第百六十九話 逃げろ、されば救われん! 安定志向!
『ええええええええ!?』
俺の「逃げろ」という指示に対して返ってきた反応がこれ。
うん……すごくわかる。他に言うことがないくらい、よくわかる。
あえて言うのなら、俺もそうだった。俺もあの日「えええええええ!?」と言った。
だが、それでいい。
「逃げろおおおおおっ!」
言い訳のしようもないくらいの敵前逃亡を披露する俺。
しかし、玉座を取り囲んでいた魔王の第一段階こと肉のサナギに、猛烈な速度で回り込まれる。
球体を支える無数の手の一つが、鞭のようにしなって俺を平手打ちする。
「げはっ!」
頬をビンタなんてもんじゃない。体の側面を丸ごと引っぱたかれ、靴の裏が楽に床から離れる。骨格が揺さぶられ、天地が入れ替わり、見えない何かに引きずられるように何度もバウンドする。
ようやく止まったと思ったら、今度はのどの奥から乾いたせきがとめどなく吹き出た。
い、ってええええええええええ!
この威力。肉体と同時に精神にまで来る。
二度と食らいたくない。そのためなら死んでもいい。生存本能を無視して脳が上書きされるような、原始的かつ圧倒的なパワー!
レベル99だからといって、無双ができるゲームではないことは重々承知していたが、これは泣き言の一つも言いたくなる。
「コ、コタロー殿っ! こ、このおっ――」
「やめろグリフォンリース!」
武器を構えて肉のサナギに躍りかかろうとするグリフォンリースに対し、俺は必死に制止の声を飛ばす。
「ど、どうしてでありますか!?」
「いいから俺と一緒に動け! 俺を信じろ! キーニも〈アークエネミー〉もだ! これ以上ない作戦が今実行中なんだよ! 決まれば俺たちの勝ちだ! わかったか!」
これで本当に最後なのだ。
あとはもう何一つ信じてもらえなくなってもいい。
今だけは、この奇行に付き合ってくれ!
まずは一回!
「そらっ、逃げるぞ――あべしっ!」
「ふんぎゃ!」
「ぎにゃっ!」
「く、これは……!」
逃げる二回目ももちろん失敗!
肉のサナギは、俺が初めて見たときの愚鈍さとは異なり、その不格好さとは真逆の機敏さを見せてきている。
そのやり方はまさに〝狩り〟。
目の前の一体から逃げると、残り二体が妙に仲良く先回りして俺たちをぶっ叩いてくる。
こいつらは同一の個体。下手をすると、一つの思念が三体を統括しているというトンデモ設定までありうる。
「もう一丁! ぐぼるぁー!」
「ぐふうっ!」
「ぎにゃん!」
「いい加減にせよコタロー! これでは、私は何のために……!」
三度目。一丸となって行動する俺たちは、狙う側からすると一粒で四人ともぶっ飛ばせるカモだ。全員が見事に吹っ飛ばされ、床に這いつくばる。
しかし、ここでケツまくって逃げることから逃げるわけにはいかねえ!
「まだだ。まだ我慢しろ〈アークエネミー〉。反撃するな! 勝ちたいのなら俺に従え!」
〈アークエネミー〉に言葉を叩きつけ、俺は肉のサナギをにらみつける。
全身を痺れさせるほどの痛みが徐々に引いていくのを確認してから、また逃走。
そしてまたぶっ飛ばされる。
これで四度目!
硬い床の上をバスケットボールのように飛び跳ねながら、俺は激痛の中で笑う。
狙い通り――狙い通り俺は死なねえ!
目の前にラスボスを呼び寄せておきながら逃げるというこの奇行。
とち狂ったようにしか見えないが、もちろん、俺は正気だ。
俺はこれをあと四回繰り返す必要がある。
そうすることで、あるバグを招来する!
それこそが〈逃げる八回バグ・危険度:(達成難度的な意味で)特大〉!!
これが発生すれば、世界は救われたも同然!
