第五十二話 悪いが百合姫イベントはキャンセルだ。安定志向!
ナイツガーデンに来てから一月くらいがたった。
グランゼニスの生活との最大の違いは、お屋敷暮らしだとか、シスターがいる日常とかではなく、世界情勢進行を一切気にせずイベントを消化できるということだった。
むしろ、今の俺は積極的に世界に動いてくれることを望んでいる。
中盤の山場の一つ。〈人類大陸戦争〉で、再び世界の時を止めるチャンスが巡ってくるからだ。
そこまでの過程をいかに楽にできるかが、今の俺の課題になっている。
そんなわけで、グリフォンリースやクリムが運んでくるイベントにはどんどん手をつけていく。
面倒なヤツは即座にフラグをへし折り、失敗させればいい。
成功も失敗も、すべてが結果。それがフリーシナリオというものだ。
「コタロー、いるか?」
それはとても静かな日のことだった。
グリフォンリースは騎士院へ、マユラと三姉妹は仕事場へ、シスターたちは畑へ、残った俺はキーニと二人で読書。パニシードは部屋のプランターに水やりをしていた。
「げっ。今の声はチンピラのですよ、あなた様」
《ちんぴら》《嫌い》《無視したい》《居留守使おう》《使おう》
二人からの遠慮のない敵意を受けるツヴァイニッヒを、俺はエントランスで出迎えた。
「おはようツヴァイニッヒ。……って、あれ? グリフォンリースとクリムも一緒だったのか」
ツヴァイニッヒの背後には、何だか戸惑い顔の二人がいた。
事情も聞かされず、とりあえずついてこいと言われたみたいな様子だ。
「おう、いたかコタロー」
「どうしたんだ? 二人をつれて。何か大変な話か?」
ツヴァイニッヒがいつになく神妙な顔をしているので、俺は気になってたずねた。
「てめえに、〈円卓〉第一席の話をしたことはあったっけか?」
「いや、ないな。でも、他の騎士から聞いたことはある。確か、シュタイン家だよな」
このシュタイン家は、ゲーム内でもたびたび名前が出てくる。
「そうだ。初代騎士公の従者のうち、唯一残ってる家系で、ナイツガーデンの実質的な支配者だな。で、ここからが本題なんだが、あそこには俺たちくらいの年頃のお姫さんがいる。そいつが、ヴァンパイア討伐の話が出てから、急におまえらに興味を持ってな……」
「!」
「えっ」
「それは、ひょっとしてすごいお話なんじゃ……」
グリフォンリースたちも今初めてその話を聞かされたらしく、驚いた顔を見せる。
これは〈リリィの求婚〉だ。
ヴァンパイアを倒した英雄に惹かれたリリィ姫が、主人公に婚約を求めるというもので、なんやかんやで結婚まではいかないのだが、世界を救った後には必ず戻ってきてほしいと健気な約束をする、『ジャイサガ』プレイヤーの間でも屈指の人気イベントだった。
何しろリリィ姫が可愛すぎる。儚げで、従順で、主人公にベタ惚れという、おおよそ嫌われる要素のない完璧なお姫様なのである。
「そのお姫様はリリィ姫ですよね? いつも多数の騎士たちから婚約を申し込まれている……」
「こっ、婚約!? 興味を持つって、まさか……」
クリムの説明に、グリフォンリースが戸惑いの目を向けてくる。
すでにこれを予見していた俺に動揺はない。
「まあ、そのまさかだ。あの姫さんもバカじゃないから、自分が動くってことがどういう意味かよくわかってる。つまりは、あっちからの求婚って形になるだろうな」
グリフォンリースが泣きそうな顔をする中、対照的にクリムは嬉々として、
「すごいっ。玉の輿ですよ。シュタイン家のお姫様と結婚だなんて。あそこはご長男がいますから次期当主にはなれませんけど、一気に騎士院騎士の仲間入り間違いなしです!」
「コ、コタロー殿……。ほ、本当に……?」
この町で暮らす者の目から見たら、この縁談に飛びつかない手はないだろう。
美しい姫、高い地位、強力な後ろ盾が同時に手に入る。まさにシンデレラストーリー。
当時のプレイヤーの多くが、いいから今すぐ結婚だ! と叫んだのと同じことが、リアルでも起こるだろう。
だがフラグ折る。
リリィ姫には申し訳ないが、この話はなかったことにさせてもらうッ!
何しろ長いッ! そして大変だ! それなら、しょっぱなからイベントフラグを折って、失敗として終わらせた方が得策! これが俺の安定チャートである!
「悪いけど、俺は興味ない」
俺ははっきりと断った。
「コ、コタロー殿!!」
「ええっ!? な、なんてもったいない……!」
心底嬉しそうなグリフォンリースと、心底意外そうなクリム。しかしツヴァイニッヒの反応は、そのどちらとも違った。
「コタロー。悪ィんだが、この話はてめえに来たんじゃねえんだ」
『えっ』
三人の声が重なる。
「どういうつもりか知らねえが、グリフォンリースに来た話なんだ」
『えええええええええっ!?』
広々としたエントランスを埋めるような絶叫が、俺たちの口からもれた。
なっ、ななあ、なあっ、なあんでええええ!?
