第百六十五話 最終交渉のゆくえ! 安定志向!
玉座の間は、そこが城面積のほぼすべてなのではないかと思うほど広大で、その端を暗闇に食わせていた。
天井を支える無数の柱は無機質にそして整然と並び、それ一本一本が墓標か何かのようにも見える。
最奥に控える玉座は、そこに座る偉大なる者に合わせて、巨大かつ仰々しく侵入者を迎えるはずだった。
俺たちは裏から入ってきたので、いきなりその背中を突くという不作法を働いたわけだが。
玉座の間に、裏庭から逆進してきた俺たち。
すでにそこにいた〈源天の騎士〉たち。
玉座の前後で、ついに両者が再会する。
「よもや、かような事態になろうとは」
透き通った刀身の剣を床に立て、彫像のように佇むのは〈実らぬ土〉フルンティーガ。
「まさ、か、敵の、方から、我ら、に、歩み、寄、って、くる、とは」
マユラにちょっかいを出して鉄屑にさせられたが、今は平然としてる〈暗い火〉グンニネルス。
「敵という認識は改めた方がいいよ〈暗い火〉。彼はきっと最初から、僕らとは別の高さから世界を見ていた。そもそも本来の意味での闘争にはなり得なかったのさ」
俺を妙に買いかぶっているのが、濃い面子に囲まれると一層キュートに思える〈乾きの水〉テュルフィ。
「……我らは再び〈アークエネミー〉の姿を取り戻す」
宣誓するように〈古ぼけた風〉カラドバが短く述べると、部屋の三方を埋めていた闇が、急激な勢いでこちらに這ってくるのがわかった。
「今こそ約束を果たすとき――」
その正体こそ最後の騎士。〈閉ざされぬ闇〉ダインスレーニャ。
彼女の闇がこの部屋のすべてを覆う前に、魔王を守護する四人の騎士が、音もなく移動する。
組んだ陣形は四角形――いや、これはきっと五芒星形の一番上の点を欠いた形だ。
星の両腕の位置にいるテュルフィとフルンティーガが、〈ヒスイの魔剣〉と〈ガラスの魔剣〉を交差させる。
琴が鳴るような音を立てて重なった二振りに向けて、星の両足にいるグンニネルスとカラドバが片手をかざす。
「さあ、摂理を食い破る者たちよ――」
闇が迫ってくる。もう周囲数メートル以外、何も映らない暗黒の世界だ。
「今こそ、本当の姿へと回帰すべし」
交差された魔剣に、女性のしなやかさを持つ細い腕が伸ばされたように見えた、瞬間。
視界はすべて黒に落ちた。
視覚を頼りとする俺には、もうその先のことはわからない。
ただ、どこからともなく聞こえてくる、ダインスレーニャの祈るような物語だけが、時が動いていることを教えてくれる。
――はじめに摂理の光あり。その光、あまたを照らし、あまたの影を生む。……――その影、いつしか形となる。影であったもの、影ならぬものへと成り至る――。
キシ……。
ほんの小さな音が、彼女の声に混じった。
――その者、摂理の光を食らう。燦々と降り注ぐ光と交わりながら食らい続ける。
それがやがて、
キシ……キシッ……ギギッ……ガリッ……ガリガリガリガリガリ!
世界を引っ掻くような騒音へと変わり、そして。
――その者、すでに影ならぬ。闇ならぬ。光に交わる者となる。しかれども、その背後に大きな影を作る。決して光に交わらず、その者の真なる闇を宿す影となる。
「そは私――」
――闇が砕ける!
網膜のすぐ先を覆っていた黒が一瞬で消え去り、薄暗い玉座の間を露わにする。
「ぴきゃっ!?」
悲鳴を上げてパニシードが俺の服の中に逃げ込んだ。
すぐ隣にいるグリフォンリースとキーニからも、恐怖と緊張がない交ぜになった気配が伝わってきた。
それは、俺たちのすぐ目の前にうずくまっていた。
体を覆う鈍い黒色の外骨格は無数の突起に鎧われ、その継ぎ目には、血流を思わせる赤い光が断続的に走っている。
腕は四本。足は二本。特に腕が異様に長く、立ち上がっても地に着くのではと思うほど。
胴体部分と手足の数から、どこか極限まで邪悪化した甲虫を思わせる姿ではあったが、頭は人間の骨格に近かった。
つるりとした曲線の頭部の左右から伸びた、巻き貝のような灰色の角。
赤い目は蜘蛛のような複眼で、唇はなく、食いしばった剥き出しの歯が露わになっている。
体のサイズは、オブルニア山系で戦った古い時代の魔王とほぼ同等。
しかし、格好も体組織もぼろぼろだったあちらに対し、外骨格の隙間から時折赤いガスを噴出させるこの魔物は、スケールで一回り、生命感では数倍の差を見せつけていた。
これが『ジャイサガ』最強のボス。〈アークエネミー〉の偉容だ。
ヴォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!