「コタロー殿、このままじゃホントに死ぬであります!」
「大丈夫だ! 俺たちは絶対に死なない! 諦めるなグリフォンリース!」
泣きそうになっているグリフォンリースを励まし、俺はまた立ち上がる。
完全な勝利はもう目の前にある。
だがこの作戦の実行には、大きなハードルがあった。
今の痛みがそれだ。
コマンド式のRPGにおいて、ノーリスクの「逃げる」というのはあまりない。
回り込まれて敵から殴られるのはデフォとして、「逃げ腰で防御できなかった」とか言って四倍ほどのダメージを受ける鬼畜仕様の場合もある。
いずれにせよ共通しているのは「逃げる」コマンドを実行した場合、こちらからのアクションは一切取れず、一方的に攻撃されるという点。
それを都合八回も繰り返すのだから、パーティーはクッソボロボロになる。
これに素で耐えられるキャラクターは、『ジャイサガ』には存在しない。
最上級の重装甲メンバーで固め、防御バフをありったけ積んでようやくリセゲーというところ。
俺たちのパーティーではグリフォンリースすらその基準を満たしていない。それに、人生が一回きりの俺たちにリセゲーは不可能だ。
しかし、その問題点を解決できるのが〈アークエネミー〉の自己回復能力!
実は、〈アークエネミー〉の自己回復には、単純な再生能力ではなく、味方全体を大回復させる魔法が使われているのだ。
不思議なことだが、これは『ジャイサガ』の敵の自己回復の上限が999なのが影響している。
〈アークエネミー〉の強さを引き立たせるために、スタッフは、こいつだけは毎ターン1500ポイント回復するように作った。その数字を実現するために、表面上は自己修復を装いつつ、内部では回復魔法のプログラムを実行しているわけだ。
なんでこんなことを知っているかというと、〈戦闘呼び出しバグ〉を使うと、本来単体で出てくるボスに、なぜかそのエリアで出現するザコがついてくることがある。
それで〈アークエネミー〉を召還したあるプレイヤーが、一緒に出て来たザコまで回復しているのを見て、その謎の正体に気づいたのだ。
〈アークエネミー〉が仲間にいれば、俺たちはこの回復魔法の恩恵にあずかれる。
HP999が最大の俺たちが、毎ターン1500ポイントの回復! これはもう死にたくても死ねない体と言っていい!
だから心おきなくぶっ飛ぶぜえええええええええええ!!
「ぬわーっ!」
「ふぐあっ!」
「ぎにゅー!」
「ぐううっ……!」
これで五度目ェ!
死なないだけマシな、なぶり殺しもいいとこだった。
全快からごっそり体力をもっていかれ、そしてまたすぐに激痛。
いっそ、もう死んで楽になりたいまである。
「みんな、あと三回だ! 死ぬ気で正気を保てえええええ!」
しかし、この逃げる八回とは一体何なのか。
戦闘中のコマンドに何が隠されているというのか、俺には長らく謎だった。
これには、四回目の「逃げる」は絶対に成功するという仕様について、まず知っておかなければいけない。
『ジャイサガ』の戦闘において、逃亡不可の戦闘は最初から「逃げる」コマンドが出現しないため、上記の仕様と合わせると、五回目以降の「逃げる」は決して存在しないことになる。
プレイヤーはゲームの裏側――コードの世界を見ることがないため、「逃げる」というのは「逃げる」行為以外のなにものでもない。
しかし、内部で動いているのは、定められた命令を実行するという処理だけだ。
その命令が「逃げる」であろうと「もっと別の何か」であろうと、プログラムには何の問題もないのだ。
……そう。
五回目以降の「逃げる」は、「逃げる」という命令を処理していないのだ……!
どうしてこんなことになったのか、それはもうプログラムを組んだスタッフしかわからない。
何かのテストだったのか、それとも、節約としてここに別のシステムを組み込んだのか、あるいは愉快犯的なイタズラだったのか、どちらにせよ、通常プレイにおいて五回目以降の「逃げる」がない以上、その効果が「逃げる」コマンドを使うことで発現することは決してないはずだった。
しかし、一つだけ。たった一つだけ例外があった。五回目以降の「逃げる」が存在してしまう局面が存在したのだ。
それがこの魔王との最終戦。
逃走不可の戦いでありながら、ここではなぜか「逃げる」が存在し、選ぶと、
「おそれるな、たたかえ!」
という特殊メッセージが出る。……まあ、出るだけで、敵から殴られて一ターン無駄に消費するだけの、何の得にもならないものなのだが。
しかもこのメッセージ、何度でも見られる。「逃げる」が消えないのだ。
主人公たちが何度もくじけそうになりながら戦っていると想像すると、なかなか味わい深い演出と言える。
ともあれ、これによって五回どころか、地球最後の日あるいはキレたカーチャンがゲーム機の電源コードを引っこ抜く瞬間まで「逃げる」を続けられる。
こうして、〈逃げる八回〉のバグは誕生したのである。
「うぼあああああああ!」
「けはあっ!」
「ぐるど!」
「ぐがあっ!」
六度目! もういやだ! 体は元気でも心が病んできそうだ!