バグか!? なんか知らないところでまたバグったのかこの世界!?
たた、確かに、『ジャイサガ』ではリリィが求婚するのは騎士になった主人公だけど。
その役は〈導きの人〉かつ主人公の俺じゃなくて……騎士であるグリフォンリースに適用されたってことか? ヴァンパイアを倒したのは確かにグリフォンリースだけど。
つうか、俺主人公じゃねえ可能性が今になって浮上!? パニシードが既成事実のためだけに選んだから!? 実は〈導きの人〉じゃないから!?
おおおおおお落ち着けええぇっ。俺のチャートは完璧のはず。はず……。
「リリィ様は、グリフォンリースを男だと勘違いされているのですか?」
脳内が沸騰中の俺を尻目に、クリムがごく冷静な質問をする。
「いや。そういうわけでもねえらしい。しっかりと女と認識されてるはずだ」
「どっ、どどど、どういうことでありますか? 女が女に求婚するなんて変であります!」
グリフォンリースも驚きと気恥ずかしさで顔が真っ赤だ。
「俺が知るかよ。ただ、シュタインが直々に俺に言ってきたんだから、勘違いや冗談じゃねえ。ガチのマジに、てめえが求婚されてんだ。グリフォンリース」
「そ、そんなあ。困るでありますよう……」
途方に暮れるグリフォンリース。
「だけどさ、そんなことがあるのか? この国では。しかも、この国の最高権力者の家なんだろ? そういう……ちょっと変わった趣向ってのが許されるもんなのか?」
俺がどうにか言葉を絞り出すと、ツヴァイニッヒは歯切れ悪く答えた。
「これは騎士院騎士が噂してただけで、信憑性はまるでねえ話だ。話半分以下で聞け。まず事実として、シュタイン家は、家長のグラヴィスが束ねてることになってるが、前に引退したじい様がまだ健在で、実質的な権力はそっちが握ってる。で、このじい様がリリィ姫を溺愛してて、すべての求婚をはね除けてるって噂だ。外国の王族からの申し出すら断ったらしい」
「う、うわあ。リリィ姫も災難ですね……」
「しかし、じい様としても姫を行き遅れにするわけにはいかねえはずだ。よそんちの汚らわしい男にはやれねえ。だが……女になら、いいんじゃねえか? って考えてもおかしくねえ――」
「ツヴァイニッヒ殿はバカでありますか!?」
「俺の発想じゃねえ! 騎士どもの与太話だ! ともかく、ここまで妨害がねえってことは、これはシュタイン家お墨付きの話だってことだ。ヤツらはやると言ったら必ずやる。だから事前に伝えに来てやったんだ」
ツヴァイニッヒは俺とグリフォンリースを見据えて、
「どうするつもりだ、てめえらは。リリィ姫と婚約すれば、間違いなく強大な力が手に入る。一方で、断ったらどうなるか、俺にも予測がつかねえ」
「ど、どうするも何も、自分は女で……結婚だって、そんな……」
救いを求めるように俺に視線を向けるグリフォンリース。
そんな目で見つめられても、何を言えばいいんだよ……。
「い、いくらなんでも、今この場で何かを決めるのは無理だ。リリィ姫はこの先どう動くんだ? おまえが正式な交渉役ってわけじゃないんだろ?」
「ああ。普通なら、シュタイン家から使者が来るはずだ。これまでまったく付き合いのない家同士のことだから、そう性急に事が動くとは思えねえが……」
そのとき。
コンコンコンコンとドアノッカーを叩く音が、エントランスに響き渡った。
「こんなときに誰だろ……」
俺はツヴァイニッヒたちの脇を抜け、扉を開けて――固まった。
人の姿をした天使が立っていた。
一筋の歪みもなく肩から落ちる髪は群青。
伏しがちの瞳は淡いブルーサファイアで、肌は処女雪。
まっさらに真っ白なワンピースは、地味なようでいて、一分の隙もない瀟洒な高級品。
あらゆる角度から見て、欠点が見つからない。まさに死角のない、ぞっとするほどの美少女が、我が家の扉の前にいる。
「ッ!? リ、リリィ姫……!?」
『えっ!?』
ツヴァイニッヒの驚愕に、俺たちの声が追従した。
翼のない天使――リリィ姫は、華奢な体をゆっくりと折って丁寧にお辞儀すると、花咲くような笑みを俺たちに見せた。
「初めまして。シュタイン家のリリィと申します」
ぐはっ……!?
と、とろけるような声……ッ! こ、ここ、これが本物のリリィ姫だというのか!?