その口から放たれた咆哮は、すでに音という領域を超えて、破壊の波紋だった。
玉座の間にあった柱が次々に砕かれ、そしてなぜか破片を散らしたまま宙に停滞する。
俺たちに対しては何らかの配慮があったのだろう。耳鳴りがしていたが、頭が破裂するような事態には陥っていない。
「〈アークエネミー〉になったな」
俺は〈アークエネミー〉の高い頭部を見上げて言った。
「そうだ。私は摂理の敵。天の反逆者。神を食い破る者……」
その声は、〈源天の騎士〉五名とは言わず、もっと多くの声が束ねられたように聞こえた。
さっきのダインスレーニャの物語を解釈するのなら、光の世界の影にあたる魔王が形をなしたことで生まれたさらなる影。
影法師でありながら、より強い闇を抱え込んだもの。
〈アークエネミー〉。
「礼を言おう〈導きの人〉よ。汝のおかげで再びこの姿に戻ることができた」
〈アークエネミー〉は落ち着いた、威厳のある声で話す。
黒塗りの邪悪な風貌でありながら、その佇まいには、ある一線を超越したものすべてが持つ、侵しがたい神聖さが漂っていた。
「なら、その恩返しはしてもらえるな?」
俺は率直にたずねる。
〈アークエネミー〉からは、当然是が返ってくるはずだった。
「断る」
――!!
その返答に、グリフォンリースとキーニから、戦慄ともつかない動揺が伝わってきた。
「私が汝に従う謂われはない。私は魔王の影なるもの。闇が作った真の闇。何人も私を従えることはできない」
「は、話が違うぞ〈源天の騎士〉!」
声を張り上げたのはマユラだった。
歴戦の勇者であるグリフォンリースとキーニが立ちすくむ中、その一声を投じられただけで彼女はすでに歴代の英雄に匹敵していた。
「〈アークエネミー〉になったら、コタローに協力すると約束したはずだ! それを違えるのか!? ダインスレーニャ!」
「無駄だ」
〈アークエネミー〉は一語でマユラの反論を斬って捨てた。
「私はもう〈源天の騎士〉の誰かではない。五源天に語りかけることに意味はない」
「〈源天の騎士〉の中に、最初から俺との約束を守るつもりがなかったヤツがいた、ってことだな?」
「しかり。詰めが甘かったな。〈導きの人〉よ」
俺は鼻を鳴らす。犯人が誰かはだいたいわかってる。〈古ぼけた風〉だ。あいつは俺に負けた後でも、腹に一物抱えてそうな感じだった。大方、〈アークエネミー〉になってからこちらを潰すつもりでいたんだろう。
「そんな――」
マユラがよろめき、それでも再度〈アークエネミー〉をねめつける。
「〈アークエネミー〉。我の中に魔王はいる。我と魔王は同じ存在だ。話を聞け!」
「違う」
「えっ――」
「汝は魔王ではない。魔王の殻ですらない」
うろたえるマユラに、俺はぽつりとつぶやいた。
「……。ダインスレーニャだ」
「ダインスレーニャ?」
俺はマユラに苦笑を向ける。
「あいつ、おまえのことが好きすぎたみたいだ。もう魔王として見てなかった。おまえのマユラとしての個を尊重してたんだ。裏目に出た、という言うべきなのかな、こういうのは……」
「ぐっ……。コ、コタロー。我はっ……何の役にも……」
「おっと。慌てるのはまだ早い」
諦めを吐き出そうとしたマユラの口を手で塞ぐと、俺は〈アークエネミー〉に向き直った。
「いいだろう、〈アークエネミー〉。説得は失敗だった。こっちの手落ちは認める。協力の話は一旦白紙だ」
『ええっ!?』
味方全員が絶句して、気楽に言った俺を見つめた。
「だが、俺のおかげでおまえがその姿に戻れたという認識は、〈源天の騎士〉全員が一致しているはずだ。そうだな?」
「肯定する」
「なら、その姿でもう一度俺たちと勝負しろ。そして、負けたら今度こそ俺に協力するんだ」
グウウウウ……と〈アークエネミー〉が唸った。何かを逡巡するように。