だがやめるわけにはいかない。
俺はこのバグを必ず成功させる。させてみせる。させなければいけない!
なぜなら、条件も奇妙だが、もう一つ、このバグにはとてもユニークで謎めいた、ジンクスというかエピソードがあるからだ……!
それは〝『ジャイサガ』を知るものは〈逃げる八回バグ〉を既に知る〟というものだ。
『ジャイサガ』のバグは奥深い。一人の人間の力では、その深淵を見ることなど不可能だ。
俺も、掲示板をのぞくまでは多くのバグを知らずにいた。
しかし、だ。
この〈逃げる八回〉バグだけは知っていた。
どこで知ったのか覚えていない。しかし、知っていた。
そしてそれは、俺だけではない。
『ジャイサガ』攻略掲示板を訪れる者の、実に九十九パーセントが、そこを訪れる前にすでに〈逃げる八回〉バグを知っていたという統計があるのだ。
界隈の人間は当然のことのようにこう語る。
「『ジャイサガ』プレイヤーっていうのは、〈逃げる八回バグ〉と引き合うんだ。近所の兄ちゃんのプレイングから、あるいは雑誌の記事から、それとも友達からの噂からかはわからないが……。人生のどこかで必ず〈逃げる八回〉というワードと接触しているんだ」
すごく眉唾な話である。しかし……。
俺はそれを体験した人間であるし、今この苦境にあって、それは必然であったように思える。
俺がこの世界を、マユラを、〈アークエネミー〉を、〈源天の騎士〉たちを救うための、大いなる者に糸繰られた宿命であったと感じる。
この世界に来るため。ここでこのバグを使うため。
俺は『ジャイサガ』と出会い、そしてみん「うごぶああああ!」
自分語りの途中だぞ七度目コラァ!!
顔面から叩きつけられ、バキリと壮絶な音がして、口の中から硬い何かが抜け落ちたような異様な感触があった。
唾液が水っぽくなり、歯の隙間から錆のにおいがするものがたらたらと流れていく。
「痛え……痛えぜチクショオオオオ!」
ふざけやがって……。
ふざけやがって。
ふざけやがって!
俺の中で何かが切れた。
どうしてこんなに痛いんだ。
逃げる八回がバグの条件だと? ナメた条件つけやがって。これがもっとお優しい条件なら、こんなにボコボコにされずに楽勝で最終戦を迎えられたのに。
腹が立ってきた。
こんなバグを生んだスタッフにも。
逃げるだけの俺らを機械的に叩き続ける魔王にも。
ああもう……! あああああああ、もう……!
逃げようとした俺たちを、魔王がまたまたまたまたまたまたまたはたき飛ばす。
八回目……!!
これで終わりだ……!
ラストだ……!
もういいんだ……! ああ、もう……!
もう我慢しなくていい……。
ああもう絶対許さねえからなああああああああああああああああ!!!
「は、八回……待ったであります……!!」
「おう。よく頑張ったな……」
そう言うグリフォンリースも、答える俺も、きっと同じ顔をしていた。
「ぎぎ、ぎぎぎぎ……」
珍しく声を発しているキーニちゃんも、目の奥に妖しい光が灯っている。
「この私が、このようにみすぼらしく無様に打ちのめされるとは……。我がうつし身とて、もはや許せぬ……!」
そうだ。もういい。
もう我慢なんてする必要ない。
逃げる八回? バグ? 何だっけ? もういい。もうどうでもいい。
この痛み。この怒り。すでに理性が処理できる限界を超えた。
怒りでも憎しみでもない。
殺意の上を行く澄み切った何か。
体が生存活動という役割を放棄し、新たな課題へと置き換わる静かな感覚。
「三千世界に滅害を赦す道理なし」
俺は全身を耳にして、心の底からわき上がってくるようなキーニの呪詛を聞いた。
「しかし我ら。ただ一握の激情をもって。怨敵を虐殺する」
グリフォンリースの声が重なる。
「其はネメシスの律戒。一切と合切の。寛恕は乞わぬ。ゆえに――」
復讐の神への祝詞。それを〈アークエネミー〉までが唱和する。
そこに俺が最後の一言を添えた。
「ぶち殺せええええええええええ!」
――〈逃げる八回バグ〉。
その効果は、味方のすべての攻撃がクリティカル化する、だ!
世界でもっとも愛しいバグ