見れば、リリィ姫の背後にはシュタイン家の護衛と思しき男たちが控えている。いずれも身綺麗な、品格すら漂う人物だったが、彼女の後ろにいるだけで、その存在感は狭霧と同じレベルまで薄まっている。それほどに、リリィ姫のオーラがすごいのだ。
「まあ、ブレジード様もこちらにいらしたのですね」
「は、はい、ええ……」
あのツヴァイニッヒが狼狽えている姿などなかなか見られるものではないが、悠長に観察している余裕も俺にはない。
「突然押しかけてしまい、リリィのご無礼をお許し下さい。グリフォンリース様はこちらにいらっしゃいますか?」
「グ、グリフォンリースは、自分であります」
グリフォンリースが半歩前に出た。半歩が限界。一歩は出られなかった。
彼女の顔は真っ赤だった。クリムも同様だ。
同性ですら、リリィ姫を正視することがはばかられる。それほどの絶対的可憐さ。
「まあ、ごめんなさい。目の前にいらしたのに、とんだ失礼を」
はにかむように笑うと、リリィ姫はオーロラが揺れ動くような優雅な動作でグリフォンリースに近づき、そしてぽっと頬を赤く染めた。
「素敵な方……。わたしが想像していたとおりの」
るあああああああああ! 死ぬ、リリィ姫の恥じらいの表情で死んでしまう! 今すぐ俺に、絶叫しながらのたうち回るスペースをくれ! この感情を吐き出させてくれ!!
「ひ、ひ、姫、じじ、じ、自分は……」
わなわなと唇を震わせるグリフォンリースに、リリィ姫は妖艶に微笑み、
「グリフォンリース様。わたくし、ヴァンパイアを退治したというお話を聞いたときから、あなた様に惹かれていました。そして今、そのお顔を見て、改めて一目惚れを……。はしたないわたくしを許してくださいね」
「ひっ、一目っ……惚れ……っ!? じ、自分にで、あああああ、ありますかっ?」
姫はこくりとうなずいた。
「ごめんなさい。リリィは恥ずかしくて、あなた様の顔がこれ以上見られません」
そう言って顔をうつむけ、目を伏せる姿は、致死性の毒だった。
この甘ったるい空間にめまいがしてくる。いつから俺の足下は遠心分離器になったのか。しっかり踏ん張らないとあの世まで吹っ飛びそうだ。
「失礼いたします。姫様のお世話役を務めております、アンドレアと申します」
リリィ姫がうつむいたまま動かなくなってしまった中、背後に控えていた男の一人がごく自然なタイミングで言葉を差し入れてきた。
執事、ということだろうか。
二十代半ばくらい。長身の、人形じみた美貌のイケメンで、男とは思えない妖しい色気を放っている。
「事前のご連絡もなく、大勢で押しかけてしまったことをお詫び申し上げます。突然のことで驚かれると思いますが、リリィ姫様は、このお屋敷のグリフォンリース様との婚約を希望されています」
柔らかいが、直線的で飾らない言葉だった。
「ほ、本当に……?」
グリフォンリースがかろうじて声を発すると、アンドレアはツヴァイニッヒを一瞬視界の中心に捉え、
「すでにお話がいっていたようで何よりです。これは姫様の父君であるシュタイン家当主グラヴィス様、御祖父のスウェイン様からの希望でもあります」
や、やっぱりトーチャンとジーチャン公認かよおっ!
「グリフォンリース様。どうか、姫様の願いを聞いてあげてください」
剃刀のような鋭ささえ感じさせる一礼を、アンドレアは見せた。背後にいる他の男たちも同様の礼を見せる。それだけで十分凄味のある光景だった。
「グリフォンリース様」
リリィ姫が再び口を開く。
「は、はは、は、はひ……」
「婚約などと、突然言われても、すぐに答えの出せるものでないとはわかっています。まずはわたくしを知ってもらわなければ、お心も決められないというものです。もしよろしければ、明日また、リリィと会っていただけますか?」
「はひ……」
ここで断ればフラグは完全に折れたはずだ。
しかし、肯定してしまったグリフォンリースは絶対に悪くない。
この姫に言われたら、断崖絶壁からでも喜んで飛ぶし、犬のウンコもおいしく食えてしまう。魔性の魅力。そして、その魔力に、一切の邪気や打算はない。
真心。それは正義の味方が絶対に勝てない相手だ。
「明日の正午、またこちらにお邪魔いたします。今日は会ってくださって、本当にありがとうございました。ご機嫌よう、素敵な騎士様……」
重たい玄関の扉が、音も立てず閉じられた。
「ひ、ひあ……」
「は、はああ……」
グリフォンリースに続き、クリムもへなへなとその場に座り込む。
俺もたまらずしゃがみ込み、ツヴァイニッヒは大きくため息をついた。
「コ、コタロー殿……じ、自分は……自分は……」
頭を抱えるグリフォンリースに、俺は、
「わかってる。大丈夫だ。大丈夫だから、心を安定させろ。話はそれからだ……」
と、気休めを言うことしかできなかった。
何が大丈夫だ、このウソつきめ。俺がすでに大丈夫じゃない。
このイベント……予想を遥かにぶっ飛んで、途中下車が許されない気配になってきた。
どうやって断る? どうやってフラグを折る?
恐ろしい敵だ。絶対に敵視できないという点で、あまりにも恐ろしい敵だ。
正しい着地点が見えない。下手をすれば、この国での俺たちの立場は急変する。
また明日……か。
男なんて必要なかったんや