「戦いたいんだろう?〈古ぼけた風〉の部分が。おまえは、正面切っての戦闘はあまり得意とするところじゃない。だが、お望みの、もっとも愛する古い姿になれたんだ。思い出の中の、もっとも優れた自分にな。俺に逆襲したくないか?」
返事はすぐには来なかった。何かを警戒しているふうだ。天下の〈アークエネミー〉が。
このあたり、さんざんズル手で〈源天の騎士〉を叩きのめしたツケかもしれない。
俺はさらに続ける。
「はっきり言うぞ〈アークエネミー〉。俺にも後がない。ここでおまえの協力が得られなきゃ、マユラを失うことになる。おまえに条件を呑んでもらうためなら、多少の不利には目をつぶるぜ」
俺は服のポケットから砂時計を取り出した。
「制限時間だ。この砂が落ちるまでに、俺がおまえを倒せなきゃ、おまえの勝ちでいい」
「コッ、コタロー殿、それはっ……!」
〈天魔試練〉の真似事だ。しかもこの砂時計は、あのときのものよりずっと小さい。
「さらに、おまえに用意しておいた武器も渡す。パニ、巨人のところで買ってきたデカブツを出せ」
「ゲエーッ!? あなた様、何を考えてるんですか!?」
「正々堂々戦うんだよ。勇者らしくな。さあ回復してやろうって名言を知らないのかよ! いいから出せ!」
「知りませんようわああああん!」
パニシードは泣きながら、ヤケクソで床に巨大な物体を放った。
剣、槍、斧、槌、棍棒、杖。
いずれも〈アークエネミー〉のサイズに合わせた、鈍重なバケモノだ。
「これは、巨人の武器か?」
〈アークエネミー〉が確認するように聞いてくる。
「そうだ。おまえにとっては曰くある武器だろうが……地上に存在する最強の武器だ。もちろん、小細工はしてない。こいつを使って一緒に戦うつもりだったんだから、罠なんか仕掛ける意味がない」
〈アークエネミー〉は動かない複眼で巨人の武器を(多分)じっと見つめ、ようやく言った。
「いいだろう。そこまでしてなお私を上回る者があるというのなら、むしろ見てみたいところだ」
「よし、決まりだ」
……やった。
やったぞ!
乗ってきた!
俺は安堵と同時に、ある達成感に胸を躍らせていた。
この〈アークエネミー〉を仲間にするというやり方に、絶対の自信があったわけじゃない。断られてしまえば、俺は無策の状態からすべてをやり直さなければいけなかった。
俺はその賭けに勝った。
まったく根拠のない、無保証の作戦だったというわけでは、一応ない。
確かに『ジャイサガ』界隈には〈アークエネミー仲間入りバグ〉というものが存在する。
しかし、それは……俺が今まで使ってきたバグとは一線を画するものだ。
数々のバグを発見・解明してきた『ジャイサガ』掲示板に訪れた長い冬。
新種のバグは見つからず、住人たちもこの寒い地を離れ、温かい新作の場所へと移住を始めていた。このまま掲示板は緩慢な死を迎える……誰もがそう危ぶみつつ、諦めかけていた。その日。
『ジャイサガ』最後にして最大のバグと呼ばれる〈アークエネミー仲間入りバグ〉が見つかった――。
その発信元は、これまで数々の解析結果を発表してきた『ジャイサガ』バグ学会の重鎮「グラシャラボラス伊藤」だった。
騒然とする界隈の人間たちを焦らせることなく、〈アークエネミー〉が仲間になった状態の画像がアップされ、さらに動画も公開される。
戦闘画面の独自のドット絵、攻撃方法、ステータス、どれも本物の〈アークエネミー〉だった。
彼は以前、〈魔王が仲間入りバグ〉を発見した際に、〈アークエネミー〉のパーティーキャラ用データも存在するかもしれないと予言めいたことを言っていた。
今回のことと合わせて、彼はそれを証明。『ジャイサガ』スタッフが、ラスボス二名が仲間になるという変態シナリオを構想していたことをついに突き止めたのである。
俺たちは――いや、『ジャイサガ』を愛するすべての者たちはこの発見に沸き立った。
すごい! これはマジですごい! グボス伊藤は神!
