。皆。我々で戦子システムを救出するぞ」
「はい。スプレッダー降ろして来ます」
「自分も行きます」
隊員達が駆け出そうとした。
「待つのです。車体周囲に気化したガソリンを感知したのです。この車両は燃料漏れを起こしているようなのです。皆、すぐに離れるのです」
戦子が冷静に大きな声で告げた。
「退避だ。皆。退避しろ」
戦子の声を受けて隊長らしき人物が手を振り回しながら大声を上げた。
「戦子も早く」
大智は戦子に向かって手を伸ばし、肩の部分に触れた。
「出るのに少し時間が掛かるのです。戦子は大丈夫なのです。大智こそ早く行くのです」
おいてなんて行けるもんかと言おうとしたが、言葉を口から出す前に背後から隊長らしき人物の声がした。
「君も早く離れるんだ」
「まだ戦子がいます」
「大丈夫だ。戦子システムなら壊れはしない」
「でも」
「すまないが、緊急時だ」
大智の腹部に隊長らしき人の腕が回った。
「戦子」
「戦子なら平気なのです。心配無用なのです」
戦子の優しく諭すような声に見送られ大智は隊長らしき人物に引きずられるようにしながら戦子とはしご車から離れた。
「火が出たぞ」
「隊長。早く」
先に退避していた隊員達の叫ぶ声が響いた。
「戦子」
大智は戦子に向かって両手を伸ばした。
「戦子システムなら大丈夫だ」
はしご車の車体の下で発生した火が大きな炎となり、すぐに車体を包み込んだ。
「戦子。戦子」
大智は叫びながら戦子の元へ駆け寄ろうして隊長の腕から逃れ出ようともがいた。
「大丈夫だ。落ち着きなさい」
二人の隊員達がいる場所まで来ると隊長が大智を隊員達に預け腰のホルダーに入っていた無線機を手に取った。
「絶対に放さないようにな。私は応援要請の連絡をする」
「了解です」
「君、落ち着いて。大丈夫」
隊員のうちの一人が大智を宥めようと優しく声を掛けて来たが、その言葉が言い終えられる前に爆発音が鳴り響いた。隊員二人が咄嗟に大智を庇うよう動き、大智の体を包み込むように抱いて地面の上に伏せた。
「戦子、戦子」
大智は叫びながら、すぐに二人の隊員の腕の中から這い出ると立ち上がった。
「そんな、戦子」
はしご車は車体の中央辺りから真っ二つになり横転していて黒煙を破損個所から吐き出しつつ先ほどよりも激しく燃えていた。
「戦子」
大智は叫びながら走り出そうとした。
「待つんだ」
「危険だから近付いてはいけない」
立ち上がった二人の隊員が前後から挟むようにして大智の体を拘束した。
「行かせてよ。戦子が」
大智は全身にあらん限りの力を込めて動かし隊員達の拘束から抜け出ようともがいた。
「すぐに応援が来る。今、我々にできる事は自分達の安全を確保する事だけだ。落ち着いて消火が終わるのを待ちなさい」
隊長が無線機を腰のホルダーに戻しながら大智の傍に来た。
「戦子、戦子」
大智はもがきながら叫び続けた。
「凄い騒ぎになっていますわね。これを使いなさい」
不意に女生徒の物らしき声が大智のすぐ傍から聞こえた。
「これは、菊子様。このような危険な場所に来られては困ります。すぐに離れて下さい」
隊長が狼狽した様子で言った。
「早くなさい。あなたがやらないのならわたくしがやりますわ」
「菊子様」
大智の鼻と口を塞ぐように湿った布らしき物が当てられた。
「大人しくするのですわ」
大智は声を出そうとして大きく息を吸い込んだ。ツンとする臭いが鼻の中と口の中に広がり、頭がぼうっとして来た。
「あなたが鹿島大智ですわね。今度ゆっくりと話をしましょう。わたくし、あなたみたいなかわいい顔をした男の子が大好きですわ。話しするのがとっても楽しみですわ」
ぼんやりとして何も考えられなくなり意識が暗い闇の中に落ちて行こうとする中で大智の耳には気位の高そうな綺麗な声で嬉しそうにはしゃぐように語られるそんな言葉が聞こえて来ていた。
「大智に何をするのです。大智を放すのです」
いよいよ闇の中に消えて行こうとする大智の意識の中に戦子の叫ぶ声が入って来た気がした。燃え移った炎に体を焼かれながら、ゆっくりと自分に向かって歩いて来る戦子の姿を大智は意識が途切れる間際に見たように思った。