そのバグの条件は、三ターン以内に〈アークエネミー〉を倒すことだった。
バグにバグを重ねて発生させるこれまでの手法に比べると、至ってまっとうな条件のように思えた。バグではなく、純粋な隠し要素の気配すらあった。
それが、俺たちをより熱狂に駆り立てる。
しかし、実はこれが実現不可能だった。
〈アークエネミー〉のHPは40000。〈聖なる天火〉による固定ダメージ8000で、残り32000。
熟練の『ジャイサガ』プレイヤーには周知の事実だったが、最高に極まったパーティーでも、三ターン以内に〈アークエネミー〉の生命力32000を削り取ることはできない。
世界最速記録は五ターン。
この記録に対し、『ジャイサガ』スタッフが「予想外の早さです」と褒め称えているのも周知の事実であり、三ターン以内の討伐など誰も想定していないことは明々白々だった。
だからこそこれは、バグの一種であり、正当な隠し要素などではないのだ。
しかし、グボス伊藤はそのハードルを乗り越えるもう一つのバグを、俺たちに開示してきた。
こちらはいかにもバグらしいバグであったが、とにかく俺たちは猫まっしぐらの勢いでそれを実行した。
そして――……誰一人成功しなかった。
何度試しても、何度倒しても、〈アークエネミー〉は仲間にならなかった。
そのために一からデータを作り直した者もいる。しかし、成功の報告は掲示板に上がらない。
何が違う? 何が間違っている?
掲示板が戸惑いに震える中。
グボス伊藤は静かに語る。
「あれはウソだ」
う、そ……?
俺たちは、彼の打つ文面がにわかには信じられなかった。ウソというまったく知らない言語の言葉のように見えていた。
「おれは今日を最後に『ジャイサガ』を引退する。今日まで本当に楽しかった。バグの多いゲームはクソだと思っていたが、『ジャイサガ』はそれが間違いだと教えてくれた。楽しもうとする者にとって、それは常に名作たりえる。みんなもそうだろう?」
無機質なフォントじゃない。
一度も聞いたことのないグボス伊藤の声が、俺たち全員に話しかけているみたいだった。
「この掲示板もだいぶ寂しくなった。おれもここを去る。だから最後に、一番華やいでいたあの瞬間を、もう一度だけ見たかったんだ。みんな、おれは謝らない。かわりに言わせてほしい。ありがとう。最高の祭だった。さようなら!」
俺たちは、きっと泣いていた。そして、きっと笑っていた。
騙されたことを怒るヤツなんていなかった。
あのねつ造された画像と動画には、俺たちみんなの夢が詰まっていたから。
あんなバグいいな、できたらいいな――。
掲示板は1000まで「ノシ」で埋まった。普段はROM専なヤツすら「ノシ」を打って、グボス伊藤を送った。泣きながら敬礼してるヤツもいた(AA略)。
『ジャイサガ』を愛する者は、みなグボス伊藤の勇姿を、彼が最後に仕掛けた大嘘を、心に刻んでいる。
ウソだと知りつつ、いまだに〈アークエネミー〉三ターン討伐に挑む者もいる。〈アークエネミー〉攻略RTAを始めたのも、グボス伊藤の信奉者だ。今では海外にすら走者がいるらしい。
俺には、彼らのような根気も根性もない。
しかし、グボス伊藤があの日打ち上げた花火の色を、今でも覚えている。
掲示板の――俺たちの色あせた世界を原色に戻した、あの輝きを。
彼がいなければ、俺は〈アークエネミー〉を仲間にするという発想にすら至らなかっただろう。
これは俺が『ジャイサガ』プレイヤーであることの証。
そしてこれは、俺が『ジャイサガ』プレイヤーである資格を賭けた戦いだ。
『ジャイサガ』を愛したこと。『ジャイサガ』を楽しんだこと。
そのすべてがこの戦いに集約されている。
さあ、行けよコタロー! 負けることは、この俺の全身全霊全記憶が決して許さんからな!
こういうウソテク(絶滅語)が昔はたくさんありました・・・